溢れ出た感情に飲まれ、サクラはむせび泣く。
口にした『逢いたい』という言葉が全てで、それ以外の感情は失せていた。だからもう言葉は要らず、記憶の底からよみがえってくる自分が目を背け続けた優しい景色と声に、ただただ涙するばかり。
五分、一〇分と時間が経っていき、しかし隣の少年は、初対面であるにも拘わらず、サクラの心情を分かったかのように何も言わず背を撫でてくれた。
そんな彼の手が止まったのは、サクラの嗚咽が枯れ始めた頃だった。
促されるように、記憶に浸っていた心が、ゆっくりと現実に引き戻される。
泣きすぎてぐしゃぐしゃになっているだろう顔を上げてみれば、隣の少年は既に立ち上がっていた。そのままダイニングキッチンへと向かって、お茶が入ったポットを持ってくる。戻ってくれば同じ隣の席に座り、半分程減っていたサクラのグラスへお茶を注ぎ足してくれた。
「俺も泣いたよ。ずっと、日が明けるまで、一晩中」
不意に零された言葉に、お茶の返礼を忘れる。
どういう事だろうと、鼻をすすりながら見やれば、彼は左手で頬杖をついて、隣に座るサクラを何処か懐かし気な目で見て来ていた。余った手でお茶を勧められて、サクラは黙って従う。
冷たいお茶が、サクラの熱気を冷ますようだった。
「だけど、サクラの場合は生きてるんだ。もしかしたら、会えるかもしれない。一晩も泣いてちゃ、時間が勿体ねえもんな」
そこで彼の言葉が、彼自身の経験を以って、励ましてくれているのだと分かる。
その経験とは、言わずもがなだが、母を亡くした時の話だろう。
今更彼には酷な姿を見せたかもしれないと思ったが、そんなサクラの心境を見越したように「気にするな」と一言。慈悲深く微笑む彼は、本当に二歳も年下の男の子とは思えなかった。
ポケモンの命に責任を持って育てるトレーナーは、自然と同世代の子供より大人びていく風潮がある。
不意にそんな話を思い出したが、同じ身の上のサクラよりずっと年上のようにも見える彼は、一体何がどうしてそこまで大人びた感想を持つのか。母を喪ったと言っているが、それでも説明がつかない程に落ち着いていて、且つ、サクラの心情を的確に把握し続けている。
状況が状況なら、怖いとさえ思ってしまうだろうか。
サクラはそんな風に思ったが、今この場における彼の姿は、擦り切れた自分の心に小さな光を灯してくれている気がした。
サキは自分のグラスにもお茶を注ぎ足し、一口に飲み切った。
ふうと息をついて天井を見上げた彼は、「この家な」と話を再開した。
「前に住んでた家と、間取りも装飾も、全部一緒なんだ。違うのは親父の部屋に、名札が一つ足りないだけ。グラスやフォークだって、全部三つずつあるんだ」
サキはゆっくりと視線を下ろす。
再度深い溜め息をつく彼の姿は、先程と少し変わって、年齢相応に幼く映る。
「死んだ人間を追うのは、思い出に縋るしかないんだ。俺も親父も、もう五年以上前に死んだ母さんに、ずっと縋ってる。これから先も、きっと縋ってくんだ」
それは果たして、良い事なのか、悪い事なのか、サクラには分からない。判別する権利だってないだろう。
サキはこちらへ向き直って、「けど」と続けた。
「サクラは違う。思い出に縋る必要なんてない」
そして、そう断言した。
鳥肌が立つとはこの事だろうか。
サクラは信じられないものを見たような感覚を覚えて、喉を震わせた。ごくりと呑んだ生唾は、枯れた喉に少しの痛みを与える。それが妙に嫌な感覚で、胸の温もりとは対照的に、身体中から冷や汗が染み出てくるような気配がした。
サキの言わんとする事が、分からない訳がない。
故人を偲ぶには縋るしかないが、生きている人間を偲ぶくらいなら、逢いに行けば良い。
ただそれだけの事を言っているのだから。
だけど、それは高いリスクを孕んでいる選択でもあった。
両親は生きている。
少なくとも三年前、サキは二人に会っている。
ただ、その二人は『帰らない』という選択をしているのだ。
その理由が分からない以上、邪険に扱われる可能性があるし、二人の迷惑になるだけの可能性もある。もしかしたら、この三年で死んでしまっているかもしれない。
だから怖い。ただ怖い。
二人が帰らなかった『理由』を知るまで、この安穏とした生活にしがみ付いていたい気持ちだってある。
サクラは少年から目を背ける。
彼なら捜しに行くのだろうか……。
そう思うと、返ってきそうな即答が、怖くて仕方なかった。
「俺なら、捜しに行く」
と、思った瞬間には、肯定された。
サクラの背中がゾクッとした。
今しがた考えていた理由を、「だけど」の言葉で並べようとしたら、サキはサクラの言葉を止めるように、「だってさ!」と強い語気で零す。
「愛されてたんだぜ? なのに帰ってこねえなんて、理由があるのは分かりきった事じゃねえか。だけど、そんなもん勝手な『親の都合』だ。知るかよ。こっちは逢いてえんだ。当たり前だろ! 親子なんだから。何で来たんだとか言うんなら、俺がぶっ飛ばしてやる!」
途端に目を血走らせて激昂するサキは、ここに居ないサクラの両親に向かって、怒っていた。怒ってくれていた。
それが分かったら、今しがた言おうとした言葉は、ただの言い訳に思えて、喉の奥からそのままぐっと戻っていく。
決して感化された訳じゃない。
それは、サクラの中でも既にあった回答の一つだ。そして、良い子供を演じ、与えられた安穏とした生活を享受するだけの大人になろうとした自分が、殺していた感情でもあった。
サキはそんな感情を肯定してくれていた。
我儘で良い。
向こう見ずで良い。
望むのなら、手を伸ばして良い。
だってサクラは、あの二人の子供なんだから。
「俺も同意だ。少々あいつらは、手前勝手過ぎる」
そんな折、低い落ち着いた声がした。
ハッとして視線を向ければ、丁度部屋から出てくるシルバーの姿が目に留まる。
滲む視界が、近付いてくる彼の表情を濁らせた。
だけど、まるでサクラの勝手を許可してくれるように、優しい笑顔を浮かべているように見えた。
「赦す必要なんてない。見付けるなりぶん殴ってやれ。何ならそのままふん縛って俺んとこに連れてこい。バンギラスの餌にしてやる」
「いや、餌にしちゃダメだろ」
「そんぐらいじゃ死なねえよ。コトネはな。ヒビキは知らん」
冗談交じりにそう言って、シルバーはサクラの前で腰を屈めた。
薄く微笑む彼は、何も言わずにサクラが欲するまま抱き留めてくれる。
優しく撫でてくれる手は、本来、サクラが虐められた時に両親へ求めたもの。そんな気がして、サクラはわっと声を上げて泣いた。既に流れ過ぎたと思っていた涙は、それでも尚、自分が考えている以上に溢れ出てきた。
「悪かったな。あいつ等の勝手で、長い事苦しめた」
「本当だ。全く。もう親父がサクラ引き取っちまえよ」
「はは。それも悪くねえな。コトネが知ったら白目むいて倒れそうだ」
ああ、なんて心強い味方を得たのか。
サクラの代わりに怒ってくれるサキも、シルバーも、何だってここまでしてくれるのか。
結構な泣き虫だと言われた事はあったけれど、ここまで泣いたのは久しぶりだ。だけど不思議と、居心地は悪くない。虐められて泣いてた時より、ずっと良い。
そのまま暫く泣き続けた。
漸く涙が止まった頃には、「二人共、バンギラスの餌にしちゃって下さい」と笑ってしまえる程、サクラの心のしこりは取れていた。
サクラが泣いていた時、二人が打ち合わせするように目配せしあっていただなんて、知る由もなかった。
それから、シルバーは小一時間程かけて、昔の話をしてくれた。
ヨシノシティの外れで初めてヒビキと出会った時、相性の良いワニノコを持っていたにも拘わらず敗北した。その後別な場所でコトネともバトルをしたが、あっさり負けただけでなく、屈辱的な言葉を投げかけられたりもした。それがシルバーに火をつけて、ヒワダではヒビキにこそ勝てなかったが、コトネを倒し、彼女に屈辱的な罵りの仕返しを言ってやった。
エンジュ、アサギ、チョウジ、コガネ、フスベと邂逅は続き、時間がある時は必ず難癖付けてバトルを仕掛けた。コトネとは一進一退の攻防が続いたが、ヒビキにはどうしても勝てなかった。
当時、最強のトレーナーを目指していたシルバーは、このままでは終われないとフスベのジムリーダーに下げたくない頭を下げ、最後のジムバッジと共に、八つのバッジを集めたに相応しいとされる暫定的なバッジを発行して貰った。それを持って、セキエイリーグに向かった二人の背中を追いかけた。見失うまいと、必死に追いかけた。
しかし、その結果はついてこなかった。
実力が拮抗していたと思っていたコトネさえ突破したリーグの予選で、シルバーはあっさりと敗退した。二人が優勝、準優勝に並び、四天王への挑戦権を得る姿を、指を咥えて見ている事しか出来なかった。
それでも、諦めきれない夢だった。
最強のトレーナーになって、幼い頃に決別した父を見返してやりたい。
その一心で、シルバーはジョウトのジムを改めて制覇し、二人が四天王戦を突破した頃を見計らって、カントーへ渡った。しかし、それはあくまでも単なる張り合いに過ぎず、もう二人の背中を追いかけている訳ではなかった。だから修行中も二人と邂逅したのはたったの一回であり、そのバトルに負けた時も、修行中心に育っていた答えを確かなものにしたに過ぎなかった。
ポケモンへの信頼と愛情。
そんな月並みなものを、数年かけて、漸く得た。
「シルバー。君はまだ、最強に固執するのかい?」
カントーのお月見山で邂逅した時、バトルに負けたシルバーへ掛けられたヒビキの言葉は、質問のようで質問ではなかった。それは、単なる確認だ。
負けたというのに、妙に清々しい。
ヒビキの隣で変な顔をして挑発してくるコトネも、全く気にならなかった。
「ああ。それは俺の夢だ」
「そっか」
「ハッハーン。ではこのコトネ様は、シルバーの夢を永遠に阻み続ける存在という訳だ」
「うるせえ。黙れ。メスカイリキー」
「ああん? やんのかコラ!」
コトネの挑発は全く気にならなかった。それは本当だ。
シルバーのコトネの扱いは、毎度こんな感じだった。それはコトネの日頃の行いというものの結果だ。
改めて、シルバーは永遠のライバルと定めた男に、長年控えていた表情を向ける。ジョウト、カントーを巡るうち、手持ちのポケモンと交わし、育ててきた心が、それを自然と促した。負けた者が浮かべるには些か不似合いなものだが、二人は少しだけ驚いたものの、茶化してばかりのコトネさえ安らかな顔で、「良い顔するようになったじゃん」なんて、言ってくれる。
シルバーはふんと鼻で笑い飛ばして、明後日の方向を見やった。
今からでも、もう一度。
あの聖地へ行こう。
きっと今なら、前とは違う結果を残せるだろう。
「これからニビとトキワを回ったら、セキエイリーグに行く。最強ではない……最高のトレーナーになる為に。お前らみたいにな」
少し恥ずかしかったが、そう言って認めてやれば、二人共揃って鼻をつままれたような顔をして、暫くすると途端にけらけらと笑い始めた。
何だよ。悪いか。
なんて言えば、二人共が馬鹿にしている訳じゃないと弁明する。
じゃあどういう事かと聞けば、二人は「似たような事考えるんだね」と、笑っていた。
「ぼくらはニビとトキワジムを終えたら、一度ワカバに帰ってから、シロガネヤマに行くつもりだよ」
「ほら、あれよ。最強のトレーナーのレッドが帰って来なかったって言われてる場所」
「てめえ等……よっぽど人の夢を踏みにじるのが好きらしいな?」
「ち、違うよ。シルバー。世界地図の完成に協力してくれって言われて、それで……」
「冗談だ。間抜けめ」
そう言ってやったヒビキは「酷いよ!」と言って怒ったが、その反応に満足したシルバーが含むように笑えば、二人も倣ったように笑ってくれた。
そこにもうしこりは無く。
互いを友人と呼び合えるような関係だけがあった。
決して短くはない年月がかかったが、それが今のシルバーを支える信念を作り、ポケモン協会の会長という高みへ至らせた経緯でもあった。
「それから、俺が四天王戦を突破した頃になって、丁度あいつ等が帰ってきた」
シルバーは棚から持ってきたアルバムを広げ、一番最初のページを開く。
そこには荘厳な建物の前で、綺麗な衣服に身を包んだシルバーと、ボロ雑巾のような恰好をしたヒビキとコトネが並んで映った写真。帰ってきた二人がポケモンリーグに直行してきて、その報せを受けたシルバーが、二人を記念写真に誘ったのだとか。
その写真を大事そうに撫でて、彼はくすりと笑う。
「あの時のあいつ等、一月以上風呂に入ってなかったもんだからな。すげえ臭くて、周りの人間、皆ドン引きだったぞ。本来ならポケモン達を出して撮るところなのに、あいつ等のポケモンですら嫌がっててな」
せめてお風呂ぐらい入ってから行けば良いものを……。
サクラは苦笑して、「すみません」と零した。
全くだ。と、シルバーも苦笑する。
「間に合わないかと思ってってのは分かるが、先に風呂入れつったら、熱が冷めるとか訳の分からん事言い出してな……一応、その後、小綺麗にした写真は撮ったんだが、面白かったからこれが俺の記念写真だ」
両親への強い渇望と憤りを自覚させられ、号泣したサクラだったが、その後聞かされたのはまるで映画のような素敵なお話。それは絶妙な加減でサクラの心を癒し、両親を憎む事も無ければ、情に絆されて赦してしまう必要も無いと教えてくれるようだった。
若かりし頃の父はとても優しい人物で、シルバーという人間に大きな影響を与えたという。心の底からポケモンを愛し、大切にする姿に、当時ポケモンを勝負に勝つ為の道具としか考えていなかった彼は強い腹立たしさを覚えたそうだが、それがもたらす絆という不確かなものの強さを目の当たりにし、徐々に考えを改めていった。
対して、母はどんな時でもふざけた調子であり、会う度にシルバーをからかっていたそうだ。だけど、そんな彼女とのやり取りが、他人との関わり合いをただ群れているだけだと思っていた彼に、違うと教えた。友情という言葉で、三人の仲を繋いでくれたのは、間違いなく彼女だった。
今の自分があるのはヒビキとコトネのおかげだと言う彼は、確かに話の中で挙がったシルバーという少年とは、まるで別人のような人柄だ。長い年月を掛けて培われた彼の人格は、サクラの感想だけでなく、社会的にも評価されている。
身内を称賛される事に少しばかりむず痒さを覚えながらも、両親が偉大な人だったという事は、しっかりと認めた。それを免罪符にして赦す事はないが、そんな二人が連絡一つ寄越さない理由は、きっと自分が考えるよりも複雑なものなのだろうと考えた。
とはいえ、サクラの心は決まっている。
二人との思い出話を語ってくれたシルバーに一言礼を述べると、サクラは改めて顔を上げた。
対面の席に腰掛けるシルバーに、泣き目腫らした顔に似合わない程の、すっきりとした笑顔を向ける。
「わたし、二人を捜しに行きます。どれだけ時間が掛かっても良い。見付けて、ぶん殴って、ふん縛って、連れて帰って来たいんです」
物騒な事を言うものの、シルバーは『それで良い』と言うように、優し気な顔でこくりと頷いた。
と、したところで、暫く黙っていたサキが、スッと挙手をする。
何だと思って見やれば、彼は挑発的な笑顔で父親を真っ直ぐに見ていた。
「俺も行く。何で来たんだつったら、ぶっ飛ばすって言ったしな」
そう言って、こちらにしてやったり顔を向けてくる少年。
一緒に来てくれるという事だろう。
申し出は嬉しいが、それは果たして、父親的にはどうなのだろう? サクラは驚きよりも、シルバーの反応の方がずっと気になった。目をパチパチと瞬かせて、対面へ視線を向ける。
するとシルバーは、半ば呆れたような顔をしていた。
「ハッ。この色ボケが……」
そして、そんな風に毒づく。
色ボケ? どゆこと?
サクラは怪訝な顔をして視線を隣へ。
するとサキは顔を耳まで赤く染めていて、「ちげえよ!」と、大きな声で叫んだ。
その様子に、サクラは少しばかり納得がいく。
まさか出会ってすぐの自分に恋慕しているとは思わないが、彼のサクラへの態度を見るに、どうも女性に免疫がないように感じる。母を亡くしたのが五年以上前だと言っているし、重役の一人息子である以上、あまり同世代の女子と関わり合いも無かったのだろう。もしかしたら家庭教師とかがいて、学校に通っていないのかもしれない。そう思わせるぐらい彼は初心だった。
まあ、サクラからすれば、一人旅は寂しいので、もしもシルバーが許してくれるのであれば、嬉しい提案だったりするのだが……。少なくとも、サキは信頼出来ないタイプの相手ではない。それだけはこの僅かな関わりでも断言出来る。
叫び声からこちら、サキの言い訳がましい屁理屈を受けていたシルバーは、そんなサクラの心境を察したように、彼を無視してこちらへ改まる。
「サクラ、お前はどうだ? こんなんだが、一応料理担当や荷物持ちぐらいにはなるぞ」
組んだ腕から、親指を立てて少年を指し、シルバーは淡々と零す。
唐突に振られて、サクラは「へ?」と声を出したが、隣を見れば途端にぴたりと口を止めたサキ少年が、仲間になりたそうにこちらを見ていた。
「以前はシロガネヤマの麓に住んでいたから、ちぃとばかし常識には疎いが、基本的な教育は受けてる」
シロガネヤマの麓と言えば、かなりの練度のポケモン達が住む場所だ。
成る程。確かに常識に疎いと思わせる節もあったが、それ以上に、手持ちポケモンがかなりの練度をしている事に納得がいく。どういう経緯で済ませたかは分からないが、最低限の教育課程が住んでいるのであれば、旅をする上で問題はないだろう。
「親の俺が言うのも難だが、一応思い遣りはあるし、気配りも出来る。見てくれはこんなんだが、中身は母親似だから、昔の俺みたいに捻くれてもいない……何だ。案外お前、良物件じゃねえか」
「お、おう? そうなのか」
まるで未知のポケモンでも見つけたように、怪訝な顔をサキへ向けるシルバー。サキはサキで、何処か間の抜けた顔をして、小首を傾げていた。
シルバーの物言いからして、別に息子自慢をしたかった訳ではないのだろう。しかし美点と欠点を挙げようとしてみれば、取り上げる程の欠点が『常識に疎い』という事ぐらいだっただけ。それを『いや、そんな筈はねえ』と顎に手を当てて捻り出そうとするあたり、やはりシルバーは相当な捻くれ者だ。敏感に察知したサキが「別にあら探ししなくていいって」と嘆願する様子は、そこらの漫才師のコントより何倍も良く出来た茶番だった。
ふとすればサクラはふっと笑って、そのまま導かれるようにくすくすと音を立てた。
「分かりました……分かりましたから、それ以上捻り出さなくても」
「いや、俺の子供だからな。絶対に何かある」
「何もねえよ! 品行方正に育てたのは何処の誰だ」
「自分で言う奴があるか。お、これはお前の欠点じゃないか? やったな。見つかったぞ」
「そ、そうですね。あはは」
「弄ぶな! サクラも笑ってんじぇねえ!」
ついにサキが怒ったような顔をして、席を立つ。
彼はさぞ憤慨そうに、しかし怒りにやり場がないといった様子で「あー、もう!」と地団駄を一回。身を翻すようにサクラを振り向いて、真剣な眼差しで訴えた。
「サクラはどうなんだよ。俺が一緒に行っても良いのか、悪いのか」
「え? 勿論、大歓迎だよ」
「親父はこう言ってるけど、俺は我儘だし、女々しいし、偶に変なドジ踏むし」
「だから、大歓迎だよって」
「だけど滅多な事じゃ挫けねえし……って、え?」
きょとんとした様子で、固まるサキ。
サクラはくすりと笑って、もう一度告げた。
「大歓迎だよ。すっごく心強い」
先程の反応を見るに、シルバーは別に反対していない様子だった。現にサクラへ話が振られると、彼はピタリと口を噤み、温かい目で成り行きを見守ってくれている。なら、後はサクラの意思だけだ。
拒否する理由が何処にある?
サキはバトルの時でさえ紳士的で、初対面のサクラの気持ちを汲んでくれるような優しい男の子だ。少しばかり気が利きすぎるとも思うが、その殆んどが彼の経験則や、顔に出やすいサクラの表情から悟ったのだろう。そう思わせる程、彼はサクラに好感を与える人柄をしていた。
確かに、年頃の男女が一緒に旅をするというのは、それだけでリスクがあるという者もいるが、サキはこの短時間でそのリスクを超える程の信用を勝ち取ったと言って良い。
未だ口をぽかんと開けて固まっている少年へ、サクラはにっこりと笑って手を差し伸べた。
「これからよろしくね。サキくん」
「あ、ああ。つか、名前呼び捨てで良いよ。俺も勝手に呼び捨ててるし」
「うん。分かった」
改めて交わされた握手。
初めて握ったサキの手は、緊張していたのかしっとりと汗が滲んでいた。その温もりは熱い程で、そう見えないだけで、随分緊張していたのだと知らしめるようだった。
サクラがふっと笑えば、サキは悟ったかのように頬を赤らめて、ぷいとそっぽを向く。それは果たして、彼が女性慣れしていないからか、照れ屋だからか、はたまたそのどちらもなのか、サクラにはまだ分からなかった。
「まあ、旅に出ると言っても、一日や二日では準備出来ないだろう。サクラは一度ワカバに帰って、ウツギ博士に挨拶しねえとな。サキもトレーナーカードの更新、済んでねえだろ」
二人の初々しい挨拶を茶化すでもなく、シルバーはそう言って視線を促す。
ゆっくりと立ち上がった彼は、キッチンへと足を向けた。
「何にせよ、話が纏まったところで飯にしよう。サクラも食っていくと良い。帰りは送ってやる」
突然の有難い申し出に、サクラは少しばかり驚いた。
そろそろお暇しようと考えていたが、言われてみればお腹は減ったし、時間も結構押している。今から徒歩で帰ろうものなら、イトマルとの遭遇は免れない。
ただ、送ってやると言っても、シルバーは目立つ。彼の立場からして、それはあまり好ましくない事だろう。
「良いんですか?」
「飛んでいけば二時間も掛からないさ。まあ、29番道路の外れまでだがな」
成る程。
それなら確かに問題は無さそうだ。
サクラは素直に厚意を受ける事にした。
「分かりました。お世話になります」
「おう。さて、サキ、手伝え」
「はーい」
そうしてシルバーはサキを連れて、キッチンへ。
人並みに自炊しているサクラも手伝いを申し出たが、勝手が違うからとやんわりと断られてしまった。
本でも読んでおけと言われて、已む無く促された本棚へ向かう事に。
トットットット。
と、まな板を叩く音が聞こえる。
リビングの脇にある本棚の前からちらりと見れば、食材を刻んでいるのはサキだった。その手際の良さと言えば、まるでレストランの調理場にいるコックのようなもの。一目見ただけで自分より優れているように感じてしまう。先程シルバーが『料理担当くらいにはなる』と言っていたが、確かにあれは特技として挙げられる程の腕前だろう。
手伝わなくて良かったかもしれない。
更に加速した包丁の音を聞いて、サクラは自分の女子力の低さからそっと目を背けた。
「んーと……」
改めて、本棚を物色する事にした。
何か面白い本でもあるだろうか……。
そう思って言われた棚の観音扉を開く。
中はきちんと整理された背表紙が並ぶ。しかしそのタイトルを一瞥して、サクラは「え?」と小さな声を出して、目を瞬かせた。
確かに、普通の本は何冊かある。
そのどれもがポケモントレーナーであるサクラの興味を惹くタイトルだ。しかし、何より好奇心がそそられたのは、きちんと製本された本ではなかった。
ラベリングだけがしっかりされたプラスチック製のファイルを取り上げる。
背表紙には、『マニューラ』と書かれていた。
サクラの手では分厚過ぎる程に膨れ上がったファイルで、一冊に収まりきらないのか、同じタイトルのものが複数並んでいる。実際に手に取ったのは、一番最後のように感じる右端のものだった。
一ページ目を捲ってみれば、そこにはマニューラの写真。数年前の日付があり、その個体の生まれ、性格、育成方針、進化したタイミング等が書いてあった。
何を検証しているのかとページを捲れば、数ページ先に、丁寧な字で検証結果が書き記されていた。
『氷の礫を使用する為の組織は発見されず。好戦的な性格が影響したのか、爪の長さは平均値より一・七センチ長い。その分、体重は最も軽い個体より二・八キロ重い。二七匹目までの検証結果を裏付ける結果となった。これらより、最もマニューラの個性を活かした育成は、先天的な技の取得が見込まれる個体のうち、陽気な性格である事が求められる。尚、性別は問わないようだ』
先程聞いた話で、シルバーは最強のトレーナーを目指していると言っていた。
これはその証明だろうか。
一流のトレーナーがやっていると聞く『厳選』という作業。サクラが目にしたファイルは、その過程を記したものだった。
その記録の凄い事。
おそらくマニューラの生態を記したどんな学術書よりも精細且つ、戦闘にフォーカスされている。驚くべきはその妥協を許さない精神で、全てのマニューラがシロガネヤマで通用する練度まで鍛え上げられており、納得がいかなければ新しい卵を孵化させるところから始めている。そうして三〇体目を目前にして、最強と呼ぶに相応しいニューラが二体生まれたとあった。
そのうちの一匹が、なんとあのシャノンであるらしい。
記録によれば、彼女はマニューラが覚え得る全ての技を習得出来るとされ、他のどのマニューラより速さに優れた個体へ成長するよう調整も終えているそうだ。通りでレオンが追い付けない訳である。
また、ファイルへの記録は戦闘だけでなく、厳選で御眼鏡に叶わなかった個体が、何処でどう暮らしているかも記されていた。その多くは優秀なジュンサーへ引き取られ、警ら隊の第一線で活躍しているそうだ。中には彼等が得た勲章の写真が記録されており、そこにはシルバーと一緒に撮った写真も重ねてあった。
最強のトレーナーを目指すという言葉は、言葉だけではなかった。同時に、最高のトレーナーである事にも、妥協を許していない。そんな彼の信念が伝わってくるようで、サクラは胸が熱くなるような気分だった。
なんて凄い人なんだろう……。
棚にはマニューラの他、オーダイルやバンギラス、オンバーン等、様々なポケモンの名前が並ぶ。
一匹、一匹に愛情と信頼を持って接し、その強さを最大限に引き出してあげる為の調整をする。役目を終えたポケモン達は主に警察関連や土地開発の施設へ従事して貰い、時折その様子を見にも行っているようだ。中にはオーキド博士からの打診があって、彼に引き取られたというポケモンもいた。それはきっと、大変名誉な事なのだろう。
幾つかの育成記録にサッと目を通し、サクラはふうと息をつく。
自分が『厳選』をするかと言われれば、答えはノーだ。
サクラはレオンやルーシーを手放すつもりはない。二匹を育てているのは最強のトレーナーになりたいからではなく、家族として大切だからである。たとえこの先どんな強いポケモンと出会ったとしても、この二匹を外してまで捕まえる事はないだろう。それは両親を捜す過程でポケモンリーグを目指すかもしれないと思った今でも、同じ気持ちである。難なら、ポケモンリーグの方を諦めるだろう。
そんなサクラだからこそ、『厳選』という作業にはあまり良い印象がなかった。ポケモンを使い捨てているというイメージが強く、どうしても道具として扱っているように感じていた。だけど、実際は違った。両親がシルバーに教えたように、ポケモンの強さを真に引き出すには『絆』が必要なのだろう。それは不要になったポケモンを無情な形で切り捨てるような人物が築けるものではない。シルバーはそれを実践するかのように、手元を離れたポケモン達のその後まで気に掛けていた。
簡単な道程ではなかっただろう。
もしやすると、彼が協会の会長になったのは、これが原因だったのではないかとさえ思わせる。
それ程までの記録だった。
きっとこれを見たトレーナーは、最強で最高のトレーナーを聞かれたら、間違いなくシルバーの名前を挙げることだろう。
サクラはそう思った。
一頻り満足して、ちらりとキッチンを見やる。
するとまだ火を使っているようで、もう少し時間が掛かるように見えた。
もうちょっと、いいかな。
別のファイルを探してみる。
研究所で色んな学術書を読み漁っていたサクラにとって、シルバーの育成記録はとても良い読み物だった。
と、そんな折。
――リィーン。
何処からか、澄んだ鈴の音が聞こえた気がした。
ほんの微かな音。
ふと振り返ってみるも、辺りにそれっぽいものはない。
シルバー達を見やっても、変わらずの様子で料理をしている。
気のせいかな。
なんて思って、サクラは別のファイルに手を掛けた。