筒井が日高と共にいた時から少し時間を戻しての4月の半ば──。
東京市ヶ谷に拠を構える日本棋院。プロ棋士の対局が行われる場所であるが、一般人も自由に出入り出来て売店や対局コーナーもある。
そして建物内には碁関連の新聞や書籍の編集部もあり、デスクが並ぶ部屋の奥では、塔矢アキラが丸眼鏡にヒゲの生えた少し太った中年記者による取材を受けていた。
ペンとメモ帳を構え、前のめり気味にソファに腰を掛けている中年記者。丸メガネと鼻の下にヒゲを蓄えた、少々太り気味の彼の名は天野という。
天野はテーブルを挟んだ向かいソファに座る塔矢にあれやこれやと尋ねている。碁に関係ないプライベートな質問もちらほら。これからの囲碁界を背負うスーパースターなのだから取材に力も入るというものだ。
塔矢も面白いかどうかはさて置き、小粋なジョークを交じえてしっかり受け答えしている。まだ中2になったばかりなのだが、その辺の同年代とは比べ物にならない程大人を思わせる雰囲気だ。
「来月はキミにとって初めての若獅子戦だけど、若手の中でライバル意識している相手とかいるのかな? ハッキリ言って塔矢君の敵になるようなのはいないと思うけど」
「いえ、そんな事ありません。皆さん強力なライバルだと思っています。もちろん同期の辻岡さんと真柴さんも」
「はっはっは。キミらしい答えだな」
笑ってはいるが内心少しつまらないと思っている天野。同期や他の若手など相手にならないのは誰が見ても明白なのだ。
スーパースターが勝って勝って勝ちまくるのも悪くはないが、碁界がもっと盛り上がるためにはライバルの存在が不可欠だ。
「
残念そうに語った天野へ、塔矢がためらいを思わせる口調で尋ねる。
「あの、彼女は今どうして……」
「お、気になるかい? 彼女、プロになったら毎号特集組みたいって意見も出るくらいに可愛いしね、ハハハ」
「あ、いえ、そういう意味では……。僕が聞きたいのは今年のプロ試験を受けるとか、そういった話を……」
「院生師範の篠田先生も心配で何度か足を運ばれたそうだが、全く碁を打っていないらしい。碁界は宝をひとつ失ってしまったよ」
「そう……ですか……」
塔矢は視線を何処でもない方へ向けた。胸に残るのは去年のプロ試験で打ち切られる事のないまま幕を下ろした1局だ。決着はプロの世界で──、そんな願いはあっけなく崩れ去ってしまった。
取材を終えた塔矢は家路へ着くために地下鉄車両に揺られている。ドア窓に写る自分の顔からは覇気が感じられなかった。
(つくづくライバルというモノに無縁なんだな……)
プロになったばかりだと言うのに、このままひとつひとつ対局をこなし、上へと登っていくだけの人生が早くも退屈にさえ思えて来た。
「進藤……」
ふいに、かつてライバルだと思っていた者の名を口にしてしまった。ハッとしてしまったが、幸い他の乗客には聞かれていない。
(若獅子戦……。それにさえ出て来られないようなら、もう──)
あんな奴はライバルに値しないと思う反面、心の片隅にはまだ砂粒程度の何かが残っていた。
◆
5月3日のゴールデンウィークの初日。すっかり日が落ちた頃、塔矢が一軒家の玄関先で50代くらいの男性に見送られている。
「塔矢先生、今日はありがとうございました。気を付けてお帰り下さい」
指導碁の仕事を終え帰宅するところだ。父親よりも年上の者に敬われる事に気恥ずかさを覚えながら「はい。またよろしくお願いします」と一礼し、塔矢はその場を後にした。
初めて訪れた街な上に日も落ちている。路地の入り組んだ住宅地の中、駅への道を間違えないように足を進める。
大通りに出た駅前。真っ直ぐ駅へ向かっていた塔矢であったが、ワックや牛丼屋が目に入ると腹に手を当てて立ち止まった。
(お腹空いたな。何処かで食べて帰ろうか)
普段は滅多に外食をしないのでどの店に入ろうか迷う。それもひとりでなので、ちょっと大人になった気持ちになり胸が弾んでしまう。
結局無難にファミレスにして店内へ。連休中でも夕食の時間帯な事もあり、そこそこ賑わっている。
お好きな席へどうぞ、と言われ奥の席へ行こうとした時だ。見覚えのある人物がガツガツと料理を平らげている姿が目に入った。でっぷりと太った男、プロの倉田厚だ。
「倉田さん……?」
「ん? ああ、塔矢先生の息子さんじゃん。塔矢アキラ君だっけ」
名を呼ばれた倉田は通路の塔矢を見上げ、再び料理に目を戻した。テーブルには空いた皿が回転寿司のように積まれており、全てひとりで食べたようだ。
「もしかしてこの辺りにお住まいなのですか?」
「そうだよ。その格好、キミは指導碁の帰りとか?」
スーツ姿の塔矢と私服姿の倉田。お互いに服装でそう予想した。
「はい。やっぱり先方の家に伺うのは緊張しちゃいますね。あの、ご迷惑でなければご一緒してもよろしいですか? 一度倉田さんとはお話してみたかったので」
「良いけどおごらないぞ」
細めた目を向けられた塔矢は「あはは……」と乾いた笑いと共に、倉田の向かい席に腰を下ろした。
料理を食べながら碁談義──。
「だから本当に怖い奴は下から来るんだよ」
「なるほどっ」
「キミも上ばっか見てちゃいけないぞ」
「はいっ、肝に銘じます」
子供っぽくて変な奴と評判の倉田だが、碁に関しては
そんな話の腰を折るかのように、倉田の肩をつんつんと突っ付く輩が現れた。
「んちゃっ☆ お兄さん」
「何だよ、ここでメシ食ってたのか」
ガッツリ脚を出したショートパンツ姿の黒ギャル2人。ギャル子とオラ子だ。
突如出現した黒ギャル2人に塔矢は「だ、誰?」と目を丸くしている。そんな彼を一瞥した倉田。
「妹とその友達だよ。コイツ、プロの塔矢アキラ。塔矢名人の息子な。たまたま会ってさ」
紹介された塔矢は初めて接触した未知の人種に緊張した面持ちでペコリと頭を下げた。
「えっ!? 塔矢アキラ!?」
「へぇ、スーツなんか着てっからブロかなって思ったけど、まさかあの塔矢アキラとはねぇ」
妹はともかくとして、その友達までもが自分を知っているような口ぶりに意外そうな顔をする塔矢。
「僕の事をご存知なのですか?」
「うん。顔は知らなかったけど。家に来るお祖父ちゃんの弟子の人とかが『塔矢アキラ、ついに来たか……。どこまでやれるか見ものだな』とか言ってるし」
弟子? と頭上にクエスチョンマークを浮かべる塔矢に倉田から捕捉が入る。
「コイツ、桑原先生の孫」
「桑原先生のッ!?」
「そうだよ。あげ〜っ☆」
自然な動きで塔矢を挟んだ席に座っていく黒ギャル達。倉田から「おい」とひと声飛んでくる。
「何で座ってんだよ。今プロ同士で碁界について語り合ってんだから」
「良いじゃん。なぁ塔矢ぁ♡」
「ぼ、僕は構いませんけど……」
オラ子に膝をすりすり撫でられ、ついでに色っぽい声を受けた塔矢は照れた様子でテーブルに視線を落としてしまった。
ギャル子も面白そうに、塔矢が食べているオムライス皿のスプーンを手に取った。
「可愛い〜。はい、あーんしてあげる♡」
「お前ら中学生をたぶらかすなよ」
困った奴らだ、と腕を組みソファに背中を預ける倉田であったが、太い首を伸ばしキョロキョロと通路の方を見渡し始めた。
「代表は? 3人で遊園地行ったんだろ?」
「面会時間無くなりそうだからって、さっき病院行った。メシも向こうで一緒に食ったし、ウチらちょっと茶ァしに来ただけだし」
「そっか。ちっとはマシになったとは言え、あいつも大変だな」
「でも楽しかったー。て言うか代表と遊びに行ったの超〜久しぶりだったしね」
倉田も知ってる黒ギャル達の友達で、家族が入院している──。塔矢はそう察し、別段興味は持たなかった。
「へぇ、おふたりとも囲碁部なんですか」
異界の住人達と何を話せば良いのかわからなかったが、共通の話題を見つけられ塔矢の声が明るくなった。
「ああ。出来たばっかだけど、来週の大会で葉瀬高の名前が一気に広まるはずだぜ?」
高校ならなおさら関係無いはずなのだが、オラ子の口から葉瀬の名前が出てピクリとする塔矢。そして変な反応をした事を誤魔化すように、
「自信があるのですね。碁は倉田さんや桑原先生に教えて貰っているのですか?」
「うん。家ではお祖父ちゃん、学校では代表に教えて貰ってるよ」
「代表……? ああ、先ほども言っていた代表とは部長さんの事ですか?」
ギャル子の言葉を受け、そう解釈した塔矢であったが、向かいの倉田から少し強い口調が飛んでくる。
「網代木の事だよ。お前プロ試験で打ってるから知ってるはずだぞ」
「この子。ちなみにこっちが部長ね」
え……? と固まってしまう塔矢。予想外の方向からずっと気にしていた名前を聞かされたのだ。さらにギャル子に見せられたスマホの写真により目が大きく開いていく。
「覚えてるだろ?」
「……忘れませんよ。あれほどの打ち手、そしてあんな形でプロ試験から消えてしまった事、僕はずっと気になっていました」
倉田の問い掛けを受け、塔矢は早まる鼓動を抑えるようにゆっくりと頷いた。
「お前が勝ったとはいえ強かっただろアイツ。師匠はいないんだけど、俺や桑原先生もたまに見てやってたからな」
「勝った……? 勝ったですって……!? 僕はアレで勝ったつもりはこれっぽっちもありませんッ!!!」
両手でバンッ! とテーブルを叩き立ち上がった塔矢。あまりの大声に店内が数秒間静寂に包まれた。
他の客達の迷惑そうな視線を受け、塔矢はハッとして気まずそうに腰を下ろした。
「彼女は今どうしているのですか……? 全く碁を打っていないという話を耳にしましたが……」
「最近はコイツらと囲碁部で打ってるぜ?」
「そうですか、少し安心しました……。碁を捨てた訳ではなかったのですね」
2度と打たないつもりなのでは、と覚悟していたので、とりあえず胸を撫で下ろす塔矢。
「俺もこないだそれ聞いて安心したんだよ。アイツから碁取ったら何も残らねぇからな。ハハハ」
「あー、本人にそれ言うと『失礼なっ、残りまくりよ! まず美が残るじゃない! 美がっ!』ってキレるよ」
「そうそう、自称超絶美少女だからなっ」
倉田の冗談交じりの発言を発端に笑いが起こった。
だが塔矢には笑う余裕など無く、早く本当に聞きたい事を尋ねたかった。
「それでプロへは? 彼女は今年のプロ試験、受けるつもりはあるんですか?」
「多分受けないっつってたな。でもアイツも復活したばっかだし、その内考えも変わるかもしれねぇけど」
「復活?」
オラ子の意味深な言い回しを受け、塔矢は怪訝に眉をひそめた。
「あ、いや、なんでも」
他人にペラペラ喋る事でもないのでオラ子は目を泳がせるが、塔矢には大体察しがついている。
「……先ほど網代木さんが病院に行ったと言っていましたが、やはりお母さんの事で?」
「……そうだよ。事故に遭ってから1度も目を覚ましてねぇ。もちろん今も。その事とかでずっとって感じだったよ」
「い、今も……」
塔矢もそこまでは知らなかった。篠田師範やプロ試験を受けていた院生達から聞いていたのは代表の母親が事故に遭った事と一命を取り留めた事だけだ。何と言ったら良いのか言葉が見当たらず、開き掛けた口を結んでしまう。
「でも色々あって、最近は元気にやってるんだよ? 囲碁部にも入ったし、今日だって遊園地ではしゃいでたし」
スマホを手に、最近撮った代表の写真を何枚も見せるギャル子。確かにどれも楽しそうに笑っている。
塔矢は代表の境遇を聞き、自分の想いを押し付ける事に躊躇っていたが、この写真を見て言ってみる事にした。
「……彼女と打たせて貰えませんか? プロに来るにしても来ないにしても、僕は彼女とちゃんと打ち切りたいんです」
「別に良いんじゃん? 連休中は大体部室いると思うし、気軽に来いよ」
「本当ですかっ? なら早速明日にでも──」
太っ腹なオラ子に感謝する塔矢であったが、ギャル子から待ったが掛かる。
「オラ子、明日は葉瀬中に合同練習しに行くんじゃん。あ、でもそれに塔矢君がサプライズゲストとして登場ってのも面白そうかも?」
「葉瀬中へ?」
「ウチの部長がOBなんだよ」
そう言えば、と塔矢は先ほど見せて貰った写真の数々を思い出した。代表の事で頭がいっぱいで気にも留めていなかったが、部長と呼ばれていたのは葉瀬中で副将をやっていた人じゃないかと。
『よくも僕の可愛い後輩に酷い事言ったな!』
何となくこんな事を思われていそうで、筒井にはあまり歓迎されそうにない。
(それに進藤は来るのだろうか……)
去年の夏に「もう2度とキミの前には現れない」と宣言したのだ。その後院生研修部屋で思わず目が合ってしまった事はあっても、言葉ひとつ交わしていない。
(どうせ若獅子戦で会うだろうし、あんな宣言も今さらか。それに彼の事などどうでも良いじゃないか……。いやしかし……)
色々考えてしまい、葉瀬中へ行く事はそう簡単ではない。代表とすぐにでも打ちたい気持ちを押し殺してこう答える。
「僕が行けばあちらの迷惑になるかもしれませんので……。やはり連休中に部室へ伺わせて頂きます。網代木さんにそうお伝え下さい」
しかし翌日。塔矢は海王の制服に身を包み、葉瀬中の校門近くに立っていた。結局我慢出来ずに来てしまったのだ。元々打ちたい相手と打つためならばなりふり構わない人間であり、海王中囲碁部をメチャクチャにした事もあるし、プロ試験もサボった事もある。
が、どうにかここまでは来たものの足が重たい。
(やはり帰るべきか……。明日でも明後日でも良いんだし……。いやしかし、折角来たのに……)
部活動やら何やらで登校してくる生徒達から「海王だ」と注目されながら、その場で悩み込む塔矢。
そんな時であった。
「あ、やっぱり塔矢君だ」
明るい口調で声を掛けてきた女子生徒。藤崎だ。後ろには初対面の津田もおり、人見知りなのか恥ずかしそうにモジモジしている。
塔矢は「あ……」と言葉を失いながらも軽く頭を下げた。
「どうしたの? ヒカルに用?」
「い、いえ。実は昨日葉瀬高囲碁部の方に合同練習を誘われまして……。一度お断りしてしまったのですが、気が変わったと言いますか……」
「え? そうなの? でもみんなが来るのお昼過ぎからだから、まだ大分時間あるよ?」
プロが部活の練習に来る時点で「何で? 参加する意味あるの?」と思うのが普通だろうが、ヘボの彼女達は気にはならなかったようだ。
そして時刻はまだ午前9時を回ったばかり。連絡先を交換していなかった事を後悔する。
「困ったな、時間を確認していなかったもので……。でもおふたりは何故こんなに早く?」
互いに顔を見合わせた藤崎と津田はニコッと笑うと、持っていたスーパーの袋を塔矢に見えるように前へ突き出した。
「葉瀬高の人達を歓迎したいから、家庭科室でクッキー作ろうかなって。そうだ、塔矢君も一緒に作る? それでヒカルにクッキーあげたら?」
「何故僕が進藤にッ!?」
藤崎から「我ながらナイスアイデア♪」のように言われたが、塔矢はありえな過ぎて耳を疑った。もしそんな事をすれば正気を疑われるのは避けられないだろう。
「だって去年の夏の大会からずっとケンカしてるんでしょ? ヒカルクッキー好きだから仲直り出来るかもしれないよ」
「別にケンカしている訳では……」
普段は「彼ごとき」だの「あんな奴」だの言っており仲直りなどしたくもないが、塔矢も出来た人間なので藤崎達の前で進藤をコケにするような発言はしない。
「どうせ時間潰さないといけないんだし、一緒に作ろうよ」
藤崎から強引に腕を引かれる塔矢。しかし普通に進藤と会えばギャーギャー言ってくるのは目に見えている。下手したら追い返されるかもしれない。今日の目的はあくまで代表なのだ。
それならクッキーでも与えておけば動物のように少しはマシになるかも──。そう思い、流れに身を任せる事にしたのであった。