蝶屋敷のあの子【完結】 作:トマトのトマト
朝日が登り、闇に包まれていた街に光が差し込む。当たり前の現象、なのである。しかしだ。今この瞬間は、その意味は大きく異なる。
朝を迎えるというのは――――人類の勝利を意味していた。
鬼舞辻無惨。鬼の始祖であり、鬼殺隊最大の敵。無惨を殺すために、これまで数え切れないほどの隊士が犠牲となっていった。
それが、今日。終わったのだ。無惨は日の光に焼かれ、声にならない声を上げながら永遠の命に終わりを告げた。
誰が倒した、というのは無い。鬼殺隊全員で成し遂げたのだ。たった一日の戦いで多くの犠牲を払いながらも、ようやく、ようやく。待ちわびた平穏が訪れる。隠の人間たちは隊士たちの手当てをしながら、涙を流して。長く辛いトンネルを抜け出したような感覚に陥る。無論、それは隊士たちも同じだった。
そして、その怪我人たちは蝶屋敷へと運ばれる。
今まで以上に慌ただしく、屋敷の女中たちは仕事に追われていた。アオイも、その中の一人。運ばれてくる隊士の多さと、怪我の具合。あの柱でさえ意識を失って運ばれてくるのだから、戦闘がどれだけ厳しいものだったか、誰の目にも明らかであった。
それでも、彼女の気がかりはたった一つ。梅咲真魚だ。昼前になるというのに、彼が運ばれてくることはない。嫌な予感が彼女の頭をよぎる。
もしかしたら本当に――――。そこまで考えて、ブンブンと頭を振る。そんなことがあるはずない。彼は生きている。絶対に。そう言い聞かせるように、治療に当たる。目の前に怪我した隊士がいるというのに。彼のことばかりを考えてしまう自分が、アオイは少しだけ嫌だった。
「――――アオイさんっ!」
病室だというのに、喧騒としている中。女中の一人が彼女の名を呼ぶ。その慌てたような声色。瞬間、不思議と彼女は真魚のことが頭をよぎった。振り返り、女中は玄関の方を指差す。
間違いない。彼が来たのだ。――――アオイは走った。玄関に居る彼の元へと。何度も女中とぶつかりそうになりながら。床の軋む音がやけに響く。血を多く見過ぎたせいか、アオイは神経が過敏になっている気もして。少しだけ気分が悪かった。でも、心が軽やかになっていく感覚もあって。それはきっと、彼に会えるという喜びからだろう。そう思っていたのに。
「……えっ」
玄関に着いた彼女は、言葉を失った。
そこには、アオイの知る梅咲真魚は居なかった。代わりに――――血塗れでぐったりと横たわる一人の男。担架にまで血が染みていて、出血量の多さが窺えた。
違う、違う、違う、違う!!――――。治療をしないといけない立場であるというのに、彼女は強く念じた。これは彼ではないと。しかし、見覚えのある見慣れた顔と、羽織り。ここに居るのは、間違いなく。
「……ごめんなさい。アオイ」
「し…しのぶ……様……」
「………ごめんなさい」
横たわる男と二人の隠。そして、その後ろから姿を見せたのはしのぶだった。彼女も身体のあちこちから出血しており、喋る余裕すら無かった。しかし、今だけは話さないといけない。この男は、自らを助けてくれた張本人で、神崎アオイの想い人なのだから。
本当はもっと、言いたいことはあった。だが、アオイの目に浮かぶ涙を見ると、もう。しのぶは謝ることしか出来なかった。彼を守ることが出来ず、自分がこうして立っている。それが申し訳なくて申し訳なくて。しのぶはアオイのことを見ることが出来なかった。
「……ま、真魚さ……ん?」
「辛うじて息は……。でも、もう……」
一刻を争うというのに、わざわざしのぶがアオイを呼んだ理由がここにあった。隠の一人が思わず言葉を漏らす。しのぶからは口止めされていたが、今のアオイを見るといたたまれなく思ったのか。「おい」と、もう一人の隠に指摘されるも、反省した素振りは見せなかった。
彼女はゆっくりと、一歩。また一歩と真魚に近づく。僅かに揺れる肩。息をするのも辛そうで。腹の傷には包帯が巻かれているが、再び出血してしまったようで、赤く染まっている。きっとしのぶが処置してくれたのだろうと察するが、今のアオイには、その礼を言う気にはなれなかった。
「嫌……嫌……嫌っ……!!」
アオイは狼狽えた。ここまで傷だらけの彼を見たのは初めてだった。彼の名前を叫ぶも、彼は動かない。真魚の身体を強く揺すって起こしたいぐらいの感情。ただ、彼女は無理矢理心の中に押し込めた。
「……空いている病室に運んでください。アオイは……彼のことを看てあげて」
しのぶの指示に、隠は素直に従う。呆然と立ち尽くすアオイの横を、担架が通り過ぎていく。あれほどくっきりと姿を見たのに、まだ信じたくない。だって約束したじゃないか。生きて帰ってくると。
違うよ、こんなの、違うよ……。アオイは涙が止まらなかった。自身が想定する最悪の結末。息はあるものの、あの様子ではもう――――。しゃがみ込み、瞳から溢れる涙。今は止める気にならなかった。
それからすぐ、再び女中がアオイを呼ぶ。動かない彼女に肩を貸し、病室へと誘う。そこには、両腕に管が刺された真魚の姿。薬や血を体内に送り込むためのもの。それでも、彼は相変わらず苦しそうに息をしていた。
病室には真魚とアオイ以外誰も居なかった。
しのぶが詫びの気持ちを込めて二人きりの空間を作ってくれたのだ。アオイは椅子に腰掛け、横たわる彼の左手をしっかりと握る。涙は相変わらず止まらない。
身体が勝手に動いたのだ。今はただ、こうするしか出来ない、と。しっかりと両手で、ボロボロの左手を包み込む。
「……真魚さん」
返事はない。いつもなら、優しく振り返ってくれるというのに。
「……起きてください。朝ですよ」
返事はない。いつもなら、軽口叩きながら笑ってくれるのに。
「…起きないと……起きないと……私は…違う人の…所に……」
返事はない。いつもなら、強く抱きしめてくれたのに。
もう、アオイは限界だった。
いや、横たわる彼を見た段階からもう、現実から逃げ出したくて仕方がなかった。
「お願い……お願いだから……起きてよ……」
そんな言葉も、果たして彼に届いているのか。今のアオイに分かるはずもなかった。だから、このやり場のない感情。ぶつける相手が居ないせいで、それが涙となって溢れ出る。
さっきからずっと、涙が止まらない。「泣かないでよ」といって起きてくれないだろうか、なんて彼女は考える。でも、そんなことは起きない。分かっているそんなこと。だから、一層それが苛ついた。
――――これからも貴女を愛し続けます
ふとよぎる、彼の声。
こうなるぐらいなら、あの時、自身の想いを告げればよかった。今更後悔しても、しきれない感情。アオイは胸が張り裂けそうになった。
それと同時に、このまま彼が死ぬのを待つだけか。なんて思いも沸き出る。自問自答。答えは否。なんとしてでも目を覚ましてもらいたいアオイにとって、少しでも可能性があるのなら行動に移す。それが例え、彼にとって意地悪だったとしても。
ぐすん、と鼻をすする。無理矢理に涙を止めて、息を吸う。
「……起きたら、私も想いを伝えますよ」
「……」
「聞きたく……ない、ですか? なら…今、言いますよ?」
「……」
「起きてから聞きたいと言っても、もうダメですからね……」
やっぱり、今目の前に居るのは。アオイの知っている彼では無かった。いつもなら、しつこいぐらい聞かせてと言ってくる彼。でも、何も言わずに呼吸音だけ。寂しさが彼女の胸を覆っていく。
「好きです。大好きです。誰よりも――――貴方を愛しています」
状況が状況だからか、恥ずかしさは全く無かった。
初めて紡げたアオイの本心。それなのに、真魚の反応は無い。愛し人の告白だというのに。顔を真っ赤にして照れる彼の姿が目に浮かぶ。でも、目の前の彼は。
ぷつん、と糸が切れたように。アオイは泣いた。泣いた。身も心も枯れるまで、泣いた。心のどこかで、想いを告げれば目を覚ますのではないか、なんて思いがあって。それが見事に裏切られる形となって。もう彼女にも、どうすればいいかなんて分からなかった。
そのまま夕方になり、夜になり。彼は目を覚ますどころか、明らかに弱っていった。脈も弱くなり、呼吸が浅くなっている。認めたくなくても、認めざるを得なかった。もう、限界だと。
彼と一緒に生きたかった。彼の側に居たかった。彼を支えたかった。アオイは初めて人を好きになったというのに、この恋は終わりを迎えようとしている。それが悲しくて悲しくて。
「アオイ」
二人の空間に、響く声。――――しのぶだった。部屋に入ってくる彼女は、昼間よりも顔色が良くなっていて。柱の回復力はやはり常人並みではないとアオイは痛感する。しかし、先程の謝罪が頭にこびりついていて、返事をする気にはなれなかった。
彼女は真魚の様子を見て、すぐに視線を逸らした。限界だと、悟ってしまったから。
一方のアオイ。彼の手を握りしめたまま。辺りが暗くなっていたことに気付いた彼女は、少しだけ驚いた顔をしている。
先ほどとは違い、枯れるほど泣いたせいか、もう涙は出ない。先ほどよりも頭がスッキリしたようにも思えた。泣いた後特有のふわつき、とでもいうのだろうか。
「彼はまだ生きてます」
「アオイ……」
「私は、絶対に諦めません」
だからか、そんな言葉が無意識に出てきた。
強がり、と言ってしまえばそうだ。彼がこれから目を覚ます可能性というのは、本当に本当に僅かで。言ってしまえば、ここまで持ち堪えていること自体が、もう、奇跡なのだから。
しのぶは何も言わなかった。言えなかった。アオイは彼のことを最期まで信じている。元はと言えば、自分がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのではないか。そう言い聞かせる。
「真魚君は……姉の仇を取ってくれたんです」
「……」
「私たちを守ってくれた、命の恩人なんです」
命の恩人、しのぶはそう言った。
アオイには大袈裟に聞こえたが、彼女の声色からして紛れもない本心なのだろうと察する。命をかけて、彼女たちを守ったのだ。それは誇らしい。軽口を叩く真魚が、命がけで。それだけでも、彼の優しさや強さはアオイに十分に伝わった。
「……ありがとう、ございます」
「えっ?」
「生きて帰ってきてくれて、ありがとうございます」
しのぶは不思議な感覚に襲われる。
最愛の人を傷つけたのだ。正直、どんな暴言でも受け入れるつもりだった。しかしアオイは、自分の想いを飲み込んでしまう性格。彼女に対する感情も、涙で流れてしまったのだろうか。
いや、違う。それは純粋に、アオイにとって、しのぶも大切な存在なのだ。身寄りのない自身を家族同然に受け入れてくれた、大切な人。
彼女の言った「命の恩人」という言葉。裏を返せば、彼が居なければしのぶは助からなかったかもしれない。真魚が目を覚さない現実の中で、しのぶが元気で居てくれることが、彼女にとっては幸運だった。
――――貴女が死んだら、みんな悲しみますよ
昨日、真魚から言われた言葉が頭を巡る。
本当に。つい昨日のこと。それなのに、ずっと昔のことのように。胸に落ちていく。みんな悲しむ、なんて、冗談でしか受け止めていなかったのに。大切な家族である、アオイからそんなことを言われたら。
しのぶは彼女に背を向けて、何も言わない。溢れてくる涙。掌で瞼を抑えても、止まらない。真魚のことを気に掛けないといけないのに、アオイのたった一言が、凍り切った心を暖かく、暖かく溶かしていく。
「……………えっ」
そんな時。素っ頓狂な声を出したのは――――アオイ。
何が起きたのか、しのぶは止まらない涙を無視して、振り返る。彼の手を握ったまま、目を見開いたアオイの姿。
「……………あ………あ………アオ…イ……ちゃ…ん」
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。開かれる瞼。
愛し人の名を呼びながら。やがて、虚な瞳は彼女を捉える。自身が今どこにいるのか。分からない様子。でも、何故か口元は緩んで。
「あ……あ……あぁ………!!」
もう、涙は枯れ果てたというのに。
不思議だ。とめどなく、涙が溢れる。自分の意志では止めることが出来ない涙が。
呼びたい、彼の名前を。抱きしめたい、彼の全てを。それなのに、驚きと喜びで、喉がキュッと締め付けられて。
ぼんやりとしている真魚の視点は、次第にハッキリと。今まで見たことがないほど、涙を流す彼女を見て、どうしてだろうと素直に考える。
でも、それは。間違いなく、自身のことを想ってくれてのこと。何故か、それだけは断言できた。夢の中で、ずっと話しかけてくれたのだから。
声を掛けたい。でも、喉が痛くて痛くてたまらない。いま無理をしてしまえば、また気を失うかもしれない。そうなれば、もう二度と目を覚ますことが出来ないかもしれない。
でも――――やっぱり声を掛けたい。なんと声を掛けようか、痛む頭を巡らせて、彼は考える。答えはすぐに決まる。昨夜の約束。それに対する返事となって。
――――ただいま
でもやっぱり、喉が痛くて。声にならなかった。
真魚はうっすらと苦笑い。伝わらなかったなぁ、なんて思いながら。そのまま天井を眺める。右手には、慌てているしのぶ。良かった、無事で。そのまま目を閉じたくなるが、彼は必死に堪えてアオイの方を見つめる。彼女は、相変わらず涙を流している。
それなのに、真魚の
「お帰りなさい」
真魚は微笑み、今日初めて、彼女の手を握り返した。
終わりまでもう少し。お付き合いください。
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こんなに沢山の方に……感謝です。