「筒井さん、私達余計な事しちゃったかなぁ……」
理科室の机にはクッキーの盛られた紙皿が3枚。津田が気落ちした様子でぼそりと呟くと、隣の藤崎もクッキーを口に運ぶ手を止めて小さく頷いた。
進藤と塔矢が仲直り出来ればと思っていのだが、その結果として進藤が代表に敵意に近いものを向けている。
みんなで仲良く楽しく練習会。彼女達が思い描いたそんな光景とは真逆な事態になってしまった。
「いや、キミ達は良かれと思ってやったんだろ? 気にする必要はないよ」
筒井が対面に座っているJC達へ向けて首をゆっくり横に振る。それに便乗するように、筒井の隣のギャル子が「ふふっ」と大人の余裕を思わせる笑いをこぼし遠い目をした。
「男っていうのはね、面倒な生き物なのよ」
「ふあぁ……っ。さすがです、先輩」
JC達から羨望の眼差し。高校生ってすごいね、大人だね、とひそひそ会話しているのも聞こえてくる。
だが筒井にはギャル子が「1度このセリフ言ってみたかっただけ」という事はわかっていた。
「ギャル子、ちゃんとわかってんの?」
細めた目を向けられたギャル子は「チッチッチ」と立てた人差し指を横に動かして見せた。
「恋愛で例えると、昔は進藤君と塔矢君が付き合ってたのね? でもいざ付き合ってみれば進藤君はメッキが剥がれて塔矢君にフラれちゃったの。よくある話だよね。でも進藤君は別れてからも塔矢君が好きで自分を磨いていたんだけど、知らない間に塔矢君には新しい好きな人、代表がいてアタックしてたの。それで元カレの進藤君は今激おこって事でしょ?」
「大体合ってる……」
「えへっ、褒めてちょ♡」
「はいはい、えらいえらい」
ギャル子の頭をポンポンと叩く筒井。女の頭に軽々しく触れるという筒井らしからぬ行為に、JC達は驚きに目を見開いた。
「えっ、何今の……。結構キモくなかった……?」
「う、うん……。筒井さん、前はあんな事する人じゃなかったのに」
昔から筒井の事をちょっと良いなと思っていた津田は、筒井とギャル子がただならぬ関係なのではと不安を覚えてしまう。どうやって探ろうか考え始めたところ、
「はーい。ふたりって付き合ってるんですかー?」
「あかりっ!?」
「だってハッキリさせとかなきゃ」
藤崎にストレートな質問をされてしまい、彼女の心臓が大きく跳ね上がった。
筒井もちょくちょくクラスメイトに同じ事を聞かれるので「あはは」と笑って返す。
「付き合ってないよ。ウチ、部内恋愛禁止だし」
ほっと胸を撫で下ろす津田であったが、ギャル子が黙っていない。
「はぁ? 何勝手に決めてんの? それを言うなら部外恋愛禁止なんですけど」
「ぶ、部外ッ!? それキミ達が困るだろ!?」
「え? あたしは全然困ら──、ぐえっ」
言い掛けたところで後ろから襟首を引っ張られるギャル子。何だよ! と後ろを向けばそこにいたのは三谷であった。
「おい、いつまでくだらねぇ事喋ってんだよ。さっきの続き打つぞ」
「へーへー」
塔矢の登場で中断してしまっていたが、三谷とギャル子は対局中であった。余裕を感じさせない三谷の顔からして、あまり形勢は良くない模様。
ギャル子は連れて行かれてしまい、オラ子もいつの間にか夏目と打ち始めていた。早くも夏目は顔を青ざめているのが遠目でもわかった。
筒井もいつまでも雑談していては来た意味がなくなってしまう。
「僕達も打とうか? 2面打ちしてあげるよ」
「ヒカルの対局見なくて良いの?」
「見たいけど、見てもあのレベルには着いていけないよ。それに折角来たんだから何より打たなきゃね」
自分を嘲笑いながら丸椅子に碁盤を乗せて対局中の進藤達に目を向ければ、塔矢が真剣な面持ちで横から観戦中。藤崎も筒井の視線を追う。
「でも私、ヒカルのあんな顔初めて見た……」
幼馴染の藤崎が寒気を覚える程の鋭い眼。進藤が真剣に碁を打っている時ですら見た事がない。
すると津田がつぶらな瞳を輝かせ呟いた。
「進藤君、覚醒したのかも……」
「津田さん、漫画じゃないんだから……。でも実際覚醒のひとつやふたつしないと代表には勝てないと思うな」
筒井の予想に藤崎が口を尖らせる。
「筒井さん、あの人綺麗だからって
「代表さんの事好きなんですか……?」
JC達はすぐこれだ。何か言えば「好きなの?」だの「付き合ってるの?」だの。さすがに筒井もうんざりである。
「違うって。僕は客観的に見て言ってるんだから」
「でも辞めちゃったけど同じ院生なんでしょ? ヒカルとそんなに違うの?」
どちらも筒井では瞬殺される強さには変わらない。なので正確な事はわからないが、
「院生すら温いはずの塔矢アキラが決着をつけるためにここまで来るくらいだからね。僕も良く知らないけど、代表は他の院生達とは格が違ったのは間違いないと思うよ」
「えー。じゃあ塔矢君のライバルはヒカルじゃなくて、あの人になっちゃうの?」
「代表がプロに行けばそうなるかもしれないけど……。今の所プロになるつもりはないみたいだし。でもたとえプロにならなくても、進藤君は塔矢アキラが今現在他の誰かを見ているのは気に食わないだろうね」
筒井も黒ギャル達も代表にプロになって欲しいとは思っているが、口には出さない。辛く厳しい修羅の道だ。部活勧誘のように気安く「プロになりなよー」と言えるものではないので本人に任せる意向である。
「でもさ、そんなに凄い人に教えて貰ってたら、筒井さん大会で海王にも勝てちゃうんじゃないの?」
藤崎の言葉に筒井はピクリと肩を震わせた。そしてここぞとばかりのニヤケ顔。
「えー、どうかなぁ? 実はさ、昨日海王の1年生の女子と打っちゃったんだよね。さてここでキミ達に問題だ。僕と海王、どっちが勝ったと思う?」
自分が勝ったと知れば「ウソー! 筒井さんすごーい!」と賞賛されるのが眼に浮かぶ。
だが予想とは裏腹に、JC達は別の方に食い付いてしまった。
「えっ? じょ、女子……!? 筒井さん、海王の女子の人と知り合いなの!?」
「うん。昨日僕の家で打ってさ。それでどっちが勝ったと思う?」
「待って待って! 筒井さんの家で!? ふたりだけで!?」
「そうだけど? それで僕と海王の女子、どっちが勝ったか当ててごらん? はい解答時間あと5秒ね。5〜、4〜」
筒井の言葉を受け、JC達は顔を見合わせる。そしてゴクリと息を飲んだ藤崎が恐る恐る口を開いた。
「も、もしかして、その海王の人と付き合ってるの……?」
◆
会話にならない筒井とJC達の一方で、進藤と代表の対局は白熱の一途を辿っていた。
筒井の言う通り、進藤は本来代表よりも大分実力が劣るはずだ。
そのはずだった。一方的な虐殺であってもおかしくないにも関わらず、対局は白熱しているのだ。
進藤の後ろに立つ佐為は驚愕に見開いた目を盤に釘付けにされている。
(ま、まさかここまで……)
代表に塔矢のライバルの座を奪われる事への危機感。それによる進藤の爆発はある程度期待していた。だがこれは期待以上だとかそんなレベルではない。
(私の知るヒカルとは、もはや別人ではないか……!)
1年──。
そう、佐為はまるで1年後の進藤を見ているかのような気分であった。時間を掛け、ひとつひとつ階段を登り到達するはずだったステージ。
そこへ今進藤は立っていた。
(そして実に惜しいのはこの娘……。このヒカルと打ち合える才を持ちながら、プロへは行かぬと聞く。共に切磋琢磨すればより高みを目指せる打ち手になれると言うのに……)
盤から代表へ目を移した佐為。彼女の表情は険しさに満ちていた。
(これで院生16位……!? そんなバカな事って……!?)
対局開始前は進藤が可哀想なので花を持たせてあげようかな、などと少しだけ考えもした。考えただけで結局は最初から本気を出しているわけなのだが、それがいかに傲慢であったか今身に染みていた。
気を抜けない。抜けば持っていかれる。進藤の1手1手からは信じられない気迫が伝わってきた。
絶対に勝つ、負けてたまるか──、そんなありふれた生易しい気迫ではない。勝利への執念という言葉でも物足りない。進藤は己の全てを石に込めている。塔矢のライバルになる事は彼が碁を打つ全てと言っても過言ではないゆえに。
(この手応えは完全にプロ、少なくとも去年の塔矢君以上……!)
盤横で観戦中の塔矢をチラリと見上げる。口元を隠していても、驚きを隠し切れていないのはひと目であった。
(塔矢君にとっても進藤君の強さは予想外って事か。でもね、勝てない相手じゃないわ)
中盤戦は早くも勝負所を迎えていた。
代表が押されているがまだまだわからない。そしてここからの攻防がのちのちまで流れを左右する大事な局面だ。相手を出し抜き1局の主導権を掴もうと、両者共に血眼で読みに読みを重ねる。
「んー」
前屈み気味にアゴに手を当てて、進藤に置かれたばかりの黒石をジッと見つめている代表。
んーんー唸っていたかと思えば、スリッパを脱いで丸椅子の上に正座したり、やめたかと思えば立ち上がって蹴伸びしたり。
(下辺の白を分断しにいったか……。進藤君はあくまで攻め重視みたいね。……さてどうするかな)
再び腰を下ろそうとした時に「えーッ!?」という数メートル離れている藤崎から驚きを思わせる声が届いた。
「三谷君負けちゃったのー!?」
代表が目をやれば三谷ががっくりしており、ギャル子に負けてしまったようだ。振り向いたギャル子からは笑顔のVサインが送られた。
「代表、勝ったよー☆」
無邪気に喜ぶギャル子の姿に代表は柔らかく微笑んで頷いた。それと共に「私も勝つぞ」と気合いが入る。
そんな決して静かではない理科室の中でも進藤は盤の中に深く深く潜り続けており、雑音を気にしないと言うよりは聞こえてすらいない様子であった。
代表はその異常な集中力に恐れを抱きながら座り直し、すぅと息を吸い込む──。
(よし決めた! こっちもサバキには自信がある──! 勝負ッ!)
白石を掴んだ右手を高らかに掲げ「うりゃッ」と盤上へと叩き込んだ。互いの石がぶつかり合う接近戦の幕開けだ。
進藤の怒涛の攻めを間一髪ながらもかわす、かわす、かわす──。
だが99点未満の手を打てば即赤点な綱渡り状態。
才気溢れる打ち回しに、進藤の攻め手が切れる寸前になった時だ。
代表は自身の指先が盤上の石からほんの少し離れた瞬間、碧い目をこれ以上無い程に大きく見開いた。
(ミスった! 出切られる!)
人間はミスをする生き物だ。大なり小なり、1局まるまるノーミスで打ち切るなど神以外ありえない。
そして彼女の右手が盤上の外に出て行くより早く、進藤からノータイムで襲来した咎めの刃。ミスをミスで帳消しなどという甘い期待は一瞬で潰えてしまった。
(やばい、連絡を断たれた……。眼形を作りに行けば黒地を固めてしまう……)
進藤という暴漢の攻めをギリギリかわし続けていた代表はついに掴まった。待ち受けているのは大ピンチ。殺されはしないが、殴られ、蹴られ、服を剥がされ、犯され、金銭も奪われ、家も焼かれ──、とにかくそんな大ピンチだ。
(最悪右辺はほぼ黒地にされる……)
攻められるにしても、服を剥がされる程度に収めなくては形勢は絶望的。
勝機と言わんばかりに猛威を振るう進藤の黒石。眼形を奪い、味方との連絡を許さぬ、厳し過ぎる攻め。それと同時に進藤の黒地がみるみる確定していく。
殴られ、蹴られ、血ヘドを吐く。それでも代表の瞳は死んではいなかった。
(中央の黒はまだ薄い、見てろ……ッ!)
逆転の狙いはある。代表はその機を睨みつつ進藤の攻めを凌いでいく。
攻められながらも水面下にて行われた奇襲準備。さあ来い、と碁笥の白石を手の中いっぱいに思い切り握り締める。今はその痛みが心地良いと言わんばかりに口角が上がる。
しかしその目論見は失敗に終わった。
「う……ッ!」
代表から漏れた詰まるような声。
予想外の1打が進藤より放たれたのだ。それは水面を凍らせ、水面下の奇襲準備ごと無に帰してしまうような氷結の一撃。
(攻め手を戻して中央に備えた……!? まさか、ここで手を戻せるって言うの……!?)
進藤の攻めは流れに乗っていた。このまま好調の波に乗って一気にいきたくなるところが人情だ。だが進藤は攻めずに守った。一見温いように思えて、代表の反撃手を奪う絶妙なタイミングであった。
(今の手入れで黒の不安が解消されて、進藤君に手厚い好形を与えてしまった……。クソッ、やりにくいな……!)
相手の身を焦がすような熱気を放ち、それでいて恐ろしく冷静な打ち筋だ。代表は進藤の歳にそぐわぬ打ち様に戦慄を覚えた。
(どっしり腰を据えてかわいくない……。こんなの子供の打ち方じゃないわよ……)
今日初対面であるが、進藤の印象から直線的で力任せの素直な打ち手かと予想していた。しかしいざ打ってみればどうだ。洗練された攻守、目を見張る巧みな技術、己の形勢判断を信じ抜く心の強さ。予想とはまるで逆なのだ。
戦慄に打ち震えていたのは代表だけではない。佐為はもちろん、塔矢もまた同じである。
局面が進むごとに──、いや進藤が1手打つごとに、塔矢は体の内側から大鐘を鳴らされているような衝撃を感じていた。
(これが今の進藤……)
最後に見た進藤の碁は去年の夏の中学囲碁大会。並みの中学生と比べても弱い部類であった。
(院生となり、1組となって順位も若獅子戦に出られるまで上げているのだから、あの頃の彼じゃないのは当然と言えば当然だが……)
ゴクリと息を飲む。
(だけどあれからたった1年足らずだぞ? そんな短期間で人間がここまで力を付けられるものなのか……?)
夢でも見ているような気分だ。いや、進藤と出会ってから何が夢でどれが現実なのかわからなくなる。そんな出来事ばかりだ。
(碁会所で2度僕を圧倒したキミ。中学生のフリをして出た大会で素晴らしい1局を披露したキミ)
同い年の小学生とはとても思えず、恐怖さえ感じた。その進藤を追う事があの時の塔矢の全てであった。
(去年の夏、僕を失望させたキミ……)
海王囲碁部に迷惑を掛けたのも、他の中学の大会参加者のやる気を削いだのもわかっていた。大人気ない、自分でもそれ以外の言葉が見当たらない。それでも進藤を掴まえるためになり振り構わなかった。
しかし残ったのは、進藤などという雑魚のために全てを懸けていた自分自身への怒り、悲しみ、虚しさだった。
(そして今、目の前のキミ……ッ! 高段のプロさえ喰いかねないこの石の運び……! 一体どれが本当のキミだと言うんだ……!)
代表との決着をつけるために来たと言うのに、その彼女も今にも倒されそうになっている。進藤と出会った事で塔矢の碁人生は何から何までメチャクチャだ。
思考をかき乱され、次第に石の並びも目に入らなくなる。
代表の手が止まっている間に一旦廊下で水を飲んで気を落ち着けようと、その場を離れた塔矢。
周囲はのどかな雰囲気だった。わいわい碁を楽しむ緊張感の無い空気。こんな理科室での部活のひと時とは思えぬ壮絶な対局を見ていた後なので、一層そう感じられた。
「どうした? 顔色悪いぞ?」
「あ、いえ、大丈夫です」
廊下に出ようとしたところ、オラ子が心配そうに声を掛けてきた。盤を挟んだ彼女の対面には、本当に顔色の悪い夏目の姿。可哀想に、7子も置いたのに血祭りにされたところである。
オラ子の腕前を見るのは初めてだが、夏目が弱い分を差し引いてもかなり強いのはひと目で読み取れた。
「お強いですね。正直驚きました」
「おっとプロのセンセーに褒められちったよ。なぁ、あいつらどっち勝ってた?」
「……進藤です」
口にしたくないように発した塔矢。まだ自分でも信じられないのだ。
「うげ、マジで? ちっと見て来るわ」
オラ子は石を片付け立ち上がるやいなや、代表の方へすっ飛んで行った。
彼女の背中を見送り今度こそ廊下へ足を向けようとした時であった。
「三谷はネット碁やらないの?」
「パソコン持ってねぇもん。たまに姉貴に借りるけど、そんなしょっちゅうはな」
対局準備中の筒井と三谷の会話が聞こえて来た。しかし特に構わず歩き始めたのだが、興味深い事を筒井が話し始め、塔矢は自然と耳を傾けていた。
「でも僕、もっと早くネット碁やってれば良かったよ」
「何で?」
「伝説のインターネット棋士の話知ってさ。でも僕がその話知った時にはもう何処にも現れてなくて」
(saiの事だ……)
トッププロ以上の強さを思わせる正体不明の最強棋士。塔矢はその正体を進藤なのではと疑った時もあった。しかし進藤に大きく失望していた塔矢はそれを必要以上に強く否定し、進藤自身も違うと言っていた。
だがsaiの話を聞いた事と今の進藤の強さに「もしかしたら」という小さな疑いが生まれ始める。
(確かに今の進藤はとてつもない強さだ。だがsaiはそれを遥かに超えて強い。だから違う、進藤ではない……)
冷静に考え、結局は疑いの芽を踏み潰した。そんな塔矢をよそに会話は続けられる。
三谷は興味のカケラも無さそうに石を盤上へ打ちつける。
「伝説って、たかがネット碁で随分大げさだな」
「saiっていう名前なんだけど、正体不明で凄く強いんだって。カッコ良くない?」
「ふぅん、そういや進藤もsaiって名前でネット碁やってたって姉貴が言ってたな」
(──ッ!?)
三谷のセリフに塔矢は耳を疑った。気が付けば三谷の肩を震える手で掴んでいた。
突然肩を掴まれた三谷は驚き振り返る。目の前にはさらに驚愕している塔矢の顔があり、一体何事かとすぐには言葉が出て来なかった。
「お、おお……。な、何だよ、いきなりビックリすんだろ。どうしたんだよ」
「今の話本当ですかッ!? 進藤がsaiだという話はッ!」