伊吹翼は幸せのために生きている。
ゆえに彼女の行動基準は、自分が幸せに──ハッピーになれるか否かが全てだ。
自分がやりたいか、やりたくないか、そんな基準が彼女の行動指針なのである。
その基準からすると、あの日の彼女の行動は、いつもとちょっぴり違っていた。
数日前のことだ。
6時間目に入っていた数学の授業をサボって、翼は優雅なシエスタに勤しんでいた。
なぜ授業をサボったのかといえば、それは今日の範囲が前回の復習で、翼はすでにその範囲を覚え切っていたからだ。
勉強はする。なんとなくだが、やっておいた方が良いのは分かるので勉強はする。しかし一度覚えてしまった箇所を、わざわざもう一時間使って学ぶ意味を、彼女はついぞ見出すことが出来なかった。
なのでサボタージュ&シエスタである。
ちなみに場所は敷地内にある倉庫の一つで、窓の一つに鍵がかかっていないのをいい事に、翼はそこを自分の休憩場所として使っていた。
しかし自分でも知らないうちに眠気が溜まっていたのか、目を覚ますと既に時刻は四時半を回っていて、翼はじゃあ帰ろうかなと身嗜みを整え帰路に着こうとする。
着こうとして、ふと思ってしまった。
(なんか、"いつも通り"って感じ……)
自分は多分、いやかなり恵まれている方だ。
優しい両親に、姉と兄。
クラスにはたくさんの友達がいて、男子にも結構モテてる。
やりたいことは大体やれてるし、いい感じのハッピーライフを満喫してるはずだ。
なのに、それなのに。
翼の心には『退屈』の2文字があった。
贅沢だという、自覚はある。
ただ自覚があろうとなかろうと、彼女が退屈している事実が消えるわけではない。
もっと楽しく、もっとハッピーに、もっと夢中になれる何かを、翼は無意識に求めていた。
(あれ、こんな時間に……誰だろ)
校舎裏のゴミ山を横切ったのは、倉庫からだとその方が出口──裏口に近いからだった。
普段、校舎から真っ直ぐに帰ろとすればまず通らない道。その道の脇にあるゴミ山に、彼女は人影を見つけた。
一瞬警戒するが、格好を見れば、それが星見ヶ丘学園中等部の制服であることは直ぐに分かる。
人影は男子生徒で、ゴミ山に手を突っ込み、何かを探しているようであった。
フラリと、翼の足は自然と、ゴミ山の方へと向かっていた。
こんな時間に、あんな場所で、一体なにを探しているんだろうかと。
男子生徒からほんの数メートル離れた場所に立ってみて、様子を窺ってみる。けれど彼は翼のことなど眼中にないようで、ちっとも反応してこない。
クラスの男子達なら、例え何十メートル離れていたって、翼に気がつけば寄ってくるのに。
新鮮だった。新鮮な気持ちで、もっとよく見てみようとして、彼女はもう数歩近づいた。そこでようやっと、男子生徒の顔がハッキリと視界に収まる。
目を引いたのは、大きな火傷痕。
顔の大部分、少なくとも翼の方から見える右側に関しては、口元から耳元までが赤っぽい火傷の痕で覆われている。
仮に反対側もそうだとしたら、元の顔がどうだったのかなんて、写真でも見なければ分からない程だ。
それはとても強烈で、気の弱い人ならそれだけで調子を崩してしまいそうなインパクトがあった。
だが、そんな事より、そんな些細な事よりも。
翼は見た。
彼の真摯な、一生懸命な顔を。
なにを探しているかは知らないが、探している何かの為に、必死になっているその顔を。
自分に、あんな顔が出来るだろうか。
きっと無理だ。あそこまで一つの物事に打ち込んでいる顔は、翼には作りたくても作れない。
だって、彼女にはないから。
それほどまでに求める何かが、夢中になれる唯一無二のものが。
だから──。
「そんなところで、何してるんですかー?」
気がつけば、翼は口を開いて、そんなことを聞いていた。
■ □ ■
ピピィ────ッ!!
「ゲームセット!! ウォンバイ伊吹、ゲームカウント7-5」
試合終了のホイッスルが鳴り、ワッと歓声が響く。
肩でしていた息を整えると、翼はラケットを左手に持ち替え、対戦相手と握手を交わした。
「対戦ありがとう。いやぁー負けたわ、伊吹ちゃん。ラケット握ったの一昨日が初めてってほんま?」
「ありがとうございまーす。そうですよー? テニスはやったことなかったから」
「……おるもんなんやなぁ、天才って」
参った参ったと、対戦相手──テニス部のレギュラー選手が去っていく。するとあっという間に、翼の周りに人垣が広がった。
「凄いよ翼ちゃん!! レギュラーの選手に勝っちゃうなんて!!」
「伊吹さん体験入部中なんだっけ? もうテニス部入っちゃいなよー」
「翼先輩カッコ良かったですっ、次、私とも試合してください!!」
同級生に先輩に後輩と、三者が三様に、三者三様の言葉で、翼の勝利に湧いていた。
彼女が女子テニス部に体験入部して早三日、とんでもない集中力とセンスでメキメキと上達するその様子を間近で見ていた部員達にとって、今の翼はちょっとしたスターである。
無論、ポッと出の彼女が次々と白星をあげていくことに、複雑な思いを抱く部員もいたのだが、その辺りに対して翼は天性ともいえる人懐っこさを存分に発揮していた。
「あれ、でもツバティー先週はソフトボール部行ってたよね? 走っても打っても投げても凄かったって、あっちの子が言ってたよ」
そう声をあげたのは、テニス部員のクラスメイトだ。
「うん、その前はフットサルでー、あと写真部。次はバスケと吹奏楽に行こうかなぁって考えてるトコ」
「え〜?! テニス部入らないの? 私ツバティーと一緒に部活やれるって楽しみにしてたのに〜」
「えへへ、ごめんね〜。色々やってみたくって」
「にしてもツバティーやり過ぎだよー、ソフトボールにテニスにフットサルでしょ。あと運動部じゃなくて写真部。それと今度はバスケと吹奏楽だっけ? どしたのさ急に」
確かに、側から見れば至極当然の疑問だ。
一年間部活動に参加していなかった翼が、なぜ今頃体験入部を繰り返しているんだろうかと。それも、短期間で複数回も。
無論、それは先日の邂逅が、岩根勇吾との出会いが理由であり、翼は宣言通りに夢中になれるもの探しの真っ最中、というわけだった。
ただ未だに体験入部を繰り返しているということは、それすなわち、イコールで、彼女が自分を夢中にさせてくれるものに出会えていない事実を示している。
ソフトボールは楽しかったし、テニスも他選手に勝つ為工夫するのが面白かった。風を切ってボールを追いかけるのは爽快感があったし、思った通りの写真が撮れた時は嬉しかった。
でも、足りない。
鏡で確認してはいないけれど、自分があの時の先輩のような顔をしているかと訊かれれば、翼には自信がなかった。
楽しいし、面白いし、嬉しい。
けど心底夢中になれては、いない気がした。
やや飽き性の彼女にしては、ここまで一つ一つ真剣に取り組んでいる。手を抜いてなんかいない、全力でやっている。
だったら何故、夢中になれないんだろう。
「うーん、なんとなく!! 今はそーいう気分なの!!」
「なにそれ〜、変なツバティ〜」
なんて心情を、テニスに夢中なクラスメイトに打ち明けられるはずもなく、翼は笑って相槌を打つ他なかった。
■ □ ■
二週間後、翼は机に突っ伏していた。
心配したクラスメイトに声をかけられるが、大丈夫だよー。と生返事。
あの出会いから一月弱、めぼしい部活は粗方回った。回ったが、空回り……というより、空振りだった。
どの部活動にも魅力はあった、それは確かだ。しかし、そこでとことん続けたいと、翼は思うことが出来なかった。
夢中には、なれなかった。
そもそも夢中になっているとは、どう判断するんだという話になるが、翼としては夢中になっているなら、もっとこう胸の高鳴りというか、ワクワクやドキドキするものだと思っている。
それこそ、あの時みたいに。
ノートを見つけて、差し出して。それを受け取った彼が見せた、ぶきっちょな笑顔と、『ありがとう』を受け取った。あの時のような、ドキドキを。
あれは結局、なんであんなにドキドキしたのだろうと、伊吹翼は考える。
異性の笑顔にドキッとしたとか、そんな話ではない。多分、先輩の性別とか、そういうのは関係ない気がした。
その点を踏まえて、翼は改めて思い出す。彼との出会いを、そこでのやり取りを思い出し、自問自答を繰り返す。
ノート探しを一旦やめて、ゴミ山を下りたのは単純に飽きてしまったからだった。先輩には悪いことをしたかも知れないが、本来翼はそういう性分なのだ。
けど、飽きてしまって、暫く歩いて、翼は振り返った。
振り返って、もうちょっとだけ探してみようかなと、何となしに思った。
だから、技術室の屋根に引っかかるノートを見つけた時、翼は迷わなかった。迷わず桜の木を登って、精一杯手を伸ばして、ノートを掴んだ。
それで、ノートを渡して、彼の笑顔を見た時。
あぁ、頑張って良かった。
そう思えた、思うことが出来た。自分のやったことで、心からの笑顔を見られて、それで──。
(あ、そっか。だから、わたし……)
あの時の気持ちを、もう一度確かめたい。
でもどうすれば良いのか、どうやれば確かめられるのか。
考えても分からない。
分からないし、考えても仕方ない気がする。
そういう時は今まで通り、したいと思ったことをすれば良い。
とりあえず、立ち上がりながら翼は決めた。
(ユーゴ先輩のところに、行ってみよーっと)
目指す先は、三年五組の教室だ。