ワカバタウンの惨状は、外で見るよりずっと凄惨だった。
殆んど全ての建物が火に包まれており、空は快晴の日中にも拘わらずどす黒い曇天。なのに舞い上がった火の粉が照らし、空は明るい。天へ昇っていく煙が、まるで何匹かの蛇が蠢いているかのように、鮮明な様子で映る。
ハンカチで口元を押さえているのに、焦げ臭い匂いが離れない。纏わりつくような熱気と共に、自分を灰色に染めていくような気がした。
酷い。
サクラは端的にそう思った。
ワカバの慣れ親しんだ景色とは似ても似つかない光景に、ふとすれば再度心が折れてしまいそうになる。何とか堪えていられるのは、肩に乗ったレオンが時折頭をポンポンと叩いてくれるからだ。それは目覚ましビンタではなかったが、サクラの心をか細い力で支えてくれていた。
町に入ってすぐ。
ウツギ研究所も燃えている事が分かった。
施設の前には倒れた人影。その人物が白衣を着ている事を確認すれば、サクラは思わず「博士!」と声を上げた。
シルバーと共に駆け寄って、倒れ伏している痩せこけた身体をサクラが抱き起こす。仰向けにすれば顔はすっかり煤まみれで、瞼は力なく閉じられていた。嫌な予感がして口元に耳を当てれば、呼吸が薄い。胸に手を当ててみれば、その心音もとても弱々しく感じる。
「博士! 博士!!」
強く呼びかける。
しかし、返事はない。
完全に意識がなかった。
外傷はあらず、火傷をしている様子もない。ただ、有毒な煙を強く吸ってしまったようだ。研究所から脱出こそしているが、それで精一杯だったのだろうか。
何で……?
ふと疑問に思って、研究所を見やる。
その大半は火に包まれているが、まだ外壁の白さが分かる程だった。
町の外れにあるからか、他の建物よりは火の浸食が遅い。だと言うのに、逃げ遅れたというのか?
「博士はやるべき事を全うしたようだ……」
そう言って、隣で腰を下ろすシルバー。
自分の思考に直接回答したような言葉に、彼へ目をやれば、その手がウツギ博士の手元へ向かう。力無く握られていた手を解けば、中から小さな球体が転がり落ちた。地面へ落ちて、その拍子にボタンが押されて、セーフティロックが解除される。ヒュオンと音を立てて大きくなれば、それはサクラが文献の中でしか見た事がないモンスターボールだった。
紫を基調とし、Mの烙印が押された最高峰のボール。
マスターボール。
サクラが初めて見たと思う通り、こんなものがウツギ博士の手元にある事は今、初めて知った事だった。
両親が博士から受け取ったという話を、随分前にウツギ本人から聞かされた覚えがあるが、何を捕獲したかは聞いていない。果たしてそれが両親のボールなのかも分からない。
そもそも、何か捕獲されているのだろうか?
ふと手を伸ばそうとして、しかしサクラより早く、シルバーがそれをさらった。
「これがL。ウツギ博士が保管していたコトネのポケモンだ」
「お母さん……の?」
「ああ。詳しくは後日聞く予定だった。最近、これの反応が大きくなりつつある。覚醒が近いのではないかと言っていた」
ふとすれば、嫌な考えが脳裏に過ぎる。
サクラはそのまま、それを口にした。
「もしかして、そのポケモンが、これを?」
しかし、シルバーは首を横に。
あり得ないと言った。
「このポケモンはまだここに入っている。タイプも炎じゃない。エスパーと飛行だ。親和性があるのも水タイプで、海の神と呼ばれている」
海の神。
と聞いて、サクラの記憶がふっとよみがえる。
その昔、何処かで聞いて、興味があった為にほんの少しだけ調べた事。
「それって、わたしが生まれる前にアサギを襲った……」
「良く知っているな。そうだ。『うずまき島の大沈没』その時、コトネがこいつを捕獲した」
記憶がそのまま肯定される。
一五年前。
突如うずまき島の一つが内側から爆発した。それは連なるように、二つ目、三つ目と伝染し、ついには四つ全てのうずまき列島が四散する事になった。直接的な原因は分からず。ただ、その被害だけはとても大きかった。うずまき列島が沈んだ事により、アサギシティとタンバシティは大きな津波に襲われたのだ。タンバは元来、そういう被害が多く、島民の多くがホウエン地方へ避難し、事なきを得た。しかし、水害に慣れていなかったアサギの住人は、その多くが犠牲になってしまった。犠牲者の数は、人とポケモンを合わせて一万を超えたという。
母がその事件に関わっていたのは初耳で、元凶と言われるポケモンがまさかウツギ博士の手元に居るとは思いもしなかったが……成る程。確かに、海の神であれば、火を起こして暴れ狂うなんて事は無いだろう。その気になればワカバの東には、大海へ繋がる川がある。ワカバが津波や浸水被害ではなく、火災に包まれている時点で、そのポケモンの関与の線は薄いだろう。
なんて考えている場合ではないか。
サクラは首を横に振って、今しがた考えていた事を一旦脇に置く。
ウツギ博士を空気の良い場所へ。29番道路へ避難させてあげたいと思った。
しかし、そんなサクラをよそに、シルバーはマスターボールをじっと見つめたまま動かない。博士の肩を担いだところで、サクラは彼の様子に疑問を持った。
「シルバーさん?」
声を掛けてみるものの、シルバーは静かにボールを見つめている。
何か重要な事を考えている様子で、ピクリとも動かない。
そんな事をしている場合じゃないのに。
そう思って、再度声を掛けようとしたところで、「サクラ」彼がこちらを向いた。そして、ゆっくりとした動作で、マスターボールを差し出してくる。
「これは……お前のポケモンだ」
「はい?」
まさかこんな時に冗談を言う筈もない。
シルバーの表情も、真面目そのものだった。
だがしかし、マスターボールなんて貴重なものに保管されたポケモンを、易々と受け取れる訳がない。サクラの記憶が正しければ、そこに入っている『うずまき島の大沈没』の元凶は、伝説のポケモンだった筈。幾ら母のポケモンと言えど、自分には扱えないポケモンだろう。
そんな疑惑の視線を向ければ、シルバーの視線はサクラの目から逸れ、肩から掛けている鞄へと落ちる。
「海鳴りの鈴。お前が持っている鈴は、このポケモンの主が持つべき証だ。その鈴がお前に警告を送った以上、お前はこのポケモンを持つ資格がある……いや、違うな。お前以外に、持つ資格のある奴がいない」
ハッとして、サクラも鞄を見る。
その中からは、未だ真白の光が漏れ出しているようだ。
どういう事だとシルバーを見やれば、彼は少し考えた後、今一度口を開いた。
「このポケモンを鎮める為の鈴が、お前の持つ鈴なんだ。それが無いと、うずまき島のような災害が、再び起こる可能性がある。今、この一瞬の後にも、怒れ狂うLがこの地を水底に沈めようとするかもしれない。ウツギ博士は強力な麻酔を与える装置に保管していたようだが、研究所があれでは使い物にならないだろう。鈴に認められたお前が持つべきポケモンなんだ」
ふと、研究所にあった使い道の分からない大きな機械を思い出す。
以前、それが何なのかとウツギに聞いてみたら、確かに重要なポケモンを保管する機械だと言っていた。それがその時も起動していたとは思わなかったが、サクラはマスターボールが何処にあったのかと言われても思い浮かばない。何度か大掃除をした時も、その機材は触らなかったし、他にそれっぽいボールを見た覚えもなかった。
今思い返せば、納得がいく。
サクラはちらりとバッグを見やる。
注視すれば僅かに漏れ出している真白の光と共に、静かな音色が聞こえていた。
しかし、その音色はシルバーはおろか、サクラの手持ちにだって聞こえた様子はない。言葉を理解出来たのも、おそらく自分だけだろう。認められたとは、そういう事なのだろうか。
「何もしなくて良い。ボールを開ける必要もない。兎に角、この急場をしのぐまで、サクラが持っていてくれ。今この状況でこいつが暴れたら、この町が地図から消える事になる」
そう言って、再度マスターボールが差し出された。
シルバーの顔付きは険しい。
その表情を見るに、単なる方便や脅し文句ではないようだ。
逡巡の末、サクラは余った手でボールを受け取った。
高性能なボールらしく、レオンやルーシーのそれより、僅かに大きく、重たい。
初めて握る感触に何か大事な決断をさせられた気になって、サクラはゆっくりと息を吐く。暫くして自動のセーフティロックが働き、ボールが縮小した。それをゆっくりと六番目のアタッチメントへ装着し、見届けたシルバーに頷いて見せる。
四番目や五番目ではなく六番目に装着した意図は、語らずとも伝わったようだ。
シルバーはそれ以上そのポケモンに対する忠告をする事なく、町の東側へ目を向けた。
「サクラは博士を29番道路へ。安全が確保出来たら、人命救助に当たってくれ」
「分かりました」
「俺も要救助者を見つけたら対処はするが……期待はするな。それはお前に任せる」
「分かり……ました」
東を見やるシルバーの顔付きは険しい。
ちらりと視線を追ってみるが、サクラには燃えた故郷の景色が映るだけ。
自宅の隣に咲いている筈の自分と同じ名前の樹が、音を立てて崩れていった。
目を背けるように、シルバーに背を向ける。
地面に降りていたレオンに手伝ってもらって、今度こそウツギ博士の肩を担ぎ上げた。女子の膂力でも、彼の不健康な身体は軽く上がり、そのまま引きずる形で29番道路へ向かった。
敵が居る。
ワカバタウンは、誰かの手によって燃やされた。
暗にそう語るシルバーは、果たして何処に敵を見つけたのか。
しかし、サクラが深く追求しなかったのは、自分が邪魔になるだけだと分かっていたからだ。ここは冷静に、素直に指示を聞く良い子である事だけが望ましい。いち早くウツギ博士の避難を済ませる事だけが、サクラに出来る最善だった。
ワカバを出ようかという時、振り返ってみると、シルバーの姿は既に無かった。
誰も居なくなったワカバタウン。
緋色に照らされている姿は、散りゆく紅葉のよう。残酷過ぎる程に、綺麗だった。こんな幻想的な景色は、きっと二度と見る事が無い。締め付けられるような苦しみ、悲しみは、この画の価値を訴え続ける。失われていく戻らない日常を、何と尊いものだったかと、知らしめるようだった。
ふとすれば膝からガクッと崩れ落ちそうになる。
まだダメ。挫けちゃダメ。
何とか気丈に振る舞って、29番道路へ向き直る。
まだ日暮れ前なのに薄暗い道路は、しかしホーホーの鳴き声が聞こえる訳でもない。オタチやコラッタも逃げ出してしまったのだろう。少し行けば、もう安全だと思えた。
まだワカバから程近い。
だけど、熱気は少しばかりマシになった。
なら、空気は変える事も出来る。
博士を湿気た林の上に寝かせて、二つ目のボールを取り上げた。
「ルーちゃん。お願い」
そう言ってボールを開けば、草むらにシルエットが落ちる。
ルーシーは普段の温かい表情を失ってしまったかのように、悲し気な顔をしていた。
長い言葉は不要だったのか、彼女は博士の脇で膝を折り、彼の額に手を当てる。柔らかな緑の光が彼女の手から広がれば、辺りの空気が少しばかり爽やかになった。
彼女の光合成があれば、ウツギ博士の中毒症状は和らぐだろう。
鞄から上着を取り出して、煤まみれの白衣の上から掛ける。
「じゃあ、戻ろうか」
サクラはレオンにそう声を掛けた。
彼はこくりと頷いて返してくれる。
しかし、その時だった。
ドン。という爆発音が響く。
思わず地面に転んだサクラが、耳を押さえながら忌々し気に振り返ると、故郷の中心で高々と上る火柱が目に留まった。
ごうごうと音を立てる様子は、まるで生き物のよう。
周囲に飛び散った大きな火の粉が更なる火災を呼び、火の手が更に激しくなる。あっという間に町の入り口まで大きな火の玉が飛んできて、そこに大きな火の壁が広がった。
どう見ても、もう戻れない。
「そんな……」
無意識に立ち上がったサクラは、口に手を当て、絶句する。
あれじゃ、中に居るみんなは……。
シルバーさんは……。
猛る炎は、人の身体などあっという間に焼き尽くすだろう。
先程のウツギ博士のように、外へ脱出した人が居たとしても、もう……。
助けに戻りたいのに、サクラには水タイプのポケモンがいない。シルバーから預かったバンギラスも、いくら火に強いとはいえ、この規模の火災に巻き込まれたら命の保証が出来ない。
そもそも、今から戻ろうものなら自分の命さえ危うかった。
もう、見ているだけしか出来ない。
そう突き付けられて、心の中の何かが音を立てて折れた気がした。
がくりと膝を崩す。
「やだ。やだよぉ……」
顔に手を当てて、蹲る。
先程は励ましてくれたレオンも、あまりの光景に、茫然自失だった。
ウツギ博士を庇うルーシーも、泣きながら光合成を続ける事しか出来ない。
無力だった。
あまりに無力だった。
サクラ達にはもう何も出来る事がなかった。
「あらあら、泣いちゃって。可哀想に」
そんな折、若い女性の声が聞こえた。
聞き馴染みの無い声に、ふと顔を上げる。
先程通ってきた道。
ワカバタウンへ戻る道。
大きな火の壁が遮った筈のその道を、静かに歩いてくる影が一人分。
炎の中を歩いているというのに、その身体にはこれっぽっちも引火しない。黒いコートの裾もはためいているのに、火に触れて尚、柔らかな布のまま、更にはためき続けている。
一目に異様な光景。
こつり、こつりと地面を踏み均す音が、轟音の中でも鮮明に聞こえた。
「初めまして。サクラ」
その影は、やはり女性の声を吐き出す。
しかし、あまりに強い火の手を背後に、逆光でまともに顔が見えない。目を凝らして漸く、その顔には仮面のようなものが付けられていると分かった。
誰だろう。この人。
サクラは見知らぬ影に対して、擦り切れた心でほんの小さな疑問を持った。
その疑問は『こんな時に』という言葉の付与で、少しだけ大きくなる。更に『こんな場所で』と続いて、もう少しだけ大きく育つ。そして、『わたしの事を知っている?』と至って、漸く疑問の大きさが心のダメージを超えた。
「あなた、だれ?」
しかし、ようやっとそう零したのは、能面の仮面を被った女が、目と鼻の先へやって来てからの事だった。
サクラの言葉に呼応したように、女の手が伸びる。
次の瞬間には、レオンのハッとしたような鋭い鳴き声と、サクラの首への衝撃が、同時にやってきた。
「ぐ、ぁっ」
「さあね? 誰でしょうね?」
小首を傾げる女。
その力はサクラより強く、身長もサクラより高い。
首を掴まれ、持ち上げられてしまえば、あっという間に呼吸が詰まった。
そこで視界の端に居たレオンが飛びあがる。
今に女の顔面へ手痛い一撃をくれようとした彼だったが、明後日の方向からやってきたらしい衝撃で、サクラが聞いた事のないような悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
きつく締め上げられて、振り返る事も出来ない。
助けを求めるかのように視線を流せば、ウツギ博士の傍らにいた筈のルーシーがいない。いや、彼が寝ているその更に奥手で、四足歩行のポケモンの口に咥えられていた。既に意識がないのか、腹を咥えられたままピクリともしない。彼女は吐き捨てられるように、転がされた。
「ぐる、しっ……」
首を締め上げる手を、両手で掴んで何とか抵抗しようとする。
だけど、その手はビクともしない。
ぎりぎりと音を立てて、サクラの首を圧迫する。
「呑気なものよねえ。あんたの所為で、こんなにいっぱい、殺さなくちゃいけなくなったのに」
どういう事?
鈍っていく思考の中、浮かんだ疑問は警鐘を鳴らす。
『殺す』という単語に導かれるように、視線は今しがた助けた筈の人へと向いた。
するとそこには、四足歩行のポケモンが居る。
血液が回らなくて歪んだ視界は、そのポケモンが何かとは判別出来なかったが、ウツギ博士の首に前足を置いているのだけは分かった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
サクラは背筋が凍るような気がして、思い切りジタバタともがいた。
「や、めて……やめ、てよっ!!」
それが奏功して、偶々女性の腹を強い力で蹴り上げた。
動脈の圧迫から解放され、サクラは「はあっ」と息を吸い込む。だけど火事の所為で酸素が足りなさすぎて、吸い込んだ苦い空気にむせる。口を押えた手を離せない程、咳き込んでしまった。
視界は歪んだまま。
だけど、女が忌々し気に呻けば、今にウツギ博士を殺めようとしていたらしいポケモンは、姿を消す。
ふと、頭を強い力で殴られた。
側頭部からの衝撃は、咳を沈めようとしていたサクラをあっさりと横倒しにする。
そのまま訳が分からなくなって、サクラの思考が停止した。
頭に、何かが乗っている。
鋭くて、冷たいもの。
爪?
視線をやれば、ぶれた視界の中、黄色と紫の斑模様を認めた。
猫の顔。鋭い眼。狡猾そうな牙。
そのポケモンの名前は、確か、レパルダス。
だけど、サクラの記憶にあるそれと、何処か違和感がある。
目。
目が、片方、無い。
眼帯で隠されている。
隻眼のレパルダス。
「あなた、だれ?」
見覚えがない。
だけど、何故だろう。
サクラはそのポケモンを知っているような、不思議な感覚を覚えた。
いいや、知る訳がない。レオンとルーシーを一撃でぶちのめすようなポケモン、サクラは知らない。
自分を殺そうとするポケモンなんて。
人を殺そうとするポケモンなんて。
知らない。
知っている訳がない。
だけど、何で……何でこんなに、懐かしい?
「しに、たく……ない」
そうぼやく。
そう訴える。
何故かは分からないが、そのレパルダスは、自分の頼みを聞いてくれるような気がした。
自分を見下ろす左の瞳に、ほんの僅かな哀愁と、躊躇い。まるで我が子を手に掛けなければいけないような、そんな深い悲しみが感じられる。
ふとすれば、サクラの頭から、重みが消えた。
「何やってるの?」
そこへ聞こえてくる低い声。
歪んだ視界に、幽鬼のように立ち上がる女の姿が映った。
『イヤよ。わたしにさせるつもり?』
レパルダスから、そんな声が聞こえる。
ポケモンの声が聞こえる筈もないのに、サクラはそれを、レパルダスの声だと認識した。
「そうよ。あなたがしなさい」
『イヤだと言ってるの』
女とレパルダスは、どういう訳か会話をしている。
だけど、サクラはそれに疑問を持つ余裕はなかった。
今しかない。
今しか、この窮地を脱する隙はない。
そう感じて、力が入らない手をベルトに掛ける。
「やって」
『イヤ』
「そう。じゃあもういい」
女は呆れたように、舌打ちを一つ。
こちらへゆっくりと近付いてきた。
もう少し。
もう少し待って……。
そんなサクラの願いが通じたのか、そうでないのか。
レパルダスが『そういえば』なんて言葉で、女の注意を引いた。
足を止めた女が、レパルダスを振り返る。
『あっちはそろそろ、佳境かしらね? あなた、随分と意地悪だわ』
「知らない。どうでもいい」
そのほんの僅かなやり取りが、サクラの手に、ボールを握る力をよみがえらせた。
アタッチメントから外して、セーフティロックを解除。
ボールを、手の中で開く。
おねがい。
たすけて……。
バシュンという音と共に、閃光が広がる。
ふとすれば意識を失ってしまいそうな倦怠感の中、その光がサクラの目を焼く。反射的にきつく閉じた瞼が切っ掛けとなって、心と身体に僅かな活力が戻ってくる。
聳えるようにさえ感じる巨躯は、サクラが今まで見てきたどのポケモンよりも巨大。隆々とした強靭な肉体は、山を崩し、地図をも書き換えると謳われる。戦いの為に生き、戦いの為に死ぬと言われたジョウト最強と名高いポケモン。
バンギラス。
「グォォオオオオッ!!」
その猛りが、大地を震わせる。
彼の咆哮で、サクラの身体が後ろへ吹っ飛ばされた。
未だ痛む頭を押さえながら、ゆっくりと起き上がれば、雄々しく吼えるバンギラスの後姿は、あまりに凶悪に映る。
そのポケモンに、指示は不要だ。
シルバーの言葉の意味を、サクラは瞬時に理解した。
指示が要らないんじゃない。
サクラの指示なんて、絶対に聞いてくれない。
こちらに配慮してくれるかさえ分からない。
そんな荒々しい風格を、肌でびりびりと感じる。
しかし、それは杞憂。
咆哮を終えると、バンギラスは両手を広げて立ち塞がった。
肩越しにサクラを振り返り、短く鳴く。
その言葉は分からなかったが、『逃げろ』と言っているように感じられた。
ハッとして、サクラは振り返る。
ウツギ博士は変わらずの位置で未だ横たわったまま。しかし、サクラのポケモン達が見当たらない。
立ち上がり、ルーシーを探す。
確か、ウツギ博士よりも奥手で吐き捨てられていた。
目を凝らしてよく捜せば、草むらの中で横たわっている緑色の塊を見つける。
「ルーちゃんっ!」
急いで二番目のボールを取り出し、彼女に向ける。
ボールの中に収納する赤い光線は、その姿をきちんと捉えた。
続いてレオンを……。
と、したところで、背後の状況が動いた。
ドンと音が鳴ったかと思うと、地面が強く揺れる。
身体を突き上げるような衝撃に、サクラはその場で膝を崩した。
ちらりと背後を確認すれば、バンギラスの顔面が隻眼のレパルダスに強打されている。地震を躱され、その反撃を喰らったようだった。しかし、そこは『よろいポケモン』の名に相応しい耐久力。バンギラスはレパルダスへ振り向くと、開いた口腔から真白の光線をぶっ放した。
キュィイイイン。
と、甲高い音が響く。
しかし、その破壊光線が終息すれば、そこに居た筈のレパルダスはバンギラスの頭上。前足を高々と振り上げると、穿つように脳天を打った。
ドゴォ。
およそあのしなやかな体躯から発せられるとは思えない鈍い音が響く。
バンギラスはふらついて、それでも倒れない。
煩い羽虫を払うように、手を振った。が、レパルダスは既に地面に着地していた。
「シルバーさんのバンギラス。強いんだけどねえ。指示がないと無理。この子には勝てない」
何処からか聞こえてくる女の声に、サクラはゾッとした。
あれ程研究して、育て上げられたバンギラスを前に、余裕の声色。
いいや、見た目にも分かる。
バンギラスはあの隻眼のレパルダスに勝てない。
サクラは腰が抜けたまま、じりと後退った。
そこでふと、手が柔らかい何かに触れる。
視線をゆっくりとやってみれば、白い体毛が目に入った。
「レオン?」
ハッとしてその身を抱き起こす。
しかし、つぶらな瞳は瞼が閉じられたまま。ピクリとも動かない。
ふと、相棒の背を支えた手がぬるりとした何かに触れる。
僅かな疑問に促されて、その手を改めれば、そこには赤黒い液体。ハッとしてその背中を改めれば、真白の体毛が真っ赤に染まっていた。
「ひっ……」
傷の深さも確かめないままに、サクラは顔を引きつらせる。
大事な相棒をぎゅっと抱きしめれば、いつもは嫌だと言って抵抗するのに、こんな時ばかり素直に抱かれている。何の抗議が無ければ、抵抗もない。糸の切れた人形のように、まるで力が入っていない。
「こんな、こんなのって」
耐え切れなくって、サクラは蹲った。
死というものに初めて触れた気がした。
先程からそれを直視するような出来事があったが、冷静でいられた自分は、きっと何一つ分かっちゃいなかったのだ。愛しい家族の血を目にしただけで、こんなにも恐ろしい。指一本動かせなくなってしまう程、思考は後悔と絶望に囚われてしまう。
ダメだ。ダメだ。
僅かに残ったまともな思考が警鐘を鳴らす。
今は嘆いている場合ではない。
早く逃げないと、本当にみんな殺されてしまう。
分かっているのに、思考が回らない。片隅で鳴っている警鐘は、あまりに非力だった。
ズン。
と、響く地鳴りの音がして、警鐘の音が増す。
何を警戒する訳でもなく、確認の為でもなく、臆病風に吹かれたサクラは、ゆっくりと視界を上げる。恐ろしいものが近付いてくる気配がして、それを少しでも和らげようと、本能的に目視した。
バンギラスが倒れていた。
無双を謳う筈の猛者が、あっさりと地に伏していた。
その奥に、能面の仮面を被った女。脇に行儀よく佇むレパルダス。
それは明確な死の気配。
いとも容易く自分や自分の大切な者の命を奪う存在。
恐怖が心の容量を超えて、全てが停止した。
指は愚か、視界さえも動かせない。呼吸も上手く出来ずに、心臓さえ止まってしまったのではないかと思える。立ち上がる事なんて出来る筈が無いし、泣いて命乞いをする事だって出来ない。サクラはもう、ここで死を待つだけの存在に成り果てた。
怖い。
ただ怖い。
だけどもう、それさえ苦痛ではない。
恐怖が普遍的なものであったかのように、心が麻痺する。怖い筈なのに、怖くない。怖くて当たり前過ぎて、恐怖という感情が失われていく。ふとすれば、今の自分があまりに無様に思えて、笑ってしまう事だって出来ると思えた。
いいや、そんな訳ない。
笑える訳、ないじゃない。
だって、今からだったのに。
サキと一緒に旅をして、両親を捜そうって約束したのに。彼との旅は、楽しいだろうなって、そう思っていたのに。
死にたくない。
死にたくない。
まだ始まってもいないのに、こんなところで終わりたくない。
ドクン、ドクン。
胸が強く鼓動を打つ。
頭にまで響いてくる激しい音は、今、サクラが生きている証の音。生きる為に鳴っている音。
数多の鼓動が頭の中で満ち溢れ。加速する。
早鐘を打つ音は、波紋のように頭の中で広がった。
――リィーン。
そこに、聞こえる鈴の音。
それは真っ暗な中、波紋だけを映す視界に、真白の光を与えるよう。
清涼感のある音が、意識を引き戻す。
生きる為に抗え。
死を享受するな。
繰り返される鼓動がサクラに力を取り戻させた。
鈴から聞こえる音色と声が、自分のやるべき事を明確にする。
そう、サクラはまだ、抗える。
サクラにはまだ、戦えるポケモンがいる。
さあ、呼べ。
わたしの名を。
永き眠りより、今度こそ解き放て。
サクラは導かれるように、六つ目のボールを取り上げる。頭に響くその声を信じ、ボールを天へ向けて掲げた。
わたしは、このポケモンの主だ。
あなたが、わたしの主だ。
サクラの思考と、この時を待っていたポケモンの声。その二つが、頭の中で重なった。
「目覚めて……ルギア!!」
開いたマスターボールが、強く光りを放った。
それを見やる襲撃者の女は、「ふふっ」上出来だと言わんばかりに笑っていた。
CP1の展開の早さについて
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遅い
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丁度良い
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早い