その日、僕はいつもの喫茶店でシャーペン片手に黙々と書き込みをしていた。
六月も残すところ一週間、見方を変えれば7月まで残り一週間。それが一体なにを示しているかといえば、学生にとって不倶戴天の怨敵、つまるところ定期試験の時期である。
なので、僕も執筆に使っている原稿用紙は広げず、代わりにノートを広げて英単語の書取りに勤しんでいるという訳だった。
幸いなことに、僕はそれなりに勉強ができる。学年で30本の指に入るくらいだろうか。
それは一般的な学生が部活やら遊びやら、勉強会という名の駄弁りにうつつを抜かしている間にも、こうして地道に知識を積み重ねている、僕の隠れた努力の為せる技であった。
もっともその理論ならそれなりではなく、かなり勉強ができて、10本の指に入っていても良さそうなものだが、僕も大概趣味に時間を費やしているため、それ以上の進歩は望めそうにもない。
まぁ、このくらいの点を取っていれば、父さんに心配をかけずに済むので、僕的には適値といえる。
今回もこの調子でいけば、例年通りの点数を恙無く取れそうだ。
なので、僕にとって定期試験というのは、年に4回やって来る恒例行事に過ぎず、テストの前に慌てて勉強をし始めたりだとか、ましてや一夜漬けをするなんて状況が、どうにもピンと来ない。冒頭で不倶戴天の怨敵だなんて表現をしたけれど、僕からして見れば仲の悪い親戚の人レベルだ。日頃の行いが良ければ十分対処できる。
よって。
「あーもー、全然進まないよー!! ユーゴ先輩、勉強教えて〜〜」
「教えるったって、もう来週からテストなんだけど……」
「それでもイイからー!!」
目の前で頭を抱える伊吹さんの気持ちが、僕にはよく分からなかった。
ついでに言うと、伊吹さんが当たり前のようにこの喫茶店にいる理由も分からない。
彼女が765プロライブ劇場に所属してから丸三週間が経過し、その間にもレッスンが早く終わったとか、今日はオフの日だとか、そんなことを言いつつ伊吹さんは喫茶店にやって来て、決まって前の席に座る。そして劇場での出来事を、楽しそうにあれこれと僕に語って聞かせるのである。
僕は僕で自分の趣味というか、小説の執筆に集中しているので相槌もまちまちになってしまうのだが、伊吹さんはそれでも構わない様子だった。
断片的な話を聞くに、どうやら楽しくやっているらしい。
少なくとも、退屈そうにはしていないので、僕としても一安心だ。
しかしながら、僕がこの喫茶店に半ば住み着いているような状況にある点について、僕はマスターから「学生の間は好きに使ってくれて構わない」とお墨付きを頂いており、黙認もとい公認されている。だけれども、こうして新たに伊吹さんが加わったことをマスターは気にしていないのだろうかと、それとなく尋ねたところ「可愛い常連さんが増えて嬉しいよ」との返答があった。あぁ見えて、意外なところでオヤジっ気のある人だ。
「けどなんて言うか、意外だな。僕は勝手に、伊吹さんは勉強も卒なくこなせるもんだと思っていたんだけれど」
「別に苦手ってわけじゃないんですけどー、今はシアターが楽しくって……このままじゃお母さんに怒られちゃうよ〜」
なるほど、それで勉強の方に手がつかないと。
僕も筆に勢いがつくとうっかり勉強時間を削ってしまうことがあるので、気持ちは分かる。
気持ちは分かるのだが。
「ただ僕も、人に勉強を教えたことなんてないしさ。一緒に勉強する相手としてはどうなんだ? 学校の友達とか、伊吹さん大勢いるじゃないか」
「友達と勉強してたら、すぐお喋りになっちゃうんですよね〜」
「あー、うん。そうなんだ……」
モノローグで勉強会という名の駄弁りなんて言った手前、否定しづらいものがあった。
となるとだ、いよいよ僕が伊吹さんに勉強を教えることになるのだけれど、ハッキリ言って自信が皆無だ。
しかし相手も切羽詰まっているわけで、そんな時に頼られたのだと思うと、非常に断り難い。
仕方ない、か。
「分かった。そこまで言うなら、引き受けるよ」
「やった〜!! ありがとうございます、ユーゴ先輩♪」
「でも準備がしたいから、手伝うのは明日からってことでいいかな」
「は〜い!!」
さて、了承したからには全力を尽くすべきだろう。そして全力を尽くすには、今の僕では力不足だ。
よって不本意だが、とっても不本意ではあるのだが。
あの人を、頼らざるを得ない。
■ □ ■
「勉強の教え方を教えてくれって、お前教える相手なんているのか?」
「それが教師が生徒に投げかける言葉かよっ!!」
「ははは、今日もツッコミが冴えてるなぁ岩根」
担任であり国語教師、やたらと鍛えられたその肉体で悪童を蹴散らす星見ヶ丘学園のインテリゴリラから受けた恩は、一朝一夕に返せるものではない。
自分で言うのもなんだけど、荒れた小学生時代を過ごしヤサグレていた僕が、一応は真人間に見えるところまで更生できたのは、
しかし僕が更生してから向こう、
永先がボケて、僕がツッコミを入れる。
今日のこれも、永先からしてみれば軽いジャブなのだ。
「もしかして岩根、お前……」
「な、なんだよ」
いつになく真剣な顔の永先。
「先生を心配させないために架空の勉強仲間を──」
「作るわけがあってたまるか!!!!」
ボディが重い……っ。
「兎に角、頼むよ永先。こっちはマジなんだ」
「ふーん、そうか。そういうことなら、教えてやらんでもない」
「ありがとう、恩に着るよ……釈然としないけど」
「場所はそうだな。確か、視聴覚室が空いていたはずだ」
なるほど、そこなら他に誰かが来ることもなさそうだ。
現在テスト前一週間ということもあり、職員室は原則立ち入り禁止だ。今だって四時間目の授業終わりに、永先を廊下で捕まえて話している。
「しっかし、あの岩根が他人に勉強をねぇ……ま、良いんじゃないか。良い傾向なんじゃないか。先生は嬉しいぞ」
「……聞かないのか?」
詳細を、というか僕が誰に勉強を教えるのか。
「ん? 聞いて欲しいのか?」
「い、いや。そんなんじゃなくて、でも──」
「なら聞かない。それで良いだろ?」
これだから、永先には頭が上がらない。
僕と自身との距離感を、絶妙に保ってくれる。
「そんなことより昼飯だ昼飯。今日は妹が弁当作ってくれてさ〜、これがまた美味いんだ」
「……はぁ、まーた始まったよ永先の妹さん自慢が」
「いやいや、うちの妹は本当に凄いんだよ。可愛いし料理は上手いし歌も上手い、運動神経も抜群でなにより俺直伝のスライダーが投げられるからな」
「もう何べんも聞いたよ、そんなに凄いんならアイドルでも勧めてみたら良いじゃんか」
「…………アリだな」
アリなんだ。
なんだか余計なことを言ってしまったかも知れない。
永先は妹さんを溺愛しており、「妹にスライダーを教えたのは俺」が彼の口癖である。
妹さんにスライダーを教えて、この人はいったい何をしたいんだろう。
こうして僕は昼休み中、永先の妹トークに付き合う羽目になるのだった。
■ □ ■
で、翌日の放課後。
喫茶店に集合した僕と伊吹さんは、テーブルにテストの範囲表を広げて向かい合っていた。
僕は永先からのレクチャー終わり、伊吹さんは劇場でのレッスン終わりである。
「まぁ、五教科以外は毎年そこまで問題が変わるわけでもないし、去年の問題持ってきたから丸暗記してくれ」
「は〜い。去年の問題なんてよく持ってましたね」
「ん? こういうのって卒業まで保管しておくものじゃないのか?」
「普通はしないと思いますよ? 私は終わったら捨てちゃうし〜」
そ、そういうものなのか……知らなかった。
「ま、まぁいいや。それで五教科についても、やっぱり例年絶対に出るタイプの問題がいくつかあるから、そこを抑えつつ、後は山を張っていこう」
「…………」
「伊吹さん?」
「あっ、ごめんなさい。先輩、可愛い傘を持ってるんだなーって」
「あぁ、この傘ね」
ぼーっとした様子の伊吹さんに声をかけたところ、僕が壁に立てかけていた傘が気になっていたらしい。
言われたことがなかったので気に留めていなかったけれど、改めて言われてみれば、水色に幾何学模様の入った傘というのは、可愛いと分類されるのかも知れない。
「でも、今日は晴れですよね〜。あっ、日傘なんですか?」
「いや、普通の傘だよ。父さんが帰りに降るって言うからさ」
「へぇ〜、こんないいお天気なのに」
伊吹さんの言うように、梅雨明けはまだ先ではあるけれど今日は朝からカラッとした晴天である。
天気予報でも雨が降るだなんて話はなかったし、正直傘を持って来たはしたが僕としても半信半疑だ。
「傘の話は置いといて、そろそろ始めようか。テストの時間割的には……そうだな、国語から入るのがいいと思う」
「初日の教科からってことですか?」
「うん、今日から始めればテストの前日には2周目に入れるだろうし、後はひたすら前日に1週目の復習をこなしていく形になるかな」
特に山を張る箇所については、前日の詰め込みがどれだけ当たっているかが重要とのこと。
流石に具体的な場所までは教えてもらえなかったが、テスト一週間前から試験範囲を詰め込むテンプレートは学ぶことができた。これなら、それなりの点数までは持っていくことができるだろう。
お膳立てはここまで、後は伊吹さんの頑張り次第だ。
「分かりました〜。私、頑張りまーすっ」
「あぁ、僕も出来る限りは力になるよ」
「えへへ♪ ユーゴ先輩にもお礼しないとですね」
「いや、別に僕は──」
「膝枕でいいですか?」
「どうしてそういう方向に持っていくかなぁ……」
「大丈夫ですよー、わたし膝の上で寝たりしませんって」
「僕がする側なのかよ!!!!」
どんな特殊なシチュエーションだ、それ。
「あれ、耳かきもセットにしたほうが良かったかな〜?」
「セットって言うな、耳かきもセットとか言うな、僕の性癖を勝手に拗らせないでくれ!! どうせそれも僕が耳かきする側なんだろ?!」
「ユーゴ先輩、せーへきってなんですか?」
「藪蛇かちくしょう!!!!」
ひとしきりツッコミを入れ終えると、ドッと疲れが押し寄せてくる。この間から、伊吹さんはちょいちょいこういうボケを挟むのだ。これでは永先二号である、たまったものではない。
だいたい、お礼なんて最初から求めちゃいないのに。
僕は彼女に、伊吹さんに、返したくても返し切れない恩があるのだから。
■ □ ■
「よし、今日はこの辺にしとこうか。時間も時間だし」
「は〜い、もう頭が沸騰しちゃいそうですよ〜」
「……そのセリフ、間違っても表で口にしないでくれよ」
背もたれに寄りかかって、両手を頭の後ろで組む伊吹さんに、そう言いながら荷物をまとめる。
勉強は思っていたより捗った。
途中で伊吹さんが何度か脱線しかけたが、それ以外はとても集中していた、軽いトランス状態のようにも見えたほどだ。
その間はこちらも自分の勉強にしっかり取り組めたし、なんなら彼女の集中力に釣られて普段よりペースが早まったくらいである。
今日はマスターが新作スィーツの研究をするだとか言って厨房に篭っていたので、バイトの人に料金を支払うと、僕たちは帰路に着く。
着こうとして、あんなに晴れていた空が鈍い曇天になっているのを見た。
「曇っちゃいましたね、空」
「だな、父さんの予感が的中する前に帰ろうか」
「そうですねー。今日はありがとうございます、ユーゴ先輩。これなら、なんとかなるかも」
「これくらいなら、お安い御用だよ。んじゃ、また──」
また、明日。そう言おうとした僕の頬に、ポツリと雨粒が当たる。
一瞬気のせいかとも思ったが、気のせいではないと言わんばかりに次々と水滴が降って来た。
困ったことに、どうにも手遅れのようだ。
参ったな、こんなことならもう一本傘を持って来れば良かった。
……まぁ、ちょっとくらい濡れても大丈夫だろう。
僕は、手に持った傘を広げると、伊吹さんに差し出す。彼女は差し出された傘をキョトンとした目で見ると。
「あーっ、相合い傘ですねっ♪ わたし一度やってみたくって」
「いや、この傘は二人が入るには小さ過ぎるし、僕は走って帰るよ」
ここ最近の傾向に従えば、ここはツッコミところだったけれど、僕は役割を放棄した。
「え、でも──」
「僕の家、すぐ側だからさ。それに、アイドル始めたての大事な時期に、風邪なんてひいてられないだろ? じゃ、僕はこれで!!」
「ちょっと、ユーゴ先輩!!」
傘の柄を伊吹さんに無理矢理握らせ、僕は家に向かって駆け出した。
真っ直ぐ、振り向かずに、降り出した雨に濡れながら。