蝶屋敷のあの子【完結】 作:トマトのトマト
この日の蝶屋敷は、いつもよりも慌ただしかった。
あの神崎アオイが襲われ、重傷を負ったと。屋敷の人間は慌てふためいて、しのぶが直々に治療に来るほど。彼女が任務に出ていなかったのは不幸中の幸いだった。
真魚が迅速に止血を試みたこともあって、失血にはならずに済んだようだ。彼の到着が少しでも遅れていたら、アオイの命は無かっただろう。しのぶは彼女に薬を注射し、一先ず胸を撫で下ろした。
「なんとか処置は終えました。しばらくアオイは動けませんが、安静にしていれば良くなります」
屋敷で働く者たちは、心の底から安堵した表情を見せた。それだけ彼女は慕われているということではないのか。あれだけ自身は腰抜けだと言い張る彼女の姿が彼の頭をよぎる。この光景を彼女が見たらどう思うだろうか。少しは救われた気持ちになるのだろうか。
真魚はその様子を少し離れた場所で眺めていた。本当であれば彼女のすぐそばで見守りたかったが、治療の邪魔になるのを考え、病室の外で中の声を聞いていた。
いや、本当の理由は苦しんでいるアオイの姿を見るのが辛かったのだ。真魚はそんな自分が醜くて、反吐が出そうなほど悔しかった。
彼のアオイに対する気持ちは本物だ。だからこそ、今の彼女から目を背けるわけにはいかないというのに、彼は思い切り背を向けてしまっていた。
「真魚君」
病室から出てきたしのぶが、彼に声を掛ける。朝に彼を締め上げた時とは全く違う声色だった。
「アオイを助けてくれて、ありがとうございます」
「いえ……。傷ついたのは事実ですから」
彼は自身を蔑むような言葉を使う。
それは紛れもなく本心だった。傷つく前にアオイを助けることが出来なかった。あんなに苦しそうなアオイの姿。真魚は心がこれ以上ないほど締め付けられたのだ。怒りに身を任せ、鬼を屠したのはあれが初めてだった。
しのぶは怒りと後悔が混じった彼の顔をジッと見つめる。自分を心から責めているような、哀れな表情をしている。鬼が憎いのではなく、彼女を傷つけた鬼が憎いのだ。そして、助けられなかった自分がそれ以上に憎くて。
「命は助かったじゃないですか」
今の彼にとって、気休めにもならない言葉を掛ける。確かに怪我を負ってしまったが、無事彼女は生きている。しばらくすれば眠りから覚め、いつもの彼女に戻るだろう。
こうなることは、鬼殺隊士としての使命でもある。真魚だって、何度となく負傷してこの蝶屋敷に運ばれてきた。その時、アオイがどれだけの想いで真魚のことを治療しているのか。
治療班として、隊士のことは全力で治そうとしている。だが、彼らも人間だ。特に、
「真魚君。治療班はやれることをやって、後は信じるしかないんです。アオイのことを信じてあげたらどうです?」
「信じる……」
「刀を持たないアオイが、鬼の懐に飛び込んでいったのは、どうしてでしょうか」
「それは……」
真魚は言葉が出てこなかった。
しのぶの言葉を聞いて、ようやく分かった。彼女も一人の鬼殺隊士であるということ。傷つけてしまった、そんな感情は、彼女を愚弄するのではないか。真魚は拳に力が入る。
あれだけ腰抜けなんて言っておきながら、丸腰のまま鬼に向かっていくなんて。自分だったらどうするだろうか。真魚は自問する。そして答えはすぐに出た。
ここでようやく。振り返って、病室の中で眠るアオイに視線を送る。
布団を肩まで掛けて、先ほどより穏やかな表情で眠っていた。しのぶによると、右腕には包帯を巻いて独自に調合した薬を注射したという。しばらく右腕を動かせないが、それもすぐに回復に向かう。
痛々しい姿を想像していた彼は、少しだけ胸を撫で下ろした。しのぶたちの治療のおかげなのだ。
「しのぶさん」
「なんでしょう」
「ありがとうございます」
吹っ切れた表情で、初めて向けられる彼女への言葉。
しのぶは彼と交わした会話を思い出す。ここまで真剣な彼を見たのは初めてで、アオイに対する気持ちは嘘偽りのない真実なのだと。
優しく微笑んで、真魚に向き合う。
「……こちらこそ。元はと言えば、私の注意不足が原因です。アオイに一言言っていれば、こんなことにはならずに済んだのですから」
最愛の姉を鬼に殺されたしのぶだからこそ、今の真魚の気持ちは痛いほど分かった。少しでも遅れていたら、最愛の彼女を亡くすことになったと考えると、きっと胸が締め付けられるに違いない。
だからこそ、出た言葉なのかもしれない。一歩間違えれば、彼女を殺すことになっていたのだ。自身の不手際を救ってくれた真魚には純粋に感謝の念しかなかった。
「そんなこと言わないでください。らしくないですよ」
彼は微笑んだ。
らしくない、なんて言葉はしのぶも想定外だった。真魚からしても、普段のしのぶを見ているからこそ出た言葉なのだ。しかし、いざそんなことを言われると驚きを隠せなかった。恥ずかしいとは違う、幼い感情だった。こんな気持ちは久々かもしれない、そう飲み込んで。
真魚はアオイから視線を離さず、何を考えているのだろうか。純粋な疑問。しかし、しのぶはそれを口にはしなかった。そんなことをここで聞くのは、野暮な気がして。
「後は任せてもいいですか?」
しのぶがそう言うと、彼は少し目を見開いた。ほんの少し考えて、やがてゆっくりと頷いた。
あぁ、やっぱり。彼がアオイの側に居て正解だった。しのぶは病室に残っていた隊士に退室を促して、その場から立ち去った。
真魚は覚悟を決めて、病室に足を踏み入れる。奇しくも、朝彼女に面倒を見てもらった部屋と同じ。そして同じ場所に彼女は眠っていた。穏やかで、優しい寝顔。右腕の腱が切れているとは思えないほどで、真魚はしのぶの薬の効果に感動すら覚えた。
彼は椅子に腰を掛けて、一つ息をつく。先ほどまで付いていた蠟燭の火を消し、暗くなる病室に月の光が差し込んでいる。
美しい寝顔をしている。すぅすぅと決まった速度の呼吸。真魚はアオイに限らず、女の子の寝顔を見たのはこれが初めて。『任せてもいいですか』なんて言われても、いざ何をすればいいのか良くわからなかった。
「……アオイちゃんが傷つくのがここまで辛いなんて」
独り言が溢れる。だがそれは自身を責めているわけではない。素直にそんな言葉が出てきただけだ。
これまでの人生を回想する。鬼殺隊に入隊したのは、この手で鬼を滅するため。最愛の人を失ったわけでもない、由緒ある家系に生まれたわけではない。ただ、鬼という存在が許せないだけ。そのためだけに刀を振るっていた。
だが、今の真魚は違った。目の前で眠っている彼女を守るため、刀を振るう。全ての鬼を滅することが出来れば、もう二度と、アオイは傷付かない。そういう意味では、鬼殺隊でありながら戦場に行けなくなったのは彼にとって良いことでもあった。
「アオイちゃん」
真魚は小さな声で呼び掛ける。深く眠っているせいか、反応はない。
君は決して腰抜けなんかじゃない。丸腰で鬼に向かっていくだなんて、鬼殺隊士とはいえ簡単に出来ることじゃないんだから。
――――いつものように話しておくれよ
彼がそんなことを願っても、彼女は眠ったまま。
やはり、怪我をしている彼女を見るのが辛かった。しのぶの言う通り命は助かったかもしれないが、心までは分からない。もし目が覚めた彼女が変わってしまったらどうしよう。自身の想いが変わってしまったら――――。そんなことを考えてしまう自分が情けなかった。
真魚も疲れが溜まっていたせいか、瞼が重くなる。いずれにしても今日はここで座ったまま眠るつもりだったようで、彼は腕を組んで少し下を向いた。何があってもいいように、全集中・常中のまま瞼を閉じた。
〜〜〜〜
アオイは夢を見ていた。最終選別を生き残った時の夢。
何度となく見てきた夢だった。思い出すだけで、恐怖心が蘇って、心が締め付けられる。
隣には真魚が居た。これもお決まりの光景。それぐらいアオイの記憶に刷り込まれた彼の存在。しつこいぐらい自身に構う彼に、アオイは嫌気が差していた。
ところが、今日は違った。いつも自身に向けられている視線は、どこか遠くを見つめていて。彼の澄んだ瞳には、怒りが込められている。
――――こんな顔を見たことないな
アオイの知っている真魚は、いつも笑っていた。胸焼けするほど優しい笑顔で。とても鬼を狩るような人には見えなかったのだ。
怪我をして帰ってきても、ケロッとしてすぐいつも通りに戻る。彼女の中で真魚の印象はそんなものだった。
それが今日、大きく覆ることになった。
丸腰だったとは言え、逃げるしか無かった鬼を、一撃で滅したのだから。彼はアオイが思っている以上に力を付けた優秀な隊士だった。他の一般隊士とは違った安心感があったのだ。消えゆく意識の中で、アオイは彼の名前を呼び続けていた。枯れそうな涙と、安心感と。
――――いつ死ぬか分からないから
夕刻の真魚との会話。彼の言葉が重くのしかかる。
あの言葉は大袈裟でも何でもない。紛れもない真実なのだ。任務に出て行って、もう帰ってこないかもしれない。夢の中でアオイは身体に震えが走った。
真魚は鬼狩りとしての感覚をアオイには見せていなかった。最終選別の件を知っていたからだ。余計な傷を思い出させないようにしていた彼なりの優しさに、アオイもまた気付かなかったのだ。
彼が居なくなったら、どうなるのだろう。毎日毎日、仕事の邪魔をする人間が居なくなるのだから、それはそれで清々するのではないか。
なんて思いは、一瞬で消え去る。
嫌だ。嫌だ。居なくなって欲しくない。死んで欲しくない。また会いに来てほしい。また話しかけてほしい。色々な話がしたい――――。
現実では言えない台詞がスラスラと出てくる。甘すぎる素直な感情。自身が真魚に好意を寄せているのだろうか。アオイは自問する。生まれてこの方、そんな感情を抱いたことはない。だからこの気持ちが恋であると決めつけることが出来なかった。
「……真魚………さん」
そんな呟きとともに、瞼をゆっくりと開く。夢から醒めたアオイは、見慣れた天井に意識を覚醒させていく。
(蝶……屋敷……)
自身の
鬼と遭遇し、右腕の腱を切られた。試しに右手に力を込めるが、上手く力は伝わらない。痛みは昨日よりだいぶ引いていた。それでもまだ痛みは残っていたが。
彼だ。真魚に助けてもらったのだ。アオイは無理矢理上半身を起こそうとするが、身体に力が入らなかった。どうしてそんな行動をしようと思ったのか、彼女自身も分かっていなかった。ただ、ここで寝ていては駄目な気がして。彼に余計な心配をかけたくなかったのかもしれない。
「……かっこよか――――」
途中まで呟きかけて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。何を言い出すのだ。今の自分は。そんなんじゃないんだ。そんなことを
いつまで夢の中の自分に引きずられているのだろうか。心の中で嘲笑する。どうせならもう少し眠っていてもいいのではないか。
「――――アオイちゃん!?」
「ふ、ふぇっ!?!?」
起こさないように気配を抑えていた真魚の優しさが裏目に出てしまったという。目が覚めて喜びと戸惑いが見える真魚と、さっきの呟きが聞こえていないか不安なアオイ。そんな二人の会話で蝶屋敷がいつもよりだいぶ早く賑やかになったのはまた別の話。
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