天海 Remake   作:ちゃちゃ2580

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Section1

 春のそよ風が草木を撫でる。

 爽やかな若葉の香りは、いつもいつでも変わらないまま。今日も今日とて、変わらぬ朝が来たと、ワカバタウンへ緑の香りを運んでくる。空も晴れ渡り、小鳥のさえずりがなんとも心地よい朝だ。

 一人、また一人と、家から出てくれば、そこは田舎町。町人全員が顔見知りであり、気さくな朝の挨拶が飛び交う。

 とはいえ、ワカバの人口はここ二〇年でぐっと増えた。相手の名前を知らずに挨拶を交わす者も多い。

 かつて、この村から誕生した伝説のトレーナー。その存在が、この町を少しだけ発展させた。伝説にあやかりたいトレーナー家系の者が十数家移住してくれば、彼等の為にポケモンセンターが建設された。最近ではフレンドリィショップの建設も予定されているとか、何とか。しかしながら、ワカバのあまりの田舎っぷりに、移住を取りやめた者も多く、その多くは隣のヨシノシティに移住している。代わり映えしたと言えば、やはりそちらの方が大きいだろうか。発展したと言っても、ワカバタウンは田舎のまま。昔ながらの風習が先立っている風景が、実にそう思わせる。

 相も変わらず背の高い建物はないし、コンクリート製の建物だって、研究所とポケモンセンターくらい。

 子供をポケモントレーナーにしてやりたいと言ってやって来た者達も、その多くは親子揃って田畑を耕している。確かに、何人かの子供はトレーナーになったそうだが、彼等の功績を称えた祝いが開かれた例もない。

 では、由緒ある伝説の一家はどうなのかと言えば……。

 

『ポルッポー。ポルッポー』

 

 響くポッポの鳴き声。

 若く、凛々しく、張りがあり、それでいて朝の清涼感をこれっぽっちも濁さない透き通った声。しかし、その音量だけはそこそこに大きく、朝の静けさをぶち壊すには十二分だった。

 何も本物のポッポが騒いでいる訳ではない。

 ベッドの傍らに設置されたサイドテーブルの上、ポッポのイラストが描かれた丸い置時計が、その犯人だ。つまるところ、ボタンを押さない限りは延々と鳴き続ける。もとい、鳴り続ける。

 短い針は八、長い針は六を差す。

 これを設定した筈の主人は、しかし未だ夢の中。

 就寝当時は頭の下にあっただろう枕を抱き枕にして、沢山のプリンがプリントされたパジャマも乱れに乱れ。傍らでポッポが鳴いているにも限らず、微塵も乱された様子なく眠るのは、果たしてどういう了見か。掛け布団も床に落っこちてしまっているので、少しでも微睡みを抜けていれば、肌寒いと感じるだろうに。

 

『ポルッポー。ポルッポー』

 

 それでも少女は起きない。

 肩まで伸びた栗色の髪があらぬ方向へ向いていようと、綺麗に整えられた眉はピクリとも動かない。小さな唇から零れた唾液が白い枕に染みを作っていても、その瞼は開かない。ポッポが延々と鳴いていようと、白い素肌が特徴的な身体は、呼吸以外の動作をしない。

 その少女、筋金入りの寝坊助だった。

 しかし、暫くして、ベッドの下から苦し気な声があがる。

 瞬く間に困惑するような声色へ変わったかと思えば、少女が蹴落としたらしい掛け布団が、もぞもぞと動く。右へ、左へ、やっぱり右へ。くぐもった声が鮮明になれば、中から「ぷはぁ」という感じで、白いポケモンが顔を出した。

 全長の三分の一はあろうかという大きな耳と、全長よりも長く伸びた四本の尾が特徴的なポケモンだった。

 寝起き良好、しかし寝覚めは最悪。

 就寝用の籠に布団が振ってきた所為か、白と灰色の毛並みは乱れてしまっている。それが鏡要らずで分かるのか、そのポケモンは現状確認をそこそこに、「チィ……」と不機嫌そうな溜め息を一つ。取り急ぎ一番長い尾を首元にスカーフのようにして巻き、籠からベッドへと飛び上がった。

 未だ煩く鳴っている置時計の元へ、横向きで壁になっている寝坊助を飛び越し、向かう。

 時計のボタンを憎々し気にバチンと叩いて止めれば、そのポケモン、チラチーノは、目の前で未だ深い夢の中にいるであろう主人を見て、とても深い溜め息をついた。

 掛け布団の下敷きになっていた自分でも煩くて起きたというのに、どうして彼女は未だ眠りこけているのか。そんな疑問が零れ出そうな表情を浮かべて、しかし「ふふふっ」なんて、幸せな夢からくるだろう呑気な笑い声が聞こえてくれば、呆れも程々、妙な怒りがこみ上げてくる。

 夜中に掛け布団を蹴落としてくるわ。

 自分で仕掛けた目覚まし時計でびくともしないわ。

 彼の怒りも当然だろう。

 すっと小さな右手を構えて、彼はサイドテーブルから少女の顔面へ跳んだ。

 

――バチーン!

「いったぁぁーい!!」

 

 洗練された目覚ましビンタ。

 その一撃はとても良い音を奏で、寝坊助少女を微睡みから覚醒へと一気に持っていく。

 通りすがったチラチーノは、勢い良く飛び起きる少女を後目に、ぷいと顔を反らしてご立腹だった。

 突如叩き起こされた少女は、青い目を宿す双眸をパチパチ。ヒリヒリとする右の頬っぺたをさすって、間抜けにも口をぽかんと開けたまま小さく俯いて「いったぁー……」と、暫し悶絶。

 

「チィ! チーノ!」

 

 そこへ容赦のない怒声が飛んできた。

 痛みに悶えているだけで、すでに覚醒しきっている少女は、涙目で声の主を探す。するとベッドから数歩離れた所で、自分の後ろを指して、丸い目を鋭くしているチラチーノの姿。

 ちらと振り返れば、既に止められている目覚まし時計。視線を戻せば、ベッドの下でぐしゃぐしゃになった掛け布団も見せつけられた。

 ああ、成る程。

 手加減抜きの目覚ましビンタの理由を察して、少女は頬をさすっていた手を止める。ぷんすか怒っている相棒に、「ごめんね?」と、苦笑いをしながら軽く詫びた。

 するとチラチーノは小さく溜め息。

 つぶらな所為でそうは見えないが、ジトーという言葉が似合いそうな雰囲気で、少女を睨んできた。

 

「ごめんねってば。レオン」

 

 もう痛みも無いのか、苦笑を浮かべながら少女はベッドを抜ける。

 そのまま小さな相棒を抱き留めて、「おはよー」なんて言いながら、柔らかな毛に顔を埋めた。

 こうなってはチラチーノ、もといレオンとしては、起き抜けのそれより一大事だ。自慢の綺麗な体毛を更に乱されては敵わないと、小さな手で少女の顔をがしっとホールド。「チィ」と小さく鳴いて、その顔を寝床の方へ強引に向ける。自由な尻尾で時計を指す事も忘れない。

 カッチ、コッチ。

 今や小さな音を立てるだけになった置時計は、八時四〇分を示していた。

 

「あ、やば……」

 

 少女、サクラはレオンをぽいと放り投げた。

 くるくるくる、シュタッ!

 と、レオンは見事な着地を決める。

 その間に、サクラはパジャマの上着を素早く脱ぎ捨てていた。ぽいと放り投げれば、溜め息交じりに跳んだレオンが空中でナイスキャッチ。ズボンも同じようにして掴み取れば、レオンはもう一度ジャンプして、部屋の扉を開ける。

 

「ごめん! 洗濯機に入れといて。帰ったら回すから」

「チィーノ」

 

 言われなくても分かってるって。

 そんな雰囲気の声が返ってくれば、サクラは既に白いニットから頭を出そうかというところ。素早くぷはっと顔を出せば、袖に手を通すだけで、裾は何もつっかえる事なく自然と降りた。箪笥の引き出しを変え、迷う事なく黒い長ズボンをチョイス。こちらは身長が高い所為か、ゆったりとしたものなのに、ややつっかえながら穿く。最後に靴下を履いて、姿見の前へ。

 前後を軽くチェックして、「よし」と頷いた。

 

「いっそげ。いっそげー」

 

 なんて零しながら、自室を出る。

 自室が二階にある為、そのまま階段を駆け下りて、そこで洗濯機のある洗面所から戻ってきたレオンと再会した。

 

「ごめん。ルーちゃん起こしてくれる?」

「チィ」

 

 了解したレオンは、リビングと直接繋がっている玄関へ。

 戸の横にある窓から射し込む日差しが、丁度良くあたる位置。そこに大きな鉢植えの入れ物があり、緑色の塊が入っていた。サクラがバタバタと音を立てて降りて来た所為か、ほんの僅かに身動ぎをしているようにも見える。

 レオンは鉢植えに飛び乗ると、緑色の塊を優しく叩く。

 サクラを起こした時とは、比べ物にならない程優しい目覚ましビンタだった。

 

「チィ、チーノ」

「ルー……?」

 

 鉢植えの中から、ゆっくりとした動作で緑色の塊が花開く。

 両手に当たる葉っぱを大きく伸ばしてみれば、頭部の小さな王冠のような花が揺れる。背伸びのような震えが収まれば、緋色がかった瞳がぱっちりと開いた。

 イッシュ地方で一際美しいと評されるチラチーノに、負けず劣らず評される草タイプのポケモン。ドレディアだ。『ルー』は愛称で、名前はルーシーと名付けられている。

 と、鉢植えがレオンの重みでぐらりと傾く。

 ハッとしたレオンは機敏な動作で飛び退いたが、鉢植えの中に居たルーシーは『あわわ』と両手の葉っぱを振るばかり。そのまま成す術なく、「ルッ!!」と声を上げて、鉢植えと一緒に転んでしまった。

 中に土が入ってないのが幸いではあれ、彼女にとっては最悪の目覚めである。

 転んだままの体勢で、ルーシーは無事に着地したレオンを睨む。

 

「ルゥー……」

「チ、チィ……」

 

 低い鳴き声に気圧されて、レオンは明後日の方向へ視線を逸らした。

 と、そこへ短い足音がやってくる。

 

「ルーちゃん、おはよ……って、どしたの?」

 

 両手にポケモンフードを入れた皿を持ち、現れたサクラが、小首を傾げる。

 とすれば、ルーシーが鉢植えから出て、サクラの傍らに駆け寄ってきた。そのまま半身をサクラで隠して、左手となる葉っぱでレオンと、倒れた鉢植えを交互に指して、「ルー! ルー!」と訴えた。

 彼女が何を言っているかは分からなかったが、この二匹とサクラの付き合いは、三、四年にもなる。声色と動作だけで、ある程度の内容は伝わった。

 サクラはリビングの中央にあるテーブルへ皿を置くと、罰の悪そうな顔で固まっているレオンを振り返り、くすりと笑う。

 

「レオン。ちゃんと謝った?」

「ルー! ルー!」

 

 サクラの足元で、ルーシーが『そうよ。そうよ』という風な声を上げた。

 言われてハッとしたのか、レオンは短く鳴いて、ルーシーの前へ。彼がぺこりと頭を下げれば、彼女はムスッとした風ながらも、こくりこくりと頷いた。

 レオンは意地っ張りっぽさがあるものの、悪い事はきちんと謝れる。ルーシーも本来は温厚で、脅かさない限りはとても穏やかな性格だ。それを知るサクラは、二匹の様子を見るなり良しと頷いて、「はい。仲直り」と、腰を屈めて双方の手を取った。

 

「ふたり共、おはよう。ご飯食べよっか」

「チィ」

「ルー」

 

 サクラが笑えば、先程までの些細な諍いなんて何の事やら。レオンとルーシーも朗らかに笑う。

 サクラが自分の分のパンを用意し、朝食の挨拶を交わせば、食べているものこそ違うのに、浮かぶ表情は一人と二匹、皆同じ。それは普通の家族が、普通に築いてこられるような、当たり前の風景だろう。そこに一風変わった習慣や、決まり事なんて無く。当たり前な絆が、当たり前のようにあるだけ。しかし、ここでサクラが二匹を『ふたり』と呼び、ポケモンフードを『餌』でなく『ご飯』と言うのは、彼女なりの矜持なのだろうか。はたまた、意識さえしていない当たり前な事なのだろうか。

 ポケモンは大事なパートナーだ。

 そんな月並みな教えは、幼児向けの本にだって書いてある。しかし、徹底して己の行動を気を付けたとしても、極々自然なものとして振る舞うのは、何とも難しい事。

 伝説のトレーナーの一人娘は、立派にトレーナーをやっていた。

 

 食事が終われば、レオン、ルーシーの順で、自ずからモンスターボールへと入っていく。

 最後のパンを飲み込んだサクラは、二匹が入ったボールに一言礼を述べると、それを手に近場のソファーへと向かう。雑に置かれた大きなバッグの上から、専用のベルトを取り上げると、ニットの上から腰に巻いた。二匹のボールを取り付ければ、どこからどう見てもポケモントレーナーだ。

 

「今日はお使いを頼みたいって言ってたっけ……」

 

 バッグのべろを捲りながら、独り言をぼやく。

 紐で纏められた手の平大のメモ用紙を取り出すと、それはソファーの脇に。辞書のような太さをした本も、用紙の上に置いた。『フィールドワークの心得』とあるあたり、今日の要件には不要な荷物と判断したのだろう。下敷きになったメモ用紙も、昨日のオタチやコラッタの確認数等が書かれたものだった。

 財布。トレーナーカード。PSS。お薬。非常食。念の為の着替え。

 指で一つ一つ確認を取りながら、忘れ物が無いかをチェック。全てが確認出来て、サクラはうんと頷いた。

 ちらりと時計を見れば、時刻は九時を過ぎようかというところ。

 

「やば、急がないと!」

 

 そう言って、鞄を肩に掛ける。

 そして彼女は、『急ぐ』と言ったにも拘らず、玄関に背を向ける。そこから数歩歩いて、ソファーの横にある腰の高さの棚の前へ。

 色んな冊子が収められたガラス扉の本棚だった。

 しかし、サクラの用事はそちらにはない。

 棚の上、小綺麗なクロスを下敷きにして、一つのフォトスタンドと、小さな鈴があった。

 写真には、二匹のポケモンと、三人の親子が映る。

 男にしては少しばかり長めの黒髪を短く縛り、優し気な笑顔を浮かべている男性。腰まである栗色の髪を靡かせながら、小さくピースサインをしている女性。その間で、女性の片手に抱かれた栗色の髪をした小さな女の子。その後ろには、大胆不敵ににやりと笑うバクフーンと、一家を微笑まし気な笑顔で見守るメガニウム。

 言うまでもないかもしれないが、ヒビキとコトネ、サクラの家族写真だ。後ろに立つ二匹は、二人が最も信頼を寄せた相棒だったらしい。

 両親は偉大な人だったと、多くの人から聞かされてきた。

 子供を置いてどっかに行っちゃって、何が偉大なのかと反発した事もあったが、微かな記憶に残る両親は、確かに自分を愛してくれていた。残していったアルバムにも、四歳の頃に別れたとは思えない程、幸せそうな家族の写真が沢山あった。

 フォトスタンドに飾られた写真は、サクラの三歳の誕生日に撮られた写真らしい。背景に写る家の前の桜の木が何とも綺麗で、サクラはこれが特別お気に入りの一枚だった。

 写真を手に取って、優しく微笑みかける。

 

「行ってきます。お父さん、お母さん」

 

 そう告げて、写真を元の位置へ。

 そのまま隣に飾られた鈴を手に取った。

 

「お守り、持って行くね。多分、今日中には帰って来れないと思うから」

 

 そう言って、鈴をバッグの中に。

 それはウツギ博士に渡されたものだが、両親がもしもの時は自分のお守りにするよう預けていたそうだ。

 大変貴重な骨董品らしく、絶対に失くさないようにと言われている。壊さないようにと言われなかったのは、鈴が半透明な色をしているくせに、物凄く硬いからだろう。しかしながら、その鈴は一度も鳴った例がない。形と、ウツギ博士が鈴だと言っていたから、サクラは勝手に鈴だと思っているが、振っても音は出ない。中に音を出す為の玉が入っていない事も、半透明な水色をしている為に、一目で分かる。

 じゃあ何なのかと疑問に思うが、ウツギ博士が教えてくれない以上、調べる事はしなかった。

 両親が残していった大切なもの。

 ただそれだけで、十分だったからだ。

 今度こそ支度は整ったと、サクラは玄関へ向かった。

 白いスニーカーを履いて、扉を開ければ、ふっと射し込んでくる真白の光の何と眩いことか。

 

「んーっ! 良い天気」

 

 背伸びをしながら、清々しい朝に満面の笑みを浮かべる。

 よしと頷いて気を引き締めたら、鍵を掛けて、少しだけ早足で歩き始めた。

 春の陽光に、桃色の花弁が舞う。

 ちらりと視線を横に流せば、自宅の隣で大きな桜の木が、満開になっていた。

 両親がポケモンリーグを制覇した時のお祝いに植えられたんだとか。写真に残っているより、もう少し大きくなっている。

 去年はウツギ博士の一家と共に、あの木で花見を楽しんだ。今年はコガネに住む友人も来ると言っているし、少しばかり賑やかになりそうだ。あとでPSSで連絡をしておこう。もう満開だから、少し時期を早めようって。

 そんな事を考えながら、視線を前に戻す。

 徒歩一分と掛からない場所。間に何も建っていないので、サクラの自宅から『お隣さん』と呼べる場所に、平屋造りの大きな建物があった。

 ワカバでは珍しいコンクリート製の建物。

 ウツギ研究所だ。

 とはいえ築三〇年は経っているそうだし、改築もしていないので、近代的な建物ではあるものの、様相は古ぼけて映る。主人であるウツギ博士が研究以外に対して酷く物臭なので、外壁は本来の色合いをしていない。裏手なんて地面から一メートルは苔が生えている。

 助手のカンザキさんが居た頃は、もう少しマシだったんだけど……。

 清々しい朝をぶち壊しにしてしまう汚らしい装いに、サクラは数年前にワカバを去って行った一人の男を思い浮かべる。

 一見すると厳格そうで。だけど凄く優しい人だった。

 ウツギ博士の専門である『交配』を、未来を紡ぐ事だと言っていて、この世の絶滅危惧種とされるポケモン達の交配を専門的に研究していた。その成果が『メタモン交配』として、世に出回ってから暫く。ウツギ博士からの勧めもあって、拠点をコガネに移し、独立したのだ。とはいえ、彼が掲げた看板は『カンザキ研究所』ではなく、『ウツギ第二研究所』だったりするのだけども。

 昔は良く遊んで貰ったっけ。

 まめな性格で、綺麗好きな人だったので、彼が居た時のウツギ研究所は割と綺麗だった。少なくとも、人々の目に留まりやすい研究所の前面は、綺麗な白壁だった気がする。

 外観がそんな風なら、中も分かりきったもの。

 サクラは二回のノックの後、ウツギ研究所の扉を開けた。

 鍵は掛かっていない。

 田舎で『町人皆知り合い』といったものなので、防犯意識は低い。外出するのに鍵を掛けない家だって珍しくないし、他人の家だろうとノックのついでに客が戸口を開くところまでが普通だったりする。サクラが自宅に鍵を掛けるのは、以前、キキョウシティに住んでいた時期があるからだ。

 

「博士ー。おはようございますー」

 

 勝手知ったるウツギ研究所。

 客が玄関口まで上がるのなら、家族と言える程に親しいサクラは、何の断りもなく土足で入り込むし、勝手に電気も点けてしまう。むわっとした空気を感じたので、玄関横の窓も全開にしておいた。

 返事が無い事に小さく溜め息をついて、やおら振り返る。

 電気を点けたというのに、ウツギ研究所は薄暗い。背の高い可動式の棚が所狭しと並んでいるからだ。これまたカンザキが居た頃は、まだマシだった。ウツギ博士は断捨離さえも面倒臭がる。いや、むしろ棚に入れて整理しているだけでも、随分とまともになったのだ。サクラがキキョウからワカバに帰ってきて、手伝いを申し出た頃、書類は山積み、ファイルは開かれたままその辺に散らばっているのが、当たり前の光景だった。

 見かねて口酸っぱく注意して、漸く棚に整理するようになったのだ。

 まあ、棚を買いすぎだとは思うけれども……。

 

「博士ってばー」

 

 棚と棚が入口から一本道を作っている。

 それを辿れば、ほんのちょっとだけ開けたスペースへ出られた。

 古く大きなメディカルマシンが一台。その隣に卓上ライトが点けっぱなしになっているデスク。すぐ使うからと雑に山積みにされた資料の山を挟んで、サクラにはよく分からない大きな機械。更に隣の本棚の方は、汚いので見るのを止そう。

 サクラと九時に待ち合わせていた筈の男は、デスクに突っ伏して眠っていた。何時から着替えていないのか、白衣は薄汚れているし、伏せた顔の下にはノート、手にはペンを持ったまま。俗に言う、寝落ちの末路だった。

 あまり若くないのに、一度研究に火がつけば、家にも帰らず缶詰になる。自分の身なりや環境なんて二の次で、兎に角頭に浮かんだ事を、ノートに記し続けている人。ウツギ博士とは、そんな人だった。まあ、研究者なんて奇人変人の集いだと言うし、それくらい没頭出来ないと、結果を残せない界隈でもあるのだろう。研究とは早い者勝ちだと、彼自身が良く言っている。

 そんな風に理解しているからこそ、サクラからすればウツギはずっとここに居る人物な訳で。声が返ってこないのに、自宅に帰っている事より、ここで寝落ちしている事を当然と思うのは、仕方ない事なのだろう。

 

「博士。朝ですよー。起きてー」

 

 抑揚の無い声を出しながら、サクラは唯一辿り着けそうな窓を開きに行く。玄関横を除けば、メディカルマシンの横にしか手の届く窓が無い。他は手前に棚があったり、書類が山積みで足の踏み場が無かったり。カンザキ博士が見たら、発狂してしまいそうだ。

 ガラッと音を立てて窓を開けば、まだ少し冷たい風が入ってくる。暖房でむんとしている所内には、刺さるような空気だった。

 それを感じてか、伏せた男が苦悶の声をあげる。

 

「おはようございます」

「ん……ああ、サクラちゃん。おはよぉ」

 

 目を覚ましたらしい男は、大きな欠伸と共に、凝り固まった身体を解すように伸びを一回。

 寝ている間にずれてしまった眼鏡を外して、手の平で顔全体をごしごしと拭く。その最中、我慢出来なかったらしい二度目の欠伸。

 

「まーた夜更かししたんですね?」

 

 聞かずもがなとは知りつつも、サクラは溜め息交じりに問いかける。

 眼鏡を掛け直しながら、ウツギは「ポケモンの色彩遺伝子の突然変異と、地方外交配との関連を、論文に起こしてたら……ふわぁ……」と、饒舌にもゆっくりと答えてくれた。

 難しい言葉が混じっているが、要するに『ゲームをしていたら、セーブポイントが遠くて』という事だと、サクラは思った。ウツギ博士の博士号は、カンザキ博士が『ウツギ第二研究所』を掲げている以上、剥奪される心配がない。もしも仮に博士個人の成果を求められれば、サクラが手伝っているフィールドワークのデータを提出すれば良い。ウツギ博士の研究は、半ば余生を楽しんでいるものだ。サクラの感想はあながち間違っていないだろう。

 

「もう。またおば様に叱られますよ?」

「うっ……朝から虐めないでおくれよ」

 

 虐めるも何も、帰宅すれば叱られるのは、もう目に見えている。

 一体、何日帰ってないのやら。

 サクラは薄汚れた白衣を見やって、『そろそろだろうな』なんて思う。堪忍袋の緒が切れたウツギの妻がやって来て、彼の耳を引きちぎらん勢いで引っ張っていくのは、この研究所に居れば自然と見られる光景の一つだ。

 溜め息一つ。

 まあいいや。なんて心地で、サクラは改まった。

 

「今日って、お使いだよね?」

 

 軽口のように問いかける。

 キキョウで学生寮に入っていた時、年上には敬語を使うよう刷り込まれてしまった所為で、サクラのウツギに対する口調は安定しない。家族に近い存在ではあるものの、礼儀礼節を弁える為、普段は敬語だが、ふとした瞬間に子供時分の調子で話しかけてしまうのだ。

 しかしながら、それも日常の光景。

 ウツギは気にした様子なく、うんと頷いて、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ヨシノシティの先にポケモンじいさんが住んでた家って、覚えてるかい?」

 

 漸く目が覚めてきたのか、はっきりとした口調で問いかけてくる。

 サクラは少しだけ自分の記憶を辿って、「ああ」と、すぐに思い出した。

 

「五年ぐらい前に亡くなった方ですよね」

「そうそう」

 

 凝り固まった腰を回して解しつつ、ウツギはこくりと頷いた。

 ポケモンじいさんはサクラも何度か面識のある老人だった。

 ウツギ博士と親交が深く、研究を助け合う事も多かったそうな。サクラの両親とも面識があったそうで、色違いのギャラドスの鱗を譲って貰ったと、見せてくれた事もあった。しかしながら、高齢故に五年程前に亡くなり、離れて暮らしていた息子さんがその荷物を引き上げていった筈だ。

 元は研究用に建てられた家屋らしく、専用の機材を置く為の間取りをしていれば、所在も30番道路のど真ん中という辺鄙な場所にある。だから、長らく空き家として放置されていて、ヨシノ辺りでは『幽霊屋敷』なんて呼ばれもある。

 芋ずる式に出てきた記憶を口から零していけば、ウツギはうんうんと頷いて、感心した風だった。

 

「やっぱり、サクラちゃんの記憶力は大したものだね」

「そんなそんな。聞いた事をそのまま覚えているだけですって」

 

 サクラはそう言って謙遜をするが、実際、学校の成績でも『覚える分野』は学年でトップだった。その代わりという訳ではないが、『計算』だとか、『応用』だとかはからっきしで、学年でドベだとはっきり言われたが。

 気恥ずかしくなったサクラは、「それより」と、話を戻す。

 

「ポケモンじいさんがどうしたんですか?」

 

 問いかければ、ウツギは「いや、重要なのは本人じゃなくて家だよ」と注釈を入れつつ、デスクの端っこからパソコンのマウスを取り上げる。立ったまま前屈みになって、点けっぱなしだったパソコンを操作し始めた。

 カチ、カチ、という無機質な音が数度。

 暫くして、デスク下に追いやられているプリンターが、大きな駆動音をあげた。

 

「最近、あの家に越して来た人が居てね。僕の友人なんだけど」

「あー……まあ、引っ越しの時期だもんね」

 

 春と言えば、年度の始まりだ。

 引っ越す予定があれば、それに合わせる家庭は多いだろう。

 サクラがそう言えば、ウツギは「だね」と頷いた。

 プリンターが吐き出した紙をチェックして、大きめの封筒に収めるウツギ。そんな彼を観察しながら、サクラはふと抱いた疑問をそのまま呟いた。

 

「博士の友達かぁ……どんな人なんだろ」

 

 二五年前、ウツギ博士は『世の多くのポケモンは、例え哺乳類と同じ形をしていても、卵から生まれる』という世紀の大発見をした。以来、社交界に顔を出す事も多かったそうで、上流階級の人々にも顔が利く。しかしながら本人がこんな感じで世捨て人なので、大事な用事でも無い限りはこちらから連絡を取る事さえ無く、『友人』と呼べる関係に発展した人物は殆んどいなかったそうな。

 サクラが知る限り、彼の友人はサクラの両親と、カンザキ博士、オーキド博士ぐらいしか浮かばなかった。カンザキ博士がコガネを出たなんて話は聞かないし、オーキド博士がマサラから引っ越そうものなら、それこそ大ニュースだ。

 まさかサクラの両親が帰ってきて、サプライズをしようなんて話でもあるまい。

 となると、サクラが知らない人物だろうか。

 

「んーとね。僕の友人でもあるけど、実際に親しかったのは、僕じゃなくてキミの両親だよ」

「お父さん達?」

「そう。良いライバル関係だったと聞いているよ」

「ライバル……ライバル……」

 

 実際に両親と話す機会があれば、耳にする話かもしれない。しかし、サクラに物心がついた時には、両親はいなかった。聞けた話と言えば、ウツギをはじめとする他人からの評価や、二人が残した数々の偉業を記録した文献くらい。後者に関して言えば、当時社会的な成人を迎えていなかった両親の記録は、殆んどがプライバシーの保護で隠されていた。交友関係なんて載っている筈が無い。

 しかし、どこかで耳にした覚えがあったような……。

 サクラは「うーん」と言って、視線を天井へ流す。

 両親に関する話で聞いたなら、間違いなく覚えている筈。一言一句と言って過言ではない程、色んな話を鮮明に思い出す事が出来る。しかし、そのどれを思い起こしても、両親の交友関係に纏わる話はなかった。

 暫く悩んでいると、思い出すのを待ってくれていたらしいウツギが、くすりと笑った。

 

「まあ、彼はあまりメディアに出たがらないからね。多分、彼とヒビキくん達の関係を知っているのも、僕を含め数人の筈さ」

「うーん。降参。思い出せない」

 

 別に勝負をしていた訳ではないが、サクラは両手を挙げて、思い出すのを止めた。

 自分が思い出せないという事は、何かしらの話とごっちゃになって勘違いしているか、全く別の関係で記憶した話なのだろう。それぐらいサクラは自分の記憶力に自信があるし、逆に推理して答えを導き出せる程賢くない事も自覚していた。

 ウツギは柔和な笑顔を浮かべて、肩を竦める。

 仕方ないなという風にも見える仕草で、しかし嫌味たらしくは感じない落ち着いた声色で続けた。

 

「ポケモンリーグ制覇者で、ポケモンマスター。今はポケモン協会の会長をやっているね」

「ん? 協会の会長って……」

 

 ポケモン協会と言えば、ポケモンに纏わる仕事、制度の元締めだ。

 サクラも持っているトレーナーカードといった免許の発行をしていれば、ポケモンリーグを管理しているのも協会。ポケモンセンターやフレンドリィショップもそこに含まれる。もっと言えば、このウツギ研究所だって協会の支援を受けており、博士の博士号だって協会から与えられたものだ。

 ポケモンに関する事の国家機関と言えば良いだろうか。

 ポケモンセンターやポケモンジムが無償で利用出来るのは、全部この機関のおかげと言える。勿論、民間組織なんてものも存在はする――この研究所だって厳密にはそう――が、非合法組織でもない限り、基本的にはこちらも協会からの支援を受けている。

 何せ、ポケモンに纏わる事なら、切っても切れない関係なのだ。

 そして、現在の会長と言えば、当然だが一人しかいない。

 まめにニュースをチェックしているサクラにとっては、結構な頻度で耳にする名前だった。

 

「えっと、シルバーさん。ですよね」

「そう。シルバーくん」

 

 しかし、博士の言う通り、有名なのは名ばかりで、メディアへの露出が極端に少ない人物だった。

 ポケモンリーグを制覇し、レジェンドホルダーと呼ばれるようになった時。幾つかの功績からポケモンマスターと呼ばれるようになって、オーキド博士と記念対談をしていた時。はたまた協会の会長に就任した時。

 思い出せるメディアの記録が、片手で足りる程だ。

 協会の会長になってからはコマーシャル等で見かけるようにはなったが、それでもあまり頻繁に見られる顔ではなかった。特に、バラエティー番組への出演は殆んど無い筈だ。

 と、そこで不意に。

 

『確か、キミはジョウトの英雄とも仲が良いんじゃったな』

『ええ。けれど、若い頃のわたしが一方的にライバル視していた所為もあって、距離感に悩む間柄ですけどね』

 

 どこかで見たシルバーとオーキドの対談を思い出した。

 ジョウトの英雄なんて呼ばれの所為で、両親のものとは考えていなかったが、シルバーにもそういう存在がいた事は知っていた。その英雄がサクラの両親であるのなら、話は合点がいく。

 シルバーとサクラの両親は同じくらいの年頃だし、旅をしていたのも同じジョウト、カントーの地。

 思い至れば、「ああ!」と言って手を叩きたくなるような覚えが色々とあった。

 対談の中で、手持ちのオーダイルについて『彼等とは丁度良いバランスでした』と言っていたり、『今はどこで何をしているのやら』なんて、ライバルの行方が分からないと言っていたり。話が繋がっていくにつれ、何で両親の事だと分からなかったのかと、過去の自分の馬鹿さ加減に開いた口が塞がらなかった。

 確かに、そんな有名人であれば、30番道路なんて辺鄙な場所に引っ越す理由も納得がいく。

 

「今回、極秘に頼まれ事をしてね。本当なら僕が直接行きたいところなんだけど、腰が痛んでねぇ……」

 

 本題に戻って、サクラは驚くでもなく、うんと頷いて返した。

 腰が痛いのは今朝のような寝方をしている所為だろうが、それはさておく。

 ポケモンマスターのシルバーと言えば、知る人ぞ知る素晴らしい制度を作った人。偉大なトレーナー一〇〇選にもノミネートされた伝説の人だ。おまけに両親の友人であるとするなら、今から会いに行くのなんて夢みたいだった。

 サクラはそれより早く本題を進めてと、期待感に満ちた目で、うんうんと頷いた。

 そんな心情が伝わったのか、博士は呆れたように笑って、手に持った封筒を差し出して来た。

 

「じゃあ、これを渡してね」

「うん!」

「中身は覗いちゃダメだからね?」

「わかった!」

「気を付けて行くんだよ?」

「気を付ける!」

 

 子供みたいな返事だった。

 本当に大丈夫なのかと疑いたくなるだろうが、そこは長年の間柄。ウツギは可笑しそうに笑うだけで、サクラが封筒をしかと仕舞うのを見届けた。

 30番道路の中程までとなれば、日帰りとはいかない。しかしながら、サクラの手持ちはそこそこ鍛えられており、ここいらでは相手になるトレーナーがいない程だし、フィールドワークで日を跨いで出かける事も多い。ちょっとくらい調子に乗っていようと、別段問題は無いだろう。

 忘れ物がないかを確認して、ウツギはにっこり笑顔で見送った。

 

「行ってらっしゃい。シルバーくんによろしくね」

「はい。行ってきまーす」

 

 春の木漏れ日の中、少女は笑顔で、ワカバを後にした。

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