胡蝶しのぶが最終選別に出発して一週間の時が過ぎた。
当初、比企谷八幡は胡蝶カナエと二人きりになることに懸念を覚えたが、それに関しては特に問題はなかった。
何故かというと、二人とも任務が入ったからだ。
カナエと八幡にはそれぞれ任務が入り、一緒にいるどころではなくなった。任務の場所も別々。そうなれば二人で過ごすことなど出来ない。その事に八幡は密かに胸を撫で下ろした。
だが、一週間が過ぎて状況は変わった。二人の任務も落ち着いて、胡蝶しのぶも近日中に帰還予定。そうなれば、二人が蝶屋敷で待つのは必然だった。
つまり―――今日の夜、二人は初めて一緒の夜を過ごすことになった。
「はい、ハチくん。麦茶をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
湯呑に注がれた麦茶をカナエから受け取る。それを一口飲めば冷たくさっぱりとした味わいが喉越しに感じられる。
「―――美味いな、この麦茶。いつもよりさっぱりしてる」
「でしょ。煮出しじゃなくて、水出しにしてみたのよ。ちょっと時間が掛かるけど、その分さっぱりするんだから」
八幡に自慢しつつ、カナエも自身の麦茶を飲んでいく。
「……もう一週間だな。しのぶが出発して」
唐突に八幡が口に出した。
「ええ、そうね……やっぱり心配?」
「……まあな。あの試験の場合、何が起こるか分からんからな」
最終選別は一週間の生き残りだ。合格するには大量の鬼が潜伏する山を生き残らなければならない。いくら実力があっても不覚を取る可能性は十分にある。
「大丈夫よ。しのぶも今回のためにしっかりと準備してきたんですから。もっと信じてあげないと」
「……分かってる。分かってはいるんだが……アイツの毒もまだ未完成だしな。現状では鬼を痺れさせるのが限界だ。心配したくもなる」
しのぶの心配をする八幡。カナエはそんな八幡の隣に座り、そっと手のひらを重ねる。
「ハチくんは案外心配性ね。大丈夫よ。あの子は強いもの。きっと無事に帰ってきてくれるわ」
「そう、だな。すまん。俺が心配してもしょうがないことだよな。もっとアイツを信じてやらんと……」
「そうよ。しのぶが聞いたら怒るわよ。『兄さんは私のこと信じてなかったのか?』ってね」
「確かにいいそうだな、それは」
そう言って二人でクスリと笑う。確かに胡蝶しのぶはそう言いそうだからだ。
「さて、そろそろ風呂にしましょうか。ハチくん。先に入っちゃって」
「分かった。じゃあお先に入らせてもらうぞ」
「―――ええ」
カナエに断り八幡は先にお風呂に入ることになった。
「さて、ここまでは問題ない」
風呂から上がり部屋に戻ったところでぽつりと呟く。
「いつも通り隣で寝るだけだ。今日はしのぶがいないだけ。違うのはそれだけだ」
部屋の中には二つに並べられた布団。いつもは三つなのだが今日は二つだけ。その事実に動揺しながらも現状を確認する。
「大丈夫大丈夫。俺が間違えなければ何も問題は「何か問題なの?」うぉぉっ!」
突如横から声を掛けられ、驚きのあまり絶叫する。
慌てて横を見れば、風呂上がりの胡蝶カナエがいた。
「どうしたのハチくん? そんなに慌てちゃって」
「い、いや。急に声を掛けられたからびっくりしただけだぞ。何も問題はない。ないったらない」
「? なら、いいんだけど」
八幡の慌てた様子にも特に気にはしてないようだ。深く突っ込まれると困るので、その辺はとても助かる。
胸を撫で下ろし隣に座ったカナエをチラリと見る。
―――相変わらず色気が凄まじい。風呂上がりの所為か余計にそう感じる。火照った肌に、チラリと見えるうなじ。それが寝間着と合わさって凄まじい色気を発生させている。ハッキリ言って目の毒だ。
花柱 胡蝶カナエ。柱になる前から彼女の人気は凄かったそうだが、柱になってからは更に人気が上がったらしい。
―――カナエに人気があるのはよく分かる。これだけの美人で、しかも誰にでも気安く嬉しそうに笑顔で接している。そりゃ男だったら夢中になるだろうさ。
だが不思議と彼女が告白されたという話は聞かない。その事を不思議に思い、胡蝶しのぶに尋ねたことがあるのだが、彼女は呆れた顔になっていた。
―――姉さんの人気があるのは知ってるわよ。でも、告白はされないと思うわ。理由? うーん、兄さんは気にしなくていいと思うわ。こういうのは自覚しないと駄目だと思うから。
よく分からないが無理やり納得させられた。そしてその返事に何処か自身の心が安堵したのを覚えている。
八幡とて男だ。綺麗な女性と一緒に暮らして嬉しくないわけがない。もし八幡がこの家から離れると言っても二人は反対するだろうし、八幡も離れたいとは思わない。
「―――どうしたの、ハチくん? ぼうっとしちゃって。熱でもあるの?」
カナエはそう言うと八幡のオデコに手を当てる。
「っ!? い、いや大丈夫だ」
「うーん。確かに熱はなさそうね。ならよかった」
至近距離でカナエは微笑む。その笑みに八幡は動揺する。いい意味でも悪い意味でもだ。
―――そういう何気ない行動が男を勘違いさせるんだよ。ホントに。俺じゃなきゃ襲ってるぞ、絶対。
その何気ない行動に八幡は心が乱される。躊躇なくこちらに触れてくる柔らかな手に。こちらに語り掛けてくるときに浮かべる花のように優しい笑顔に。男として振り回されっぱなしだ。
いい加減、我慢するのも限界である。
「……少し早いがそろそろ寝るか」
「ええ、そうね。多分、しのぶは明日戻ってくると思うわ」
「そうか。幸い任務は入ってないから、この家で迎えられるな」
「うん。二人で出迎えてあげましょう」
二人で明日の予定を立てつつ、早めの就寝を取ることにした。
「ハチくん、ハチくん」
「……う、うーん」
翌朝。聞き覚えのある声に促され、比企谷八幡は目を開けた。
「おはよう、ハチくん」
「……ああ、おはよう。早いな、カナエ」
今日は珍しくカナエの方が先に目覚めていた。
「今日はしのぶの為に早起きしたの。あの子がいつ帰ってくるか分からないから」
「なるほど。そういうことか」
いつもならまだ寝ている時間だが、妹のために早起きしたようだ。
「それにあの子の好きな物を作ってあげようと思って」
「しのぶの好きな物って言うと……ああ、生姜の佃煮か」
「ええ。合格祝いにあの子の大好物を作って待ってようかなって思ったの」
「そうか。それはアイツも喜びそうだ」
そこでふとした考えが浮かぶ。
「じゃあ、俺も一緒に手伝うから、しのぶの好物の作り方を教えてくれ」
「―――いいの?」
「ああ、しのぶの喜ぶ姿は俺も見たいからな」
八幡がそう言うとカナエは感激したのか、八幡に抱き着いてきた。
「ありがとう! ハチくん」
「お、おお……こ、このぐらいなら問題ないぞ」
内心で動揺しつつカナエを受け止める。花の香りが八幡の理性を揺らがせる。
揺らぐ理性の中、八幡はある考えに至る。カナエのこの癖を何とかしなければ、と。
胸の中にいるカナエを離しつつ、彼女に話しかける。
「なあ、カナエ。一ついいか」
「うん。なぁに?」
コホンと咳ばらいをしつつ忠告をする。
「その、だな。むやみやたらに男に抱き着かない方がいい。男というのは勘違いしやすい生き物だ。もし、外で他の男にこんな事したら、襲われたって文句は言えないぞ」
「それって―――ハチくんは私が男の人なら誰にでもこういうことするって思ってるの?」
「そ、そうじゃない! そうじゃないが!」
狼狽える八幡。そんな彼に対しカナエは動く。八幡の胸元にぽすんと抱き着き、上目遣いで彼女は言った。
「―――しないよ。私がこんなことするの。ハチくん以外にいないんだから」
その必殺の台詞に八幡の理性が消し飛ばされた。
次の瞬間、八幡はカナエの身体を抱きしめていた。彼女の背に両手を回し、他の誰にも渡さないとばかりに、力強く抱きしめていた。
「―――ハチくん?」
「――――――――っ!?」
自身の行動に自身が一番驚く。正に本能の赴くままに行動していた。思わず動揺し、固まったまま動けなくなってしまう。
花のいい香りが鼻孔を擽る。身体全体で感じるカナエの身体の柔らかさに、ずっとこのまま抱きしめていたいと思ってしまう。
「ごめん、ハチくん。ちょっと、痛いかな?」
「! す、すまん!」
慌てて両手を離し、カナエを離す。
「ほ、本当にすまん! なにやってんだ、俺! ちょ、ちょっと頭冷やしてくる!」
「あ、うん」
カナエを残して逃げ去るように八幡はその場を後にした。
「―――なんだろう? いつもと違う感じがする……」
残されたカナエは、自身の状態がいつもと異なると感じていた。
初めて八幡から抱きしめられた。自身から抱き着くことはあれど、彼から抱きしめられるのは初めてだった。
頬を紅く染めた彼女は、自身の胸に手を添え、そして言った。
「――――――胸がドキドキする」
「……なにやってんだよ、俺ぇ」
先程の行動を悔いるように、水を頭からぶっかける。かけられた水の冷たさが、理性を取り戻していく。と、同時に自身の行動の迂闊さに反吐が出た。
「俺は何であんなこと。あぁぁ、この後カナエにどんな顔して会えばいいってんだ」
どうしてあんな行動をしたか。それは考えれば直ぐにでも分かった。
―――しないよ。私がこんなことするの。ハチくん以外にいないんだから。
「っ!? ……あんな事言われて我慢できるわけねぇだろぉ」
もう一杯水を頭からぶっかける。
あの言葉に。あの表情に。理性が一瞬で溶かされた。自覚してなかった。否、奥底に封じていた想いを強制的に吐き出させられたのだ。
こと此処に至っては認めざるを得なかった。
―――ああ、そうだ。認めたくなくても認めざるを得ない。比企谷八幡は胡蝶カナエに惚れている。それはもうべらぼうにだ。
一度自覚すれば己の心は誤魔化せない。だがそれが事実だとしても伝えるわけにはいかない。
「例え俺が惚れててもカナエには言わない。アイツが俺にあんな態度を取ってくるのは家族としてだ。決して男だからじゃない。だから駄目だぞ、比企谷八幡」
胡蝶カナエには、胡蝶しのぶには、そして二人の両親には多大な恩がある。それも一生かけても返しきれないほどの恩だ。
その恩を裏切るようなことはしてはいけない。それが人としての最低限の礼儀だと比企谷八幡は思った。
水浴びを終え部屋に戻る。そっと部屋を覗くと、胡蝶カナエが布団の上に座っていた。だが様子が変だ。彼女は着替えもせず、寝間着姿のままぼうっとしているのだ。違和感を覚えつつ部屋に入る。
「……あの、カナエ、さん?」
「………」
問いかけるも返事がない。無視しているというわけではない。しいて言えば心ここにあらずといった状態だ。どうするか悩んでいた八幡だが、とりあえず自分の布団を畳もうと布団の傍に移動し―――カナエが気付いた。
「…………! は、ハチくん!? い、いつからそこに!?」
「えーと、ついさっきだが」
カナエの様子がとてつもなく変だった。八幡の姿を確認した途端、慌てふためきキョロキョロしているのだ。明らかに挙動不審だ。顔色が紅く見えるのは八幡の気のせいだろうか?
それがさっきの行動の所為だと思い八幡は行動に移す。畳の上に座り正座をする。そして両手を床に付け―――土下座の姿勢を取ったのだ。
「! ハチくん。何を!」
「……さっきはすまん。俺が突然あんなことしたから驚いたよな。今後は二度とあんなことは「違うの!!」
カナエが叫ぶ。八幡が先程の行動を否定しようと分かったからだ。
驚いた八幡が顔を上げる。カナエは八幡の両手を掴み、彼に訴える。
「そ、その、さっきのは少し痛かっただけで。嫌だとか、そんなんじゃないよ!」
「そ、そうなのか?」
「う、うん。むしろ、その……嬉しかったよ。ハチくんから抱きしめてくれて」
「! お、おう。そ、それなら、その、よ、よかったです」
「うん。だから……」
カナエが自らの両手を広げて八幡を見る。それが何を意味するかは、直ぐに分かった。
「か、カナエ?」
「―――もう一回抱きしめてほしいな」
カナエは上目遣いでそう頼んできた。
「い、いや、それは。そもそもさっきのは衝動的なものであって、今の俺にその気は」
「………駄目?」
「……………俺は」
カナエの懇願には勝てなかった。花の蜜に群がる蝶のように吸い寄せられる。そしてカナエの肩に手を置き再びその身体を抱きしめようと―――
「―――ただいま~!」
『!?』
愛しの妹の声がした。
「し、しのぶが帰って来たな」
「……うん」
声に反応し八幡はカナエの身体を離す。危なかった。後一秒でも遅かったら、再びその身体を抱きしめていたところだ。
「お、俺は先に迎えに行く。カナエは着替えてから来てくれ」
「…………分かった」
そう言い残して八幡は玄関へと急いで走る。残されたカナエは少しだけ頬を膨らませ、そして言った。
「――――ハチくんの馬鹿」
少しだけ愚痴を溢し寝間着を着替える。
そしてカナエも愛しの妹を迎えに行くのであった。
年始早々熱が出て寝込んでました。そのせいで正月休みを殆ど寝て過ごしました。
人生で最悪の正月でした。
呼吸の命名の件ですが、幾つかの案をいただきありがとうございます。
まだ決定はしていませんが、参考にさせていただきます。
大正コソコソ噂話
しのぶさんですが、最終選別は特に問題ありませんでした。
彼女自身に鬼の頸は斬れませんが、他の参加者を巻き込んで見事に合格することが出来ました。