最終選別の七日目。最終日の夜。
比企谷八幡は見事に生き残っていた。
夜は水場を中心として、決められた範囲を行動し、木の上や茂みなどに隠れる。そして近付いてきた鬼の背後に回り込み、瞬時に頸を刈り取る。もしくは雷の呼吸で一気に近付き、一閃して頸を切る。
そんな暗殺者のような戦い方が、今の比企谷八幡の戦闘スタイルである。
―――そんな彼の才能が今、花開こうとしていた
「ぎゃぁぁっ!」
刀を一振りするごとに鬼の頸が飛ぶ。
感覚が研ぎ澄まされ、さらに精度が増していく。
「な、なんで背後に!」
溶ける、溶ける、溶ける。自身の身体が溶けるような感覚で、周囲に自分の身体が溶け込んでいく。
「ば、化け物!」
動きを最適化し、最小の軌道をもって鬼の頸を狩る。
川に流れる水のように、空に吹く風のように、自然と一体化し、そのすべてを身に任せ―――
―――息をしろ!!
「っ!? はぁっはぁっはぁっはぁっ……なんだ、今の感覚は?」
何かの警告に従い意識を取り戻す。呼吸をするのを忘れ、妙な感覚に引っ張られ続けた。このままでは恐らく命が危なかった。調子に乗った自分を叱責し、慌てて息を吸って呼吸を整える。
気付けば周囲に鬼の死体が三つ転がっている。だがもう消滅寸前だ。しかしこの鬼たちの頸を切った記憶が曖昧だ。意識がはっきりしてなかったのか? 。
鬼の身体が灰になるのを見届け、自身の異常事態について考える。
「調子はいい。今までで一番といっていい」
最終選別が始まり、日が経つほどに調子が上がっていく。最初は実戦に慣れてきた。そう感じていたのだが、それだけでは済まないと、直感が働いた。
全集中・常中のおかげで体力に余裕がある。睡眠もそれなりにとっているし、気力・精神力共に問題はない。何も問題はない―――はずだ。
「だったら、なぜ……」
考えろ。考えろ。この問題は絶対に考えなければいけない。そう、本能が告げている。
考えに考え―――平塚師匠に言われたことを思い出す。
―――比企谷。私は君の本来の呼吸が派生系ではないかと睨んでいる。なに、理由だと? 勘だよ、勘。数多の隊士を見てきた先任者としての勘だ。
―――まあ、今は気にしなくていい。実戦に出れば嫌でも自らの呼吸とは向き合うことになるからな。その前に雷の呼吸を覚えておけ。他の呼吸を使うにしても機動力はあった方が便利だぞ。
確かにそう言っていた。修行開始直後のことだったので、すっかり忘れていた。
「さっきのがそれか? ……平塚師匠の言うとおりかよ」
お釈迦の手のひらで転がされた気分だ。しかし確かに今までとは異なる感覚だった。
「いかんいかん。そんな事は今考えることじゃない。今は試験中だぞ」
首を左右に振って気持ちを切り替える。この奇妙な感覚は一先ず忘れる。仮に派生呼吸だとしても、不確かな戦力など当てにするものじゃない。
気持ちを落ち着け、改めて周りを見る。周囲に敵影なし。安全は確保できた。
何も問題は―――
「げっ、雨か」
空から雨がぽつりぽつりと降り始めた。上空を見ればいつの間にか黒雲が広がっている。
とりあえず再び隠れようと木の上に登ると―――遠くに人影が見えた。
遠くから見るに黒髪の若い少年だ。試験開始から今まで他の参加者をまったく見なかった。もしかしたら全滅した可能性も考えたが、考えすぎだったようだ。
しかしその少年は蹲ったまま動かない。心配になり少年の方へ走っていく。何かトラブルがあったかもしれない。
少年の傍まで来たが、なぜかその少年は木を背にしてうずくまり、そして震えていた。
「おい。どうした? 大丈夫か?」
「……ば、ばけもの。化け物がいた」
「化け物? どういう事だ?」
少年の返答は要領を得ず、八幡は聞き返す。
「なんであんな化け物がこの最終選別にいるんだよ! ここにいるのは人間を二・三人喰った鬼しか入れてないんだ。その筈なのに……」
「その化け物はどこにいる? お前はどっちから来た?」
「あ、あっちだ。今、俺の代わりに女の子が戦って―――」
―――全集中 雷の呼吸 神速
少年の言葉を最後まで聞かず、八幡は高速で移動を開始した。
それは正しく異形の鬼であった。
身体の色は緑色で、その姿は人の形を保っていない。四本の手足以外にも何本もの手が存在しており、それらを胴体に巻き付けている。
その異形の鬼は、一人の少女を狙っていた。
鬼の身体から何本もの腕が飛び出す。その腕は少女を捕らえんと、様々な方向から襲い掛かる。
―――水の呼吸 参ノ型 流流舞い
襲い掛かる腕に向かい少女は動く。水流が流れるように素早く動き、腕の軌道から逃れていく。そして同時に腕に斬りつけ幾つもの傷を残していく。そして水流が回転する動きで鬼の攻撃をしのぎきった。
「すばしっこいなァ、鱗滝のガキ」
「あなた誰? どうして鱗滝さんのことを知ってるの?」
自身の育手の親のことを知っている。それが気になった少女―――真菰は鬼に問いかける。
「そりゃ知ってるさ。アイツが俺をこんな所に閉じ込めやがったからなァ!」
「そう―――それはお気の毒」
育手の親が捕まえた鬼。その事については興味はなかった。
しかし鬼の強さには注意を払う。その見た目から人間を何十人か喰っている。真菰はそう判断した。
―――頸が硬そう。どうしよう……逃げようかな?
冷静に考える真菰。自身の腕では頸が切れないと判断する。しかし真菰が行動を起こす前に、鬼の口が再び開いた。
「十一……十二。で、お前で十三だ」
「何の話?」
鬼はニヤリと笑った。
「俺が喰った鱗滝の弟子の数だよ。アイツの弟子はみんな殺してやるって決めてるんだ」
「――――――」
真菰の動きが止まった。
「そうだなァ。特に印象に残っているのはアイツだな。珍しい毛色のガキ。宍色の髪をしてた口に傷がある奴だった」
「―――さ、びと」
真菰は呟く。自身の兄弟子の名を。その様子を見た鬼はさらに続ける。
「その狐の面。厄除の面と言ったか? それは目印なんだよ。それをつけてるせいでみんな喰われた」
「――――――おまえが」
真菰の身体は震え始まる。恐怖ではない。自身でも抑えきれない怒りによってだ。
「みんな俺の腹の中だ。鱗滝が殺したようなもんだ。フフフッ、見せてやりたかったなァ。俺の頸を斬れなかったときのアイツの絶望の表情を」
「お前が錆兎を!!」
真菰が激怒し、叫びながら正面から突っ込む。そして助走をつけてジャンプし、一気に頸を狙った。
―――それが鬼の狙いと気付かずに。
「―――バカめ!!」
「―――!?」
鬼に手が四方から伸び、真菰の手足を捕らえる。手首足首を抑えられ真菰は拘束された。
「捕まえたぞ」
「―――っ」
真菰は身体を捻って逃れようとする。しかし彼女の力では振りほどくことはできない。
「お前らガキはいつもそうだ。他のガキの話をすると、いつも怒って真正面から斬りかかってくる。それを捕まえればいいんだから楽なもんだ」
「――――く、そぉ」
そこで漸く真菰は自身の失策を悟った。鬼がわざとこちらを挑発し、こちらの動きを誘導したことに。
その挑発にまんまと乗ってしまい、全集中の呼吸すら乱れていた。すべて鬼の狙い通りであった。
「さて、どう遊んでやろうか。右手か、左手か、それとも足の方がいいか?」
「っ!」
鬼は真菰に問いかける。直ぐには殺さない。たっぷりと恐怖を味合わせてから殺すつもりだ。
「よし決めた! まずは右足からだ」
「くぅぅぅ!!」
右足の手が動く。徐々に、徐々に、弄びながら力を入れる。耐え切れずに真菰が悲鳴を上げた。
「ハハハハッ、いい悲鳴だ! このまま手足を一本一本引きちぎって―――!」
―――雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 神速
八幡の一撃が鬼の頸を半ば断ち切る。そしてその影響で鬼の手の力が弱まった。
「チッ! 浅かったか」
「―――え?」
少女の耳に男の声が聞こえた。
「だ、誰だ!?」
鬼の後方に着地。鬼の言葉を無視し、振り返りながら前傾姿勢を取り、再び技を放つ。
―――雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃
再び頸狙い。しかしその狙いを悟った鬼は、自身の頸の前に真菰を動かし盾にする。
「このガキがどうなっても!?」
―――雷の呼吸 弐ノ型 稲魂
鬼の狙いを察知した八幡は、移動途中で技をキャンセル。稲魂を放ち真菰の四肢を拘束していた手を断ち切る。
そして落ちてくる真菰をキャッチ。鬼の身体を蹴ってジャンプし、距離を取った。
「ふぅ、遅くなってすまない」
「えーと、誰?」
「通りすがりの者だ。少し待っててくれ」
真菰をそっと地面に下ろして前へ出る。
その八幡の姿は―――異形の鬼にとって死神に見えた。
―――なんだ、なんだ、アイツは! いきなりやって来て俺の頸を! 頸を! アイツは俺の頸が斬れる! 斬れてしまう! このままじゃ死ぬ! 死ぬ? この俺が? いやだ! いやだ! 死ぬのは嫌だ! 死にたくない!!
再び技を放とうとする八幡。それに対し異形の鬼は―――いきなり逃げ出した。
「来るなァァァ!! 俺に近付くんじゃねェェェ!!」
鬼は叫ぶ。そして全速力で逃げ出した。しかもそれだけではない。複数の手を伸ばし、周辺の木をなぎ倒す。そして、倒れた木をこちらに投げつけてきたのだ。
「くそっ!!」
これには八幡もたまったものではない。自分だけならいい。だが後ろの少女はそうはいかない。慌てて少女を抱いて、その場所から離脱した。
「……逃げられたか」
鬼がいた場所へ戻ってみたが、改めて逃げられたことを実感した。自身の詰めの甘さに後悔する。初撃で決められなかったのは痛恨の極みだ。
長時間の神速の使用。雨の影響による踏み込みの甘さ。原因は幾つかあるが、取り逃がしたことに変わりはない。
―――追うか? いや、この少女がいる以上、無理は禁物だ。窮鼠猫を噛むというしな。
あの逃げっぷりなら、もうこちらを襲うことはないだろう。もう一度来たら今度こそ仕留める。
決意を固める八幡。すると腕に抱えた真菰が口を開いた。
「あのー」
「ああ、すまん。大丈夫か?」
「えーと。うん、大丈夫」
「いや、助けるのが遅れてすまない」
真菰の右足を見て八幡は謝る。右の足首が変色している。かなり重そうな怪我だ。
「足はどうだ。痛むか?」
「うーん。ちょっと立てないかな」
「分かった。このまま移動するぞ。ちょっと我慢してくれ」
「うん。分かった」
「君の刀は―――ああ、あれか。鞘も転がってるな」
「私が持つよ。貸して」
「よし。行くぞ」
幸いにも真菰の刀と鞘は木の下敷きにもなっておらず、直ぐに見つかった。それらを拾い真菰に自身の刀を渡す。その刀を少女は抱きかかえ、八幡はその場を後にした。
「―――これでよし、と」
「うん、大分楽になった」
「とりあえず、あて木をしただけだ。動かしちゃ駄目だぞ」
「はーい」
元気よく返事をする真菰。
彼女の右足首は変色しており、軽い怪我には見えなかった。軽く触ってみたが、骨折していなかったのが不幸中の幸いだ。念のために、加工した木で作ったあて木と持っていた包帯で簡単な治療を終えた。
「ごめんね。迷惑かけちゃって」
「気にするな。困ったときはお互い様だ。今度俺が困ったら助けてくれ」
「うん。分かった」
真菰は小さく笑った。やはり女の子は笑っていた方がいい。
「ところで八幡。一つ聞きたいんだけどいいかな?」
「―――なんだ?」
「なんで西側に来たの? 東側の方が早く日が昇るよ」
現在二人は、山の西側にある洞窟で腰掛けている。先程から雨が本降りになり、外で過ごすのは危険になったのだ。因みに、此処に来る途中に少年と出会った場所にも寄ったが、既に姿を消していた。彼は彼でどこかに逃げたと思われる。
「今はその方がいいと思ったからだ」
「え、でも」
「確かに日が昇るのが早いのは東側の方だ。それは鬼も知っている」
「―――あ」
「だから、逆に西側の方が鬼に見つかりにくいと思った。まあ、気休めかもしれんがな」
「そっか。そういう考え方もあるんだ」
自身とまるで逆の考えに感心する真菰。
夜明けまではまだ数時間あるが、運が良ければ此処でやり過ごせるだろう。
そしてそのまま三十分が過ぎた。ふと八幡が隣を見る。すると真菰が船をこぎ、眠そうにしていた。
「―――眠いのか?」
「え? あ、ううん。ごめん。ちょっと寝てた」
慌てて目を開く真菰。
「……よかったら横になっていいぞ」
「え、だ、駄目だよ。いつ鬼が来るか分からないし」
「俺が見張ってるから大丈夫だ。いざとなったら起こしてやる」
真菰は少しだけ考え、そして了承する。
「うん……じゃあ、少しだけ……」
「―――ああ。此処に頭をのせろ」
「うん……」
八幡に言われるがまま、真菰は己の頭を彼の膝の上にのせた。
「そのまま寝ていいぞ」
「……わかった……おやすみ……なさい」
「―――ああ、お休み」
もう限界だったのだろう。恐ろしいほどに寝つきが速かった。
そんな真菰を見て呟く。
「―――強い子だ。足の怪我だって痛いだろうに」
足の怪我は決しく軽くない。それでも真菰は一言も弱音を吐かず、むしろ笑顔で話していた。
「しのぶと同じぐらいの年頃か―――いや、どちらかというと似てるのは」
――――――小町の方だな。
ぽつりと最愛の妹の名を口にした。
「元気にしてるかね、小町は。いや、この時代だとまだ生まれもしてないか」
己の膝で寝ている少女と、最愛の妹の姿がかぶって見えた。まだ小学校低学年のとき、家出をしたときの妹の姿にだ。
先程遭遇した大型の鬼。どうやら真菰とはなにか因縁があるようだ。しかし八幡と話しているときはそんなそぶりを微塵もみせない。自身の本心を隠す姿がそっくりに感じた。
「こんな少女が鬼狩りか―――出来る限りは守ってやらねぇとな」
しのぶと同じ年ごろの子供が健気に頑張っている。だったら守ってやるのが年長者の役目だろう。
膝に眠る少女の頭をそっと撫でながら、八幡はそう思うのだった。
「う、ん……あれ? ここは?」
「―――起きたか?」
眩い光に照らされて真菰の目が覚める。目覚めと同時に聞こえてきた声に、彼女は聞き覚えがあった。
「……はち、まん?」
「おう。比企谷八幡だぞ」
比企谷八幡。自身を助けてくれた男の名前だ。
自分の状態を確認すると、八幡の背中におぶられている状態だった。
「えーと、ここは?」
「試験会場の入り口だ。俺たちが一番乗りのようだぞ」
「―――え?」
辺りを見渡すと確かに試験開始の広場だった。説明役の少女二人も近くにいる。
「………私たち二人だけ?」
「今の所は―――いや、三人のようだ」
「え? ……あ、ほんとだ」
森の方を見ると一人の少年がこちらに向かっているのが見えた。白い髪をした少年だ。
結局その少年が来たのが最後で―――他の参加者は現れなかった。
「お帰りなさいませ」
「おめでとうございます。ご無事でなによりです」
二人の少女が淡々と説明を始める。
「まずは隊服を支給させていただきます。体の寸法を測り、その後は階級を刻ませていただきます」
「階級は十段階ございます。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸。今現在の皆様は、一番下の癸でございます」
途中で聞き捨てならないことを言った気がする。
「え、階級を刻むって入れ墨でもすんのか?」
「えー、痛いのはやだなー」
「……いや、そうとは限らんか。後であの二人に聞いてみよう」
「うん」
分からないことは後で聞くことにした。
「これから皆様には鎹鴉をつけさせていただきます」
少女が手を叩くと、上空から三匹の鴉が下りてくる。そして八幡たち三人の肩に降り立った。
「鎹鴉は主に連絡用の鴉でございます。任務の際はその鴉がご連絡いたします」
この鴉がこれから先の相棒となるわけだ。
「……よろしくな」
「よろしくねー」
二人で鴉に挨拶をした。鴉はカァーと二人に返事を返した。
「では、皆さま。こちらをご覧ください」
少女は置いてある机へと視線を向ける。木の机にはいくつかの鉱石らしき物が置かれている。
「では、あちらから刀を造る玉鋼を選んでくださいませ。刀が出来上がるまで十日から十五日かかりますので「―――おい」なんでございましょうか?」
ずっと沈黙を保っていた白髪の少年が初めて口を開いた。少年は少女に近付くと、その胸倉を掴む。
「十日から十五日だぁ? それじゃ遅ぇ。今すぐ刀をよこしやがれ」
「それは出来ません。規則ですので」
「関係ねぇ! 今すぐ刀をよこせ!」
涼しい顔で反応する少女。その反応が気に入らず少年は激高する。
そして少女を殴るべくその手を上げ―――止められた。
「―――そこら辺で止めておけ」
「あぁ。なんだお前は。関係ねぇ奴は引っ込んでろ」
八幡が少年の手を押さえた。少年が八幡を睨みつける。
「せっかく合格したのに、失格になりたいのか?」
「―――何?」
「分からないか? その子たちはこの試験の監督役だ。つまり、俺たちを不合格にする権限をもってる……せっかく合格したのに、失格にはなりたくないだろう?」
「………チッ」
八幡の言葉に、少年は少女を掴んでいた手を離した。
「―――お話はすみましたか?」
胸倉を掴まれていた少女は、何も気にせず説明を続ける。
「では、鋼をお選びください―――鬼を滅殺し、己の身を守る刀の鋼はご自身で選ぶのです」
そう少女は締めくくった。
「ここでいいのか?」
「うん。この山が狭霧山だよ」
全ての手続きは終了し解散となった。階級の問題に関しては入れ墨ではなく、特殊な方法で階級が浮かび上がるという代物だった。現代でも見たことのない技術にとても感心した。
しかし足に怪我を負った真菰は歩くのが困難のため、八幡が彼女を送ることになり、彼女の育手がいる狭霧山へと足を運んでいた。
「よし、行くぞ」
「うん。お願い」
真菰を背負いながら八幡は狭霧山を登る。
幸いにも藤襲山から狭霧山まではそこまで遠くなく、半日ほどで到着した。その間の道中は二人でお喋りしながら―――主に真菰が喋りながらだが、此処までやって来た。
―――で、その日は鱗滝さんが私を褒めてくれたの!
―――私が寂しいとき、鱗滝さんがたまに頭を撫でてくれるの。
―――鱗滝さんはすっごい厳しいけど、でも優しいときもあるんだよ。
真菰の話題の大半は、育手である鱗滝左近次のものであった。その話を聞いていると、彼女が鱗滝のことを慕っているのが、八幡にもよく理解できた。
「それにしても、真菰は鱗滝さんのことが本当に好きなんだな」
「うん。私は鱗滝さんが大好き―――私以外にも鱗滝さんに育てられた子は沢山いるけど、皆、鱗滝さんのことが大好きだよ」
「他の子は此処にいるのか?」
「―――ううん。今はもういない。けど、偶に近くに来てくれるからよく知ってるよ」
「………そうか」
要領を得ない話だが、何やら複雑な事情があるようだ。
「……ねぇ八幡。私、鬼殺隊に合格したけど、鱗滝さん褒めてくれるかな?」
「どうしたんだ、急に?」
「私が最終選別を受けること自体、鱗滝さんはあまりいい顔しなかったんだ。どうしてだろう?」
「……なるほどな」
真菰は不安そうな顔をする。
「鱗滝さんは真菰を育ててくれた。親代わりみたいな人なんだろう?」
「親? 鱗滝さんが?」
「違うのか? 真菰の話を聞いていたらそんな風に思ったんだが」
「………そんなこと考えたことなかった」
真菰はぽつりと呟いた。
「きっと真菰のことが心配だったんだろう。だからいい顔をしなかったんじゃないか」
「じゃあ、褒めてくれないのかな?」
「いや、褒めてくれると思うぞ。もしかしたら泣いて喜んでくれるかもしれないぞ」
「ほんと! だったら嬉しいなぁ」
真菰はニコニコしながらほほ笑んだ。きっと鱗滝に褒められている自分を想像をしているのだろう。
そんな真菰を微笑ましく見ていた八幡だが―――ふと、あることを思いついた。
「なぁ、真菰。せっかく最終選別に合格したんだから、鱗滝さんにご褒美を貰ったらどうだ?」
「―――ご褒美?」
「ああ。合格祝いというやつだ。試しに頼んでみたらどうだ?」
「それは、貰えたら嬉しいけど……どんなこと頼んでいいか分かんないなぁ」
「そうだな――――――」
八幡はある提案を真菰に伝えた。
「――――――え?」
「どうだ? これなら真菰も嬉しいんじゃないか?」
「で、でも! そんなこと頼めないよ! 鱗滝さんに迷惑かけたくない……」
「迷惑かどうかは聞いてみないと分からないぞ。それとも真菰は嫌か?」
真菰は首を横にブンブンと降った。それはもうすごい勢いで。
「そ、そんなことない! それが叶ったら私、嬉しすぎて泣いちゃうよ」
「だったら試しに頼んでみろ。俺の予想なら大丈夫だと思うぞ」
「……ほんと?」
「ああ。真菰みたいに可愛い子の頼みを断る奴はいない。そうだな。不安なら相手の顔の下から上目遣いで頼むといい。少し涙を浮かべれば完璧だ」
少なくとも八幡はこれに抗う術をしらない。
「……じゃあ、頼んでみようかな」
「ああ、きっと上手くいくさ」
真菰は不安に思いながらも、八幡の提案を受け入れることにした。
「あ、あそこだよ。八幡」
「ああ、分かった」
それから程なくして一つの小屋が見えてきた。どうやら目的地に着いたようだ。
小屋の前へと到着し、ノックをしようと手をかざしたところ―――いきなり戸が開いた。
そして中から現れたのは―――赤色の天狗の面を被った男だった。
「あ、鱗滝さん。ただいま!」
「…………」
どうやらこの天狗の男が鱗滝のようだ。予想とは違うその姿に八幡は言葉が出ない。
鱗滝は二人を見て口を開く。
「―――よくぞ生きて戻った、真菰。お客人も一緒か。二人とも中に入るといい」
「はーい。行こっ八幡」
「えーと、じゃあ、お邪魔します」
「ああ―――ゆっくりしていくといい」
鱗滝の誘われ、二人は小屋の中へと入っていった。
「そうか。そんなことが―――比企谷八幡。真菰を助けてくれたこと、礼を言うぞ」
「いえ、頭を上げて下さい。少し遅れて怪我をさせてしまいました。こちらこそ申し訳ありません」
最終選別の話を聞き、鱗滝は八幡に向かって頭を下げた。しかし間に合ったと思っていない八幡も、鱗滝に向かって頭を下げる。
「いや、命があっただけでも有難いことだ―――怪我は直せばいいが、死んでしまったらそれで終わりだ」
「……そうですね」
実感の籠った言葉に八幡も思わず同意する。
「……うろこだきさ~ん」
話題の張本人、真菰は鱗滝の膝の上で眠りに付いている。その満喫した笑みはとても幸せそうだ。
「―――お前たちが会った異形の鬼。あれは儂が捕まえた鬼だ」
「あなたが?」
膝の上の真菰をひと撫でして、鱗滝は八幡へ説明を始めた。異形の鬼は鱗滝を恨み、数十年間生き残っていること。そして鱗滝を恨んでいる鬼は、彼が育てた弟子を優先的に狙っていることを。
「なるほど―――すみません、俺の詰めが甘いばかりに。あの鬼を仕留めきることが出来ませんでした」
「いや、それを責めているわけではない。儂の弟子が無事に帰ってきてくれたのだから―――それ以上は贅沢というものだ」
「それは……いえ、何でもありません」
八幡は口を開こうとしたが途中で止める。そして鱗滝は真菰を抱えて立ち上がった。
「……今日はもう遅い。ゆっくり休むといい」
「―――分かりました」
鱗滝の厚意により、この日は小屋で一泊することになった。
「では、そろそろ帰ります。泊めていただきありがとうございました」
「えーもういっちゃうの、八幡。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
翌日の朝。鱗滝と真菰に見送られ、八幡は出発の挨拶をしていた。真菰は一人で立てないので、鱗滝が支えている状態だ。
八幡のことを真菰は呼び止めるが、彼には帰らなければいけない理由があった。
「いや、あんまり遅くなると師匠が怖い。これ以上は危険だ」
「危険って。八幡の師匠ってどんな人なの?」
「……色んな意味で厳しい人だ」
修行の数々を思い出し、八幡の身体が震え始めた。
「―――まさかあの平塚の弟子とはな。儂の名前を出すといい。無下にはしないはずだ」
「分かりました。遠慮なく使わせてもらいます」
間髪入れずに返事をした。シゴキを回避できるならどんな手でも使用する所存だ。
八幡が真菰を見ると、彼女はまだ不満そうな顔をしていた。
「そろそろ行くぞ。またな、真菰」
「うん……でも、今度はいつ会えるか分かんないよ」
「確かにそうだな……」
二人が困っていると鱗滝が声を掛ける。
「同期なら合同任務で会うこともある。それまでは鎹鴉で文のやり取りをすればいいだろう」
「あ、そっか。さすが鱗滝さんだね。じゃあ八幡、そういう事で」
「ああ、分かった。では失礼します」
そして八幡は歩き始めた。離れていく八幡に真菰は声を上げた。
「はちまーん! またねー!」
振り返った八幡は、手を振ってそれに返した。そして八幡の姿が遠ざかり―――やがて見えなくなった。
「……いっちゃったね」
「―――ああ。あの男のことを随分と気に入ったようだな」
「そうかな? ……うん、そうかも。八幡に撫でられると、鱗滝さんと同じ位気持ちいいんだよ」
「そうか―――よかったな、真菰」
「うん!」
「さて、家に戻るとしよう。まだ怪我は治ってないからな」
「あ! 待って、鱗滝さん」
戻ろうとする鱗滝を真菰が呼び止める。
「―――どうした?」
「えーと、あのね……私、ご褒美が欲しいの」
「ご褒美?」
「うん。最終選別に合格したご褒美……駄目かな?」
不安気に真菰は言った。
「……珍しいな。構わん、言ってみろ」
真菰が何かをねだるなど初めてのことだったが、鱗滝はそれを許可した。
「……………」
そして決意を固めた真菰が動く。
鱗滝の顔の下から見上げるように自分の顔を上向きにし、少し涙ぐみながら―――彼女は一生のお願いをした。
「……鱗滝さん……私の、私のお父さんになってください!」
「……………」
予想外の要求に鱗滝の思考は停止した。
そしてそこから先は―――色々と大変だった。
真菰の要求を渋る鱗滝。しかし彼女も諦めない。諦めず、諦めず、何度でも自らの要求を通そうとする。
それでも粘る鱗滝だが、元々子供への愛情は深い彼だ。負けるのは時間の問題だったのかもしれない。
私のこと嫌いなんだ、という真菰の台詞と涙には勝てなかったのだから―――
そして今日この時をもって―――鱗滝 真菰が誕生した。
錆兎と真菰が生き残った場合、二人は鱗滝の姓を名乗ることを希望する。
そんなことを考えながら、この話を書きました。
残念ながらこの話では錆兎は既に亡くなっていますが、真菰には幸せになってほしいところです。
大正コソコソ噂話。
最終選別で現れた異形の鬼。通称手鬼。
八幡の不意打ちで八割がた頸を斬られた手鬼ですが、何とか逃げ延びました。
しかしこの一件がトラウマになったので、この後数年間は引きこもりになります。