山の警邏が厳重になる。
昔からこういう時のための臨時の役目は場所から時間まで細かく決まっており、我々白狼天狗もそれに倣う形だ。
しかし白狼天狗の警戒範囲は元々広域だし、拡大するのは難しい。
なので警備の変更は、鴉天狗など一部の天狗がその仕事を増やすことになる。鴉天狗としては、あまり面白くはないだろう。
彼ら彼女らは、そんな不満を面と向かっては零さないがね。
そういえば、あの小うるさい鴉天狗の小童とは今回と同じ、臨時警戒の折に出会ったのだったか。
鴉天狗にしては不意に入った仕事の不満を隠すことなく喚いていたので、それが印象に残っている。名前は知らないけど。
「今日からしばらくは、私もこの区域を見て回るわ。よろしくね、三ツ葉」
「ええ、よろしくお願いします」
言葉こそ友好的だが、表情はこちらへの敵愾心に満ちている。
だが私としてもお互い様だ。内心などそんなもの。衝突するだけ面倒なのだから、その程度で済ませるのが最も気楽だ。
「残念だったわね? 私がいるとサボれなくて」
……いや、その程度で済ませてくれるほどこの鴉天狗は穏やかではなかったか。
災難だ。どうして私はこの天狗と組まねばならないのだろう。
「聞いてるの? 三ツ葉」
「はい、ええと……」
「……何よ?」
な、なんだっけ。思い出せ。ええと……。
「……ま、増山雁金……様?」
「……ねえ、三ツ葉? それはひょっとして、私の名を呼ぼうとしているのかしら……?」
私は頷いた。
合っていたか?
増山雁金は大きく息を吸い込んだ。
「私の名は
わ、わかった。わかったから耳元で怒鳴らないでほしい。
はまち……濱千代だな。うむ、覚えるよ。
そも、我々白狼天狗の見回りはそう珍しいことでもない。
臨時警戒となっても持ち場は変わらないので、変化といえば小うるさいのが一人増えるだけのことだ。
しかし……小屋で暮らす鈴木にとっては大きな変化となるだろう。
今までは私の哨戒範囲だったからこそ見逃されてきた彼が、今後は動きづらくなるはずだ。
見ている限り、鈴木の自然への身の置き方は人にしては卓越したものがあるが……鴉天狗は目がいい。ふとした拍子に見つかることはあり得る。
……しばらく、外出を自粛させるべきだろう。
あるいは、時間帯を夕時間際にさせるべきか……いや、だがそれはあまりにも。
……ひとつ間違いないと言えるのは、日課の杖術訓練も難しくなってしまったということだろう。
しばらくの間は、取りやめさせねばなるまい。
そういったことを、彼に伝えようとした。
明朝、鴉天狗……濱千代の目を盗んで小屋を訪れ、彼に警邏のことなどを話すつもりだったのだ。
「……いない?」
珍しいことだった。
鈴木は毎日ほとんど変わらぬ日々を過ごしていたので、まだ小屋にいる時間だと思っていたのに。
そこはもぬけの殻で、察するに……私が会に出席していた時からずっと、帰っていないように感じられる。
……鈴木が消えた。いや、何があったのだ?
どこかへ出かけているのか。天狗の増えた気配を察して山を降りたのか。
……もう会えない?
その日、私はかつてのように、腑抜けとなった。
「三ツ葉! 聞いているの!?」
「む……ええ、もちろん聞いています」
「ならさっさと沼側も見ていきなさい! もちろん、釣竿など持って行ってはいけないわ。これは仕事なのよ。いいわね?」
「……はい」
鈴木がいない。昨日も、今日もいなかった。
小屋に戻っている気配もなし。彼の匂いが日に日に薄れてゆくのが、私にはとても物悲しく思えてしまう。
まさか死んだのではあるまいか。いや、すでに鈴木にはそれなりの技を教えている。しかし……近頃の妖怪は皆獰猛だ。数で押されれば鈴木であっても厳しいか……。
駄目だ、何を考えている。鈴木は死なない。
死んでいて欲しくない……だから祈るしかあるまい。彼が、気まぐれに人里に赴いていることを。
「……やはり、山は人の住むところではないのだろうな」
以前はよく釣りに来ていた沼の前で、私は釣竿を垂らすでもなく呆けている。
濱千代から釘を刺されるように釣りをするなと言われているが、今や釣りの日課を楽しいとも思えなくなっていた。
……鈴木と過ごす日々が楽しかった。
人との触れ合いが懐かしく、そして輝いていた。
あの日々に比べれば、沢や沼に意味なく糸を垂らす惰性の悪癖など、今更にやりたいとも思えない。
鈴木から貰ったかんざしに触れる。
妖力で瑞々しさを保たせた三つ葉のシロツメクサは、まだまだ枯れる気配もない。
……鈴木。
私はこのかんざしを、いつまでも綺麗なままに保とうとするだろう。
捨てられはしない。お前が私のために作ってくれたのだ。一生大事にしていくさ。
お前がいなくなってもきっと、寝る前には妖力を注ぐだろう。
その度に、私はお前を思い出さなければならなくなる。
……毎日、いなくなったお前を忘れることもできやしないのだ。
そんな日々がこれから続いていくのは……とても辛いよ。
「……!」
途方にくれていると、音が聞こえた。
白狼天狗だからこそ聞き取れた声。腹の底から弾き出した、力強い一喝。
鈴木の声だった。
「鈴木っ……!」
私は声のした方に向かった。
彼と会える! だが……今は、今はあまりにも時期が悪い!
生きていてくれて良かった! でもそれならば、お前はまだ人里にいるべきだったのに……!
近付くにつれ、音は激しさを増している。
打ち合う音、殴りつける音……戦いの後だ。聞き間違いもしない、そこには鈴木の扱う山伏の杖の乾いた音まで混じっている。
「人間ごときにッ!」
濱千代の声! まさか、鈴木と濱千代が闘っているというのか!?
「急げ……!」
地を駆け、幹を蹴り、枝を飛び、私は急いだ。
風となって山を疾走し、そしてたどり着く。
「う……」
──鈴木が、燃え盛る杖を濱千代に振り降ろさんとするその姿を。
「させん!」
私は飛び出したまま、咄嗟にそれを防いでいた。
「させないぞ、鈴木……!」
役目としてやらねばならないことだった。
鈴木にそんなことをさせたくなかった。
ほんの少しだけは、濱千代にも死んでほしくなかった。
どれも本心で、どれも大きな理由だ。勝るものはない。
それでも鈴木の渾身の一撃を防いだその時、私は間違いなく鈴木の敵方に回ってしまったのだということもまた、大きな事実で。
そのあたり前の事実一点だけが、私の心を苛んだ。
「……!」
鈴木は驚いていた。いや、驚きもするだろう。私が唐突に現れ、敵となったのだ。そうもなる。
……ああ、立ち上る霊力。そして杖に纏わる炎の術。鈴木、腕を上げたな。私は師として、とても誇らしい。
なぜ、私は天狗として生まれたのか。
なぜ、お前は人間だったのか。
いや違う。私が天狗で、お前が人間だったからこそ、私たちは出会い、私が惹かれ、杖を教え……今があるのだろう。
この悲しみは……道理をわきまえずに人に惹かれた、馬鹿な私への当然の報いに過ぎない。
「……鈴木……」
彼は打ち合うこともなく、素早く身を翻して去っていった。
追うこともできたが、私では彼の背中を追ってどうすることもできないだろう。あいつと戦いたくもない。
……悲しいよ。でも、そうだ。やるべきことがある。
「濱千代、濱千代。大丈夫か」
「うっ……三ツ、葉……」
「無理をするな。……手酷くやられたな。手当をしなければ」
「やられてなんか……ない……」
「霊力の火が傷口を焼いている。妖怪といえど、処置をしなければ長引くぞ」
「うるさい……口の利き方がなっていない……」
本当に偉そうな鴉天狗だ。
鼻高天狗になるべきだったな、お前は。
傷口を水筒の水で洗い、唾をつけ、包帯……はない。
かわりの布……を取り出したは良いけれど、これは鈴木から貰ったやつだ。
……使うのはあまりに惜しいな。私の服の袖のがまだマシだ。
景気良く引き裂き、巻きつける。……うむ、何もしないよりは良いだろうか。
「……濱千代、何があったのです?」
「……人間がいた。退治屋か、何か……」
「人間が山に踏み込んできて、濱千代がやられたと」
「やられてない……! まだ、戦える! 奴が……奴が勝手に逃げた、それだけっ……うぐっ……!」
「痛むのでしょう、無理をしないで。……では、上への報告は……人間が迷い込んできたが、撃退したと。それだけで良いですね?」
「……ええ、そうよ。そうしなさい」
ふむ……意地っ張りも、たまには良い方に転がる。
この報告ならどうにか危険視はされないか……良かった。
逃げ去った鈴木が安全であるならば、今はひとまずそれで良い……。
「……これが大きな貸しだとは、思わないことね」
しかしうるさい奴だな。こうしてやろう。
「いだだだだだ!? 痛い! や、やめなさい!」
「治療です」
「嘘つけ!」
ばれたか。