天海 Remake   作:ちゃちゃ2580

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Section5

 旅立ちを祝福するような眩いお日様も、やがて西へと傾き、山の峰へ隠れてしまう。

 その瞬間の煩い事。沈まないでと嘆願したかと思えば、沈みやがったちくしょうと悪態ついて、これからどうすれば良いんだとこの世の終わりさながらに絶望する。昼から夕方まで休みなく歩き続け、夕方から更に倍の歩調でキキョウシティを目指したというのに、果たしてその底知れない体力と活力は何処から湧いてくるのか。

 すっかり闇に包まれてしまった林道の途中。街道ばかりは踏み均された茶色をしているが、人が三人分通れる歩道を外れれば、膝丈の草原が広がっている。その草原からほんの数十メートル歩けば、今度は鬱蒼と茂る樹海。勿論街灯なんてある訳がなく、各々のバッグにぶら下げた小さな懐中電灯だけが辺りを照らしていた。

 代わり映えのない30番道路の夜景色。キキョウシティの手前には洞窟や泉が見える筈なので、まだまだ道半ばといったところだ。

 あと一体どれ程歩かされるのか。

 少女のハイテンションを後ろで見守っていた少年は、げんなりした顔で深い溜め息を吐いた。

 

「なあ。流石に諦めて野宿しようぜ?」

 

 のっしのっしと歩く少女の背に向けてそう言えば、彼女はピタッと足を止めて、素早く半回転。

 勢い良く振り返ってきたその顔は、グランブルのそれに負けない怖い顔をしていた。

 

「嫌! 絶対無理!」

 

 そう言って、再度転身。歩き出してしまう。

 その様子を見送って、少年は今一度深い溜め息を吐いた。

 ちらりと隣を見れば、もう一人の旅仲間はすまし顔をしている。前を行く少女はおそらくアドレナリンがどうのこうのといった状態だと察するが、隣の彼女は自分よりも歩幅がずっと狭いくせに、飄々とした表情のまま、黙々と着いて行っている。

 華奢な身体付きの癖して、化け物染みた体力だ。

 これでは疲れたと根を上げる事すら出来やしない。

 少年、サキは、男としてのプライドが、最早棒のような足を動かしていた。考えてみれば自分だけ朝からずっと歩き詰めなのだが、それを主張したところで鬼気迫るサクラの足を止められるとは思えない。何がそうさせると言うのはアキラから聞いたものの、果たして普通の女子なら自分やアキラの後ろに隠れて震えているところだろうに……何がどうしたらああなるのだろうか。なりふり構わずの様子は、ただ必死なだけのように見えるものの、本当にそれだけなのだろうか。知り合って間もない仲ではあるのだが、何故だか違和感を拭えない。

 いや、今はそれより――

 

「あぁ、腹減ったなぁ」

「そうね。ずっと歩き詰めですものね」

 

 ふと出たぼやきに、意外にもアキラが同意してくれる。

 サクラには幼馴染みという程ではないと説明したものの、彼女の性格を知り、軽口を叩き合うくらいには、互いを知っている。それは別に関係を隠した訳ではなく、『退屈な待ち時間を潰す為だけの年の近い話し相手』以上でなければ、以下でもなかったという事。まあ、ただの知り合いと言い換えれば、分かり易いだろうか。

 つまり、この尊大な少女が、自他共に厳格な性格をしている事は知っていた。だから、あくまでも独り言のつもりだった。反応があっても貶されるとばかり思っていて、同意の言葉は予想外だったのだ。

 思わず目を丸くしていれば、それに気が付いたアキラは、睨むような細目で返してきた。

 

「何ですか、その顔は。軟弱者と罵った方が良かったのですか?」

「いや。ごめん」

 

 言葉を返したところで、都合よくサキの腹がぐうと鳴った。

 ああ、ひもじい。

 昼間、二人と合流する前につまんだ軽食からこちら、全然美味しくない携帯食料を少し齧っただけだ。食材も調理器具もあるというのに、何だって空腹に嘆かねばならないのか。こうなるなら先以って言ってくれれば、多少は荷物を減らせたのに。いいや、ポケモン達も腹を空かせているだろうし、この状況を看過してはいけないのかもしれない。

 ただ、サクラの『怖い顔』は、割とマジで怖いのだ。

 何度目か分からない溜め息を吐いて、サキは肩を落とす。

 

「はあ。今日はシチューでも作ろうと思ってたのによ」

「あら」

 

 と、何気ない愚痴に、隣からさも意外そうな声が上がる。

 おや? と思って目を向ければ、アキラは小さな手で口元を隠し、どこか期待したような眼差しを向けてきているではないか。その細指の隙間から見える口角はにやけ顔を隠せていないし、眉の角度も先程とは全然違う。難なら、黙々と歩いていた彼女の顔付きが、実を言うと生気が無かったのだと思える程、今の顔には活力があった。花が咲くとは、まるでこの様子を差すようだ。花ではなく、団子に釣られているのだが、それは兎も角として。

 サキは苦笑しながら、肩を竦めて返す。

 

「まさか、飯抜きだと思ってたのか?」

「ええ、まあ。どうするのかと思ってましたが、貴方は何気なく携帯食料を齧ってましたし、サクラもあの調子ですから……今日は欠食かと」

 

 早歩きをしながらも、まるで息を吹き返したかのような調子で、アキラはつらつらと語る。そうだ。彼女は饒舌なのだ。黙々と歩くなんて似合う人物ではなかった。

 それにしても、彼女の言葉は認識の違いを如実に表している。

 サキとサクラは、ヨシノシティを旅の始まりとして考えており、アキラも加えた三人で始めた旅だと考えていた。しかしながら、アキラはあくまでも自分を新参者だと思って振る舞っていたようだ。

 決して遠慮がちな性格ではないだろうが、彼女は礼節に厳しいきらいがある。気心知れた相手だとしても、旅の取り決めや指針には口出しし辛いと感じさせていたのかもしれない。まあ、それそのものは事前に気が付いて忠告していたとしても、時間が解決してくれるまではどうにもならない事だろう。

 しかしながら、融通が利かないとは感じる。

 いくらなんでも、晩飯抜きで一晩中歩き通すようなルールを取り決めている筈がないだろう。

 サキは肩を竦めてそう言った。

 すると、アキラはムッとしたような表情で、ぷいと顔を逸らしてしまう。

 

「では、サクラを説得するのはやめましょうか」

「え? 説得出来んの!?」

 

 あからさまな釣り針だった。

 サキが思わず食いついてしまえば、途端に「ふふん」と言って、得意げな表情が返ってくる。アキラは堪えきれない期待感をにじませながら、にんまりと笑って「夕食はシチューですよ? 絶対ですよ?」と念押ししてきた。

 と、そこでサキは気付く。

 どうやら先程の期待の眼差しは、食い意地が張っているからではなかったらしい。成る程。これから先、彼女のご機嫌とりをする方法をひとつ学んだという訳だ。割と我儘なお嬢様を相手に、これは確かな朗報だった。

 サキがシチューを約束すれば、アキラは良しと言って頷いて見せた。

 彼女は見てなさいと言って、今までの会話をまるで聞いていなさそうな先行く少女の方へ向き直る。ゆっくりと足を止めたと思えば、すうっと音を立てて息を吸い込むと、両手を顎に添えて、準備万端。

 

「サクラの恥ずかしいはなしー!」

 

 そして、よく通る甲高い大きな声でそう言った。

 先行く少女の足がピタリと止まる。

 

「サクラの胸のサイズはぁー」

 

 少女の足がぐりんと回転し、テッカニンも顔負けな高速移動でとんぼ返りをしてくる。

 鬼気迫っていた少女の顔は、今や悪鬼を宿したかのように歪み、その目は瞳孔が開いていた。

 端的に言って、超怖い。

 彼女はアキラの前までやって来ると、その頬を両手で挟んで、吐息がかかるような距離まで顔を近づけ、凄んで見せた。

 

「アキラ? 何を話すつもりなのかなぁ?」

「落ち着きなさい。貧乳」

 

 サクラのドスの利いた低い声に対し、アキラは慣れていると言わんばかりに毅然とした態度だった。パンと音を立てて、自らの頬を挟む手を払ったかと思えば、真正面から睨み返して、更に罵倒している。

 明らかに火に油を注いでいた。

 もうそれはそれは見事な煽り方だった。

 今にサクラが激昂して、とんでもない事になるのでは……と、サキは顔を引きつらせて後退る。そんな様子を知ったこっちゃないアキラは、尚もふてぶてしい態度でサクラを睨みつけていた。

 そして――

 

「今更どうあがいたところで、貴女の胸は一ミリたりと育ちやしないでしょう。しかしそれは貴女の不摂生も理由のひとつに挙げられるのは承知の上でしょうか。先ず、運動は適度に。食事と睡眠も豊かに。それが鉄則の筈です。なのに今の貴女はアスリートのように身体を虐め、恋煩いで痩せっぽちになる少女のように飲まず食わずをしています。それでは如何に育つ見込みの無い身体とはいえ、養護する建前すらどの面下げてと言われてしまうでしょう。大体、貴女はそうやって怒ってみせますが、そのどう見てもクレベースの背中宜しくな胸のサイズなんてバラすまでもありません。下着屋に行ってみなさい。測らずとも適したサイズが出てきますよ」

 

 淡々と、つらつらと、饒舌に、ひたすら罵倒を続けるアキラ。

 その言葉はひとつひとつ聞いていけばどれもこれもが腹立たしいだろうに、息もつかせぬ勢いのせいで、サクラを呆然とさせてしまっていた。正しく、圧倒的な毒舌だった。

 言葉を失った彼女の前で、アキラは深い溜め息をひとつ。

 いよいよ時が来たと言わんばかりに、両手を腰に当て、改めてサクラを見上げた。

 

「いい加減、お腹減ったのよ。休ませて下さいな」

 

 そして、実に怒る気を失くすような底抜けのにっこり笑顔を浮かべて見せたのだ。

 

「え、えぇぇ……」

 

 これにはさしものサクラとて、困惑した様子だった。

 いや、この期に及んでも、サクラはとても嫌そうな顔をしていた。

 ここまでくると、イトマル嫌いも相当だ。そんなにも嫌なものだろうか。

 と、サキですら呆れてしまう。

 やれやれ。仕方ない。と言った様子で、アキラは首を横に振る。

 

「寝る時はプクリンを貸して差し上げます。あの子の歌うなら朝までぐっすり。夜の警護も任せておきなさい。貴女のことですから、一度寝てしまえば、もうイトマルに怯える必要はなくなるでしょう」

 

 そう言って、モンスターボールを展開する。

 これまでの経緯を聞いていたのか、プクリンは胸を張るようにして、ぽんと丸いお腹を叩いて見せた。

 成る程。確かにプクリンは歌うの代名詞とも言えるプリンの進化系だ。『歌う』そのものはチラチーノも使う事が出来るが、その効果には絶対的な差があるだろう。

 

「ヨシノを発つ前に言ったわよね。助けを求めなさいって」

「うっ……」

 

 追い詰められたかのように怯むサクラ。その様子は、何やら敗北を悟ったようにも見えた。

 まあ、彼女のイトマル嫌いが相当なのは確かだが、半分くらい意地になっていた面もあるようだ。ヨシノではアキラの心配を受け取っているようにも見えたが、実際に助けてとは中々言い辛い。

 幼い頃から実の両親と離れ離れのサクラだ。血の繋がらない他人に助けられて生きてきた分、頼る事が下手くそになってしまったのだろう。彼女を上手く助けてやれるアキラが居て良かったと、そう思う。知り合って間もないサキでは、そこまで察する事は困難だ。

 しかしながら、その助けを求めさせる為の手段を目の当たりにすると、サクラが不憫でならなかった。望んで胸の無い者として生まれた訳ではないだろう。悪い事をして萎んだ訳でもない。だと言うのに、やけに気にしているらしい彼女も、自分もまな板である事実を棚上げにして弄り倒しているアキラにも、色々と突っ込んでやりたい事はあったのだが……いやはや、それら全て兎も角として、男子の自分が同行しているという事実を果たして忘れ去られているような、はたまた自分が異性であるという事を度外視されているような、そんな気がしてならなかった。

 なにより、アキラのそれは説得ではない。

 サキはそう思った。

 

 暫くして、三人は街道を少し逸れたところにちょっとした広場を見付けた。もう日も暮れてしまっているので、テントの設営は諦め、焚き火と寝袋だけを広げることになった。サキが早々に料理の支度をはじめれば、アキラはその手伝いを申し出たが、どうやら断られてしまったらしい。濡れタオルと着替えを持って、ウィルと一緒に席を外して行った。

 街道を外れて森に近付いてしまったが、焚き火の傍で膝を抱くサクラのすぐ隣には、レオンとルーシーがついている。アキラのプクリンも哨戒に当たってくれているので、野生ポケモンが襲撃してくる事はないだろう。決して確実とは言えないが、サクラの手持ちですらここら一帯のポケモンよりずっと鍛えられている。警戒心の強い野生ポケモン達が力量を見誤って襲ってくる事は、そう無い筈だ。

 時刻は二〇時を少し過ぎたところ。

 焚き火の上に仕掛けられた鍋から、ゆらゆらと湯気が立ち昇る。今はもう煮込みの行程らしく、じゃがいもとホワイトソースの優しい香りが辺りに漂っていた。それが鼻腔を擽ると、不意にサクラの腹の虫がぐうと音を立てる。

 未だ意地を張っているせいで謝罪ひとつ出来ていないというのに、なんて傲慢な奴だろうか。

 そんな自責の念に駆られて、思わず抱いた膝に顔を伏せた。耳まで真っ赤になっていると分かる程、恥ずかしくてかなわない。

 

「もうヤダァ……」

「はは。もうちょい待ってな」

 

 サキの優しい声がした後、隣に座っていたルーシーがこてんと頭を預けてくる。レオンも勝手気ままに人の身体をよじ登ったかと思えば、ぺしぺしと頭を叩いてきて、励ましてくれているようだった。

 アドレナリンが切れてしまえば、先程までの威勢の良さは何処へやら。

 身体も廃棄処分寸前のブリキみたいにギシギシいっていて、微塵の気力も湧いてこない。身体を拭きに行ったアキラが気を利かして誘ってくれても、首を横に振って返す事しか出来なかった。

 身体はとっくに疲労困憊。限界を迎えていたらしい。なのに、自分を止めてくれたアキラにすら意地を張ったまま。拗ねるばかりで、サキの料理だって手伝おうとすらしなかった。

 そんなサクラの本心を見透かしているかのように、二人にも、ポケモン達にも、優しい気遣いをされてしまっている。それが堪らなく不甲斐ない。いっそ先程のアキラのように、ぼろっかすに言ってくれれば良いのに。と、そんな事を思ってしまう。

 アキラが戻ってきたら謝ろう。

 そう思いながら、シチューを温める音に耳を委ねて、目を瞑った。

 

「まあ、美味しそう」

 

 間もなくして、ふと、そんな声を聞く。

 薄っすらと目を開けば、視界が滲んだ。目を瞑ったのはほんの一瞬だと思っていたが、やけに思考が鈍い。どうやら少し寝落ちていたようだと、そう感じる。

 くぐもった声を上げて、頭を上げてみれば……重力の方向が可笑しい。

 気が付けば、いつの間にか寝袋の上で横になっていたようだ。

 ぼやけた視界の中央で、橙色の炎がゆらりゆらりと揺れる。それ以外は墨汁でもぶちまけたかのように黒く染まっていて、決して鮮明ではない炎ばかりが、世界の全てに感じた。

 ふと、背筋をなぞられたような感覚がした。

 

『初めまして。サクラ』

 

 冷やかな女性の声がする。

 解像度の低い炎の向こう側から、能面の仮面がゆらりゆらりと揺れて、こちらへ近付いてくる。

 嫌な予感がした。

 いいや、それは既に記憶だ。

 そう思い出すや否や、首を掴まれ、地に足がつかなくなった瞬間を見てしまう。身体はその感覚を味わっていないのに、記憶がそれを今尚味わっていると錯覚させる。途端に目で見ていた筈の景色は掻き消えて、あの時助けを懇願さえした能面の仮面を強く思い出す。

 まるで雷が落ちたような衝撃。

 真白に視界が染まったかと思えば、今度は一転して何か白い物体を見下ろしている光景を見た。

 抱き上げた手が、ぬるりと嫌な感触を覚え、それを改めたサクラの目に、大切な家族の命の赤がべっとりとついていた。まるで糸の切れた人形のようにぐったりとしたその姿は――

 

「サクラ、サクラ!!」

 

 そこで、呼吸が詰まる程強く抱き締められて、ハッとする。

 何が何だか分からず、いつの間にか振り上げていた手で、放せ、放せともがく。

 強い力で押さえつけられている事が、身体中を撫でまわす感触が、堪らなく不快だった。

 

「チィ! チィノ!」

「ルー! ルー!!」

 

 しかし、ふと愛しい声を聞けば、不快感だけがスッと抜けて、身体中に感じる感触が一体誰のものなのかを唐突に理解する。息を吹き返すようにドッと溢れてくる情報量が、まるで猫騙しでも食らったかのような感覚にさせる。

 今見ていたのは……夢、だった。

 

「サクラ。サクラ? 分かりますか?」

 

 何処か必死な風の声を聞いて、目をパチパチと瞬かせた。

 ドクンドクンと強く脈打つ心臓は経験が無い程の早鐘を打っていた。何時の間にかいたのか滝のような汗が服を貼りつかせていて、それが冷えて、凍えるような寒気を感じる。

 荒れた呼吸を整えながら、周囲を改める。

 サクラの身体を抱くのは、アキラだ。泣きそうな顔で、こちらの様子を窺っている。傍らにはレオンとルーシーも居て、ふたり共すがりつくように寄り添ってくれていた。

 場所は、30番道路。

 心配そうにこちらを見ながら、鍋の番を続けているサキの様子も、辺りの景色も、つい先程の記憶と何ら変わりない。と、そこで、今しがた見ていた『嫌な記憶』を、どういう訳か思い出せない。ワカバ大火の出来事を思い出していたのは覚えているが、精細な風景が出て来なかった。

 しかしながら、うなされていた事だけは確かなようだ。

 サクラは少しばかり身体を離したアキラの肩に手を置き、ポンポンと叩く。大丈夫だと言葉なく伝えて、もう少しだけ距離を取ってもらう。

 身体を動かして初めて気付く凄まじい倦怠感と、僅かな頭痛。

 ヨシノシティではうなされた覚えなどなかったのに、何でだろうか。

 

「サクラ。本当に大丈夫ですか?」

 

 思わず頭を押さえてしまえば、再びアキラに心配そうな顔をさせてしまう。

 いいや、もう取り返しのつかない程に、心配をかけてしまっているようだ。

 頭痛を堪えながら、浅く二度頷く。

 

「大丈夫。お水あるかな?」

「すぐ用意する。ちょっと待ってろ」

 

 サキの声が返ってくる。

 うなされている間に悲鳴でもあげたのだろうか。喉が裂けたかのように痛んだ。

 その痛みに堪らない不快感を覚え、悪夢にうなされる不甲斐なさ、不条理さに、強い苛立ちを感じる。故郷を失くして尚、こんな目にあわなくちゃいけない事を、呪ってやりたい気分だった。

 程なくして、サキからアキラを経由して、お水を渡された。水筒に入れていたらしく、ひんやりとした喉ごしが、身体中の熱を奪い去ってくれるようだった。一口、二口、と喉を鳴らして、やがてふうと息をつけば、先程よりずっと視界が開けて見えた。

 ああ、何だかドッと疲れた気分だ。

 サクラはそう思った。

 

「ごめんね。そんな気にしてるつもりじゃなかったんだけど」

 

 助けを求めろと言われ、怒られて、それでこれかと自嘲する。

 頭の中で様々な感情が巡っている今、あまり考えると混乱してしまいそうだと自覚はあるものの、不条理に対する怒りと、全然吹っ切れていない不甲斐なさばかりは全く拭えない。

 

「いいえ。泣きたい時は、泣いても良いのですよ。わたくしもサキも、貴女の事を決して笑いません」

「ああ、約束する」

 

 アキラとサキの言葉に、まるで『そうだぞ』と言わんばかりに、レオンとルーシーの声が続いた。

 しかし、それこそ大泣きしてすっきりしたい気分ではあるのに、涙ばかりはちっとも出る気配が無い。難なら、ワカバ大火のあの日、サクラに癒えないトラウマを植え付けてくれたらしいあの能面の仮面の女に、胸倉掴んで詰め寄ってやりたいような気分だった。

 どうかしている。

 そんな血気盛んに育った覚えは無いし、暴力で解決する事は愚の骨頂だとウツギ博士に強く躾けられてきただろう。

 一度コップを置いて、両手で顔を覆う。

 今、本当にすべき事、考えるべき事はなんだ。

 心配をかけた仲間に今一度事情をしっかり伝えて、これからの方針を考える方がずっと有益じゃないか。あの能面の仮面の女が再びサクラの命を狙ってこないとは限らない。いざという時に慌てなくて済むよう、詳しい話を二人と共有する事がよっぽど大事じゃないか。

 サクラは両手で前髪を掻き上げると、一度天を仰いでふうと息をつく。

 

「あのね。ワカバで襲ってきた人の事を、見てたみたい。凄く、本当に凄く強くて、怖かったの。シルバーさんのバンギラスがあっという間に倒されちゃって、わたしは何も出来ないまま。気が付いたらレオンがいっぱい血を流して、ぐったりしてて。本当に、本当に……怖かった。多分、トラウマになっちゃうくらい」

 

 そう言って、改めて二人へ向き直る。

 サキもアキラも、サクラの事を真っ直ぐ見詰め返してくれていた。

 その顔は沈痛の面持ちという他ないが、決して同情心ばかりでないとも分かる。だから、もう二人の前で弱音を吐く事に、躊躇いは無かった。

 

「でも、本当にわたしが怖いのは、多分『怖いこと』なの。それこそ、イトマルが怖いとか、お化けが怖いとか……そういうなのが、全部、あの日のトラウマに見えちゃって。アキラ、さっきはごめんね。サキも、レオンとルーちゃんも、無理に引っ張っちゃってごめんなさい」

 

 ぺこりと頭を下げる。

 すると、正面に座っているアキラが、溜め息をひとつ。

 

「ねえ、サクラ」

「うん?」

 

 先程着替えたらしいパーカーが大きめだからだろうか。

 慈悲深くも見える顔付きながら、見た目相応な恰好をした彼女から、母性的なものは感じない。等身大の友達が、そこにいた。

 

「お腹空いたから、食べながらじゃダメかしら?」

 

 いいや、そもそも母性もへったくれも無かった。

 見計らったように彼女の腹がぐうと音を鳴らせば、まるで時が止まったかのように、辺りがしんと静まってしまう。

 やがて、視界の奥で膝に頬杖を突いて座っていたサキがズッコケているのが見えた。そこでハッとしたサクラも、思わず「え、今から?」と返してしまう。

 とすれば、彼女は途端に耳まで真っ赤に染めて、「だって!」と言っていきり立つ。

 

「わたし、シチュー好きなんだもの! やっと食べれると思ったらサクラは寝てるし、かと思ったら暴れ出すし、この調子じゃ何時までも食べらんないじゃない。お腹減ったの!」

「おいおい。言葉遣いどうしたよ」

「うるさい!」

 

 字面こそ標準語だが、立派なコガネ弁の抑揚で喚くアキラ。

 そういえば、彼女の何だか可笑しいお嬢様口調は、ヨシノの学校で方言をからかわれて身に付いた言葉遣いだったりする。普段からジョウト訛り自体は感じるものの、こうして露骨に出すのは珍しい。もしかすると、サクラを慮ってくれているのかもしれない。『気にしないで良い』なんて言葉は、口で言うより、態度で伝えてくれた方が、よっぽど気が楽なのは確かだ。

 

「つかさ、意外って言えば、寝間着はお嬢様してねえのな」

「はあ? それはそうでしょう。エプロンドレスで寝る馬鹿が何処にいるのよ」

「でも、アキラって自宅じゃネグリジェだよね」

「だから! 何で外で寝るのにネグリジェなのよ!」

 

 話が横道へ逸れると、途端に雰囲気が明るくなる。

 その後もアキラの髪のまとめ方がお嬢様っぽいだの、パーカーとハーフパンツを合わせるあたりあざといだの、だったら一日の汗を拭きもしないサクラの女子力はどうなのかとアキラの説教が始まり、実はサキもそう思っていたという裏切りにあったり。

 暫くして、三人と各々のポケモン達が、シチューの入った皿を手に焚き火を囲う頃には、和気あいあいとした雰囲気になっていた。しかしながら、話題は話すべき事を、きちんと話し合えていた。

 

「そういえば、どうしてルギアはサクラの手にあるままなのでしょうか?」

「あ、うん。わたしもシルバーさんに聞いたんだけど、理由は後回しにされちゃって」

 

 とくれば、二人の視線はシルバーの息子であるサキへと向く。

 気の利く彼は、それを事前に疑問視して、帰宅したシルバーに聞いていたらしい。

 和やかな雰囲気が促すまま、彼は父親の様子を真似るように、そこに無い眼鏡をくいと押し上げるような仕草をして見せた。

 

「サクラは既に『あれ』の声を聞いている。意思疎通が可能で、サクラに服従している以上、無理に引き離した際のリスクの方がずっと明確で大きなものだ。現在がただの小康状態で、再び暴走する可能性はゼロではないが、既に覚醒してしまっている以上、そのリスクは何処にいても同じ。だったら、今回の騒動の標的の一人だった可能性があるサクラの切り札として残した方が、リスクに見合う価値もある。まあ、これはルギアの覚醒を知る極少数の人間の勝手な意見だから、簡単に使われても困るが……サクラに限っては大丈夫だろう」

 

 声変わり前の少年のそれでは、決して似ている声だとは言えないものの、流石親子。癖と特徴をしかと捉えた物真似は、下手な芸人のそれよりよっぽど似ていた。

 おまけに、何やら煙草を吸うような仕草を見せたかと思うと……いいや、持ち方が変わったかと思えば、途端に齧り進めていくような様子をして見せる。はじめは何をしているのかと怪訝に思ったが、それが昔、テレビでシルバーが出演していたコマーシャルの物真似だと分かったら、サクラは堪えきれなくて汚らしく噴き出した。

 

「ちょ、ちょっと、ダメだってそれは」

「やめなさい。やめなさい。フレーズが聞こえてくるから、やめて」

 

 思わず皿を取りこぼしそうになりながら、更にこみ上げてくる笑いの衝動を堪える。

 なんだってそんな昔のネタを。『特徴的なフレーズに合わせて、シルバーがひたすら真顔で棒状のおやつを食べる』なんて、どうしてパントマイムで分かってしまうのか。いいや、顔が似ているのだ。そりゃあ当然だ。

 

「そういや、あれ、ジャガイモのお菓子だよな。芋繋がりだ」

「やめなさいってば。ほんと、もう……あはは」

「ふふ、シルバーさんに知れたら、絶対、怒られるんだから」

「いや、親父、あれで割とノリ良いから、『違う。こうだ!』とか言ってやりだすぞ」

「もうやめてってば」

 

 クールで格好いいシルバーのイメージが音を立てて崩れていくようだった。

 当時のそのコマーシャルだって、クールなイケメンが敢えてやっているからこそ、記憶から離れない根強いインパクトがあったのに。

 

「サクラ、ほ、本当にシルバー様って、そんな剽軽(ひょうきん)な方なのですか?」

「違うよ。わたしの前じゃ、かっこよかったのに」

「引っ越しなら、ゴーリキー運送。パワーが自慢です!」

「ぶふっ」

「ちょっと! もう!!」

 

 調子に乗ったサキが、また別のコマーシャルの物真似を披露していた。

 何が可笑しいって、声が似ていないのに、顔も仕草も完璧にちっちゃいシルバーなのだ。そのギャップがこれまた面白くて、サクラとアキラは食事が手に付かない程笑い転げた。

 もう、話が進まないじゃない!

 と、アキラが笑いながら文句を言えば、ようやっとサキの顔真似が解けた。本当に、下手なメタモンよりよっぽど似ている『変身』だ。

 ふうと息をついて、サキは再度口火を切った。

 

「えっと、あと親父から聞いたのは……ああ、そう。サクラの両親と連絡はとれないのかって聞いた。まあ、とれるならサクラにいの一番に教えてる訳だから、答えは言わずもがなだけど。ワカバ大火の原因についても、親父は濁してた。ただ、俺の知ってるヒビキさんは、ウツギ博士やサクラを傷付けるのは勿論、故郷に火を放つ人でもねえ。それは親父もそう思ってると思う」

 

 サキの話し方は、決してサクラへの配慮を欠いていなかったが、それだけではない確信めいたものを思わせた。

 なら、どうして。

 と、そう感じる点はあったが、笑い過ぎたせいで呼吸が整わない。

 それを見越したように、アキラが「では」と、先に質問する。

 

「シルバー様が断言出来ない理由は何でしょう?」

 

 その問いかけは、サクラが抱いた疑問と全く同じだった。

 サキは少しだけ考える仕草を見せた後、意を決したように回答する。

 

「あくまでも予想だけど……やっぱり、あの規模の火事はホウオウが噛んでると見るのが普通だ。サクラやウツギ博士の命が狙われた事も考慮すれば、どちらかが人質にとられていた可能性は否めないよな」

 

 例えサクラの父が望まなくても、サクラや父の恩人であるウツギ博士が人質にとられていては、彼にその選択を取らせかねないという訳だ。事実、サクラとウツギ博士は命の危機に瀕していたし、刺客とも対面した。

 トージョーの滝で見つかったという生存者たちが、不自然な程揃って事件の記憶がない事も、火災を合わせて考慮すれば、やはりホウオウの神通力という方が、自然と言えるだろう。

 それでもサクラは父の潔白を信じたいが……。

 と、自然と顔を伏せてしまえば、隣に座っていたアキラが背を撫でてくれた。

 

「まあ、事実は小説より奇なりと言いますし。言い換えれば、ヒビキ様が関与したという証拠も無い訳です。ヒビキ様に罪をなすりつける為、サクラを襲った仮面の女達が、あの手この手で偽装工作したとも考えられますね」

「だな。唯一、確かな事は、その女が敵だって事だ」

 

 二人の言葉に、サクラはこくりと頷いた。

 親身な励ましの言葉が、温かい。

 その温もりが、今尚眠り続けているだろう大切な人の教えを、思い出させてくれた。

 

「事実はひとつ。真実は人の数だけ」

 

 サクラがそう溢せば、アキラが小首を傾げた。

 

「哲学ですか?」

「ううん。ウツギ博士が言ってたの。事実は実際に起こった事だけど、真実はそうじゃないって」

 

 真実とは、事実に対する個々人の解釈の事。

 だから、誰かの勝手な解釈を事実だと受け取る必要は無い。如何にメディアがまことしやかにサクラの父を犯人にしたてあげたとしても、それはあくまでも真実のひとつに過ぎず、事実ではないのだ。

 サキが「成る程」と、応えた。

 

「事実と真実。確かに、そのふたつをごっちゃにして考えると、結果的に事実を蔑ろにして、物事の善悪ばかりに囚われるからな」

「それ、もっと簡単に出来ません?」

 

 小難しい解釈に、アキラが怪訝な顔をしていた。

 サキは肩を竦めてみせると、「つまり」と言った。

 

「ワカバ大火が必ずしも悪い事だとは限らないって事だ」

 

 その言葉に、話の種を投げたサクラ自身も「え?」と言って返してしまう。

 どうにも思慮深いこの少年は、あくまでも可能性のひとつとした上で、話を続けた。

 

「サクラを襲った仮面の女みたいな襲撃者から、ワカバの人達を逃がす為に、目くらましとして町を燃やした……そんな可能性だって、ある訳さ」

「それは……いくらなんでも」

 

 有り得ない。

 そう言いたげなアキラの肩を、サクラは思わず掴んでしまう。

 怪訝そうに振り向いてくる彼女に、サクラはずっと拭えなかった違和感を打ち明けた。

 

「あの女の人……ワカバの皆を『殺した』って言ってたの。間違いなく、そう言ってた」

 

 そう、あの日、シルバーが皆無事だと言っても、サクラはすぐに信じる事が出来なかった。

 それ程あの仮面の女は凶悪だったし、『殺した』との発言を疑う余地が無い程、容赦がなかった。けれど、事実はワカバの皆が無事だった。

 あの女が嘘を言ってサクラを脅していた可能性もある。

 ルギアの覚醒が狙いだった場合、それは十二分な効力を発揮している。実際、ルギアが目覚めるなり、彼女はあまりにあっさりと退いていった。

 

「まあ、どちらにせよ疑ってばかりじゃ疲れる。どうせならいくらなんでも有り得ないような事を、信じていようぜ」

 

 サキはそう言って、笑って見せた。

 彼の言葉は、確かにサクラが期待している真実だ。

 例え事実が残酷なものであったとしても、何も端から父親を疑う必要はない。もしも本当に残酷な事実が待っていたとして、いざ直面した時、サクラが挫けてしまうとしても……いいや、違う。

 その時こそ――

 

「もしも」

 

 そう言ってサクラは面を上げた。

 二人は、まるでサクラの言おうとしている言葉が分かっているかのように、優し気な顔をしていた。

 

「もしもわたしが挫けた時は……助けてくれる?」

 

 今尚、『助けて』とは言えない。

 けれど、こんな言い方でも二人は汲んでくれたらしい。

 

「当然だろ」

「勿論よ」

 

 即答で返ってきた言葉が、これ程安心出来るとは。

 アキラと親友で良かった。

 サキと出会えて良かった。

 そんな素直な気持ちが、たった一言の言葉で、サクラの口を突いて出た。

 

「ありがとう」




第二章、前編はここまで。後編はまだ書きあがってません。
バトルが無いのはどうしようもなかった。せめて後編には入れたいと思う。
因みに、シルバーが出ていたCMはじゃがりこでしょう。そんなものに出演しないと思うけど、協会の会長として已む無くだったんだと思います。

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