5月4日、ゴールデンウィーク2日目。
早朝、寝巻き代わりの黒ジャージに身を包んだ進藤ヒカルが親に言われて玄関先のポストに朝刊を取りに出て来た。
「今日は筒井さんが来るから楽しみだよな。後この前ラーメン屋連れてってくれたオラ子さん。他にはどんな人がいるんだろうな」
新聞を取り出しながら独り言──、と言うより誰かに話し掛けるように喋っている。
「おはよう、ヒカル君。独り言かい?」
「あ、高田のニイちゃん」
門の向こうから顔を覗かせ声を掛けて来たのは、髪を真ん中で分けた制服姿の少年だ。彼は進藤家のはす向かいに住む高田。海王高校1年で、囲碁部に在籍している。
誰もいないと思っていたのでギクリとしつつも、進藤は高田が肩に掛けている大きめなスポーツバッグが目に入り、小さく首を傾げる。
「休みなのにどっか行くの?」
「今日から長野で合宿なんだ。他校の囲碁部やプロの先生方も来るんだよ」
「へぇ。プロって誰?」
「えっと、倉田五段と芦原四段、それと冴木四段だったかな。みんな二十歳くらいの若手プロさ」
「ふぅん、そんなにプロを呼ぶんだ。やっぱ海王はスゲェなぁ」
「それだけレギュラーになるのは大変なんだけどね。来週は1年生だけの大会があるから、僕もメンバーに選ばれるために頑張らきゃ」
「ああ、それ知ってる。葉瀬高に行った俺の先輩も出るみたい。それで今日俺が葉瀬高のみんなを鍛えちゃうから、海王も油断しない方が良いよ」
「あはは、それは怖いなぁ。じゃ、行って来るね」
互いに冗談っぽい口調だ。まぁ海王に勝つとかないだろ、と思ってしまうのは仕方のない事だろう。
進藤は高田を見送ると玄関へ足を向けた。そしてまたもや不気味な独り言である。
「メシ食ったら学校行くまで打つぞ、佐為」
進藤の部屋は棚代わりに壊れた冷蔵庫がある以外は普通の少年の部屋で、強いて挙げれば碁の本と碁盤があるくらいだ。
進藤は机に置かれている1枚の紙を手に取り、ワクワクを宿した瞳でジッと見つめる。
2週間後の5月半ばに行われる若獅子戦のトーナメント表だ。進藤ヒカルと塔矢アキラの名前が並んでおり、2回戦で戦う事が出来る。
「へへ、こうやって名前が並んでると対等って感じだよな。今の俺の力を見せてやるぜ」
『ヒカル。まずはきっちり1回戦を突破する事を考えなさいな。相手はプロなのですよ?』
「うっさいな、わかってるよ」
顔を歪ませた進藤の瞳には
現代の世にそのようなおかしな格好をしていても誰も気に留めない。何故なら彼は進藤にしか見えない平安時代の幽霊なのだから。
幽霊の彼──、藤原佐為は碁盤の前に腰を下ろした。
『さ、打ちしょう。早く早く♡』
佐為は満面の笑みで進藤に座るように促す。とにかく碁が好きで好きで仕方がないのだ。そして強い。紛う事なき世界最強の棋士である。
よしッ! と気合を入れて碁盤の前に座り込んだ進藤。1回戦突破&打倒塔矢に向けての気合は十分だ。
幽霊ゆえに碁石を持てない佐為は、自身の一部とも呼べる扇子で盤上を指していく。その場所に進藤が代わりに石を置いていく。これが彼らの対局方法である。
(ヒカルの成長は確かに目覚ましい。それでもやはり塔矢とやるには早過ぎる……。一度ヒカルに失望した彼はどう思うだろう……)
佐為の表情は思わしくない。現段階では一方的にやられるのが目に見えているのだ。
(やっぱりこの程度か──、と。それとも、もう一度ライバルとして見てくれるのか)
願わくば後者。そのために若獅子戦までに何とか勝負になるくらいには引き上げたい。しかし自分では地道にコツコツ教えてやる事しか出来ないのが口惜しい。
欲しいのは自分では与えてやれない何か──。殻を、壁を、天井を打ち破り、化けるきっかけとなる何かだ。それを無くしては、今の進藤が残り2週間で塔矢と並び立つのは夢のまた夢であった。
早めに昼食を食べ終えた進藤が佐為と共に葉瀬中へ向かっている。その道中の駅前。花壇と時計がある待ち合わせとして使われる場所を通りかかった時だ。
あっ、と佐為が嬉しそうな声を上げて立ち止まった。
『ヒカル。筒井さんですよ、ほらあそこ』
(本当だ。何だぁ、全然変わってねぇな。コンタクトにしてたり、髪染めてたりとかさぁ)
佐為の指した花壇前へと目を向ければ、今も昔も変わらない筒井の姿があった。学生服のホックをきっちり締めた真面目スタイルである。
進藤は学校に行く前に会えた喜びで頬が緩んでいたが、すぐに口がポカンと丸くなってしまった。
(うわ、スゲェ美人と一緒だ……。まさかあの人が筒井さんの囲碁部の人?)
筒井が長い金髪に黒いリボンを付けた美少女と楽しげに話しているのだ。一応葉瀬高の制服を着ているが、あんな可愛い女の子が筒井の作った囲碁部に入る訳がないという考えがよぎる。
(佐為……)
進藤から「どうしよう」と判断を求められた佐為は、扇子で口元を隠し何か考え込んでいる。そしてしばらくの思考の後、重々しい口調で言葉を口にし始めた。
『詐欺、あるいは
(ああ、絶対騙されてる。それだけは間違いねぇ。普通に考えて筒井さんがあんな美人に口きいて貰える訳ねぇんだ)
助けなければならない。目を覚まさせなければならない。それでも法の外に生きるような連中と相対した経験は皆無。オマケに女は自分より背が高く、少しだけ膝が震える。
『ヒカル! 恐れを勇気に変えて! さぁ!』
「よぉしッ!」
扇子を突き付ける佐為の鼓舞を受けた進藤は、強く地を蹴って一気に駆け出した──。
瞬く間に距離を詰め、力の限り叫ぶ──。
「筒井さんッ!」
怒鳴るような声で名を呼ばれた筒井が振り向くと、すぐに2人の視線が重なった。
「進藤君! うわぁ、久しぶ──」
「筒井さん何やってんだよッ!」
再会を喜ぶ場面のはずが、進藤のただ事ではない様子に筒井は面を食らってしまう。
「な、何がって何が? 囲碁部のみんなとここで待ち合わせしてるんだけど。まだ彼女ひとりしか来てなくてさ」
「……え? この人囲碁部なの? 詐欺とかじゃなくて?」
あれ? 話が違うぞ? と混乱してしまう進藤と佐為。詐欺呼ばわりされた美少女──、代表は「面白い子ね」と笑っている。
筒井は筒井で『詐欺』などという単語が飛び出して思考が2秒程停止していたが、やがてハッとした表情をして眉を釣り上げた。
「な、何言ってんだよ! そんな訳ないだろ!」
「だって筒井さんがキレイな女の人と仲良く話してたから……。騙されてお金取られたり、殴られたりしたら大変だなって……」
「だからって早とちりにも程があるだろ……。この人は
どっと疲れたように大きく肩を落とした筒井。代表が気を悪くしていないか「ごめんね」と目を向けたところ、眉を下げた笑顔が返ってきた。
「ううん。無理もないわよ」
「…………え?」
筒井にはその言葉が「だって私と筒井君じゃ全然釣り合ってないんだから、勘違いするのも当たり前よ」という意味に聞こえた。
そんな
筒井はちょっぴり悲しさを覚えながら背筋を伸ばして気を取り直す。
「紹介するよ代表。こちら進藤君。後輩に院生やってる子かいるって前に話したろ?」
「ああ、この子が……」
代表の表情に少し雲が掛かる。プロ試験をバックれ、院生もバックれた彼女にとって接し辛い相手だ。しかしそんな事情など知らない進藤は急に暗い顔をされて戸惑ってしまう。
「ど、どうかした?」
進藤からひと声掛けられた代表は首を横に振ると、髪を耳に掛ける仕草を交えて一撃で心を撃ち抜く女神のような微笑みを作った。
「何でもないわ。進藤君、今日はみんなでお邪魔させて貰うわね」
「う、うん。って言っても、俺も囲碁部じゃないから、ア、アレなんだけど……。そ、それにしてもお姉さん、本当にテレビの人みたいだね……」
「ええ。知ってるけどありがとう」
「でへへっ」
中学の女子達とは何もかもが違う。決定的に違うのは、完璧な顔立ちがメイクでさらに高い次元へ昇華されているところだろう。
そして立ち方もキマッている。ピンッと背筋を伸ばし、足を少しだけ前後に置き、腰に片手を当てて、そのままカシャッとシャッターが切られるのを待っているかのようだ。
そんな超絶美少女の代表にすっかり参ってしまった進藤。とろけた締まりのない顔で、頭の後ろで手を組んだまま大きく体を横に傾け、無意味に左右にキックを繰り出し始めた。
見るに耐えないその奇行に佐為が喝を入れる。
『ヒカル! デレデレしてみっともない! 全く、普段は女の子なんかにこれっっっっぽっちも興味持たない癖に……』
(う……。だ、だってこんなんしょうがねぇじゃん……)
『ご覧なさい、筒井さんはデレデレなんてしていませんよ。さすがです』
(ほ、本当だ……。筒井さんスゲェなぁ……)
確かに筒井は代表の目をしっかり見て会話をしている。進藤はもしかしたらこの時初めて筒井を尊敬したかもしれない。
それから程なくしてギャル子とオラ子も待ち合わせ場所へやって来たのだが、進藤にとって女子に囲まれている筒井の絵というのも斬新であった。
(人の成長する様を初めて目の当たりにしたって感じだな。こうシビレるって言うか、俺もやるぞ! って気にさせてくれるぜ)
予期せぬ起爆剤を得た進藤は葉瀬高囲碁部と共に歩き始めた。向かう先、葉瀬中で何が待ち受けているのかも知らずに──。
◆
およそ2ヶ月ぶりの懐かしき母校へ足を踏み入れた筒井が「わぁ、変わってないなぁ」と感嘆の声を漏らした。他校に来るなど初めての女子部員達は興味深そうにあっちを見たりこっちを見たりしている。
休日だが部活で登校している生徒の姿も多く、学ランの筒井はともかくとして、高校の制服を着た女子部員達にはやたら注目が集まっていた。
そんなアウェイ感を味わいながら、進藤を先頭にして校舎内に入る。1階にある理科室へ真っ直ぐ向かっていると、
「あ、碁石の音だ。気合い入ってんじゃん」
ギャル子の顔が綻んだ。静かな校内に響くのはペタペタという自分達のスリッパの足音の他に、廊下の向こうから聞こえて来るパチパチという音だ。
それに続くようにオラ子が掌に拳を打ち付け、皆に目を移す。
「ウチらも気合い入れんべ。中坊に負けた奴はバツゲームとかどうよ」
面白そうね、と代表が人差し指を立てイタズラっぽい口調で言う。
「じゃあ負けた人が勝った人にお寿司奢るってのは?」
「お前それ汚ぇぞ。金使うのは無し」
即棄却。筒井とギャル子も苦笑いで頷いている。そして代表は改めて提案。
「じゃあ肩揉むとか?」
「まあそんなとこか。でも筒井、合法的に代表にお触り出来るからって、わざと負けやがったら殺すぞ」
「うわぁ、メガネ、軽蔑……!」
「僕がそんな事する訳ないだろッ!」
「わかってるわ。筒井君は誠実だもんね。だからちゃーんと勝って証明してね♡」
もうマッサージは昨日で懲り懲りだと言うのに、マッサージ難の相でも出てるのかなぁ、と筒井はうんざりであった。
そんな葉瀬高囲碁部の面々を眺めていた進藤。緩んだ表情を持って隣の佐為を見上げた。
(ハハ、筒井さんいじられてんな〜。みんな仲良さそうだし、葉瀬高囲碁部楽しそうだよな)
『そうですね。しかし今の会話の流れ、どうも気になります』
(どこが?)
『皆、あの娘がバツゲームを受けない前提で話しているとしか思えないんですよ。つまり葉瀬中の誰が相手であろうとあの娘の勝ちを信じて疑っていない。そう、たとえヒカルが相手であってもです』
(いやいや、お前それはさすがに考え過ぎだろ? お姉さんが1番弱い人とやるから不公平だって意味だと思うけどな。だってあかりや津田なら結果は見えてんじゃん)
『そうでしょうか? やはりこの娘ただ者ではない気がします。強い棋士が放つ特有の気配と言いますか……。ええ、私の勘がそう囁いていますとも』
(何言ってんだよ。囲碁部の人がお前が気にする程強いわけないじゃん。それにさっきのでお前の勘は当てにならないってわかったからな)
『確かに言われてみればそうなんですが……。いえ、この勘は絶対当たってます! 歴戦の強者達と対峙して来た私にはわかります!』
(はいはい。どっちにしろこの後打てばわかる事だろ)
そうこうしている間に理科室に到着だ。ドアへ伸ばし掛けた進藤の手かピタリと止まる。
「折角だから筒井さん開けなよ」
「う、うん。久しぶりで緊張しちゃうなぁ」
促された筒井は大きく深呼吸した後にコンコンッ、とノックをしてドアを引いた。
「やあ! お待たせ!」
懐かしい理科室の光景に胸を高鳴らせ、良く通るように意識した声を発する。その後には石の音が消え、部員達の視線が入り口の方へ集まった。
「筒井さんっ!」
嬉しそうに立ち上がったのは夏目だ。続いて三谷もいかにもかったるいフリをして腰を上げた。
部室にいたのは夏目と三谷、この2人だけであった。進藤は理科室内を見渡し不機嫌そうな表情を浮かべる。
「あかり達は? まだ来てねぇの?」
「えっと……。あー、その、なんだ。家庭科室でクッキー作ってる……、ぜ……?」
「クッキー? でももう筒井さん達来ちゃったじゃねぇかよ」
進藤の問いに返された三谷の返事はやけにしどろもどろであった。夏目も笑顔でありながらも汗をピュッピュッと飛ばし、そわそわしている。まるで何か隠しているようだ。
それはそれとして、筒井が一歩前へ出て三谷へと嬉しそうに声を掛けた。
「三谷。戻って来てくれてありがとう」
「……別に。礼を言われる事じゃないさ」
2人が顔を合わせるのは去年の秋以来だ。三谷は照れを隠すように目を逸らしたのだが、そこへ詰め寄ったオラ子からヘッドロックが炸裂。
「おう、三谷! 久しぶりだな、元気だったかテメェ!」
「久しぶりって……、そんなでもねぇだろ」
「今日はリベンジさせてもらうぜ? ちゃんと首洗って来たか?」
「やれるもんならやってみろよ。つか離せッ!」
オラ子の締めから脱出した三谷は上着をビシッと直し、葉瀬高囲碁部のメンバー達へ「ふぅん」と視線を移していく。
「しっかし、見事に女ばっかだな。筒井さんうまくやれてるのか?」
「あはは、心配いらないよ」
「そうそう。メガネはしっかり部長やってるよ」
ギャル子の言葉を受け安心した三谷であったが、晒し出された小麦色の腹部にギョッとしてしまった。
「待った待った、あんた腹なんか出して! 中坊には目の毒だろ!」
「おっと、そういう文句はあたしに勝ってからにしてくれませんかね」
ギャル子がくいっと親指で碁盤を指すと、三谷はコクリと頷き、そのまま対局席へ着いた2人は早速打ち始めてしまった。
オラ子は2人の対局の観戦に入り、筒井は現部長の夏目に「よく頑張って部を守ってくれたね」と褒めたたえている。
そして余った進藤と代表。理科室の窓際にて進藤はモジモジチラチラ代表の顔を伺っている。さらに目が合うとピュンッと赤くした顔を逸らしてしまう。もはや初恋と言って差し支えないだろう。
そんな挙動不振な行動をされるのも代表にとっては日常茶飯事。気にせずに優しく語り掛ける。
「そう言えば、進藤君はどうしてプロを目指してるの?」
言葉にするのが難しい質問をしてしまっただろうかと代表は思ったが、進藤の返答は早かった。
「えっと、塔矢アキラって奴知ってる? 塔矢名人の息子の」
「うん」
代表が頷くのを確認した進藤は胸元でギュッと握り締めた拳に目を落とした。
「そいつに去年の夏、中学の団体戦で対局して大負けしたんだよ。しかも思い切り見下されてさ。だからプロになって見返してやりたいんだ」
2度と「ふざけるなッ!」なんて言わせない。キミが? なんて鼻で笑わせやしない──。
「悔しいけど……、今はまだ力が足りない。ライバルだと思ってるのだって俺だけさ。だけど絶対に追い付いて、塔矢に俺をライバルだと認めさせてやる」
それが進藤のプロを目指す理由だ。改めて口に出した事でさらにやる気がみなぎってくる。
「ま、まあそんな感じ?」
熱く語ってしまった事に恥ずかしさを覚えながら、照れ笑いと共に代表を見上げた。
今度は代表がハッとして顔を逸らしてしまう。希望に満ちた真っ直ぐ過ぎる進藤の瞳は目の毒だ。逃げ出し、諦めた彼女にとってあまりにも眩し過ぎた。
それから間も無くであった。重なる足音に乗せられた楽しそうな女子の話し声が廊下から届いて来たのだ。
三谷と夏目に緊張が走る。これから何が起こるのか、彼らには全く想像が付かなかった。
◆
理科室に甘い香りが漂っている。三角巾にエプロン姿の3人が、紙皿に乗せたクッキーを運んで来たのだ。
だがそんな甘ったるさとは裏腹に、空気は重い。
「と、塔矢……」
進藤は塔矢を前に唖然としている。何故塔矢がここにいるのか、何故クッキングスタイルなのか、訳がわからな過ぎて思考が定まらない。
次の言葉が出てこない進藤をジッと睨んでいる塔矢。彼もまた口を開こうとはしない。
「塔矢君はヒカルと仲直りしようと思ってクッキー作ったんだよ?」
「そうだよ。お菓子作り初めてだったけど、進藤君のために頑張ってたんだよ」
「え? お、お前ら何言って……」
沈黙を打ち破ったのは藤崎と津田。気不味い進藤と塔矢の仲を取り持とうとしている。
しかし進藤には到底信じられない。あれだけ自分に幻滅した塔矢がこんな事をする訳がない。
「……そういう事だ。キミも色々思うところはあるだろうが、食べて貰えると嬉しい」
が、続いたのは塔矢のこのセリフであった。本意かは不明だが、仲直りの印として受け取って貰って構わないと思っているのだろう。
「な、何だよそれ……」
進藤は嬉しさなど微塵も湧いて来ない。
いつか普通に友人になれたらと思わない事もなかった。だがそれは互いをライバルと認め合ったその先じゃなければならないはずだ。少なくとも今ではない。
大きな動揺が消えぬまま立ち尽くしている進藤。そこへギャル子とオラ子が歩み寄って来る。
「塔矢君来たんだね」
「はい。時間がわからず早く来てしまったところ、藤崎さん達にお菓子作りを誘われまして」
「へぇー、美味そうじゃん」
進藤は気軽に塔矢へ話し掛けている黒ギャル達に、見開いた目を向ける。
「し、知り合いなの……?」
「昨日ファミレス行ったらウチのアニキと塔矢がメシ食ってたんだよ。んでアタシらが誘ったって感じ? でも昨日は来ないって言ってたんだけどな。ま、別に良いだろ?」
進藤はオラ子の兄がプロ棋士なのは知っているので一応納得のいく答えにはなっている。だがわからないのは誘われた塔矢がこんな部活の練習に参加した理由だ。本当に仲直りしに来ただけだとしたら、気がおかしくなったと思わざるをえない。
そして改めて問おうとした時だ。
塔矢の視線はとっくに自分に向いていなかった事に気が付いた。彼が真っ直ぐな目、いつか自分に向けさせようとした目を向けているのは──。
「お久しぶりです、網代木さん。おふたりから昨日の事は聞いていると思います」
「ん? 私? 何も聞いてないし、いきなり過ぎて全然わからないんだけど。進藤君と仲直りしに来たんでしょ?」
代表に困り笑顔で返されてしまった塔矢。軽くショックを受けた様子で黒ギャル達に横目を向ける。
「昨日お願いしたじゃないですか!」
「へへ、悪い。サプライズしてやろうと思って黙ってたわ」
「それに今日来るとは思わなかったしね。逆にこっちがサプライズだよね」
軽い調子で笑っている黒ギャル達に塔矢は小さく肩を落とした。
同じく代表も「もう、あなた達は……」と呆れ顔。その後には強気な眼差しで塔矢を見据える。基本ニコニコしている彼女が真剣な顔をするのは珍しい。
「でも──、キミが私に用があると言うのなら、ひとつしか思い浮かばないわね」
「話が早くて助かります」
互いの視線がぶつかり、火花を散らす様子はまるでライバルのそれだ。
「それにしてもさすがに今さら過ぎない? そもそもキミが私を覚えてた事自体ビックリなんだけど。喋ったのもほとんど初めてよね」
「あなたの事を忘れた日はありませんよ。そして昨日からずっとあなたの事ばかり考えていました」
シーン、と──。
理科室が静寂に包まれた。
そして、のち──。
「キャーッ!」
ドラマのような塔矢のセリフに大喜びの藤崎と津田。人の恋愛が大好物なお年頃であり、黒ギャル達も「付き合えー!」と茶化し始めた。
が、この状況が面白くないのは蚊帳の外の進藤である。とにかく屈辱だ。詳しい事情はわからないが、自分がここにいると言うのに、代表ばかり見ている事が心から気に食わなかった。
「塔矢、お前! お姉さんと何なんだよ!」
我慢出来ずに塔矢へ詰め寄った進藤。しかし返されたのは彼にとって残酷な答えであった。
「ライバル──」
「な……ッ!?」
「網代木さんとはプロの世界で互いにしのぎを削り合うライバルになれたらと──。僕は去年のプロ試験で彼女と戦って以来、ずっとそう思っていた」
「プ、プロ試験……? 待って、お姉さんて何者なの?」
困惑する進藤に、代表は腕を組んで悩み込む仕草を見せた。
「んー。何者かと聞かれれば、多才な超絶美少女、学園のアイドルって言いたいところだけど……。キミには去年まで院生やってたって言った方が良いかしらね」
「い、院生だったの!? ほ、本当……!?」
「ええ。進藤君とは入れ違いね。プロ試験での塔矢君との対局で、私が途中退席しちゃって最後まで打てなかったのよ。塔矢君はそんな勝ち方に納得出来てないみたい」
いきなりの連続に頭の整理が追い付かない中、佐為が嬉しそうに進藤の顔を覗き込む。
『ほら、ね? ね? 私の勘当たったでしょ?』
(で、でも18歳までいられる院生を中3で辞めたんだろ……? それって自分の才能にさっさと見切りをつけたって事なんじゃないのか? ずっと1組に上がれなかったとかさ……。だからそんな強いはずが……)
『その程度の相手に塔矢がここまで来ると思いますか? おそらく辞めたのも止むに止まれずの事情があったのでしょう。そして塔矢がライバルになりたいと言った以上、この娘の力を疑う余地はありません』
本当はそんな事はわかっていた。そしてライバルの座を奪われる危機感から目を背けようとしていた。
塔矢には顔も見たくない程、口も聞きたくない程嫌われているはずなのだ。むしろそうでなければならない。だがどうだ。自分に会ってしまう事もいとわずこの場を訪れ、挙げ句の果てにはクッキーなど作られる始末。
(お、俺の事なんかどうでも良いって事かよ……)
塔矢にとって本当の意味でどうでも良い存在になるのだけは絶対に避けなくてはならない。それこそプロを目指す理由さえ根絶やしにされてしまう。
進藤の心情など気にもせず、塔矢の目は代表へ向いたままだ。
「僕と打って貰えますね」
「んー。私は構わないんだけど……」
代表は進藤の気持ちを聞いたばかりで素直に対局に応じにくい。恋愛相談に乗った友達の好きな男子から告白されてしまったような気不味さを覚えながら、進藤に「良いの? 打っちゃうよ?」の意を込めた視線を送った。
「お、俺は……」
進藤の瞳の奥が弱々しく揺れる。俺が塔矢のライバルなんだぞ、他の奴なんか見るな、そんな駄々をいくらこねたところで塔矢に届くはずもない。
塔矢に届くのは、響くのは、いつだってたったひとつの手段しかないのだから。
『ヒカル! 勝ち取りなさい!』
佐為の声が背中を押してくれる。2週間後の若獅子戦じゃない。今だ。今自分の力を塔矢に見せなくては、この先2度とライバルとして認めてもらえないような予感がした。
歯を食い縛り、両の拳を痛い程強く握りしめた進藤が代表へ返したのは決意──。
ライバルの座は誰にも渡さない、この手で勝ち取ってやるという、確固たる決意を宿した眼だ。
「勝負してよッ!」
進藤の突然の叫びに、塔矢は怪訝な表情へと変わる。邪魔をするな、もうキミの出る幕じゃない、キミとは終わったんだ──、そんな冷めた気持ちがにじみ出ている。
それでも進藤は構わず繰り返す。
「どっちが塔矢のライバルにふさわしいか、俺と勝負だッ!」