ワカバタウンの大火事から三日が経った。
一つの町が丸ごと燃え落ちるという衝撃的なニュースは、今もトップニュースとして世間を騒がしている。シルバーがサクラに言った通り、ウツギ博士を除いた住人は皆無事のようだが、それを含め実に不可解な点が多い事件だった。
町一つを半日で焼き払った大火にしろ、そしてそれをものの数時間で消火した大雨にしろ、人為的に引き起こす事は不可能に近く、誰がどう見ても並みのポケモンの仕業ではなかった。おまけにトージョーの滝の近くで倒れているところを発見された住人達が、全員揃って火事の記憶がなかったというのだから、余計に質が悪い。
現在、ワカバタウンは立ち入り禁止になり、未だ賢明な調査が行われている。
警察機関やポケモン協会が総出で出火原因を突き止めようとしているらしいが、おそらく判明は出来ないだろう。原因になるようなポケモンは限られており、それらのポケモンに対する調査が、そもそも完了していないからだ。照合するものがないのだから、特定も出来る筈がない。一部のニュースでは、伝説級のポケモンの仕業ではと憶測で論を交わしていたようだが、具体的な名前は何一つ挙がらなかったそうだ。
『そうだ』というのも、サクラは火事からこちら、ニュースを殆んど見ていなかった。それらの多くは、サキがメールで教えてくれた内容だ。
燃え落ちたワカバの様子を見たいとも思わなかったし、見知った顔が皆無事であると分かれば、他に得たい情報も無い。重要な事が分かったらシルバーが連絡をくれると言っていたし、何より他人事なコメンテーター達の発言に腹を立ててしまう自分が情けなかった。一度だけヨシノのポケモンセンターにあるテレビで見た後は、なるべく避けるようにしていた。
いいや、何もそれだけが理由ではない。
あくまでも状況的に、仮に火事の原因が伝説級のポケモンであるとするなら、誰が疑われるのかは考えるまでもないだろう。コメンテーター達が伏せた名前が、伏せられなくなってしまう事が、何より怖かった。
『幸い、サクラの存在はあまり広くは周知されていない。お前がワカバの件に関わらなければ、報道陣に追い回される事にはならないだろう。ルギアの件もある。酷な言い方だが、お前はワカバの件に首を突っ込むな。名前を出すなと圧力はかけたが、それも何時までもつか分からん』
「わかりました……」
電話口の向こうから聞こえてくるのは、低い男性の声。
多忙な中で時間を見付けてくれたのか、要件だけ話すと『また連絡する』と言って、向こうから切られてしまった。
虚しい終話音を聞きながら、サクラはゆっくりとPSSを耳から離す。
借りた個室のベッドに腰掛けたまま、ふうと息をついて膝の上に下ろした端末をぎゅっと握りしめた。
ポケモンセンターの貸し部屋は、ベッドとサイドテーブルがあるだけ。四畳半という狭いスペースには、何の生活音も無い。終話音がほんの少しだけ響いて、やがて消えた。
人間、誰しも、やり場の無い憤り程、苦しいものはない。
ワカバタウンが失われた事に対する憤りは、犯人が判明しない限り、矛先が政府や警察機関へと向いてしまう。それとなく人柱を立てて、やり過ごすのが、社会の仕組みなのだろう。それに最も近いのが、サクラの父であるというだけ。
学生時代に受けた虐めもそうだった。
自分が標的になりたくないから、少しだけ普通と違う身の上のサクラが標的にされたのだ。その殆んどは親友が解決してくれたが、そうしたら今度は別な誰かが標的になっていた。それを教師が解決すれば、また別な誰かが虐められる。まるでいたちごっこのように、虐めは無くならなかった。
人間という生き物は、そういう風に出来ている。
ヒトとは四角よりも丸が好きな生き物。だから四角から角を取れば丸くなるように、色んなものを追い出して、角を取り、究極の丸を目指す。一つの教室に何十人もの子供が押し込められれば、自然とその中で中心に立つ子供がおり、その子を中心とした人間関係の四角が出来上がる。それの整形が虐めや迫害という形で行われているだけだ。
虐めの原理について、ウツギ博士はそう言っていた。
その話は少しだけ続き、『丸は色んな方向に分け隔てなく愛を与えられる関係だが、大人になるにつれ丸の形は崩れてしまう。結婚したり、子供が出来たり、ね』として、『だから、丸に疑問を持つのは、少しだけ大人になれた証拠じゃないのかな』なんて、サクラを撫でてくれた。
その話はサクラの心に大事なものを育て、自分の生まれ育ちを恥じない人間へと変えたものだが、果たして今のサクラの立場をウツギ博士が見たら、どんなアドバイスをくれるのか。未だ面会謝絶の彼が、脳裏に浮かぶ。
両親の事を関係ないとは言わないだろう。
だけど、泣き寝入りしろとも言わない筈だ。
だとするなら、サクラが今抱えるこの憤りは、一体何処へ向ければ良いのか……。
思考がどん底に落ちていく感覚を覚えた。
あの日、より酷い心境の中、出会った能面の仮面を被った女を思い出す。
まさかサクラを襲ったあの女の存在を口にしたところで、誰が信じてくれる訳でもない。一応、シルバーには報告したものの、その存在が未だニュースに挙げられていない以上、あの女の正体は殆んど分かっていないのだろう。そもそも、サクラを襲いこそしたが、あの女が火を放った犯人とも限らない。結果だけ見れば、あの女に抗ったサクラがルギアを覚醒させ、町の火を消した。もしもそれが狙いだったとするなら、あの女は敵に見えて、敵ではなかったのかもしれない。
よくよく考えれば、あの女の言動は腑に落ちない点が多かった。
まるで自分がワカバの人間を手に掛けたような物言いで脅しかけてきたが、結果的に誰も死んではいない。あのレパルダスの練度を考えれば、殺されていて不思議じゃないサクラのポケモン達も、重症だったレオンですら後遺症の心配が無かった。考えれば考える程、あの仮面の女から悪意というものが感じられなかった。
そんな風に考え込んでいれば、『リィーン』と、鈴が鳴る。
ハッとしたサクラは、地べたに置いた鞄を見やる。すると閉じられたべろの内側から、仄かな白い光が漏れ出ていた。
『主、あの女は決して良いものではない。次に現れたとしても、気を許すな』
サクラの思考を読んだような言葉に、目をぱちぱちと瞬かせる。
小首を傾げて、サクラは疑問を口にした。
「あれ? わたし、声に出してた?」
『否、主の心が弱っているのだろう。どうも薄く聞こえてくるのだ』
一応、テレパシーと呼ばれる能力は持っているが、ボールの中では上手く使えない。本来なら、鈴を通して見聞きするのがやっとだ。
ルギアはそう補足した。
成る程。
原理は分からないし、聞くつもりもなかったが、確かに、今のサクラは心が弱っているのかもしれない。
故郷が燃えただけでも辛いのに、その犯人が自分の父親である可能性を吹聴されて、悲しくない筈がなかった。どちらかというと、後者の方がよっぽど堪えている。
気力が湧かないとは、きっと今のサクラの状態を表すのだろう。
昼過ぎにアキラと合流する予定なので、小一時間したら部屋を出ねばならないのだが、出来れば貸りた部屋でじっと引き籠っていたいとさえ思っている。あまり人に会いたい気分でもなかった。
そう考えると、今は丁度良いかもしれない。心を読まれるのは恥ずかしいが、少しでも気が紛れれば、父や故郷の事を考えずに済む。
個室の壁は薄いし、廊下は定期的にジョーイが巡回している。独り言をぼやいていると思われたくなくて、今まで彼とゆっくり話す機会が無かったが、声を出さなくて済むならば実に良い機会だろう。
サクラは心の中で『続けて』と念じた。
呼応するように、鞄の光が少しだけ強くなった。
『あの日、あの時、わたしは長く封印されていた所為か、本調子ではなかった。だが、それでも分かる程、あの女の殺気は明確だった。故に、わたしはあれを排そうとしたのだ』
確かに、ルギアは誰の指示もなく、破壊光線をぶちかましていた。
あの時のサクラは彼に指示を出すという事さえ頭に無かったが、その後の言動を見る限り、彼はサクラの意思を尊重してくれている。仮にあの女から敵意が感じられなければ、攻撃をせずに状況を見守っていたかもしれない。その方が情報を得られる可能性もあるし、有益だろう。
一先ず、仮面の女に対する事は了解した。
あの日の事を精査するのは大事だが、それより優先したい事があった。
ふうと息をついて彼女に関する事を一度、思考の端っこへ寄せてしまうと、「それはそうと」と口にして、改めて別な事を考えた。
ルギアは一体どんなポケモンなのか。
と、そこまで考えて、ハッとして言葉を書き換える。
自己紹介するなら自分から。
しかし、今度はその言葉に対して、彼が自己紹介もなく自分を『主』と呼んでいて、やたらと慣れた調子である事が気にかかる。そういえば、彼とは初対面だった筈なのだが……と、今更ながらにあの時の不思議な出会いを思い起こした。
『うむ。確かに。主からすれば当然の疑問か。初対面でいきなり幾久しく等と言うのだから、まるでストーカーであるな』
仰々しい言葉遣いではあれ、えらく世俗染みた事を言う神様だった。
そんな感想を持てば、ルギアは満足気に『うむ』と零す。きっとマスターボールの中で頷いていると思えるような、やけに親近感を覚える抑揚だった。
鞄の中で鈴が光を強めていた。
それは彼の感情の昂りを表しているように感じた。
『多く勉強した故に。テレビというものは、何とも知識の宝庫よ。今の主には腹立たしいかもしれぬが』
思わぬ単語が出てきて、サクラは目をぱちぱちと瞬かせる。
テレビ? この神様はテレビを見ていたのか?
いいや、そんな訳ない。シルバーの話によると、彼はウツギ研究所でずっと封印されていた筈なのだ。テレビを見られるような状況なんて何処にあるのか。そもそも研究所にはテレビが無かった。
そう思えば、ルギアはくすりと笑ったような声を返してきた。
『主よ。貴女は勘違いしている。わたしがテレビを見ていたのは、貴女の家での話。わたしは鈴を通して、貴女をずっと見ていた』
「…………」
マジか。
いや、マジか。
つまり、サクラが博士から鈴を預かった一〇歳の頃からこちら、彼はサクラの生活をずっと見ていたのか。
卵焼きを作ろうとして消し炭を作った事も、不意にテレビでイトマルの特集を見てしまって声を上げて家から飛び出した事も、田舎宜しく勝手に入ろうとしてきたお向かいさんをフライパンで迎撃した事も、全部知っているのか。
『うむ。一番最後のものはとても良い音がしたな』
「あぁぁぁ……」
思わず小さな声をあげて、顔を覆いながら俯いてしまう。
思い返せる恥ずかしい出来事の数々が、暴力のように襲い掛かってきた。
辛い。恥ずかしい。ほんと、無理。
『そう言うな。人間、誰しも、寝小便くらいはするものだ』
「うぅぅーっ!」
思い返せる内で最も恥ずかしい事を言われて、サクラは歯噛みしたまま変な声をあげて唸った。
だってしょうがないじゃない。
夢にアリアドスの大群が出てきたんだもの。
お漏らしくらいするよ!
っていうか、立派なストーカーじゃん!
『何を言うか。そもそも、主はドジが過ぎるのだ。何故風呂に入って着替えとバスタオルを部屋に忘れてくるのか。バスタオルは風呂場に置けば良いと、わたしは己の声が届かない事をこれ以上なく嘆いたぞ!』
「エッチ! すけべ!」
『助平も何も、主はこれっぽっちも胸囲が育っておらぬではないか』
「へ、変態! 失礼はあんたよ!」
『夜な夜な揉んでも大きくはならぬぞ!』
「うるさい! ばか!」
唐突なルギアの暴露大会に、サクラは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
とすると、見計らったように部屋の扉がコンコンとノックされる。ハッとすれば『サクラちゃん。PSSの使用はもうちょっと声を抑えてね』と、外に居たらしいジョーイから注意されてしまった。
咄嗟に膝の上にあったPSSを頬っぺたに構えて、「は、はーい。ごめんなさい」と、苦笑して返す。
心臓がバクバクと音を立てていた。
暫くして先程は聞き逃した足音が離れていく音を聞いて、サクラはムッとした顔を鞄に向ける。すると鈴は短く音を鳴らし、遅れてけらけらと笑う声が聞こえてきた。
『からかってすまぬ。しかし一つ訂正させて欲しい』
「何よ……」
ジトーっと睨みつけながらも、真面目な調子に戻ったルギアの言葉を待つ。
少し間を置いて、彼は続けた。
『わたしは主が一〇の頃より共に暮らしておるが、生まれてから四つまでの頃もずっと寄り添っておった。それからも研究所に主の気配がある度、わたしは密かに目覚め、貴女を見守っていた。貴女と逢える日を楽しみにしていた。本当だ』
うずまき島の大沈没の際にルギアが我が家に来たとするなら、サクラが生まれたのはその後の話。両親が居なくなった後、鈴はサクラがキキョウの学校を卒業するまで、ウツギ博士が管理してくれていた。話の辻褄は合っている。
ルギアはずっと、サクラを見守り、待っていてくれたそうだ。
サクラにとって恥ずかしい出来事を一々覚えているのはどうかと思うが、しかし同じような愛情表現は母もやっていた事。何処か似通った雰囲気を感じてしまうのは、どうしてだろう。母が傍に居てくれたら、同じようにサクラをからかって、励ましてくれたのかもしれない。
途端に熱くなる胸。
ワカバが焼け落ちてからこちら、涙腺が緩くてかなわない。
零れ出た雫を小指で拭い、「絆されないんだから。ばか」と、悪態一つ零して、少しだけ口角を上げて見せた。鞄の中からでは見えないかもしれないが、少しだけ元気が出た事は伝わっているだろう。
「じゃあ、少し質問していい?」
もうジョーイに聞かれてしまったのだし構わない。少しばかり活力も戻ってきたので、何時ルギアがサクラの心を読めなくなるかも分からない。そう思って、敢えて口に出して問いかけた。
ルギアが『うむ』と答えてくれると、サクラは沢山ある質問の中から、一番大事な事を選んだ。
「貴方は、どんなポケモンなの?」
それだけでは漠然的過ぎる。
サクラは種の事ではなく、個の事を教えて欲しいと補足した。
するとルギアは暫く『ふむ……』と言って考えた風に黙り、やがて口火を切った。
『わたしは……かつて海の神と呼ばれたが、眷属の多くを守れなかった情けないポケモンだ』
エンジュにある焼けた塔。かつて、それがまだ健在であった時、ルギアの祖先がそこに居た。しかし、焼けた塔が火事に見舞われ、塔を守護していたポケモンと一緒に、失われてしまった。ルギアの祖先は己の持つ力が大きすぎた故に、守護神達を死なせてしまったのだと嘆き、誰とも関わらずに済む深海へと潜った。
祖先が永き眠りから覚めた時、多くのポケモン達が深海の神と慕ってきた。気が付けば再びそこで眷属を作り、新たな居場所を作り上げていたそうだ。
やがてルギアが誕生した。
祖先から伝わる教えを継ぎ、深海を己が守る場所だと信じて過ごしてきた。
しかし、ある時。
不埒な輩が、ルギアの眷属達を浚い始めた。
それが食物連鎖の故であれば致し方無し。しかし、見慣れぬ恰好をした人間達は、必ず眷属を生け捕りにしていた。不審に思って未来予知で後を追ってみれば、その果ては眷属達が様々な実験の末、姿形を変えられ、酷く惨い死に方をするものだった。
『何と惨い事か……今思えば、あれは密猟者だったのだ。それも、大きな組織による犯行だった』
ルギアは眷属を守る為、力を振るう事にした。
己の力が強すぎる事は分かっていたが、神と慕ってきた眷属達が惨たらしく殺されるのを、ただ見ている事は出来なかった。
一人、二人と殺す。
深海に彼等の鮮血が漂えば、眷属はホッと安堵し、神であるルギアの慈悲に感謝してくれた。
しかし、密猟者は後を絶たない。はじめは数人だったのが、次は戦えるポケモンを連れた人間もやってきて、一〇人、二〇人と、どんどん増えていった。その度にルギアは力を振るい、深海は鮮血に染まった。
次第に眷属は狙われなくなり、標的はルギアへと向いていた。
日に日に力を解放していく量が増し、気が付けば己の力の殆んどを解放する事も少なくなかった。しかし、それから暫くして襲撃は落ち着き、深海は平穏を取り戻した。
とはいえ、眷属は皆傷付き、人の影に怯えきっていた。
そんな彼等を守る為、襲撃が無くなった後も、人払いの為に戦う日々が続いた。
そして、ある日のこと。
ついにルギアと互角に戦う者がやってきた。
それは先祖の話に出てきた七色の霊鳥。そして、失われた筈の湖の守護神。そんな稀有なポケモンを連れた二人の若いトレーナーだった。
その者達は強く、ルギアがどれ程の力を発揮しても、挫ける様子は無かった。必死の形相でこちらへ何かを訴え、既視感のある鈴を掲げ続けていた。
ルギアは必死に戦った。
戦い続けた。
しかし、その者等に敗北し、捕縛された時、己が何をやっていたかを、思い知らされた。
『見渡してみれば、眷属はひとりも居なかった。皆、逃げ出すか、死んでしまっていた。生まれて初めて地上へ上がった時、わたしは自らの聖域と、その周辺の町々を滅ぼしかけていたと知った』
失意の底で途方に暮れた。
祖先がようやっと見付けた安住の地。それを己の手で滅ぼし、慕ってくれた者達も、全て失った。己の罪深さと傲慢さが、身に染みて良く分かった。
しかし、ルギア捕縛した人間の女は、そんな彼のボールを撫でてこう言った。
『よく頑張った。もう頑張らなくていい。あんたはもう、神様じゃなくて良い……これからは、わたし達が傍に居てあげるから』
それはまるで憑き物を落とすかのように、傷だらけの心と身体に強く染みた。
同時に、自身も血まみれ、泥まみれになっていながら、朝日を浴びて笑う女性の姿が、何と頼もしく映る事か。情けなく泣いているルギアに、大罪を犯した筈の神様に、赦しを与えた傲慢で稀有な人間。その人物こそ、サクラの母、コトネだった。
それからルギアは、コトネと穏やかな日々を過ごした。
コトネはルギアをバトルには出さず、何をさせる事もなかった。六番目のホルダーにぶら下げて、旅をするだけ。必要とされる事もなかった。あれ以来言葉が掛けられる事が無ければ、鈴を通して話しかけても、彼女には聞こえていない様子だった。
しかし、それも仕方ないと、後で知る。
『その時、丁度母君の胎内に、主が居たのだ』
やがてコトネはヒビキと二人、ワカバタウンに落ち着き、愛らしい女の子が生まれた。
彼女はサクラと名付けられ、二人は勿論、二人のポケモンも彼女を愛した。ルギアもボールの中からだったが、彼女を目にかかる機会があった。その時、不意に生まれて来た子供へ鈴を通して挨拶をしてみれば、何と彼女はボールではなく鈴の方向を向いたのだ。まさかと思って、視線が別な場所へ移ったタイミングでもう一度話しかければ、やはり振り向いた。
ルギアは驚いたものだ。
コトネはルギアの声を聞く才能は無かったが、サクラにはその才能があったのだ。もしかしたら、母が持つべきだった才能が、娘に受け継がれたのかもしれない。とすると、彼女は自分の力を正しく使える可能性もある。そう思うと、それがコトネから受けた大恩を返す事になるのではと考えた。
だが、そう上手くはいかないものだ。
赤子から成長するにつれ、サクラに声を掛けても反応が薄くなっていった。
多感な赤子は、生きる為に覚える事が多い。ルギアの声を聞く事は、不要な事だったのだろう。彼女が物心つく頃には、殆んど反応を見せなくなっていた。そして、ようやっと言葉を覚えた彼女が、自分に振り向いてくれる前に、彼女の両親が行方をくらまし、ルギアは休眠を強要する装置に入れられてしまった。
『それからというもの。わたしは途方に暮れた。しかしながら、暫く主の母君の傍に居たからだろうか……彼女の気質が移ったかのように、ならばわたしから寄り添えば良いと、様々な事を学習する事にしたのだ。そうして主が学校を卒業し、鈴が主に預けられたのだが……』
「うん。あの頃のわたし、ポケモン嫌いだったね……」
サクラはそう言って、彼の言葉を引き継ぐ。
鞄から取り出した鈴を優しく撫でてあげながら、ゆっくりと唇を開いた。
「そのリハビリ……じゃないけど、アキラから強引に渡されちゃったレオンとルーちゃん。ワカバに戻って、ふたりを博士から引き取ったら、生活も忙しなくなっちゃって」
『うむ。わたしが寛大でなければ、レオンもルーシーも嫉妬の炎に焼かれていただろうな』
「やめてあげて?」
『冗談だ』
今はこんな風に、ポケモンに心を癒され、笑い合えるサクラだが、ほんの五年前までは『ポケモンなんて大嫌い。見たくない』と、当たり前のように言っていた。
それもこれも、キキョウの学生寮で、起こった事件が原因だ。
幼い頃のサクラは、ポケモンと無縁の生活を送っていた。おそらくウツギ博士が両親を思い出して寂しがらないようにと、遠ざけてくれていたのだろう。しかし、それが災いして、学校のクラスメイトにサクラの生まれがバレた際、あまりにポケモンに対して無知だったサクラは、酷くからかわれるようになった。その一環だったのか、ある日の夜中、サクラの寝室に向かって意地悪な男子生徒がイトマルを仕掛けたのだ。そして、トイレに行きたいと目覚めたサクラは、真夜中に鬼のような模様を見せつけ、威嚇するイトマルと遭遇した。
どうなったかは、語るまでもない。
その一件で、男子生徒は退学になったが、サクラの自尊心も酷く傷付けられた。
晒した醜態は取り返しがつかず、主犯の男子生徒がいなくなったというのに、からかいは虐めになった。それ自体は見かねた友人が解決してくれたのだが、ほんの数か月の地獄のような時間は、サクラがポケモンという存在を恨んでしまうのに十分過ぎるものだった。やがて、またもやその友人から、恨む相手を間違えていると言われ、とある事件を切っ掛けに得た三つの卵のうち、二つを強引に押し付けられる事になったのだが……その結果、今に至る。
友人、アキラの言う通り、恨む相手は間違えていたと思う。
レオンとルーシーの世話に四苦八苦した日々は、捻くれていたサクラを更生し、ポケモンが大好きだと言ってしまえるトレーナーへと成長させた。それでもイトマルだけは無理と言うのは、その時の醜態がトラウマになっているからである。
そんな回想を口にしていくと、ルギアは『うむ』と満足気な声を出した。
虐めの話はサクラが当時の悪夢を見てしまった時など、両親の写真へ向けて愚痴っていた。それもあって、ルギアも承知の様子なのだろう。
『生きる者は皆、過去から何かが変えられると信じている。わたしもそうだ。主も変わった……』
感慨深げに零すルギアは、そこでやや迷ったように言葉を濁す。
どうしたのかと目を向ければ、彼は『いや』と改まる。鈴の光が少しばかり強くなった。
『そうは言えど、やはり変わらずあるものは、心の支えなのだろうと思えたのだ』
逡巡の末、独り言のように零された言葉は、何をと言わずにワカバタウンの事だと理解出来た。
しかし、不思議と嫌な事を思い出した気分ではない。ルギアが共に暮らしていたと話してくれたからだろうか。例え故郷を失っても、レオンやルーシー、ルギアとの縁は消えたりしない。そう認めさせられた気がして、少しばかり心の整理がついた。
生きている。
だったら、どうにでもなる。
聞けば聞く程無責任に感じた言葉が、ようやっと前向きな言葉に感じられた。
確かに故郷は形を失ってしまったが、そこで培われた事は、今、こうして、溢れんばかりに出てくるじゃないか。ルギアの言う心の支えは、サクラの胸の中、確かに残っているのだ。
未だどうしようもない問題もあるが、少なくとも望郷の想いは彼等と共に過ごしていく日々で癒される。そんな日常をしかと守り抜けば、それがサクラにとって目に見えない故郷の在り処なのだと思えた。
サクラは首を横に振って応えた。
「大丈夫。ありがとね」
シルバーからの連絡を受けた時、まことしやかに囁かれている疑惑が本当の事なのか、彼に尋ねる事は出来なかった。あの日、シルバーが住人は無事だと断言した理由も、確かめられなかった。
それはおそらく、今も変わらない。
犯人が父だとしたら、自分は泣いて立ち止まってしまうだろうから。そうじゃないのだとしたら知りたい気持ちはあるが、未だ恐怖心との釣り合いがとれない。そういう意味でも、きっとシルバーの言う通り、知らず、関わらずでいた方が良いのだろう。
だけど、それはそれ。これはこれ。
サクラが元々考えていた旅をしたいと思う気持ちは、故郷が燃えてしまった事と何ら関係はない。復興を手伝いたいとは思っても、それを優先しなければならないと勝手な正義感を持つのは、新しい事を不安に思う臆病な言い訳だ。
旅をしたい。
そして、強くなりたい。
次に同じような事があった時、目に見えない本当の故郷を守れるように。
「決めた」
そう零す。
鈴が『うん?』と、言葉を返してくる。
いよいよサクラの心は読めなくなったらしい。
それもその筈、サクラは今すぐにでも外へ飛び出したいと思っている程、活力に満ちていた。レオンの回復を待たなければいけない為、まだ暫くは足止めされてしまうが、その時までこの活力は何とか維持していきたい。
だから、敢えて口に出す。
大言壮語も吐いてやる。
「わたし、ポケモンマスター。目指すよ」
だって、ここに居るのは、英雄の娘ではない。
虐められて、故郷を失くして、何時だって泣いてばかりだった弱い自分。ポケモンに助けられて立ち直るばかりの、情けないサクラ。
強くならないと、何も守れない。
もうレオンやルーシーをあんな目に合わせない為にも、ましてやワカバタウンのように失ってしまわない為にも、泣き寝入りなんてしてやらない。絶対に絶対、強くなる。今度はあのレパルダスにだって、負けてやらない。
ゆっくりと立ち上がったサクラは、脳裏に眠ったままの恩人を浮かべる。
――そうでしょ? 博士。
きっと目が覚めたら、褒めてくれる。
強くなったと喜んでくれる。
そんな未来の為に、頑張ろう。
サクラが決意を改めた時、見計らったようにPSSが鳴った。