蝶屋敷のあの子【完結】 作:トマトのトマト
何をしていても、彼の声が頭に響く。仕事が手につかない。
皿を何枚割った。裁縫の針で何度指を怪我した。挙げ句の果てに、私より年下の三人娘に「休んでくれ」と言われる始末。悪いのは自分だと分かっているのに、今はそう思いたくない自分も居て。一人縁側で物思いにふける。
産屋敷邸が襲撃された。鬼殺隊の本拠地だ。そこにはお館様が居て、隊士たちのことを取りまとめている。そこが襲われたのだ。戦場に行っていない私でも分かる。戦況は大詰めを迎えていると。
「――――アオイちゃん」
鎹鴉から襲撃の通達が来る一時間ほど前。日が沈みかけていた時。
見回りに出たはずの彼が、突然屋敷に顔を出した。あまりにも真面目な顔と雰囲気をしていたから、私も変に固まってしまって。何の用かと尋ねると、彼は優しく微笑んでくれた。
「急に会いたくなって」
いつもの縁側。「なんだそんなことか」と胸を撫で下ろすより、ドクンと胸が高鳴った。上手い切り返しが思いつかず、いつものように誤魔化すしか出来ない。普段から甘い言葉を言われ慣れているというのに。
「どうして会いたくなったんですか」
これまでの記憶を振り返っても、こんなことを聞いたのは初めてだと思う。彼の少し驚いた顔が脳裏に焼き付いている。ハッキリと。
「どうしてだろう」と笑う彼。上手くはぐらかされたようで、少しむかつく。それが顔に出ていたからか、彼は笑いながら話してくれた。
「なんか……会えなくなる気がして」
空気が張る。浮き足立ってしまう感覚だった。
どうしてだろう。これまでそんなことを一言も言わなかったのに。どうして急にそんなことを言うのだろう。
あの日。私に言ってくれた言葉は嘘なのだろうか。それとも、他に気になる人でも出来たのだろうか。
もしかして、しのぶ様?――――。昼間。言い争いになったことを思い出す。何故だろう。何を想って言い争いになったのだろうか。昼間に聞こうと思っても、聞かなかった。彼の答えが怖かった。
そこで初めて、私は彼のことを心から信用していないのだと気付いた。私に向けられた言葉も、彼の雰囲気も、彼の心も。
冷静になって考えてみれば、彼は誰にでも甘い言葉を掛けているわけでもない。私だけに想いを向けてくれている。それだと言うのに。彼の想いを踏みにじるような気がして。
私は、面倒な女だ。
劣等感の塊。最終選別を運良く生き残り、それ以降戦うことが恐ろしくなってしまった腰抜け。それだというのに、鬼殺隊の中でもかなりの実力者である彼は、私に想いを寄せてくれている。
どうしてだ。どうして私なんかのことを。貴方にはもっと、もっと、もっと、お似合いの人が居るに決まっているのに。
それなのに。それなのに。どうして私は――――私は――――彼のことを好きになってしまったのだろう。愛してしまったのだろう。止まらない渦の中に巻き込まれたような感覚。お似合いの人が居る、なんて思う癖に、彼の隣に違う女性が居ればやり場のない感情が心を蝕んでしまう。
「……なんかあった?」
「何もありません」
彼はいつも、私に何かを与えてくれた。物じゃなくて、心が落ち着いていく言葉。私はいつも、受け取ってばかり。私からそんな言葉を掛けたことは一度だけ。彼の家で、涙の勢いに任せて言っただけ。本心ではあったが、本心ではない。
私の想いを問いただすことなく、彼はいつも来てくれる。そんな彼に私は甘えていた。心地の良い声と雰囲気に、包まれることが幸せで。
「……よろしければこれを」
「これは?」
だから私は、彼のことを守りたい。
生きて帰ってきてもらうため、私も変わらないといけない。私が差し出した小瓶を見た彼は素直に聞き返す。その顔が子どもみたいで少し可愛かった。
「お守りです」
私はそれ以上深く説明しなかった。
中に入っている紫色の液体。正体は藤の花をすり潰したモノ。太陽光を目一杯浴びさせて。余計な薬品は一切入れず、極めて花の純度が高い液体を作った。
鬼に対する殺傷能力は無い。でも、万が一の時は鬼の動きを鈍らせることぐらいは出来るはず。そう願って準備した。彼は少しだけ頬を赤く染めて、何故か私から視線を逸らす。
「……ありがとう。なんか、元気出たよ」
照れ隠し、とでも言うのだろうか。頭を掻きながら、そっと受け取って懐にしまう。こんな彼の表情を見たのは初めて。元気が出た、ということは何か胸に引っかかりがあったということ。
それを問うべきかどうか。考える。彼の寂し気な表情。まるで何かに怯えているように。一体何があったのか。問いただすというよりも――――彼を励ましたいという想いが勝った。
「私は待ってます」
「……アオイちゃん」
「帰ってきてくれるんですよね」
彼は何も言わない。二つ返事がない時点でいつもの彼とは違った。
だけど、そんなことはどうでもいい。どんな理由があっても、落ち込んでいるのなら、励ます。元気な彼を見るのが、私は好きだ。
「そうですねぇ……。もし帰ってこないのなら私は他の人と――――ってふぇっ!?」
励ますついでに茶化してやろうと思った、というのに。
私は言葉を失ってしまった。言いたいことも出てこないような状況。彼は――――私を抱き寄せた。
「ごめん。少しだけこうさせて」
あれだけ言葉を掛けられてはいたが、こうして行動に起こされたのは初めてだった。彼も緊張しているのか、そう言ったきり何も言わなくなった。私の顔の前には、彼の厚い胸。心が溶けていくような彼の匂い。下半身がジンジンと痺れる。
屋敷の縁側で抱き合う二人の男女。側から見れば中々可笑しな状況かもしれない。でも、私は彼を突き放す気にはならなかった。
純粋に嬉しかったのだ。触れたいと思っていた彼から抱きしめられて。彼の胸の鼓動が右耳から聞こえる。早い。緊張しているみたいで可愛かった。
でもそんな感情はすぐに消えてしまう。――――彼は震えていた。緊張とは違う、何かに。「元気出たのではないですか」なんて問いかけようとしたけど、何故か喉からその言葉が出なかった。
「……怖いのですか」
代わりにそんな言葉が口から出た。彼は黙ったまま、やがて私を抱き寄せる力が強くなる。肯定なのだろうとこの問いかけを自己完結させた。
「すごく怖い。笑う余裕なんて無いぐらい」
「真魚さん……」
「帰ってくるって君と約束したのに、怖くて怖くてたまらない。戦況が進むにつれて、強い隊士が犠牲になっていく度に。次は俺じゃ無いかって、考えたくなくても考えてしまうんだ」
消え入りそうな彼の声。本当に参っているのだろう。こんな彼の姿を見たのは初めてだった。
「……帰ってこないと違う人の所に行きますからね」
さっき言い掛けた
だけど、何も言わないだけで、私を抱きしめる力が強くなる。苦しいぐらいに。でも、その時はそれがすごく心地良かった。暖かい彼の胸の中で、そのまま眠りについてしまいそうな。幸福感が私を包み込んだ。
「……冗談ですよ」
自分から言い直すのはすごく恥ずかしい。
まるで、貴方のそばにずっと居る、と言っているようで。でも、それは紛れもなく本心。恥ずかしさだけで、不思議と心は満たされた。私の言葉を聞いた彼は、そこでようやく微笑んでくれて。
だから私は、彼の手を握った。
震えていた彼の左手。それがびっくりするぐらい冷たくて。彼は少し驚いていたけど、何も言わなかった。ひんやりとした彼の感触が、今も残っている。
それからしばらく。私は特に話すこともなく、彼に抱き寄せられたまま縁側で満月を眺めていた。彼も口を開かなかったから、私が一人で話すのも違った。無言の空間でも、彼が隣にいる安心感が本当に、本当に幸せだった。
「産屋敷邸襲撃ーッ!!」
鎹鴉の声が屋敷中に響くと、彼は立ち上がって。私を離すのが名残惜しかったようで、寂し気な表情をしていた。それがちょっぴり嬉しくて。でも、やっぱり寂しかった。
鬼殺隊の本部が襲撃されたのだ。蝶屋敷も安全とは言えない。でも私は、これから戦地へ赴く彼のことが心配で仕方がなかった。お館様の命が危ないというのに、私は――――。
「い……行かないで……ください…」
私はやはり、面倒な女である。
隊士としての責務を果たそうとする彼のことを、引き止めてしまった。立ち上がり、彼の右手をしっかりと掴んで。
これまで、任務に向かう彼を止めたことは無かった。だけど、今回は何故か。多分。きっと彼と同じで、
それだと言うのに、彼は優しく微笑んでくれて。さっきまで怯えていた彼の姿は無くなって、今度は正面から私を抱きしめてくれた。
「弱音吐いてごめん。でも、必ず生きて帰ってくる」
「そんな保証はどこにも……お願いだからもう……どこにも…」
「行かないで」と続ける前に涙が止まらなかった。事は一刻を争っていたというのに。彼が覚悟を決めたというのに。私がそれに水を差したのは事実。言い訳になるかもしれないけど、ずっと前から彼が戦地に行く度、胸が締め付けられた。ずっと我慢していた感情が、あの瞬間。爆発してしまった。なのに、彼は本当に優しく包み込んでくれて。ギュッと音がしそうなほど、強く抱きしめてくれた。
「お守り、くれたじゃん」
彼は諭すように言う。確かに私はそう言って彼に差し出した。でも、お守りなんかじゃない。言ってしまえば、ただの
嬉しかった。彼の些細な思いやりが。
私の想いが伝わったような感じがして、心が満たされていく。やがて涙は止まる。それでも、彼のことを快く送り出す気にはなれなかった。仕方なく、と言った方がしっくりきた。
「……じゃあ。行ってくる」
「離さないで」と私の本心が訴える。でも、私はそれをグッと飲み込んで彼のことを見つめる。私の両肩に手を置いた彼は、噛み締めるようにそう言った。このまま口づけぐらいしてくれてもいいのに、なんて柄にもないことを思いながら。
そのまま名残惜しそうに私に背を向けて、ゆっくりと歩み出す。でも、三歩ぐらいしてまた彼は私の方を振り向いた。
「僕は、これから先も貴女のことを愛し続けます」
時間が止まったみたいで、フワフワした感覚だった。
何度も言われているような言葉なのに、あの瞬間であの言葉。心臓が破れてしまいそうなほど鼓動が高鳴って高鳴って。胸を撃ち抜かれる感覚。
返事をしないと――――そう思っていたのに、彼はそのまま私の前から去ってしまった。私の答えを聞かずして。
ようやく、ようやく。想いを口に出来そうだったのに――――。なんて心の中で毒づく。でも、そう思っても仕方のないことだ。
彼が帰ってきたら、その時に告げればいい。帰ってくる。彼は絶対に。これまでだってそうだ。怪我を負ってもケロッとして顔を出してきたじゃないか。
ううん。正確には自分に言い聞かせていただけ。そうしないと、また不安の渦に飲み込まれるから。……でも考えてみても、そうでなきゃあんな大層な
一人、縁側に腰掛ける。空が少しずつ明るさを取り戻しつつある。夜明けは近い。
視界に入る蝶屋敷の庭。よく二人でここで話したものだ。今振り返れば、あの時間は本当にかけがえのない宝物。彼と出会わなければ、私はきっと、生きている意味を見出さずにいたと思う。
だけど、彼と出会ってから変わった。初めて彼と話した時からどこか他の人と違う何かを感じていて。彼から好意を寄せられてからは、それが何なのかすぐに分かった。
私は生きたい。彼と一緒に生きたい。彼のために生きたい。楽しいことも、辛いことも、共有したい。
遠回りになったかもしれないけど、私は彼のためならどんな困難も乗り越える。乗り越えてみせる。だから、彼が帰ってくるまでのこの数時間。胸を覆う不安なんか消し飛ばしてみせる。
もしも神様が居るのなら、どうか真魚さんを――――。
消えかけの満月を眺めながら、今日も私は、貴方を想う。
アオイちゃん最高。
新たに高評価してくださった方々。
・だーりんぐさん
・K!R!Nさん
・やたかさん
・つちおさん
・カラクレナイさん
・ハラーラさん
ありがとうございました。