小鳥たちの囀る朝。
天宮市上空一万五〇〇〇メートルにて滞空している、ラタトスクが保有する空中艦フラクシナスの内部では、慌ただしく動く人物が数名いた。
「太平洋に顕現した精霊の霊波パターン解析まだなの!?」
「わっかんね!というか見つからなぁーい!!顕現数分後に観測機に障害が発生、現在修理中ですが直らなぁーい!ナンダコレ」
「
「幹本に鎮静剤打ちこめぇ!!こいつ泣きながら笑って作業してるぞ!」
「おち、落ちつ、おちち、おちけつ」
「椎崎それ鎮静剤やない!藁人形や!」
「皆さん落ち着いてください!とりあえず司令に踏まれているところを想像して気分を落ち着かせましょう!」
「「「「「すごく落ち着いた^^」」」」」
「……ふむ。大体の解析は終了したかな」
「「「「「「マジっすか村雨解析官さすがっス!!」」」」」
……大丈夫か?この組織。
そんな和気藹々とした船内だが、意外にも新しくこの世界に顕現した精霊の解析をどの組織よりも早く完了していた。
四時十一分。
太平洋の中心に、空間震と共に突如として現れた未確認の精霊。
過去の事例で海洋に精霊が顕現した前例はあるものの、此度の精霊に関しては、前例があるからと解析を疎かにすることは出来なかった。
空間震のその規模、雑に例えるなら"世界地図から日本とその周辺が消える"程度の衝撃力。
現状、ユーラシア大陸の大部分を抉った〈始原の精霊〉を抜けば、一番の規模を有している。
国家の機能が停止するどころか、国そのものが消滅するレベルの空間震。太平洋に落ちたのは運が良かったが、もしこの精霊が地上に現われでもしたら、悲惨なことになるなど火を見るよりも明らかである。
この空間震の規模には、ラタトスクやASTなどの精霊に関係する組織だけでなく、精霊を知らない世間一般にも恐怖が広がっていた。
空間震が精霊の意思に関係ないとしても、この規模だと早期対応を考えなくてはならない。
だからこそ、フラクシナスのクルー達は断腸の思いで朝から解析作業をしているのである。そして、ほぼ村雨令音解析官の手腕によるものだが、精霊確認から2時間足らずでその精霊の解析を完了させたのだから、その腕には流石としか言いようがない。
「よし、では
「待つんだぞ。解析したデータを資料にまとめる作業があるぞ。逃げるなぞ」
「ぬわぁああああん!!今日だけは!正午までには戻るんで帰してぇええええ!!!」
「逃がすなー!この楽しい楽しい地獄に引きずり落とせ―!」
「藁人形使ってでも止めろぉ!仕事を放り投げようとするこいつを逃すな!」
「4人に勝てるはずないだろ!」
「バカ野郎お前俺は逃げるぞお前!」
……とても賑やかだな。
令音はクルー達の喧騒を眺めながら、甘い味のする睡眠導入剤を一瓶丸々飲み干し、口の中に広がる薬臭い甘みを味わいつつ視線を"太平洋で発生した空間震の映像資料"へと移す。
「……それにしても、これはどういうことなのか」
令音が映像を再生すると、その映像には何の変哲もない海が映し出された。
……が、次の瞬間。
空間が破裂したような轟音と共に、カメラが大きく揺れる。それと同時に、今まで平穏な海を映し出していた映像には、全てを飲み込むかのような大穴がぽっかりと空いていた。
衝撃により、大穴の円周を囲むように水柱が立ち、それに撮影機器が巻き込まれたのか映像が乱れる。
……映像が復帰したと同時に、大きな穴など無かったのだと、狐に化かされたかのように
令音は砂糖の大量に入ったコーヒーを口につけながら、その映像を何度も見返す。何か違和感はないか探していた。
令音は、海が元に戻ったと同時に解析された霊波と微弱ながらも同じものが、太平洋全域に広がっていたことが解析の結果から分かっていた。その霊波が何なのか、映像で分かることはないかと令音は探す。
幾度か映像を見返しているうちに、ふと海では見ない色を令音は見つけた。映像を途中で停止させ、画面を操作してその箇所を拡大する。
「……これは、
画面に映し出された桃色の花弁は、映像を再生すると風に舞って幻のように消えていった。
「……!海底で動かずにいた精霊、
令音の思考は、その精霊が
◆◆◆
平均深度四〇〇〇m、海淵は一万九百二十mと言われている太平洋。そんな太平洋のド真ん中、それも深度九〇〇〇mの超深海層とよばれる場所に彼女はいた。
普通の人間ならば生存は不可能、例え潜水艇があったとしてもそう易々とは行けないし、人の足では立つことのできない人類未踏の地で、彼女はいとも容易く海底に二本の足で立ち、深海にいること自体が問題であるかのように頭を抱えていた。
彼女はマーリン……っぽい何か。姿形は旧マーリンと言われれば、Fateをやっている方から見れば成程と頷くだろう。だが、彼女の正体は旧マーリンの見た目と能力を備わされた元一般人男性の精霊だ。とは言っても、彼女は一般人男性だった頃の記憶を失っており、男性的思考を持った記憶喪失の旧マーリンと言った方が正しいのか。
記憶喪失のため死んだ記憶が一切ないが、男の身体ではなく、しかも深海の圧力にも耐えて魔法っぽいことを使える身体を持っていれば、転生、もしくはその類の現象と考えに至るのは、ライトノベルやアニメを少し齧っていれば難しくは無いだろう。
……彼女はあまり詳しくなかったため、千里眼で調べて、やっと転生したことに気付いたが。
彼女は転生を望んでもいないし、そもそも調べて初めて知った転生とやらに巻き込まれて、しかも千里眼で調べた限りでは一番生き辛い精霊になるとは、彼女にとっては一番辛かった。
彼女には記憶はないが、だからこそ『普通の日常』を味わいたかった彼女には、その『普通の日常』を謳歌することのできないこの身体には辟易としていた。
……だが、それよりも大きな壁を彼女は抱えていた。
――どうやって外に出ようかなぁ。
先の通り、彼女が現在いるのは深海九〇〇〇m。深海の圧力には耐えることができても、動くことは出来ない。動けないということは上へと泳ぐことも出来ない。現状、彼女はこの深海から脱出することが出来ずにいた。
何も無い海の底で、何もすることの無い彼女は、長く垂れ下がる白髪を弄って遊んでいた。三つに分けた髪をうにうにと交差させていき三つ編みにし、余った毛先をまとめて、【道具作成】で作っておいたヘアゴムで縛り完成させる。
「……フム、初めてにしては上出来じゃないかな?」
三つ編みされた髪を持ちあげてプラプラと振りながら、ドームの天井を見上げる。深海九〇〇〇の海底から見上げる海というのは、只々闇がどこまでも広がっているだけで、面白みがない。
現状、何か良い策が思いつくまでは何もやることの無い彼女は、無駄に長く伸びた髪の毛で遊ぶくらいしかやることは無かった。
◆◆◆
だらける二時間前、精霊になった事実を受け止めた彼女がまず始めたのは、自身に関する情報収集だった。
彼女の持つ千里眼というのは思っていた以上に使い勝手が良く、自身の望んだもの、例えば「猫が見たい」と思いながら発動すれば、千里眼はその意図を汲み取り、世界にいる猫の中から今一番見たい猫を選別し、視界に映す。座標を指定する必要も、細かな設定も必要としない、そのオートパイロットのような性能のおかげで、情報収集は滞りなく終了していた。
情報収集としては、
その設定資料集にマーリンという文字。スキル等が書かれており、そのスキルの説明も事細かに書かれていた。宝具という必殺技みたいなものは設定が出来ていなかったみたいだが、スキルがあるだけでも十分だった。
他人に使わないと分からないスキルや、説明が書かれていなかったスキルは試せていないが、その資料集に書かれていたスキルのほとんどが使えることが分かり、彼女は勝手にその設定資料集を覗き見してしまったことへの少しの罪悪感と、自身の能力が理解できたことへの嬉しさで感情がせめぎ合うこともなく、喜んでいた。
人の黒歴史を勝手に見られるとか、憤死ものである。
一人の男子高校生の尊い犠牲により能力の把握を終えた彼女は、ASTやラタトスクなどの情報収集も程々に、いざ深海から脱出を試みた。
……が、駄目。
いざ新しく使えるようになったスキルとやらを使ってみても、精神世界に干渉がどうちゃらとか虚像をどうちゃらで、物理に干渉出来るようなスキルが無く、海底脱出は出来なかった。
ASTなどを欺くには良いが、有効的な物理手段がないのは彼女にとって痛手であった。
ならばと魔術を用いて聖剣を生み出し、えいやと壁に向けて斬ってみると、壁が切れて、その隙間からウォーターカッターより勢いも切れ味も増した水が彼女に向かって噴出し、それを真正面から受けた彼女は吹っ飛ばされて気絶した。
聖剣を試す前に服に強化の魔術を掛けていなかったら、彼女は真っ二つになっていたかもしれない。
こういう経緯があった結果、彼女の能力を以てしても海底から出れずにいた。
ハァ、と溜め息一つ。どうせなら瞬間移動のようなスキルでもあればいいのにと、口には出さずに、その代わりに溜め息をもう一度吐いた。
◆◆◆
三つ編みも終えて暇となっていた彼女は、暇つぶしの一つである『千里眼』を用いてラタトスクを覗いてみると、どうやら解析を終えたらしい船員達が騒いでいる様子だった。というか先ほど司令に踏まれたいとかそんな言葉が聞こえたんだけど……。容姿を見てから参戦するかどうか決めても良いのだろうか?
彼女の思考が一瞬ピンク色になりかけたが、頭を振り回して千里眼での覗き行為を再開する。
報告書はまだ作られていないようだが、設定集だけではなく精霊に詳しい人達の観点から見た情報も知りたいので、これは後で確認するとして、大きな画面に映し出されている太平洋の映像と、その画面端に映る謎のゲージやらグラフが忙しそうに値を変えているところを見て、彼女は自身が姿は見られていないながらも、存在を現在も確認されていることが分かった。
――なんだかなぁ。ボクが見るのは良いんだけど、見られるのはちょっと嫌だよね。
清々しいクソである。
彼女は立ち上がり、横に寝かせていた杖を持つと、この見られている状況をどうにかするために歩き出した。
大きな杖を片手に、海底の底を歩く。
歩くと、その足跡から花が咲いては散るを繰り返した。
この花は良く分からないが綺麗なのでそのまま放置している。
杖に関しては設定資料集を基に『道具作成』で作ってみたものだ。途中から作るのが飽きて、後半から雑になったような気もしないではないが、まあいいかの精神で少し不細工な杖が完成した。
歩いてから数分、壁に辿り着くと魔術の術式を展開させて、『幻術』を併用しつつ認識不可の概念を壁に刷り込ませていった。
瞼を閉じて、ラタトスクの状況を見て、認識されないように出来るかどうか眺める。
始めてから数分程で、映像で忙しく動いていた値が静まっていくのと、それと反比例して
初めから『幻術』のスキルでASTを騙せるか確認しておきたかったため、そのASTより技術を遥かに凌ぐラタトスクを騙せたのは彼女にとって大きな収穫だった。
『幻術』が有効であることを確かめることができ満足げな彼女は、ドームの真ん中あたりに戻り腰を下ろす。
とりあえずすることもないので、ラタトスクが滞空している都市、天宮市に千里眼を飛ばして何か面白いものがないか探す。
現在の時刻は六時三十分のため通勤途中のサラリーマンは見かけるが、学生らしき姿は見当たらない。
彼女は「見るなら若い子だよね」と、中々に最低なことを呟きながら千里眼の条件を『女の子の和気藹々とした朝』に設定し直した。彼女は段々と千里眼の扱いに慣れてきているようだ。最低な方向に。
視界は外の風景から、何処かの家宅の室内へと移動した。彼女はワクワクとした気持ちでそれらを見る。
メカメカしい青髪ポニーテールの女の子と、赤と黒が特徴的なツインテールの女の子が殺し合いしていた。
「……この世界の和気藹々って、殺し合いのことを言うのかな」
彼女は瞼を開けると、遠くの虚空を見つめながら独り言ちた。
和気藹々(血みどろ)
【現ラタトスクの観測精霊データ】
識別名:なし(現在検討中)
総合危険度:SS
空間震規模:SS
霊装:?
天使:?
STR:?
CON:?
SPI:300~400
AGI:?
INT:?
霊装:?
天使:?