まるで、夢を見ているようだった。
「ユーゴ、先輩? 本当に? なんで、どうして……」
伊吹翼は呆然と、こちらに駆け寄ってくる彼を見ていた。
あり得ない。
あり得るはずがない。
だって、この道へ来るには祭りの会場を抜けてくる必要がある。
彼はあの場所を超えられない。
あれだけ苦しんでいた、その原因になった場所なのだ。どう考えても無理だ、無謀だ、無茶だ。
だが。
「あぁ、僕だよ。岩根勇吾だ」
それでも、岩根勇吾はここに来た。
額にビッショリと汗を浮かべ、顔を真っ赤に染めて、辛そうに息を荒げながら。
「伊吹さん、立てるかい?」
「……えっと、足首挫いちゃって、そんなに酷くはないと思うけど。じゃなくてっ、その……わたし」
用意してたもの全部駄目にしちゃったんです、とか。
買ってもらった飴細工も砕けちゃって、とか。
この状況を、惨状について説明しようとした翼の前に、彼は黙ってしゃがみ込む。理由が分からず戸惑う翼へ、岩根勇吾は一切躊躇わず、こう言った。
「悪いけど、おぶってくよ。向こうにベンチがあったから、取り敢えずそこまで行こう」
「だ、ダメっ。それじゃユーゴ先輩も汚れちゃう……」
思わず、反射的に、翼は答えてしまった。
彼女の浴衣は転んでしまったときに、ソースや油に塗れてしまって、おまけにジュースの水気をたっぷりと吸ってしまっていたからだ。
そんな自分を背負ったりしたら、彼まで汚れてしまう。だから、翼はとっさに拒んだ。
「ダメじゃない。ほら、乗って」
「で、でも」
「──伊吹さん」
けれど、拒んだ翼の心を開こうとする、強い意志を感じる視線に見つめられ、彼女は恐るおそる彼の背中へと手を回し、体を預ける。
グイッと、太ももを抱えられる感覚とともに視界が上がり、前へと進んでいく。
結局、背負われてしまった。
背負わせてしまった。
自分も、汚れも、全部。
そう思うと、翼は涙腺からこみ上げるものに耐え切れなかった。
なぜ、こんなにも哀しいのだろう。
なんで、こうも辛いのだろうか。
そして。
どうしてそれなのに、辛く哀しいのに、それと同じくらいに、助けに来てくれたことを嬉しく思ってしまっているのだろう。
感情が迷子になる。
自分の心が分からず、呆然と開いた瞳から、ポロポロと涙が零れ落ち、また彼の浴衣を濡らしてしまう。
「ごめんね……ユーゴ先輩。わたし、ホントに……」
なんと言えばよいのか、それすら分からない。自分は何に対して謝っているのかも。
そして彼は──岩根勇吾は、不思議なほどに落ち着いた声で、翼へ語りかけた。
「──僕の顔さ、右っ側に火傷の跡があるだろ?」
「………………え?」
唐突な、なんの脈略もない話に、翼は気の抜けた声を返してしまった。
火傷痕のことは知っている。
初めて出会った時から、それは変わらず岩根勇吾の顔の右側を覆っていた。
彼はそのことを隠そうとしていなかったし、だから翼も気にしていなかった。
なぜ今、わざわざ火傷痕に触れたのか。
理解が追いつかず涙も引っ込んでしまった翼へ、岩根勇吾はなおも軽い口調で続ける。
「これ、僕が小さい頃にできたらしくってさ──あ、らしいってのは、僕がその時のことを覚えてないからなんだけど」
聞けば、まだ幼かった岩根勇吾は自宅で大火傷を負い──彼の母親は、それを自分のせいだと責めたそうだ。
自分の不注意が原因だと、そのせいで息子に大怪我を負わせてしまったのだと。
以来、彼と母親は別々の家で暮らしている。母親が、自分で自分を責め過ぎてしまったが故に。
「それで、今日僕があんな風になったのは、トラウマってやつなんだと思う」
体の奥底で眠っていた、痛みの記憶。
それが、四方八方から聞こえて来る、肉の焼ける音によって呼び覚まされたのだと、岩根勇吾は語る。
語って、語り終えて、彼は本題に入るべく、言葉を紡ぐ。
「ええと、その……結局、僕がなにを伝えたいかって言うと」
「…………」
翼は、嫌な予感がした。
岩根勇吾は、優しい人だ。自分はそれをよく知っている。ワガママを言っても、駄目だって言いながら最後には聞いてくれるし、悩んでいたら相談に乗ってくれる。そういう人だ。
そんな優しい彼のことだから、今回のことも『トラウマを持っていた自分が悪い』だなんて言い出すんじゃないかと、そう言わせてしまうんじゃないかと、翼は思った。
そうじゃないのに。
決して、先輩は悪くないのに。
そうだ、彼は悪くない。
悪いのは、悪いのだとしたら──
「──誰が悪いって話じゃないと思うんだ」
「────っ」
それは翼の不安を晴らすような、陽だまりみたいに穏やかな声だった。
「強いて言うなら、運が悪かったって話でさ。伊吹さんも、それに僕も、きっと悪くない」
それにさ。と岩根勇吾は、朗らかな声で続ける。
「嬉しかったんだ、僕。伊吹さんが、二人で夏祭りをって言ってくれて──あんな事があって、もう夏祭りどころじゃないと思っていたけど。伊吹さんとなら、別に祭りの会場でなくても楽しいだろうなって」
ポタリと、一度止まっていた涙が、翼の頬をつたって、岩根勇吾の背中を濡らしていく。
けれど、この涙は辛くて悲しくて流している、暗い涙ではない。
今の翼が流しているのは、彼女の気持ちを代弁するための、明るい涙だ。
「わたし……わたしもっ、嬉しかった。ユーゴ先輩が助けに来てくれて、ユーゴ先輩もわたしと同じ気持ちでいてくれて──それがすごく嬉しくて……っ!!」
「うん」
決壊した涙腺から、止めどなく涙が零れ落ちる。
けれど、翼にはもう、その涙を止めることが出来なかった。
心の底から、感情の根っこから、彼への気持ちが湧き出てくるのだ。今までに感じたことがないほどに、熱く、強く、奥深くから。
「だから、わたし……ユーゴ先輩に言わなくちゃ──ううん、言いたいことがあって」
「奇遇だな、実は僕も伊吹さんに言いたいことがあるんだ」
だとするのなら。
きっと彼も、自分と同じことを言おうとしている。
翼は、そんな確信を胸に、信頼を心に、自身を背負う背中へと語りかけた。
「──ありがとうございます、ユーゴ先輩」
「ありがとう、伊吹さん」
トラウマになっているはずの、あの祭りの会場を抜けてまで、助けに来てくれて。
二人でいれば、場所なんて関係ないと。自分と同じ気持ちでいてくれて。
それが、堪らなく嬉しい。
彼と触れている箇所が、熱を持っているようだった。身体中に、心地好い温もりがジンワリと広がっていく。
この気持ちは、一体なんなのか。
翼は、その答えを知らない。
知らないけれど、知りたいと思った。
まるで、彼と一つになったような、感じたことのない幸福感の名前を。
もっと、これ以上に幸せを感じていたくて、そっと背中に胸を押しつけてみれば、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
はしゃぐココロがうるさくて、もしもこの心音が彼に届いているのなら、ほんのちょっぴり恥ずかしいけれど。
でも、自分の感じている幸せが、このトキメキが、少しでも伝わっているのなら──それは、とても素晴らしいことに思えた。
「お、見えた。あのベンチでいったん休もう。足も、軽く固定するくらいはできるだろうし。本当は病院で診てもらえれば安心なんだけど」
「えへへ、大丈夫ですよ〜。ホントに軽く捻っただけですしっ」
「そうは言うけど、万が一ってことも──」
岩根勇吾が翼を背負い暫く歩いて、ようやっと目的のベンチが見えた時だった。
ヒュ〜〜〜〜ドンっ!!!!
目の前の夜空に、オレンジ色の大輪が咲き、二人の顔を照らしだす。
夏祭りもいよいよ大詰め。
祭りの花形、花火大会の時間であった。
■ □ ■
射的屋のおっちゃんは、まさに的を得たアドバイスをくれたのだなと、ベンチに腰掛けながら僕は思った。
夏祭りの会場からは少し離れた、人通りのない脇道。ここだと花火を打ち上げている場所から遮蔽物がないので、絶好のスポットというわけである。
おまけに座って花火を見ていけと言わんばかりのベンチだ。帰ってこない伊吹さんを探している際に見かけ、足首を負傷していた彼女の手当てと休憩を兼ねて目指していたこのベンチが、まさかのベストポジションだったとは。
「わぁ〜〜、見て見てユーゴ先輩!! おっきい花火ですよっ!!!!」
「おお、
先ほどまでの消沈具合が嘘のように、伊吹さんは花火を見ながらはしゃいでいた。
うん、やっぱり伊吹さんはそうしているのが一番だ。
あんな風に楽しそうな伊吹さんを、僕は見ていたいのだと、ようやく気付けた。
今日は本当に色々なことがあって、夏祭りの会場にはいられないけど、お互い散々な目にもあったけれど、今はこうやって二人ベンチに座り花火を眺めていられる。
それだけで、僕は満足だ。
きっと伊吹さんもそうなのだ。
伊吹さんと、僕と、二人がいれば場所なんて関係ない。
ふと、隣の伊吹さんを見る。
キラキラした彼女の顔は、夜空に浮かぶ花火に負けないくらい華やかで。
その横顔に、思わず僕は。
「……綺麗だな」
「そうですね〜、今度はカラフルなちっちゃい花火ですよっ、カワイイな〜♪ あれ、なんで笑ってるんですか?」
「いや、なんでもないよ。本当に綺麗だなって思って」
そして、本当に楽しい時間だ。
今だけじゃなくて、伊吹さんといる時間そのものが。
とるに足らない、何気ない中身のない会話も。黙ってコーヒーを飲んでいる会話のない時間だって。彼女がいてくれたなら悪くない。
だからこそ、僕は考える。
「来年も、また見に来ましょうね!! そのまた来年も、その次の年もっ」
先に進むってことの、その決意を。
東京を離れ北海道へ、母さんのところへ向かう選択の、その結果を。
「そうだな。出来ることなら、僕も行きたい」
「……ユーゴ先輩?」
僕の進路を伊吹さんに明かす、その意味を。
「さっき、母さんの話をしたろ? 今は離れて暮らしてるって、北海道に住んでるってさ」
「えっと、通院してるって言ってた……」
「うん、でも最近は調子も良いみたいで。僕とも会えるようになったんだ」
しかしだ。
僕は考えているようで、まるで考えられていなかった。
自分の気持ちばかりを考えていて、相手の気持ちを──伊吹さんの気持ちを、全然考えてはいなかったのだ。
「──だから、高校は向こうの、北海道の高校に進もうと思っているんだ。それで、家族三人で暮らせればって」
「えっ────?」
より正確には、彼女が僕のことをどう思っているのか。
今になって思えば、あの時の父さんの言葉をもっと良く考えておくべきだった
伊吹さんの気持ちを、きちんと考えるべきだった。
「ユーゴ先輩は──の?」
「伊吹さん?」
僕の北海道行きを聞いて、僕の目を真っ直ぐに見て、伊吹さんは。
「──やっぱり、なんでもないで〜すっ。わたし、ユーゴ先輩の応援をしたいから。えへへっ♪」
「あぁ、ありがとう」
その間に入る言葉を、きちんと聞かなくちゃならなかったのに。
伊吹さんが決断の後押しをしてくれたと思って、バカな僕は無邪気に喜んでいた。
けれど、そこには大きな間違いが、勘違いが、食い違いがあって。
そんな沢山の違いを残して、僕達の夏祭りは終わった。
■ □ ■
夏祭りが終わり、同じように夏休みが終わって、学校が始まった。
その日の放課後、僕はいつものように喫茶店で、いつもの席に座り、いつものコーヒーを飲みながら執筆をしていた。
だが、どれだけ経っても──どれだけ待っても、伊吹さんが現れることはなかった。
次の日も。
そのまた次の日も。
週末になっても。
──伊吹さんは、まだ来ない。