珠世さんの風俗体験記   作:ふぅん

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遊女との別れ

 

 

 

 

 夕日が沈む寸前の空が薄紫になる時間。街を去る決意を固めた珠世は人混みの中をとぼとぼと歩いていた。

街はずれへ向かう道を一歩ずつ進むほどに、横隔膜が重くなっていくような気がした。

せめて雲が朱色に染まる夕暮れ時なら良かったのにと、太陽の光にあたると灰になってしまう体を恨む。

 

「(結局、渡せなかった…)」

 

 袂からおもむろに取り出した簪をやるせない溜息と共に未練がましく弄った。

持っている簪の中から選んだ一番好きで似合いそうな一本。それを自分だと思って貰おうと渡すつもりで渡せず、未練が残ってしまう。

あの甘い声も、美しい髪も、暖かな掌も、もう二度と自分のものにはならないのだと。

そう考えるだけで鼻の奥に切ない痛みがやってくる。思わず空を見上げて零れそうな涙を堪えた。

 

「(時期を見て郵便で送ったら、受け取ってくれるかしら)」

 

 想いをしたためた手紙を格子から差し込む月明りで読みながら、同封した簪を髪に挿す朱雲の姿を思い浮かべる。

彼女は柔らかく微笑みながら、遠い恋を想う眼差しで簪を挿した自分を姿見で見るのだ。

嗚呼、それはきっと素敵な光景だろう。

 

「はぁ、卑しい女ですね、私は…」

 

 朱雲の心だけでも自分に縫い留めてしまいたい。未練と独占欲だった。

 

 街の中を通る川にかかった橋の上を、履物でからんころんと寂しい音を鳴らして歩く。

俯いた目に見える床板の境目を踏み越える度に珠世の気は重くなった。

いっそこんなにも辛いのなら彼女を身請けしてしまえば良かったと自棄になった心の内にいる自分が言う。

だが、当然そんなことはできようはずもないのだ。

 

「(私が鬼だとも知らない彼女に、仇討ちのために生きる私と一緒になって欲しいだなどと、どんな顔で言えるというのでしょうね)」

 

 そんなことを考えるほどに吐き気がして息が詰まるようだった。

 

「おい、邪魔だよ。」

 

 男の声でびくりと顔を上げるが、どうやら珠世とは関係がないようだった。

少し先の方で手すりに凭れている誰かとぶつかって文句を言ったらしい。

男は面倒臭そうに鼻を鳴らして歩き去り、手摺に縋る様にして尻餅をついている女性が取り残された。

生来の世話焼きな質の珠世は人混みをすいすいと躱して歩み寄る。

 

「もし、大丈夫ですか?」

 

 艶やかな黒髪と投げ出された杖、俯いて肩で息をする女を見て心臓が跳ねた。

 

「手を、お貸し…しま…」

「……?」

 

 おずおずと顔を上げた女を見て息を飲んだ。

 

「あ、朱雲、さん…」

「たまよ様。」

 

 汗で顔に張り付いた髪を耳にかけた朱雲は儚い笑みで見詰め返した。

慌てて屈んで杖と荷物を拾ってやった珠世はハンカチで朱雲の額の汗をぽんぽんと触って拭う。

 

「どうしたのですか。こんなになって…」

 

 仄かに、自分を追いかけてきてくれたのではないかという期待が珠世の胸を高鳴らせた。

 

「脚に塗る薬を買いにいかなくてはいけなくて。今日は代わりに出られる子がいなかったものだから。」

 

 ちくりと胸が痛んだ。遊郭の外だからだろうか、廓言葉が抜けている朱雲は"遠くてびっこだと参っちゃいますね"などと自分を哂っていた。

火傷を負った脚が疼くのだろう。着物の上から太腿を掴む手に力が入って皺を作っている。

 

「送ります。」

「いや。」

「送ります。」

「いやよ。」

「朱雲さん。」

 

 荷物を持たせると、屈んだまま背中を向けた珠世の背中に体重がかかる。

自分より背丈のある朱雲を軽々と背負った珠世はあれほど気が重かった道のりを足取り軽く戻っていく。

 

「力持ちなのね。」

「医者は意外と体力が要るものですから。」

「嘘つき。」

 

 うなじが震えあがるほど甘ったるい声音で囁かれた珠世は困ったように眉根を寄せる。

 

「嘘では」

「鬼だからでしょう?」

 

 びしりと顔が強張る。背負ったまま立ち尽くした珠世の肩に顎を預けた朱雲は憂いを帯びた息を吹いて囁く。

 

「初めて会った日から寝言を聞いて知ってたの。……最初は気持ちの話だと思ってたけど。」

 

 心臓に氷柱を刺された気分を味わう珠世の目の前に腕が上がって、行ったことのない方を指さした。

 

「あっちに誰も来ない場所があるから、少し話しましょう。」

 

 軽やかだった足が鉛の様に重い気がした。

 

 

 

 

 

「ふぅ、久しぶりに来たわ。」

 

 小さな橋の下、薄暗い川辺の石に腰かけた朱雲は懐かしそうに辺りを見回した。

まだ遊女になりたての頃、仲の良かった遊女や下女とここで槍手の文句を言いあったものだった。

 

「朱雲さん、先程の言葉は。」

「本当よ。寝言で鬼になりたくなかったって言ってたの。最初は鬼のように厳しいとか、そういう意味だと思ってたけれど、その内に違うんだなって気付いたわ。」

「怖く、なかったのですか。」

「何もそれらしいことは見てないもの。」

 

 話し方が違うだけで、まるでいつもの遊郭で話しているかのように朱雲は目の前に立つ珠世の大きな瞳を見詰め微笑んで見せる。

 

「そりゃあ目の前で人を殺されたりしたら怖いでしょうけど…そんなことされたら人が相手でも同じことだもの。」

「……鬼とは、常識を超えた膂力や妖術で人を食い殺す存在です。」

「へえ、おっかない。」

「与太話ではないのですよ、朱雲さん。」

「分かっているわ。でも、私を見て頂戴?」

 

 両腕を広げて自身の姿を強調した朱雲は変わらず微笑んだまま言った。

 

「力は弱いし、足は片っぽ動かない。その辺の子供相手だって走って逃げることも身を守ることもできやしないわ。

 人も鬼もおっかなさなんか大差ないの。だから、気にならない。」

「それは、そうかも知れませんけれど…」

「そうね。強いて言えば、入るお墓はもうないし、私が死んだらまだ綺麗な間に食べられてしまいたいくらい。」

 

 珠世は自分や"かよこ"が心惹かれる理由を理解した。死に場所を失って彷徨う者は朱雲に惹かれてしまう。

彼女は既に自身の人生を終えているがために、体の中に死んだ魂が横たわっていて、その隣で眠りにつくことは死ぬために生きている者に安らぎになるのだ。

 

「ねえ、たまよ様? 私が死んだら食べてくれる?」

「いいえ。私は人を食らいません。」

「そう、残念だわ。」

 

 ついと袂を引いた指に従って腰を折った珠世は見下ろす朱雲が瞳を閉じて顎を上げると、顔を近づけて、接吻(くちづけ)をする寸前で留まった。

今してしまえば、縁が切れてしまうような、そんな不安が胸を満たす。

 

「……ごめんなさい。何だか勘違いしちゃったみたい。」

「待ってください!」

 

 顔を背けた朱雲が杖をとって立ち上がり、その手首を珠世が掴む。

 

「やめましょう。」

「違います。お願い、聞いて。」

「嫌。聞きたくない。」

「待ってください! こんな形で終わらせたくありません!」

 

 振りほどこうとする朱雲を力任せに抱き寄せれば、からんからんと杖が転がった。

 

「―――――。」

 

 朱雲を腕の中に閉じ込めた珠世は三度深呼吸を行うと、全てを吐き出すことを決めた。

崩れ落ちるように朱雲が座っていた石に腰を降ろし、膝に朱雲を乗せて抱えたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「私は、鬼にされた時に飢餓のあまりに心を失って、最愛の家族を食らいました。その後も自暴自棄になって大勢の人を。

 でも、一緒にいると自身の罪と殺した人の無念を忘れてしまいそうで、怖かったのです。

 貴女が愛おしくて幸せで…

 貴女が好きです。自分ではどうしようもないほどに愛しています。」

「だから…だから、私から逃げるの?」

「違います! この街から去るのは私を鬼にした者の手下が近くに現れたからです!」

「なら、私も連れてゆけば良いじゃない! 身請けするお金がないなら攫っていけばいい! 勝手に私を諦めていくなんて!」

 

 感情が溢れて泣きだした朱雲は袂で涙を拭い、泣いた彼女を見て珠世もぽろぽろと泣き出した。

 

「私はっ、貴女を仇討ちに連れて行くのが怖くて! 幸せ過ぎて諦めてしまったり、貴女を失うのが怖くなってしまいそうでっ…」

「たまよ様の仇を私も憎んであげる! 私が死んでも前に進めるように好いてあげる!」

 

 二人はわんわんと声を上げて泣きながら思いの丈をぶちまけていく。

いつの間にか夕日は完全に沈み切り、月だけが二人の秘密を見守っていた。

 

 

 

 

 

「……ねえ、たまよ様。私やっぱりして欲しい。」

 

 川の流れる音を聞ききながら額を合わせて長い時間見詰めあった後に、朱雲は願って瞼を閉じて顔を傾けた。

その頬に掌を添えた珠世は朱色の唇を親指で撫でて頷く。

唇が触れる寸前、珠世は言った。

 

「明後日、必ず貴女を身請けしにゆきます。」

「――――…!」

 

 息を呑んだ朱雲の唇に深く押し当てるように珠世は接吻(くちづけ)をした。

くぐもった声が橋の下に響く。背中に回された腕に朱雲が体を預けると、ずるずると石の肌を擦りながら二人は草むらに座り込み、着物が泥に塗れることも気にせず横になった。

湿った土に押し付けられて着物が湿っていくのを感じながら、長い接吻(くちづけ)も短い接吻(くちづけ)も数えきれないほど交わした。

 

「私、こんなでもまだ百両か二百両はすると思う。」

「ふふ、長生きで良かったと初めて思いました。」

「家事も何もできないけど、覚えるから。」

 

 泥だらけの顔で珠世は優しく微笑んだ。

 

「いいのですよ。

 

 

 

 ただ、生きていてさえくれれば、それだけで好い―――。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――…二日後の夜。

大きな鞄を後生大事に抱えた珠世はベールのついた洋風の帽子で顔を隠し、大通りを早足で歩いていた。

 

「(……警官が増えていますね。)」

 

 近辺に現れた鬼が何か事件を起こしたのか、街は異様な雰囲気となっていた。

街灯の明かりで新聞を囲んで読んでいる労働者や、あたりを見渡しながら不安そうな顔で声を潜めて話している女たち、そして聞き取り調査を行っている警官たち。

数日前とは別世界のようだった。

 

「すみません。少々よろしいですか?」

「……はい、何でしょうか。」

「先日の事件について何か些細なことでもいいので気が付いたことがなかったかと、行方不明の女性について、聞き込みをさせて頂いてます。」

「そう、ですか。すみません。二日前に他の街へ行って先程戻ったばかりで…何があったのですか?」

「あー、そうでしたか。いえね、実は遊郭の方で殺人がありまして、"三重や"という見世のなんですが、皆殺しという話です。」

 

 珠世は夢中で駆け出していた。呼びかける声を無視し、路地を全速力で走り抜けた先で"三重や"を囲んでいた警官を血鬼術で縫い留め、見世の中に駆け込んだ。

 

広がる黒。

 

血が酸化して黒くなったのだろう。天井、壁、床、ありとあらゆる家財が黒かった。

人間を絞って出した血をぶちまけたかのような有様。

 

「(人間に成せることでは、ないでしょうね。)」

 

 頭が氷のように冷えていくのを感じた。

あの部屋の襖を開く。

中は綺麗なままだった。

ただ、窓を塞ぐ格子だけが壊されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「目が覚めたか。あれほどの血を入れて生き延びるとは、見込んだ通りだ。」

 

「ここは…」

 

「ん? 脚が役立たずのままか。まぁ、いい。人を食らい、成長しろ。」

 

 女は一つしかない大きな目を開けて男を見上げた。

 

「貴方は誰ですか? 私は……………私は…?」

 

「私の名は鬼舞辻無惨。お前は…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳴女(なきめ)だ。」














次回完結です。
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