私の名は三ツ葉。妖怪の山を哨戒し、不届き者がいないかどうかを探る役目をもった……まあ、どこにでもいる白狼天狗の一人だ。
白狼天狗の仕事は天狗社会の中でも特に厳しい。
上司からの横暴や無理難題は今に始まったことではないが、最近は特に多忙な日々が続いている。
奇妙な札が落ち葉のように幻想郷全体に散らばったり、野良の妖怪どもがやけに凶暴になったりなど……何か変わったことが起こる度に駆り出されるのは、いつだって下っ端の私たちだ。
真面目なやつらは性に合っているのだろうけど、生憎と私はそこまで熱心になれない。
だから歩き慣れない場所の定期哨戒を任されたのも、本位ではなかった。
白狼天狗が不真面目にふらついていたのは、大層珍しかったのだろう。
私が空をゆったりと飛んでいると、そこを博麗の巫女に見つかってしまった。
最悪なことに巫女は気が立っていた。近頃のちょっとした小さな異変の数々に苛立っていたのかもしれない。
博麗の巫女は幻想郷の、人里の守護者だ。何かおかしなことがあれば、白狼天狗と同様に彼女が駆り出される。
私は一抹の同情を抱き、それはそれとしてこちらもそこそこ不機嫌だったので、妖怪の山に侵入した巫女を迎え撃つのだった。
が、もちろん私なんぞに巫女は倒せない。
弾幕ごっこはほんの数十秒で終わった。
私は運悪く全身に色とりどりの弾幕を受け、あえなく森に墜落した。まあ、上役の烏天狗すら力押しで勝てる化け物巫女だ。今更特に思うことはない。
幻想郷ではこうした小競り合いはよくあることだ。
そこで人死がでることはほとんどない。でないように、幻想郷の管理者が上手いことルールを定めている。そのひとつがスペルカードルールだ。
だから私は甘んじて敗北を受け入れたし、サボる口実になるかもと無駄に被弾したのだ。
ちと、平和ボケしすぎていた。
墜落した直後、満足に動けない私のもとに駆け寄ってきたのは、幻想郷のルールなど一顧だにしないような、荒くれた猿妖怪の姿だった。
一方的な暴力だった。
万全な状態ならば容易く打ち払えるような弱小妖怪だったが、あまりにもタイミングが悪すぎた。
巫女との闘いで消耗していた私は猿妖怪の攻撃で深手を負い、這々の体で逃げ出すしかなかった。
猿ごときにやられるなど、白狼天狗の恥もいいところ。仲間に相談すれば、どんな目を向けられるかわかったものではない。死にはしないが、絶対に死にたくなる。
いや、むしろ現状、死にかけなのか。
恥だのなんだの考えていられるほど、私に余裕はない。
意識は朦朧としていた。
だから、山小屋を見つけ、そこに転がり込んで寝込んだのも、ほとんど無意識のうちだった。
体の至る所が痛み、血を流している。
幻想郷にきてからしばらく味わったことのない、懐かしい感覚だ。
埃っぽい布団の中で、私はすぐに意識を失った。
「水を飲め」
途中、声をかけられた。
男の声だ。聞いたことのない声だったが、私の喉は乾き切っていた。
だから、言われるがままに飲んだ。
清涼な川の水の味がした。
それから、何度か水を飲んだと思う。
声の主も、水で顔を拭いたり、手当てをしてくれた気がする。
短い時間でなかったことは確かだ。
久方ぶりに与えられた親切が、咬み傷に沁みた。
「ここは……? お前は誰だ……?」
やがて、私の意識が少しだけ回復した。
依然として傷は痛み、熱もある。だが、今自分がいる場所と、先程からずっと付きっ切りで看病してくれているこの男のことが、気がかりだった。
「ここは私の住んでいる小屋だ」
……ああ。どうやら私は、他人の住処に転がり込んでしまったらしい。
そのまま寝床で一休みしていたと。ひどいものだな。
「そうか……怪我を負って……私はここで休んで……お前、人間だな? なぜ私を助けた?」
しかもこの男、匂いでわかるが……人間だ。
うっすらと瞼を開けると、その顔が見える。
冷淡な顔だ。いや、わずかに、こちらを警戒しているのだろうか。そのせいで強張って見えているのかもしれん。
……無理もない。私は天狗。妖怪なのだからな。
しかし、だからこそ解せん。
なぜ人間であるこいつが、妖怪である私のために手を焼くのか。
「今は休んだほうがいい」
不可解には思ったが、その思考も鈍い。
熱がぶり返しそうだったし、意識も飛びそうだった。
「……そうか。そうだな。そのようだ……」
他者を訝しんでいられるほど、今の私は上等な立場にない。
私はつくづく不甲斐ない己に自嘲し、体の力を抜いた。
……今の私の姿、同僚のみんなに見られたら……ふ、笑うのかな。
新聞には載らないだろうが、何年もからかう材料にはされそうだ……。
うん。くだらないことを考えていたら、ほんの少しだけ元気が出てきたかもしれない。
「何か欲しいものはあるか?」
男が私に訊ねてきた。
……世話焼きな人間だ。けど、今はその心遣いが嬉しい。
「……水はもういい。だから……何か少し、食べられるものがほしい」
「わかった」
人間を頼るなど恥の上塗りだが、男は快く承諾した。
彼はそのまま手早く身支度を済ませて、薄暗い外へ飛び出して行く。
……わかったとは言っていたが、大丈夫なのだろうか。
あいつは人間だ。人間にとって、夜の山ほど恐ろしいものはないはず。
奴がわかっていないはずもない。
なぜそんな危険なことをする? どうにかできるだけの力があるのか?
……わからない。
ただ私は、傷の痛みを堪えながら、毛布の中で長い時間を数えることしかできなかった。
四半刻も経った時、声が聞こえてきた。
つい最近聞いたばかりの、憎き猿妖怪の鳴き声だ。
私は思わず身震いした。
あの言葉も通じぬ野蛮な妖怪が、私の血の香を追ってきたのかと思ったからだ。
声は近い。小屋のすぐそばだ。
……何かと争っているのか? 声は荒ぶり、時に悲鳴のようなものも聞こえてくる。
まさか……。
まさかあの人間が!
私は戦慄したが、どうすることもできない。
今ならば猿妖怪を仕留めることもできるだろうが、再びあの妖怪の前に立つのが、どうしても恐ろしかった。
人間に助けられ。自分より弱い妖怪に負けて、恐れて。そして、自分を助けてくれた恩人を見捨てて……。
……私は、つくづく出来損ないの白狼天狗だな。
「ただいま」
「!」
猿の鳴き声が止んで、少しして男が帰ってきた。男は生きていたのだ! ありえない!
「お前……」
「湯を沸かす」
男はいくつかの薪と、葉物を持っていた。
……まさか、そんなものをわざわざ集めるために、この危険な夜に出て行ったのか?
男は何度か失敗しながらも、囲炉裏に火を付けた。
煙さは感じるが、火の明かりと暖かさは今この時に変えられるものではない。
男は湯が沸くのを待つ間、自分の着ていた服を脱ぎ、引き千切り始めた。
いきなり何をしているのかと思わず顔を背けそうになったが、男の姿を見てそれどころではなくなった。
彼は、腕に深手を負っていたのである。
「お前、その傷……その咬み傷……!」
「先に手当をさせてくれ」
「当たり前だ!」
男は布切れを湯に通してから、傷を洗い、手当を行った。
粗末な処置だ。さほど効果は期待できないだろう……人間であればなおさら。
実際、男の息は荒い。今すぐ倒れても何もおかしくはないくらいには。
それでも男は何かに急かされるように、作業を続ける。
痛みに耐え、集中し……。
その姿は、ほんの少しだけれども。
かっこいいなと思えてしまった。
「料理ができた」
……しかし、必死こいて作ったにしては、差し出されたものはフキノトウが浮かんでいるだけの酷い料理だったけれども。
「……ありがとう」
「構わない」
苦く薄味のスープの暖かさは、悪くなかった。