Prologue.
二つの鈴が鳴る。
澄んだ音色は遥か天の頂へ。遥か海の底へ。
海の音色は蒼穹をも黒く染め。
天の音色は蒼海をも白く染め。
黒と白は交わらず。
天と海の神は、決して交わらず。
何故、鳴らしてしまった。
何故、争わせてしまった。
二柱の神を止める筈の聖獣は、何処へ。
いいや、もう、居ない。
死んでしまったから、もう、居ない。
白き羽根と、虹の羽根が、交差する。
散りゆく羽根を、誰ぞ止めねば。
どちらの神も、世界が尊ぶ。
故に、新たな神が産声を上げた。
しかし、それは終幕の合図とも同義。
三つ目の音色は、世界を灰色に染めた。
破滅の道を忌避しなさい。
泣きじゃくる英雄に、そう告げて。
※
ジョウト地方最東端にある小さな町、ワカバタウン。
数ある町の中でもとびきりの田舎町で、その認知度もほんの一昔前までは圧倒的な低さだった。
都会でワカバの名が囁かれはじめたのは、一組の少年少女が長らく人々の往来を止めていたポケモンを追い払った頃からだろうか。その頃はまだ、『ワカバという町のトレーナーが』という具合。町の詳細を聞かれた物知りも、あまり詳しくないと首を振っていた。しかし、その二人の躍進は留まる事を知らず、大都会コガネのラジオ塔が解散した筈のマフィアの集団によって占拠されてしまった際、手をこまぬいていた警察機関を他所に、たった二人でこれを打破し、解決してしまったのである。その頃には、二人の愛称と共に、田舎町の名前が至るところで挙がっていた。
気が付けば時の人。メディアの誘いの多くは断られたが、ジョウトで二人の愛称を知らない者はいないと言える程、有名なトレーナーになっていた。本名や姿形が噂についてこなかったのは、彼等が愛されていた証拠かもしれない。ポケモンとの旅を愛する二人の歩みに支障が出ぬようにと、関わった多くの人々が、彼等の情報に口を噤んだという。
そんな二人が全国的に有名になったのは、セキエイリーグの一位と二位を飾った時だろう。
ジョウト地方、ワカバタウンの新星。ついに全国最難関リーグを制覇する。
その報せは多くの人々を沸き立たせ、喜ばせた。後日放送された一般放送の視聴率も、過去最強と謳われた伝説のトレーナーが出した数値を塗り替え、二人の愛称と出身地は、ついに誰しもに知られるようになった。何より彼等の人気を後押ししたのは、二人がまだうら若い少年少女だった事だろう。『将来』という言葉と共に、その後の躍進へと更なる期待がかかった。故に、二人揃ってセキエイリーグチャンピオンの座を辞退した際にも、誰もその決断を咎めなかった。
それから数年。
二人はカントー地方のジムを制覇し、更に前人未到であるシロガネヤマの登頂を成し遂げる。
長らく空白だったジョウトの最後の地図を、この二人が埋めたのだ。
その功績は真に評価され、年に一度選出される『最も優れたトレーナー』に異例の二人一組で選ばれ、大々的に表彰が行われた。二人は名実共に、ポケモンマスターになったのだ。
そんな伝説から数年。
数々の逸話が、人々の記憶の中で確かに存在し、しかし暫く聞かぬ名として、薄れだした頃。
春の訪れに喜ぶ虫達も寝静まった夜半。月は傾き、もう数時間待てば日も昇ろうかという頃合いだった。
未だ煌々とした光が窓から漏れるウツギ研究所。その扉を一人の青年が、コンコンとノックした。
青年はまだ二十代半ばというところ。
スラっとした体型であり、長身でも単身でもない。顔立ちも平凡であり、服装も薄手のパーカーとジーンズ。特出すべき点は、男性にしては少しばかり後ろ髪が長い事ぐらい。それも短い尻尾のように雑に纏められているので、女性的という印象は薄い。
彼の表情は少しばかり強張っていた。
決して何かに怒っている様子ではなく、何処か心配事があるという雰囲気。焦っているのか、暫く待って返事がないと、濁った溜め息と共に二度目のノックをした。
それが奏功したのか、建物の中からごそごそと物音が聞こえる。
青年がふうと息をつくのを見計らったように、ガチャリと音を立てて扉が開いた。
中から出てきたのは、何とも眠たげに目尻をこする丸眼鏡を掛けた男。不健康に痩せこけた顔をしており、少しばかり髪も薄い。白髪交じりの髪には艶が無く、数日風呂に入っていないのではと思わせた。
「夜分遅くにすみません。博士」
「うん? ヒビキくん。どうしたんだい?」
長身痩躯の男をやや見上げて、ヒビキと呼ばれた青年は改めてお辞儀をする。
その畏まった様子に、男は眼鏡のつるをつまんで、目を瞬かせた。
こんな夜中の来訪に加え、青年の格好は余所行きだった。それに気が付けないようでは、『博士』という肩書きの名折れだろう。
「仕事かい?」
「ええ、まあ。詳しくは話せないんですが、コトネも一緒に行かないといけなくて」
「ああ、そういう事」
短い会話で、男、ウツギはヒビキがここに来た理由を察した。
何せ、長い付き合いである。
今やポケモンマスターと呼ばれる彼、ヒビキ。
その旅はこのウツギ研究所から始まった。ポケモンに関する交流は勿論の事、ヒビキが幼馴染のコトネと共にセキエイの頂点に立った時、二人がめでたく結ばれた時、ヒビキの母が亡くなった時、二人に新しい家族が増えた時、彼等の重要な時は常に寄り添ってきた友人でもあった。
ヒビキと、その妻であり、相棒であるコトネは、今や多忙な存在だ。
この田舎町に帰ってきてからは少しばかり落ち着いた生活を送っていたようだが、急な要請があればすぐにでもワカバを発たなければいけない。五年程前にアサギで大規模な災害があった際にも、二人は夜のうちにワカバを発っていた。
「とりあえず入りなよ。コトネちゃんは支度しているんだろう?」
「ええ。ありがとうございます」
落ち着いた様子で、ヒビキは素直に中へ入ってくる。
助手の綺麗好きが発揮された所内は、入り口脇の応接間こそ綺麗だ。奥は自分が散らかしてしまっているので、入ってすぐのソファーを促した。
素直に腰かけるヒビキは、まだ眠たいのか座るなり手を組んで俯いてしまった。
眠気覚ましのコーヒーぐらいは、時間も許すだろうか。
無糖か加糖かを問いかければ、彼は「ブラックで」と言った。
そんな短いやり取り。
しかし、そこに小さな違和感を覚えながら、ウツギはインスタントのコーヒーを用意する。程なくして仕上がったそれを持って、再び彼のもとへ。
俯いたヒビキは、組んだ手を微かに震わせていた。
「どうしたんだい。らしくないじゃないか」
コーヒーをガラステーブルに置き、彼に促す。
素直に一口飲んだ彼は、ふうと息をついてから、面を上げた。
「今回の件、ちょっと、不安で……」
それは本当にらしくない言葉だった。
『ちょっと』なんてアバウトな言い方も、困難を前にして『不安』と口にする事も、いつものヒビキには見られないもの。どんな困難な壁を前にしても『絶対に大丈夫』と言って、ぶち破って来たのが、彼の軌跡だった。
その様子に、聞いてはいけないとは知りつつも、一体何があったのかと問い掛けたい衝動に駆られる。
逡巡の末に、それを口にしようとした時、研究所の扉が勢い良く開いた。
「あー、もう! サクラ重い! 寝てる子って何でこんな重たいのよ」
不躾も不躾、遠慮もへったくれもない様子で入ってきたのは、ヒビキの妻、コトネだった。
彼女は赤いシャツにオーバーオールという何処か懐かしい恰好をしていて、脇に大きく膨らんだバッグと、胸にまだ幼い女の子を抱えていた。
ヒビキは年相応に落ち着いた男性の容姿に変わっていったが、その女性には殆んど変化がない。目は大きくパッチリとしたままだし、深い皺の類も見られない。お肌の曲がり角も近いだろうに、ぱっと見た限りは胸の幼子と何ら変わりない。おまけに短身痩躯であるのだから、二十代に見えるかどうかすら怪しい。一応、髪は長く伸びていて、昔のチャームポイントだったおさげはやめているのだが、それでもとてもじゃないが一児の子持ちとは思えない。
彼女はげっそりとした顔付きで入ってきたかと思うと、脇で落ち着いている二人を見やるなり、正反対の表情にパッと変化した。
「あ、博士。チャオ! すまんけど、暫くサクラ預かって」
「しーっ。サクラちゃん起きる!」
「大丈夫。うちの子一回寝たら朝まで絶対起きないから。カビゴンもびっくりってなもんよー」
ウツギが小声で彼女を戒めようとするも、コトネはけらけらと笑って娘の背中をパンパンと叩く。暴力と呼べる程の力ではないものの、良い音が鳴ったというのに、確かに娘は全くと言って良い程の無反応。未だ深い夢の中に居た。
サクラ。
そう名付けられた二人の娘は、顔立ちこそヒビキ譲りの穏やかなもので、髪色がコトネ譲り。性格は二人の丁度中間をとったようで、好奇心よりも先に触れて良いかを確認するような慎重な性格に加え、一度寝たら起きないというような豪胆さまであるようだ。
ヒビキやコトネが目に入れて痛くない程に可愛がっていれば、ウツギからしても実の娘と同じように可愛がっている相手。それこそ孫のようなものだった。
そんな可愛い娘だからこそ、危険な場所には連れては行けない。故に、二人に緊急の呼び出しがかかると、ウツギ研究所はサクラ専用の託児所になる。今では彼女用のベッドや玩具まである好待遇っぷりだ。
「コトネ、Lと鈴は?」
「ちゃんと持ってきたって」
サクラを応接間の端にあるベッドに寝かせると、コトネはバッグの中をごそごそと漁った。
やがて取り出したのは、透き通った水色の鈴と、自身のベルトに付けていた紫色のボール。それらは何の説明もなく、ウツギの手に渡された。
促されるまま受け取ったウツギだが、その二つを改めるなり、二人へ向けて小首を傾げた。
「これ、ボクに渡すって事はそういう事? 良いの?」
何をとは言わず問いかける。
二人は一度ばかり目配せしあって、やがてこくりと頷く。
コトネは少し残念そうに俯いて、薄く微笑んだ。
「出来る限り自由な世界を見せてやりたかったけど、ちぃとばかし相手が悪そうで。わたし等に何かあったら、サクラのお守りにしてやってよ」
「そんな馬鹿な。縁起でもない」
いつもの冗談だと思って、ウツギはやや強い口調で彼女を戒める。
しかし、いつもなら『なんてね』と返ってくる場面で、彼女は嘘のように静かな表情のまま。隣に立つヒビキの袖をくいと引っ張って、彼を促した。ウツギが視線をやれば、彼は黙ってこくりと頷く。上げられた面には、やはり何処か影を落としたように、らしくない表情が映った。
「もしもの時は、サクラをお願いします」
冗談はよせ。
なんて言える雰囲気ではなかった。
揃って頭を垂れる夫婦は、誰がどう見ても娘を愛している。それをよく知る自分だからこそ、二人の言葉と覚悟は、あまりに重たい。子供を犠牲にするかもしれないと知って尚、行かなければならないとは、下手を打てば世界の終わりがやってくるような一大事のようにも感じる。
逡巡の末、ウツギは何があったと問いかけたい自分を殺した。
ふうと深呼吸をすれば、「わかった」と快諾する言葉は思った以上にすんなりと出た。
「まだ四歳。これからが一番可愛い時期だ。なるべく早く帰っておいで」
続いた言葉は、何とか二人の重荷にならないよう精一杯配慮した言葉だった。
暫くして、二人を外へ見送る。
ゴールドという愛称に見合った金色の霊鳥に跨るヒビキと、同じくクリスという愛称に見合った澄んだ湖を司る獣に跨るコトネ。二人はウツギの前でパンと手を叩き合うと、こちらの事なんて目に入っていないように前を向いた。
「じゃあ、行ってきます」
「サクラ。良い子でね」
各々の言葉を残し、深夜、二人はワカバを発った。
ウツギは二人を黙って見送った。
二人が戻れない事を覚悟するのは、これが初めてではなかった。
コガネの占拠されたラジオ塔へ向かった時、シロガネヤマを攻略しに行った時、アサギの大災害へ向かった時、どれも命懸けの戦いだったに違いない。だけどその全てを乗り越えてきた二人だ。
子供という待つ者が増えた今、きっとその力は最大限に発揮される。
大丈夫。
あの二人なら大丈夫。
ウツギは遠くなる二人の影を、信じて見送った。
それから一〇年。
ウツギとサクラのもとへ、二人の英雄は未だ帰らない。
あらすじにある通り、リメイク作品です。
元は『天を渡るは海の音』で、略して天海。
色んなもの書いてますけど、長編で完結してるのって天海だけです。だけどその文章力、構成力の拙さから、凄く心残りでして……。練習がてら書いてみたら、自分で書いたものながらやっぱ面白かったんですよね。それをTwitterでぼやいてたら、読みたいって仰ってくれる方がおりまして。
金銀発売から今日で20周年らしいので、公開するなら今日かなって。
一応、前作で心残りだったところはガンガン変えていきます。
なのでもう、If世界とでも思って下さい。先が気になって前作読んでも、第一章の時点で大きく逸脱してますので、ご注意を。
前作で好評だった(?)ミニコーナーは気が向いた時、活動報告にでも。
では。