蝶屋敷のあの子【完結】 作:トマトのトマト
鬼舞辻無惨の消滅から一週間後。多くの怪我人が運ばれていた蝶屋敷にも、ほんの少しだけ落ち着きが戻ってきた。
怪我が癒えた者は、女中たちに頭を下げて屋敷を去っていく。厳しい戦いを生き残ったのだ。今広がるこの青空でさえ、心を穏やかにするには十分すぎる理由だった。
しのぶと真魚の容体もかなり回復していた。
彼が目を覚ました時、震えながら彼の手を握っていたアオイ。彼女も、完全に意識を取り戻した彼に安堵して。いつも以上に仕事に集中出来ていた。
真魚が目を覚ました理由について、しのぶは何も言わなかった。言えなかったのだ。彼女の見立てでは、まさに風前の灯だったというのに。
全集中の呼吸を続けており、出血量を抑えていたとは言え、あの状態から目を覚ますのはそれこそ
「体調はいかがですか」
「日に日に良くなってる。アオイちゃんのおかげだよ」
「そんな……私は何もしてませんよ」
日の光が差し込む病室。真魚は身体を起こし、周辺の世話をしてくれる彼女に向けてそんな軽口。身体の重さもなく、全身の痛みも引いている。それも、これで最後なのだ。これから訪れる平穏に、必然と胸は高鳴った。
アオイは、よく笑うようになった。
今まで当たり前だった彼との会話は、決して当たり前なんかじゃない。目を覚さないかもしれないあの日のことを思い出すだけで心が締め付けられた。だからか、こんな些細な会話ですら、彼女にとっては嬉しくて嬉しくて。真魚の包み込む声が身体に染み込んでいくような、感覚。
「昼食、ここに置いておきます。食べたら薬飲んでくださいね」
「うん、ありがとう」
目が覚めてから固形物を摂れなかった真魚にとって、一週間ぶりの食事だった。茹でた野菜にすら甘い香りを感じる。薬と点滴で栄養を摂っていた身体が、それだけ糖分を欲しているようにも見えた。
蝶屋敷での食事は、女中が用意する。今回のように怪我人が多い場合は全員分をまとめて作ることが基本なのだが、彼の場合は違った。
(治療食だから不安だな……)
アオイの手作り料理。真魚に作ったのは二度目だ。
しかし、今回は訳が違う。彼の家で振る舞ったように、自由に作るわけにはいかない。そのため、必然的に味も薄く、見栄えもあまり良くないモノになってしまった。
彼の身体のことを考えてのことであり、当たり前のこと。無論、真魚は贅沢を言うつもりも無いし、食べられるだけで嬉しかった。
いわば、アオイの乙女心、とでも言えるのだろうか。どんな地味な食事でも、自らが作ったのだから、「美味しくない」と言われるのが嫌だった。ただそれだけなのである。彼女は思わず、彼に背を向ける。
「うめぇ……」
大根の煮物。口に入れた瞬間、広がる甘み。彼の口から自然と漏れる言葉。それはしっかりと、アオイの耳に届く。
真魚はアオイが用意したことを知らない。純粋に久々の食事が身体に染み渡って、味の薄さにも気付くことなくあっという間に平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
「……美味しかったですか?」
「うん。味もそうだけど何というか……心がポカポカする」
こればかりは感覚的な問題になるが、言われて悪い気はしない。アオイは少しだけ頬を染めて、微笑む。食器を片付けながら、真魚が薬を飲んだことも確認する。文句の一つ言わず、薬を飲んでくれる彼は、彼女にとって患者としても有難い存在だった。
そのまま彼から湯飲みを受け取り、病室を後にする。
「また後で来ますねっ」
真魚は思わず見惚れてしまう。彼女の微笑みと言葉。
それを聞いただけで、生きて帰ってこれて良かった――――なんて。本当はもっと彼女と過ごしたかったが、アオイにも仕事がある。彼女の都合を無視してまで呼び止めるのは違った。
それに、彼は怪我人である。良くなってきたとは言え、まだ本調子でないことも事実。ゆっくりとした時を過ごしたい気持ちもあった。
とんとん、足音が近くなってくる。
戻ってくるの早いな――――なんて思った真魚の思惑は見事に外れる。病室に顔を覗かせたのは、しのぶだった。隊服ではなく、薄紫の着物を羽織っている。隊服以外の彼女を見るのは新鮮で、真魚はつい視線を逸らした。
「顔色も随分良くなりましたね」
「ええ。お陰様で」
彼の様子を見に来た彼女は、そのまま椅子に腰掛ける。
視線だけ動かして、彼を確認する。先ほどまでアオイが居たのだから、しっかりと食事も摂り、薬も飲んだのだろう。彼女は、「うん」と頷いた。
真魚としても、彼女がこうして屋敷に戻ってきてくれたのが嬉しかった。自分だけ生き残ったとしても、こんな心の充実感は得られなかったはず。「顔色も良くなった」と彼女は言ったが、しのぶ本人も体調は大分回復していた。流石の回復力と言えばそうだが、何より「生きたい」と思えたからこその回復だった。だから、彼には感謝しかなかった。
「……こんなに穏やかな陽射しは初めてです」
「鬼が居ないからですか?」
「それもあります。ですが――――」
「ですが?」
「胸のつっかえが無くなったような気分で」
つっかえって何ですか――――。真魚は喉まで出かかった言葉を飲み込む。これは今、問いかけない方がいい。なんて直感的に思っただけ。本当に深い意味なんて無かった。
しのぶは、姉のカナエが死んでから。心に嘘をついて生きてきた。この口調や性格だって、カナエのことを模倣したモノ。本当は、もっと気が強くて負けず嫌い。真魚が聞けば「これ以上気が強くなったら日本滅びますよ」なんて冗談を飛ばすだろう。
だが、しのぶとしてはそれで良かった。これを機に昔のようにするつもりはなくて。これまで通り、カナエの性格を模倣したまま生きていく。
それは決して、負い目ではない。家族の中で、自分だけが生き残ってしまったのだ。これからも私は――――姉と一緒に生きていく。それに、今のしのぶは一人ぼっちじゃなかった。この屋敷に住む女中たち、カナヲ、そしてアオイ。全員が自身の帰りを喜んでくれたのだから。
「真魚君は、これからどうするのです?」
彼女の問いかけに、真魚は考える。
鬼舞辻無惨が倒れた今、鬼殺隊の存在意義は無くなってしまう。そもそも政府公認の組織でないため、その歴史に幕を下ろすにしても、ひっそりと終わることになる。だが、ここまで生き残った隊士たちは、それで良いと考えていた。
「しばらく、ゆっくりしようかなと。のんびりと過ごしたいですね」
「それが良いと思います。あれだけ命を削ってきたのですから、多少ゆっくりしてもバチは当たりませんよ」
「確かに。そうですね」
彼は笑う。しのぶは本当に穏やかな声をしていた。
真魚より一つ下の彼女。その落ち着きは年相応とは言えないが、鬼殺隊が無くなる今、それこそ階級は意味をなさない。
しかし、今のしのぶはこれまでとは違う。ようやく年相応の彼女を見た気がして。
「しのぶさんは、どうするんですか」
「ここに残って、しばらく療養します。身体にはまだ、藤の花の毒が巡ったままなので」
「……そうでしたね」
姉の仇である童麿に、自らの身体を吸収させて殺すつもりだったのだ。全ての戦いが終わって分かる、その計画の恐ろしさ。命を捨ててでも、姉の仇を取りたいという彼女の想いの強さでもある。しかし、真魚は決して同調出来るものではなかった。
しかし、今の彼女の言葉を聞けば、もうあの考えを持ったしのぶは居なくなっていた。真魚はそれが嬉しかった。
「そういえば、アオイはここに残ると言って聞かないんです。真魚君と一緒に出て行けばいいのにと」
「……アオイちゃんは、しのぶさんの為に解毒剤を作りたいと言ってましたよ」
「えっ……」
「今度は私が救うんだって。だから俺も、彼女の意思を尊重します」
あぁ、そんなことが――――。
今日はとにかく、心が穏やかになる日だ。あの彼女が、自分のために。そう思うだけで、しのぶは心が満たされた。鬼に怯えていたアオイ。自分なりに役に立つ居場所を見つけたのだから、彼女は決して腰抜けなんかでは無かった。
しのぶの身体に巡らされた毒。いつ副作用が出てきてもおかしくない。悠長に待つことも出来ないが、裏を返せば待つこと以外何も出来ない。もちろん、しのぶ本人も解毒剤を作るつもりでいたが、薬の調合が出来るアオイの存在は素直に有り難かった。
「ですが、この屋敷に四六時中居る必要はありません。カナヲや女中たちも居ますから」
「それは……まぁ」
「真魚君が連れ出してあげてくださいよ」
「……でも」
真魚の言いかけの言葉。それはまるで、何かに引っかかりを覚えているような。しのぶは一つため息。あれだけ言っておきながら、ここに来て怖気付いたとでもいうのだろうか。
「あぁいや! その……アオイちゃんはここに居るのが落ち着くんじゃないかなと思ってしまって」
「何も言ってないじゃないですか」
「だってしのぶさんが怖い目で見るから……」
「さり気なく失礼なこと言いますね」
しかし、真魚の言うことも一理あった。
アオイは家族に鬼を殺されてから、ずっとこの屋敷で生活している。外泊したのは、唯一。真魚の家だけ。
だが、しのぶは問題ないと踏んでいた。真魚の家に泊まった時はしのぶの引き止めを無視してのこと。朝方にアオイを連れ戻しに行った時も、彼女はぐっすりと眠っていた。それもきっと、隣に真魚が居たからだ。
「問題はそこではありませんよ」
「?」
「場所ではなくて、真魚君が隣に居るかどうかです」
「あ……」
「……私から言えるのはそれだけです」
しのぶの言葉に、真魚はこれまでの記憶を呼び起こす。
場所のことなんて、気にしたことを無かった。ただただ、彼女の隣に居ることだけを考えて。自身が守ると決めたのだから。
ちっぽけな悩みだった。それはすぐに消えてゆく。吹っ切れた表情に、彼女もつい笑ってしまった。
「ねぇ、真魚
彼女の声が、少し変わる。雰囲気も、甘い。
「なんです? その呼び方」
「……いえ、やっぱりなんでもありません。しっかりと休んでくださいね」
「は、はぁ」
それだというのに。彼女は立ち上がって、彼に背を向けた。言いかけた言葉。それを無理矢理飲み込んで。不思議な感情だった。
心のどこかで、自身も真魚に頼っていた部分があった。アオイが屋敷を出て行けば、彼に会うことは無くなる。それが――――少しだけ寂しかった。この寂しさは――――きっと。でも、忘れたい。
自身を助けてくれた相手。命をかけて。女を忘れようとしていた彼女でも。情が湧かないという方が難しい話である。
「アオイのことを、幸せにしてあげてください」
本心である。紛れもなく、彼女の真意。
でも、今言いたい言葉でも無かった。心は穏やかなのに、プクッと頬を膨らませたくなる。
純粋に羨ましかったのだ。アオイが。自身のことを愛してくれて、命をかけてくれて。そして、今もこうして想ってくれて。しのぶも彼と接するうちに、真魚の考え方に同調するようになっていた。
「当たり前だよ。しのぶ
「……なんですかその呼び方」
思わずしのぶは振り返る。
「だって、鬼殺隊は終わったんだから。俺の方が年上だし」
「はぁ。茶化さないでください」
「これまでのお返しですよ」
彼は笑う。見慣れた笑顔。ため息、でも、しのぶはどこか嬉しくて。「もういいです」と振り返る。そして、そのまま病室を出て行った。
きっと彼にとって、私はそれ以上の存在になれない――――。そんなことは最初から分かっていた。だというのに、しのぶは彼に惹かれてしまった。叶うことはないのだから。言葉にする必要なんて無い。
「随分とまぁ……楽しそうでしたね」
それからすぐ、アオイが戻ってきた。
何故だろうか、真魚は背中の汗が止まらなかった。間違いなく、アオイは怒っている。替えの布団を抱えている両手。ギューッと強い力で抱えられていて。
「え、えっと……もしかして聞いてて……」
「……しのぶちゃん、ですってねぇ」
「あ、あれは茶化しただけで深い意味は……!」
「どうだか。替えの布団ここに置いておきますので後はご自由にどうぞ。それでは失礼します」
「あ、アオイちゃんちょっと待って……!! アオイちゃん! あぁぁぁぁぁ……!!」
二人の間に、つけ込む隙なんてないのだから。
恋破れたというのに、しのぶは不思議と清々しかった。隊士たちから聞く失恋というのは、もっと難しくて、精神的に落ち込んでしまうものだとばかり思っていた彼女。それとも、この感情は恋とは違うのだろうか。一人考える。
(せっかくだから……お見合いでもしてみようかしら)
どれもこれも、経験してみれば分かることだ。だからか、最近のしのぶは先のことを考える。それがこんなにも楽しいなんて。彼女は思う。生きて帰ってこれて、良かったと。
ありがとう真魚君。そして、さよなら。
二人の賑やかな声を聞きながら、彼女は未来へ歩み出す。
次がいよいよ最終回になります。どうか最後までお付き合いください。
新たに高評価してくださった方々。
・しばづけさん
・ぼっち大学生さん
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・Blanc0427さん
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・アンデルルさん
・高麗さん
ありがとうございました!