天海 Remake   作:ちゃちゃ2580

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Section6

 シルバーとサキが作ってくれた食事は、何とも具沢山なパスタだった。

 湯気に乗って香るバターの匂いがたまらない。

 淵に綺麗な花柄が描かれた丸皿に、彩り豊かなパスタ。これがレストランで注文したものなら、きっと一〇〇〇円は下らない。きちんと腹を満たせる量が盛られているのも、家庭料理だからこそ。

 もう見ただけで分かる。

 これはとっても美味しいものだ。

 しかし二人のもてなしはそれだけに留まらず、レオンとルーシーの分のポケモンフードまで手作りで用意してくれた。こちらはサキが自分のポケモンの食事と一緒に用意してくれたらしい。野菜と木の実のペーストを焼いたものらしく、どんなポケモンに与えても大丈夫なレシピだそうだ。

 まさかそんなものまで用意してくれるとは。

 二匹にと受け取った皿には、これまた見事なクッキーが六つ乗せられていた。

 治療が完了していたメディカルマシンからボールを引き取り、二匹を出して見せてあげる。すると両者共に、とても美味しそうだと目を輝かせた。バトルのすぐ後なので食欲が無い可能性もあったが、どうやら杞憂だったようだ。いや、サキが用意してくれたフードが、それ程までに美味しそうに映っている可能性もあるかもしれない。

 サキもシャノンとノア、それからキバゴという小さなドラゴンタイプのポケモンを出して、九つのクッキーが乗った皿を与えていた。シルバーのポケモンは総じて大きいらしく、後で個別に与えるそうだ。

 

「待たせたな。だが、味は保証しよう」

「俺も保証しとく。レオンとルーシーは病みつきになる事間違いなしだな」

「あはは。本当に美味しそう」

 

 一同が食事を前にして、短い合掌。

 いただきますの、挨拶。

 用意されたフォークで丁寧にパスタを巻き取り、口へ運ぶ。

 サクラが「んー!」と、声にならない歓喜の声を上げたのは、レオンとルーシーが短い声を上げたのと同時。二匹を見やれば、二匹共が首を引きちぎらん勢いで何度も頷いている。

 しっかり飲み込んだサクラは、感想を声に出した。

 

「美味しい! 何これ、見た目とか、想像の何倍も美味しい! こんな美味しいパスタ、生まれて初めて食べた」

 

 聞き様によっては、『そんな悲しいことを言うな』と言われてしまいそうだが、本当に今まで食べたものの中で一番なのだから仕方ない。

 一見すると少しお洒落なバター醤油のパスタなのだが、その味付け加減が絶妙だ。

 口に入れるとキノコとベーコンの豊かな味わいが焦がしバターの香りと共にやってきて、醤油の奥深い味わいと共に口内を満たす。パスタを噛めば噛む程、香りが強くなり、そこへ焼いた玉ねぎの甘味がやってくる。口内で花が開くように咲いた味わいは、しかし一度飲み込めばすっと抜けていくようにあっさりとしている。バター特有のしつこさがどこにもなかった。

 この料理が盾に取られたら、たとえ一人旅を希望していても、サキの同行を許しただろう。と言うか、サキが嫌がっても、連れて行きたいと思っているに違いない。

 

「若い頃は食事なんて二の次でな」

 

 パスタを巻きながら、シルバーが零す。

 夢中になっていたサクラは、その手を少しばかり休め、彼の話に耳を傾けた。

 口に運んだパスタを咀嚼し、飲み込む。美味である事を確認するように、シルバーはこくりと頷いた。

 

「だけど、携帯食料のあり得ない不味さに嫌気がさしててな。自分の納得がいく味を求めていたら、こうなった」

 

 ふっと笑うシルバー。

 サクラはそっと目を逸らして、「そ、そうですか……あはは」と、濁した。

 言うまでも無く、携帯食料の常連であるサクラにとっては、耳の痛い話である。確かに、これと比べたら、朝方食べたものは栄養のあるごみだ。そう思ってしまう。

 そんなサクラの様子に気が付いたのか、サキが「あ、お前」と言って、睨みつけてきた。

 

「さてはポケモンにも市販のかってえフード食わせてんな?」

「な、なんのことでしょ……」

「歯があるチラチーノはまだしも、ドレディアは口の中で溶かすんだぞ? 止めてやれよ。可哀想だろ」

「ルー! ルー!!」

 

 足許で『そうよ! そうよ!!』なんて声が上がっている。

 否定する事なく誤魔化そうとしたが、身内の暴露によって露呈してしまった。

 べ、別に悪い事じゃない。ポケモンフード自体は栄養満点で、どのポケモンでも食べられるってのが売りなんだ。ドレディアに与えても全然問題ない。それが硬すぎるのだって、わたしにも分かってる。分かってるけど、作れないんだから、仕方ないじゃない!

 とは、言えなかった。

 その理由まで辿ると、サクラの女子力の無さがこれ以上ないくらいまで露呈してしまうので、とてもじゃないが口に出来なかった。

 

「すみません。頑張ります……」

 

 結果、小声でルーシーに謝意を示すことになった。

 もしも不味くて文句を言われたら、その時はサキを差し出そう。

 と、その時。

 

――リィーン。

 

 先程耳にした鈴の音が、再度響き渡る。

 より大きく、より鮮明に。

 ハッとして聞こえた方向である後ろを振り返るが、そちらには玄関横の窓があるだけ。でも、外から聞こえたような感じではない。

 

「どうした?」

「あ、いえ……今、鈴の音が聞こえませんでしたか?」

「いや、聞こえなかったが」

「俺も聞いてない。幻聴じゃね?」

 

 シルバーに続いて、サキもそう言った。

 幻聴ではないと思うんだけど……。

 と、思うものの、食事を再開してしまった二人を見る限り、聞こえたのは確かに自分だけで、鈴の音が響くような異常事態がある様子でもない。ちらりと視線を横に落としてみても、レオンとルーシーは何も気にした様子なく、美味しそうにクッキーを頬張っていた。

 おっかしいなぁ。

 首を傾げて、食事を再開する。

 すぐに美味しいパスタの虜になって、サクラは鈴の音の事なんてすぐに忘れてしまうのだった。

 

 食事が終わると、その片付けを程々に、サクラとサキの旅の予定が組まれた。

 ワカバタウンに帰ったサクラは、簡単な支度や近親者への挨拶を済ませ、三日後に出発。サキはその間、ヨシノシティでトレーナーカードの住所変更届を出して、サクラの分も含めた旅の用意を買ってくる。五日後までに再度シルバー宅へ集合し、改めて出発。

 旅の支度金はシルバーが持ってくれると言った。

 それは流石に悪いとサクラは断ったが、旅にお金は必要不可欠である。どの道蓄えが多くないサクラは、両親が残していった貯金を切り崩さないといけない。今こそ使う時だと思っていたものの、それこそ本当に困った時の為にとっておけと諭された。

 

「旅ってのはお前らが考える程単純じゃない。まあ、スポンサーが見つかるまでは、俺の世話になっておけ」

「スポンサー……ですか」

 

 知らない訳がない。

 優秀なトレーナーの多くは、大小様々な企業がスポンサーとなって、旅に掛かる費用等を支援されている。老若男女問わず人気のあるポケモンバトルで、その選手を広告塔にしない理由がないのだ。と言っても、精々バトルフィールドの端っこに看板が用意される程度のものだが、テレビのコマーシャルでは、登場選手のスポンサーが優先されたりもするとか。

 実際に、シルバーもスポンサーの支援を受けていた事があるそうだ。

 

「つっても、俺のは企業じゃなかったけどな。フスベに物好きな爺さんがいてな。その爺さんの世話になった。まあ、今じゃ仕送りの方が多いが……」

 

 と、いう例もある。

 大成したら返しておくれという、要するに投資だ。

 とはいえ、シルバーのそれは滅多にない事だろう。実際に彼自身、フスベに行くまではその日暮らしで過ごしていたという。むしろそこまでそんな生活でやっていけたのが奇跡に近い。

 何にせよ、そこまで言われては、サクラも断るに断れなかった。

 それこそ返せるまで頑張るという目標の一つにだってなるだろう。

 というサキの提案で、サクラはシルバーにぺこりと頭を下げる事になった。

 話が纏まると、シルバーはゆっくりと席を立つ。

 

「そろそろ送っていこう。あんまりのんびりすると、日が暮れそうだ」

 

 言われて時計を見てみれば、もう二時を過ぎている。

 楽しい時間はあっという間というが、到着してから既に四時間以上が経過していた。徒歩で帰ろうものなら、きっと自分は絶望しているに違いない。行きしなは四時間かけずに到着したが、今からだとトレーナーに絡まれたりして夜になるのは目に見えている。

 本当に有難い申し出だ。

 先に出ていると言って玄関を出ていくシルバーに、サクラは再三に渡るお礼を言った。

 

「まあ、地均しでもしておくから、ゆっくり支度すると良い」

 

 肩越しに優しい笑みを寄越す彼の様子は、本当に頼りになる大人だった。

 両親に対する恩もあるだろうが、それにしても貰いすぎだと感じてしまう。一体何度感謝すれば良いのか分からなかった。

 と、頭を下げていれば、肩をちょんちょんと指で叩かれる。

 振り返ってみれば、サキが紙切れをこちらに差し出してきていた。

 

「はい。俺のPSSのコード。何かあったら連絡して」

「あ、うん。ありがとう」

 

 紙を借りて、サクラも自分のPSSのコードを伝えておく。

 これで離れていても連絡が出来る。

 バッグに端末をしまうと、ふうと息をついてから、バッグを肩に掛ける。

 よしと頷いて、サキに片手を差し出した。

 それに気が付いたサキは、やはり何処か照れた様子で、ゆっくりと手を取ってくれる。この姿も、一緒に旅をすれば少しは変わるのだろうか。そう思いながら、彼の温かい手をしっかりと握った。

 

「今日はありがとう。これからよろしくね」

「おう。こっちこそよろしく」

 

 柔らかい笑顔で挨拶を交わし、やがて手を放す。

 目の前の少年が、五日後には大事なパートナーだ。

 その実感こそまだあまり無かったが、それはきっともう一度ここに訪れた時、強く感じる事になるだろう。

 じゃあと言って、サクラは踵を返す。

 靴を履いて、もう一度だけ振り返って、「またね」と手を振った。

 サキも優しい笑顔と共に、「またな」と手を振り返してくれる。

 さあ、帰ろう。

 サクラはドアに手を掛けた。

 少し重たい扉を開ければ、翼竜のようなポケモンを従えたシルバーが待ってくれていた。

 扉を抜けて、外へ。

 清々しい春の昼下がり。

 サクラの決意を後押ししてくれるように、空は天気予報通り晴れ渡っていた。

 きっとウツギ博士は驚くだろう。

 だけど驚いた後に、必ず応援してくれる。

 強く背中を叩いて、祝福してくれるに決まっている。

 

――リィーン。

 

 バッグの中で鳴り響く、鈴の音には、未だ気付かない。

 そこから漏れ出す真白の光は、青空の下、あまりに静かな警告だった。

 

 シルバーの隣に佇むのは、巨大な耳と羽を持ったポケモンだった。

 蝙蝠と竜がハイブリッドになったような体つき。焦げ茶色を基調にして、くるくると喉を鳴らしている。オンバーンというカロス地方で稀に見られる珍しい種だった。その身の丈は普通、一五〇センチ程と言われているが、パッと見ただけでもサクラより大きく映る。サクラの身長から考えて、一七〇センチはありそうだ。随分と大きい。

 そんな稀有なポケモンの背を撫でて、シルバーはサクラに向けて質問を寄越した。

 

「空を飛ぶの経験は?」

「いえ、ありません」

「じゃあ、気を付ける事は知ってるか?」

「ええっと、あまり心配し過ぎないようにって事ぐらいしか……」

「そうだ。それが重要だ」

 

 シルバーは満足気に頷いた。

 ポケモンの背に乗って空を飛ぶ時、絶対に怯えてはいけない。人の心を敏感に察知するポケモンに、その恐怖心が伝染し、彼等のパニックを引き起こす原因になるからだ。叫び声を上げるのは言語道断。兎に角、ポケモンを信用する事。多少荒っぽい飛び方をしても、それは本来彼等がやっている飛行方法。飛べない訳が無いのだから。

 とはいえ、そのオンバーンはシルバーが育てたポケモンだ。

 彼はサクラが注意事項を了解した後、悪戯っぽくネタバレをした。

 

「まだ成長過程を抜けていないが、実のところサクラがどれ程怖がっても、こいつはビクともしないがな。例え振り落とされようと、しっかり拾ってやる。難なら飛行中飛び降りたっていいぞ」

 

 自信満々に言うシルバーだが、勿論サクラは飛び降りたりしない。しろと言われてもやりたくない。

 苦笑いで誤魔化すサクラに、シルバーも「冗談だ」と言って、含むように笑っていた。

 

「まあ、ゆっくりと空の旅を楽しむがいい」

「はい。分かりました」

 

 改めて掛けられた優しい言葉に、サクラは元気良く返事をした。

 ぺしんと音を立てて、シルバーがオンバーンの背を叩く。

 それを合図にして、オンバーンは恭しく頭を垂れ、翼を横に寝かせて、背を低く保った。

 先にシルバーが跨り、前にサクラを招待する。

 鞄を前に来るよう抱き込んで、シルバーの手を借りて、オンバーンの首根っこに跨った。

 よしと頷いたシルバーが、オンバーンの背をもう一度叩く。

 オンバーンがぐっと首を持ち上げると、サクラの足が地面から離れ、重心が後ろへぐらりと傾いた。その背を受け止めてくれるシルバーと、サクラを持ち上げるオンバーンの何と力強いことか。

 驚いて息を呑むサクラは、頭上でふっと笑うような音を聞いた。

 

「怖いか?」

 

 サクラは首を横に振る。

 胸の鼓動は煩いぐらいに跳ねていたが、それは恐怖心からくるものではない。

 

「いえ、ワクワクしてます」

「そうか。そりゃあ良い。舌を噛まないように口を閉じてろ」

 

 サクラの返答に、シルバーは嬉しそうな声を上げた。

 彼はサクラの横からオンバーンの首に手を突き、「行くぞ」と、短く零す。

 三度目の合図。

 

「飛べ、オンバーン!」

 

 翼がぶわりと広がり、地面を叩くように下へ。

 そこでぐんと下へ引っ張られるような圧と、ぐわんと視界が上へ跳ねて、思わず目を瞑る。

 身体の中身が下へ、下へと引っ張られる。ふとすれば誰かに押さえつけられているような錯覚を覚えたが、しかしそれが錯覚である事は分かっていた。風と重力の抵抗。人やポケモンを大地に繋ぎ止める力は、それ程までに強い。

 パニックに陥ってはいけない。

 忠告通り、声だけは出すまいと、ぐっと堪えた。

 ぐわんぐわんと波打つように、身体へかかる重力が変化する。ふとすれば酔ってしまいそうな程、その変化は著しい。ふっと上に抜けるタイミングは、正しく無重力のように感じたものだ。

 が、それも数秒の事。

 身体への負荷が和らぎ、恐る恐る目を開けば、大地は既に遠く。

 下を見ていたサクラの目には、緑の海に、ポツンと赤い屋根の家。隣にあるキキョウシティへ続く道が、くっきりと見えた。

 が、そんな感動も束の間。

 

「何だ。あれは……」

 

 シルバーの低い声が聞こえた。

 ちらりと振り返ってみれば、彼は呆然と前を見つめていた。

 その視線を追って、サクラは目を丸くする。

 瞳孔が開いていくような感覚を覚えた。

 

「うそ……なに、あれ」

「笑えねえぞ。オンバーン。急げ!」

 

 視界の果て、丁度ワカバタウンのある方角に、一筋の黒煙が認められた。しかしそれは、一筋と言い切るにはあまり鮮明。この距離でも視界に映る事が、そもそも異常だ。

 一体どれ程の規模なのか、それは遠目故に分からなかったが、黒煙の根本には緋色も認められる。疑いようもない程確かに、何かが燃えていた。いいや、少なくとも『何かが』という規模ではないだろう。

 その昔イッシュへ旅行に行った時、飛行機の中から見た景色は、まるでミニチュアの玩具のように感じたものだ。

 なのに、その煙ばかりは、何故あんなにも太く、くっきりと見えるのか。

 ワカバ全体に広がる火災だと、そう言うのか。

 ぐんと後ろへ引っ張られる感覚を感じる。後ろから押さえつけられるように、サクラはオンバーンの背へ押し倒された。

 

「サクラ。気をしっかり持て。ただの火事なら、俺が行けば何とかなる」

 

 恐怖してはいけない。

 そんな教えを忘れてしまいそうになる。

 それ程までに、サクラが目にした光景は、ショッキングなものだった。

 だってそうだろう。

 あそこはサクラが住んでいた場所で、サクラが育った場所で、サクラが帰る場所だ。

 ふとすれば身体からふっと力が抜けてしまいそうになる。

 

――リィーン。

 

 そんな折、再三に渡る鈴の音を聞く。

 そこでふと鞄に目をやって、漸く気が付いた。

 風ではためく鞄のべろの脇から、そこにあるべき暗闇を照らす光。何かが、鞄の中で光っていた。

 

「なに、これ」

 

 殆んど無意識に、そちらへ手を伸ばす。

 そこでハッとしたシルバーが、その手を止めると同時に、オンバーンに止まるよう指示を出した。

 

「何してんだ! 振り落とされたいのか!?」

「鞄が……何か、光ってて……」

 

 サクラがそう言えば、シルバーが掴んできていた手を緩める。

 上下に揺れる中、何とか鞄を開いてみれば、中から眩いばかりの光。その中央には、今まで鳴る事のなかった鳴る筈のない透き通った鈴が一つ。

 

――リィーン。

 

 再度、音が響く。

 サクラはその光と音色に魅了されたように、瞬間的に故郷の火事を忘れた。

 

「来るな?」

 

 サクラは聞こえた声を、無意識のまま反芻する。

 その言葉はサクラ自身の疑念へと繋がり、「何処へ?」と、続けて言った。

 誰の声かは分からない。

 聞き覚えも無かった。

 成熟した男性の声である事は確かだったが、人の声にしては随分と違和感があった。というのも、その声は、サクラの頭の中で響いたのだ。とても美しい音色のように、鈴の音と合わさって聞こえた。しかし、そのどちらもが互いを邪魔する事なく、強いて言うなれば鼓膜を揺らす音の方が邪魔で。

 まるで音色にルビを振ったかのように、その鈴は、人の声でサクラに『来るな』と言った。

 

「サクラ?」

「鈴が、来るなって言ってる。ワカバに……帰ってくるな。危ないって」

 

 ぼやくように零す。

 ハッとして振り返れば、シルバーは信じられないものを見るように、サクラと鞄の中を交互に見ていた。

 ややあって、彼は震えたような溜め息をついた。

 

「Lが覚醒している……」

「L?」

 

 問い返すと、彼は何処か焦燥感が感じられる表情のまま、首を横に。

 改まった様子で、サクラの頭を撫でてきた。

 

「サクラ。お前がその鈴を持っていて良かった」

「鈴? やっぱり、これが?」

「ああ」

 

 どう見ても、どう聞いても、それが原因。

 ただ、どうしてそれを断言出来るのかは分からず、追及するつもりもなかった。

 シルバーはこの鈴が何たるかを知っている。

 それだけは分かった。

 

「ワカバで、何が起きてるんですか?」

 

 サクラは問う。

 先程、シルバーは『ただの火事なら』と言った。

 だけど、今の彼は、それを『ただの火事』だと思っていないだろう。

 鈴がワカバに来るなと言っている理由を、彼は知っている。

 そんな気がした。

 シルバーは今一度視線を前へやる。

 

「さあな。ただ、その鈴の本体に被害が出ているのは確かだ。最悪、ただの救助活動に行く訳じゃなくなる。ワカバは、何者かの強襲に合っている可能性もある」

 

 そう言って、今一度サクラへ視線を寄越す。

 その目は、何処か躊躇いが感じられるものだった。

 ごくり。

 生唾を呑む。

 未だ鳴り響く鈴は、シルバーの懸念を肯定しているようだ。本当に何となくだが、そう感じた。

 つまり、シルバーが悩む理由は、サクラの存在だ。

 仮にワカバタウンが何者かの手によって燃やされているのであれば、サクラがついていくのは間違いかもしれない。そこにはきっと敵が居て、サクラの命も脅かされるかもしれないからだ。

 現に鈴は『来るな』と言っている。

 これが何なのかは分からないが、その真意はサクラの身を案じているように感じられた。

 だが、燃えているのは、故郷なのだ。

 そこには、ウツギ博士をはじめとするサクラの大切な人々が居る。サクラの大切な家がある。

 それらを見捨てて、自分だけ逃げようだなんて、出来る訳がなかった。

 

「連れてって。お願いします」

 

 シルバーの腕を掴み、嘆願する。

 元より、自分を下ろしている時間さえ惜しい筈だ。

 逡巡の後、シルバーは舌打ちを一つ零した。

 

「飛ばすぞ。掴まってろ!」

 

 低い声で警告の後、オンバーンは先程よりも速いペースで空を飛んだ。

 

 ワカバタウン近郊まで、一時間も掛からず、オンバーンは一息に飛びきった。

 ポケモン協会が定めている安全飛行速度はゆうに超えていただろう。サクラが振り落とされなかったのは、シルバーがしかと抱き留めてくれていたからだ。

 耳元で暴れる風の音があまりに乱暴で、怖くて目を開けていられなかった。ワカバタウンから上がる火の手と、不可思議な鈴の警告に頭がいっぱいで、空を飛ぶ前に教えて貰った注意事項なんてすっかり忘れてしまっていた。

 漸く目を開くことが出来たのは、身体に掛かる重力がぐんと上に引っ張られた時。

 ふと気が付けば、周囲が熱い。

 鍋を酷く焦がしたような匂いが鼻をついた。

 

「29番道路に着陸する。舌が千切れるから口を開くな」

 

 黒煙に近いからか、森の緑が夜の色合いのように感じられる。

 ちらりと前方へ視線を向けてみれば、ワカバタウンの方は黒煙の所為で全くと言って良い程視界が通らない。町へ直接着陸するのは不可能だろう。襲撃の可能性を考慮するなら尚の事だ。

 サクラは言葉を返さないままに、オンバーンの首に回した手へ、力を籠める。右手で握りしめた左の手首が、軋むような痛みを覚えたが、気にしていられない。地面は瞬く間に近付いてきていた。

 怖いのに、目が閉じられない。

 風圧の所為じゃない。

 目を閉じる事にさえ鈍感になってしまう程、サクラの頭は呆然としていた。

 故郷を覆いつくす黒煙は、まるでテレビの中の出来事のよう。その根元にある炎の大きさを知った時、サクラの心にまでぼうっと火を点けられたような気がした。

 思い出が燃えている。

 正しくそんな感想が頭の中に浮かんだ時、ぐわんとサクラの身体が引っ張られた。

 殆んど真下へ落ちるような急降下の後、一度の大きな羽ばたきで、オンバーンは体勢を変える。ゴシャッと音を立てて地面を引っかき、前方へ二歩、三歩たたらを踏んで、漸く静止。

 その衝撃は、シルバーが言った通り、舌を出していたら噛み千切っていたと思わせる。

 

「サクラ、降りるぞ」

 

 シルバーに言われて、促されるまま地面に足をつく。

 彼の手を借りてオンバーンから離れてみれば、何度かの慣れない重力の所為か、はたまた傷心の所為か、不意に膝が笑ってそのまま地面へ転んだ。あまりに無様な転倒だったが、ふとすれば視界までもがぐらぐらと揺れる。立ち上がれない。

 

「…………」

 

 隣で腰を折るシルバーが、サクラの身を案じたように、肩に手を置いてくるが、その口は動いているのに言葉が聞こえない。

 バチバチと音を立てて、砕け、飛び散っていく思い出の欠片たちの悲鳴ばかりが、鮮明だった。

 促されるように視線を上げて、目に映る景色に喉が震えた。

 

「なんで、どうして……」

 

 胸がキリキリと痛む。

 揺れる視界が捉えた緋色は、町の南側を根こそぎ飲み込んでいる。一体何時から燃え出したのか、幾つかの建物は既に既に原型さえ留めておらず、残っている建物もそのシルエットだけが緋色の中に存在しているだけ。

 のどかなワカバタウンの景色は、何処にもなかった。

 胸を押さえて蹲ったサクラの脳裏に、先程の平穏な時間がよみがえってくる。それら全てが、『お前が笑っていた間に、故郷は燃えた』と、ありもしない罪を突き付けてくるようだった。だけど、それが痛い。鋭利なナイフで胸を掻っ捌かれているようだ。

 涙が溢れて止まらない。

 こんな事をしている場合じゃない。もしかしたら、誰かが助けを求めているかもしれない。そう思って連れて行ってとお願いしたのに、何だこの体たらくは。だけど、痛くて痛くて動けない。何もかもが悲しくて、切なくて、口は絶叫するばかり。耳は思い出の悲鳴しか拾わない。

 膝は心を表すように、折れたまま動かない。

 

『出せ。僕をここから出せ!』

 

 そんな折、ふと耳をつく幼い男の子の声。

 まるで助けを求めるような字面だが、いいや、違う。閉鎖された空間に、憤慨しているような声色だった。

 その声は聞き覚えが無くとも、知っている声。

 サクラの頭の中にしか、存在しない声。

 声の導くままに、右手が勝手に動く。胸から腹へ。腹から腰へ。ゆっくりと震えた手が進んでいき、ベルトの一番前にあるボールを力無く取り上げた。

 

「レオン。おねがい……」

 

 セーフティロックを解除。

 もう一度ボタンを押せば、ボールは跳ねるように勝手に開いた。

 

『何やってんだよ! 泣いてる場合じゃねえだろ!!』

 

 そんな声が聞こえた気がする。

 次の瞬間には、シルバーに支えられて俯くサクラの顔面へ、とても痛い一打が飛んできた。

 バチン。

 となれば、あまりの痛みに思考が吹き飛ぶ。

 悶絶する痛みは、眠気さえ根こそぎ消し去ってしまう一撃。毎朝、自宅でサクラを目覚めさせていたレオンの十八番――目覚ましビンタ。

 打たれたサクラは、シルバーの手から零れて、再び無様に地べたへ転がった。だけど、『再び』なんて言葉はここでおしまい。サクラの思考は、一転した。

 

「っつぅ……」

 

 そうだ。泣いている場合じゃない。

 痛みに堪えながら、ゆっくりと身体を起こす。

 シルバーが助けを寄越そうとしていたが、手を差し出して必要ないと示した。

 大丈夫、立ち上がれる。

 こんな胸の痛み、レオンの目覚ましビンタより痛くない。

 涙を拭う事もせず、面を上げる。

 ゆっくりと立ち上がれば、その途中でレオンがサクラの肩へ飛び乗ってくる。ちらりと目を向ければ、彼は黙ってワカバタウンの惨状を見つめていた。つぶらな眼に映る緋色はしかし、彼の闘志を映すようで。それが伝染するように、サクラの心にも先程とは違う火が灯った。

 

「大丈夫か? サクラ」

 

 ふうと息をついたところに、シルバーの声がかかる。

 サクラの心が平静を取り戻したのを見越したように、真剣な表情での問いかけ。いいや、確認だろう。

 サクラはこくりと頷いて返した。

 

「わたしに出来る事をやります。一人でも多くの人を、助けます。指示を下さい」

「冷静な判断だ。助かる」

 

 満足気に頷いたシルバーは、ベルトから一つのボールを外す。

 それをそのまま、サクラに差し出して来た。

 黒地に黄色くHの烙印が押されたボール。

 ハイパーボール。

 

「持っていけ。バンギラスのボールだ。火には強いし、力もある。チラチーノの耳があれば、助けを求める声にも気が付けるだろう」

 

 余った手で出しっぱなしのオンバーンをボールに戻し、そう述べるシルバー。

 自分のポケモンを他者に預けるなんて、易々と出来る事ではない。それ程必要とされているのだろう。

 

「襲われたらこいつに対処させろ。並みのポケモンなら何の指示も必要ない。絶対に自分のポケモンで対処するな。良いな?」

 

 その理由は深く語られない。

 だが、聞かずとも分かった。

 これ程までの火事が、もしも人為的に引き起こされたのだとしたら、そのトレーナーが持つポケモンはかなりの力量をしているだろう。サクラのレオンやルーシーでは相手にならない。下手をすれば殺されてしまう。

 サクラは深く頷いて、ボールを預かった。

 一先ずベルトの三つ目につけておく。

 

「取り急ぎ研究所に向かうぞ。博士の安否が最優先だ」

 

 命に貴賤はない。

 29番道路から一番近い施設がウツギ研究所だからだろう。

 サクラはそう思う事にした。

 シルバーの判断に自分がホッとしている事は、今この場において、考えるべきではない。忘れておこう。

 先行したシルバーの後を追う形で、ワカバタウンへ入った。

 

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