筒井とギャル棋士   作:ようぺい

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14話 代表vs覚醒進藤 (その2)

 喉が渇いて仕方がなかった。

 

 真夏の体育授業の後のように、塔矢は理科室前の廊下の水道で、喉を鳴らし水を飲み続けていた。

 

「ハァ……ッ!」

 

 止め処なく溢れ出てくる水から口を離して大きく息を吸い込んだ。体全体で呼吸を繰り返しながらゆっくり蛇口を閉めていく。

 

(saiは進藤だった……?)

 

 先ほど三谷と筒井から聞いた話を思い返す。

 

 ネットカフェでバイトをしている三谷の姉が、パソコン初心者の進藤に代わりチャット文章を打ってあげた時に『sai』のハンドルネームが目に入ったらしいが──。

 

『違うだろ。たまたま名前被っただけじゃね?』

 

『そうだよね。だってその頃の進藤君、僕らより弱かったくらいだし』

 

『進藤が力を隠していたような素振りは……?』

 

『あはは、ラノベ主人公みたいに? ないない』

 

『ラノ……ベ……? そ、それは一体……? saiと何か関係がッ!?』

 

 

 あのふたりでは話にならなかった。むしろこれが普通の反応。

 

 進藤が「俺、本当は最弱のふりしてた最強棋士なんだ。だって力隠してるのってカッコイイだろ?」という線は消して良いはずだ。共に部活をやってきた筒井と三谷なら、いくらなんでもそれがありえない事くらいわかるだろう。

 

 100歩譲ってsaiの名前が被っていたとする。しかし当時進藤はネット碁の存在は知っているが、やった事は無いと言っていた。そこからして辻褄が合わないのだ。

 

(進藤がsaiであろうとなかろうと、何か隠しているのだけは間違いない……!)

 

 嘘をつかれるかもしれないが、もはや対局後に本人に直接聞くしかない。塔矢は廊下に視線を落としたまま再び理科室へと足を向けた。その足取りはとても重たく、真実の待ち受ける教室へ戻るのを拒んでいるようだった。

 

 

 理科室では廊下側の席でギャル子が藤崎、津田に楽しくお喋りしながら碁を教えており、筒井は三谷と黙々と対局中。夏目は魂を抜かれたようにひとりで壁の向こうを呆然と眺めていた。

 

 和気藹々(わきあいあい)と平和そのものだ。

 

 対して教室中央のさらに向こうの窓際は言うなれば魔界。代表と進藤が激戦中だ。

 

 代表の後ろに立ち、盤を見下ろしているのはオラ子。腕を組んで難しい顔をしている。代表の勝利を信じて疑わなかったオラ子にとって、今目にしている光景は意外以外の何ものでもなかった。

 

(手は抜いてねぇみたいだし、マジでやられてんじゃん……)

 

 見下ろす細い背中がいつもよりも小さく見え、苦しそうに肩も上下している。表情は確認しなくとも、かなり参っているはずだ。

 

 そこで塔矢が疲れ切った足取りで戻って来たので、オラ子はプロの意見をとヒソヒソ声で尋ねてみた。

 

「これ、逆転は難しい?」

 

「……進藤に手厚く進められていますが、まだ戦いを起こせる場所はあります。網代木(あしろぎ)さんならやってくれるはずですよ」

 

 と言ってみたものの、塔矢にも代表が逆転する手立てが見えていない。局面は中盤戦の真ん中を過ぎたあたり。ここで大勝負を仕掛けなくては進藤の逃げ切りを許してしまうのは確実であった。

 

 

 ふたりの視線を背中に受ける代表は盤上をひたすらに眺めている。

 

(やばい、何とかしないと……!)

 

 膝の上に置いた拳を握り締めようとする。が、妙だった。不思議と力が入らずふにゃふにゃしてしまう。底力が湧いて来ない。

 

(何とか? 何とかしたらどうだって言うの?)

 

 この対局に勝ったところで何になるんだろう、ふいにそんな考えがよぎった。この劣勢を何とかしたとする。勝ったとする。勝ったら嬉しいだろう。それで? その先は? と──。

 

(仮に今日勝てたとしても、来年は100パーセント負ける。1ヶ月後かもわからない……。だったらこんな対局、勝っても虚しいだけじゃん……)

 

 プロの世界に飛び込んで行く者達と差が開くのは当然。

 

 そしていつか「ああ、そんな奴もいたな」だの「あの時は負けたけど、今やったら相手にならねぇだろうな」だの、もし自分の話が出たとしたらそうなってしまうだろう。

 

(進藤君、塔矢君。それに試験に受かった院生の皆だって……)

 

 皆、立ち止まっている自分の事など──、自分の碁など過去にしてしまうだろう。

 

 未来を想像し、胸が締め付けられる感情が生まれる。

 

(悔しい……? 寂しい……? いや違う、これはそんなんじゃない……)

 

 どうにもピッタリこない。

 

 そしてハッとする。ああ、そうか、と憂いを秘めた瞳をゆっくりと伏せていった。

 

(可哀想なんだ……)

 

 自分ではない。代表は自分の碁が可哀想だと感じていた。まるで自分の子供が友達に仲間ハズレにされている光景を見ている気分だった。

 

 言ってしまえばボードゲームの腕前に過ぎない事もわかっている。だけどこの腕前になるまでに、どれだけ努力をして、多くの人と打ち、教えられ、応援もしてもらった事だろう。

 

(これも大切だったのかな……。私の碁は……)

 

 親友達に辛い思いをさせていると知りながら、母親の見舞いに行く事以外ドブに捨てていた日々。だがこれからは大切なモノを全部抱えて生きていきたい、囲碁部に入ったあの日そう決意した。

 

(お母さん……。ギャル子とオラ子……)

 

 もう何があっても放さないと、大切なモノをしっかり抱えて歩き始めたつもりだった。

 

 しかしそこに碁は含まれていなかった。母親の命より対局を気にしてしまった後悔ゆえ、代表にとってそれは考えるまでもない事だった。囲碁部に入ったのも親友達と一緒にいたいから、大会に出る彼女達の力になりたいから、それだけだ。

 

 もちろん碁は好きだが、プロにならなくても碁は打てるし、遊びで十分だ。しかし自分の碁はそのレベルでは満足なんてしていなかった。未来への道を閉ざされてしまい、何処へも行けずに泣いているように思えた。

 

 プロになりたい。プロの世界で戦いたい。ライバル達の過去になりたくない。そんな泣き声が聞こえた。

 

(このまま置き去りになんて出来ない……。連れて行ってあげなきゃ)

 

 自分の碁を未来へ連れて行けるのは、自分しかいないのだから。

 

 

 

 代表は後ろを向くと、観戦中のオラ子を花が咲いたような笑顔で見上げる。

 

「私、プロになるから」

 

「お、おう? いきなりだな。」

 

「だってね? 私の碁が『え〜ん、プロになりたいよ〜』て泣いてるんだもん」

 

「……は? お前何言ってんの?」

 

「わかりやすく言うとね? 私の碁は私の子供だったのよ。それで私がお母さんね? だからちゃんとプロにしてあげないと可哀想じゃない。わかるでしょ?」

 

「全然わからん。つかお前それヤバイよ。急に不思議ちゃんになってんぞ、マジで」

 

「えー、何でよー。わかりなさいよっ」

 

 オラ子の体を「アハハッ」と笑い声を上げて叩き始める代表。

 

 そんなやり取りに塔矢はポカンとしている。プロ入りは願ってもない事だが、本気で言っているのかイマイチ掴めない。

 

「本当にプロへ来るのですか……?」

 

「ええ、行くわ。だからこの1局も勝ってやるから」

 

 んふっ♡ と会心の笑顔をぶつけて盤へと向き直る。今度こそ拳を強く握り込む。心に翼が生えたように感覚が冴え渡る。

 

 その源は強過ぎる後悔と決意の念により、かつて自身に掛けてしまった呪いと似て非なるモノ──。彼女を縛るモノでは無い、これまで以上に解き放つモノだ。

 

 それは言わば翼の祝福──。

 

 盤上という宇宙(そら)を自由に翔るための、感性の翼だ。

 

 盤面の劣勢は変わらない。打開する手も見つけていない。しかし不思議と負ける気がしなかった。

 

(うん、何とかなりそう)

 

 口元が緩む。するとジッと凝視していた盤上の交点のひとつが淡く光って見えた気がした。初めて見えたモノだ。目の錯覚なのか何なのか、とにかく正体不明なモノ。

 

 さらに言えば先ほど「いや、この手は無いでしょ」と真っ先に候補から除外していた場所だ。

 

 だが──、

 

(委ねる!)

 

 代表は読みを入れる事なく白石を掴み取っていた。読まずとも、間違いなくここだという直感が彼女を突き動かしていた。

 

 掲げた白石と共に無数の翼が舞い上がる。次いで盤上へ解き放つのは、これまでの常識も概念も翔び超えた埒外感性(らちがいかんせい)──。

 

 

(こ、これは……)

 

 その1手に進藤は一瞬ギクリとした後に眉をひそめる。

 

(まさかそこをハネるのか……? 黒の封鎖と下辺の一団への攻めを睨んだ強い手だが、いくら何でも断点が負担で持つわけねぇ)

 

 つまり打ち過ぎの無理手だ。こんなふざけた注文を通してたまるかと、進藤は冷静に対応していく。

 

 この対局中、進藤は盤と石しか見ていない。周りの音も聞こえていない。下手したら理科室が火事になり、炎と煙に包まれても気が付かない程の集中力を発揮している。

 

 それが裏目に出た。

 

 もちろん警戒はして十分な読みを入れたつもりだった。だが不十分。どうせ無理な手だ、という先入観からか、読みの深さがまるで足りていなかった。

 

 代表(このひと)が無策にこんな無理手を打つはずがない、という盤外への疑念を抱き、答えが見つかるまで深く深く読みを入れていたのなら、何処かで手が止まっていたかもしれない。

 

 だがもう遅い。

 

 代表がクスッと小さく笑いを零した。

 

 次瞬、彼女の手によって堕とされた一撃が世界を変えた。

 

 最初の無理手も、無理を通すための悪あがきに見えた手の連続も、それら全てが好手へと反転──、全撃クリティカルのまさに悪魔的革命。

 

(こ、こんな手が……!? 狙いは下辺ではなく中央!?)

 

 対局の主導権をここまで握っていた進藤。ここに来て初めて彼の表情に動揺が浮かび始める。

 

(ノゾきたいのは山々だが、間違いなく出て反発される……。ここを突き破られてはマズイ……。最初からこれを狙っていたのか……!?)

 

 掴まれた黒石がカチャッと碁笥へと落とされた。それが3回。急激な喉の渇きを覚えながら、前傾となり盤上へ顔を近づける。

 

(中央を黙ってツイでも、放り込みを喰らえば最初の無理手がそのまま活きて下辺はコウ……)

 

 立派な地面に立っていたはずが、突如として周りが崩壊していく思いだ。読めば読むほど、自分の立つ場所がどれだけ危険か気付き始めていく。

 

(かと言って2子をアテにいくのも中央の9子が追い落としで抜けてしまう……。ど、どこに打っても黒の大損は避けられない……)

 

 勝負所。焦って失着を打ってしまわぬよう、右手を硬く握りしめる。まだ主導権はその手の中だ。最後まで、勝利へと変えるまでは絶対に手放さない。

 

(6子を捨て石にして先手で白を分断、代償は隅へのフリカワリに求める……。苦しいけどこれが1番マシか……)

 

 石が重たい。骨を断たせて薄皮を切るような策だが他に手は無かった。進藤は目一杯の抵抗を試みる。

 

 まだリードは保っている。しかし流れは変えられていく。手の中にあった主導権がするりと抜け落ちていく。勝ちが遠ざかる。

 

(お、折れるな! 地合ではまだ俺が良い!)

 

 が、今の代表は進藤にはとても思い付かないような手を連打──、碁は何処に打とうが自由でしょ? まるでそんな声が代表の石から聞こえてくるようだった。

 

 ある意味で碁の真理に誰よりも近くなってしまったのかもしれない相手を前に、進藤はぐんぐん差を縮められていく。

 

 歯を食いしばり、呼吸をする労力さえもったいない程に全身全霊で耐える、耐える、耐える──。

 

(クソォッ!)

 

 そして並ばれた。否、ゴールを目指し全力で駆ける進藤の目の前に映ったのは代表の背中。

 

 抜かれた──。

 

 進藤は彼女の背に手を伸ばす事が出来ない。既に進藤の手では伸ばしても届かない場所へ行かれてしまった。

 

(い、今ので俺が悪くなった……!?)

 

 実力の違いをまざまざと見せつけられる。格差など最初からわかっていた事だが、それでも普段の何倍も手が見えた。やれる自信はあった。

 

 盤外へ振れてしまいそうな意識と視線。塔矢が気になる。今どんな顔をしているか気になってしまう。

 

「ぐ……ッ!」

 

 だが眼球で盤に噛り付き堪える。逸らしたら終わる、そんな気がした。

 

 局面は中盤戦終了間際、このままヨセに入れば逆転は不可能。

 

(手は……! 何か、逆転出来そうな手は……!)

 

 負けたらどうなるのか考えるのが恐ろしい。ここまで塔矢を追い掛けてきた全てが無駄になってしまう。これから何を目指せば良いのかわからなくなってしまう。

 

(探せッ! 勝たなきゃいけないんだ、俺が塔矢のライバルなんだから……!)

 

 唇を噛み締め顔を歪める。諦めてたまるか、と盤の中に希望を探し求める。

 

 脳が焼き切れそうな程考えて、考えて、考え抜いて──。

 

 しかしどれだけ探そうとも『逆転の手は無い』という絶望以外見つけられなかった。

 

 

 ◆

 

 

 筒井を筆頭に皆がぞろぞろと対局席へ集まって来る。結果だけは気になるらしい。

 

「もう終わった? どっち勝ったの?」

 

「まだ終わってねぇけど勝ってるのは代表」

 

「……そっか。まぁ仕方ないよね」

 

 オラ子は面白くなさそうに筒井から進藤へと視線を移した。

 

 順当と言えば順当だ。だが盤面を見たところで棋力の低い連中にはこの対局のレベルはわからないため、順当な結果と思われるのが面白くない。オラ子は代表をここまで苦しめた進藤を褒め称えたい思いなのだ。

 

 するとこの中で最も落ち込んだ顔をしている藤崎が塔矢にすがるような目を向けた。

 

「ねぇ塔矢君……。ヒカルじゃ塔矢君のライバルになれないの……?」

 

「そ、それは……」

 

「ヒカル、塔矢君に追い付こうとすごい頑張ってるんだよ? 私にはよくわからないけど、それじゃあダメなのかな……」

 

 塔矢は返答に窮する。この対局を見た限りでは進藤の力は認めてはいるが、お願いされたからと言ってどうこうする話ではない。

 

 何よりもそんな話は後だ。まだ対局はまだ終わっていないのだから。

 

(ここまで局面が進んでしまえば進藤の逆転は難しいだろう。だがsaiなら……。もし進藤が本当にsaiであったのなら──)

 

 やがてカチリ、と黒石を掴み取った進藤が盤へ手を伸ばした。

 

 無駄に粘るつもりなのか、投げ場を探しているのか、それとも逆転の手があるのか──、いずれにせよ塔矢は進藤から目が離せなかった。

 

(──ッ!?)

 

 その動作はいつもと変わらなかった。何の変哲も無い普通の打ち方だったはずだ。

 

 だが塔矢には、塔矢だけには石の音がパチリ、ではなくこう聞こえたのだ。

 

 

 コト──、と。

 

 

 石を親指と人差し指で摘んだ、初心者のような拙い手付きで打ったかのように錯覚したのだ。

 

(アテコミ!? キリを狙ったところで先は無いはずだ……! だが今のは……!)

 

 黒石が置かれたのは既に手にならないと判断した場所だ。しかし今の進藤に小学生の自分を圧倒した、昔の進藤の姿が重なった。

 

 

 

 

 

(ヒカルが私と同じ逆転手を見つけた……!?)

 

 佐為は震え上がった。逆転の手はあったのだ。だがとてつもなく複雑な手順を要求されるゆえ、今の進藤と言えど見つけるのは不可能だと諦めていた。

 

 確かに進藤は逆転の手は無いと答えを出していた。自分ではとても無理だと断念していた。

 

 だが佐為ならば──。

 

 世界最強棋士だと進藤が信じて疑わない佐為であったなら、こんな絶望すら跳ね返し逆転してしまうのではないか、進藤はそう思った。そして考えた。

 

 佐為だったら何処へ打つ──? と。

 

 いつも佐為と打っている進藤だからこそ出来る芸当だ。佐為と数え切れない程打った経験が、佐為の力を絶対と信じ抜く気持ちが、進藤に遥か高みの1手を気付かせた。

 

 そしてここからだ。言うなればまだ逆転へ続く道の扉を開いたに過ぎない。足を踏み入れた先は無数のトラップを仕掛けられた迷宮のようなものだ。

 

(まだ安心は出来ない、ここから先は複雑な分岐点の連続。しかし間違わなければヒカルの勝ちだ)

 

 佐為は息を飲んで見守る。よし、よし、と進藤が1手打つごとに大きく頷き手に汗を握る。

 

 やがて進藤の足が力強く大地を踏んだ。暗く長い迷宮を踏破、視界に捉えたのは追い付けないはずだった代表の姿だ。

 

(見事……!)

 

 佐為はヒカルの才に恐ろしささえ感じた。思わず不敵な笑みがこぼれてしまう程だ。

 

 

(喰らえッ!)

 

 打ち下ろす黒石は稲妻──。

 

 遥か高みより、翼持つ者さえ喰らい尽くす黒い稲妻だ。

 

 打音の後には静寂が広がった。誰かのゴクリと息を飲む音さえこの場に響く。

 

 

 全く考えもしなかった好手妙手を超えた鬼手に、塔矢は戦慄を覚えた。

 

(な、並んだ……! いや、僅かに進藤が良い……! し、しかし今の手順はまるでsaiのような──)

 

 その考えにハッとして口元に手を当てる。重なったのは今の進藤に昔の進藤の姿。そしてsaiの練達された打ち筋。その3者が1本の線で繋がっていく。

 

(進藤が、いや、昔の進藤がsai……。やはりそうなのか……?)

 

 去年の夏、その考えは塔矢の中にあった。当時は大会での進藤のあまりの弱さに完全否定したが、今はーー。

 

 しかし繋がっているようで繋がっていない。パズルのラストピースがどうしても見つからない思いだ。

 

(進藤であって進藤ではない……)

 

 まるでなぞなぞ。それでも最後のひとつを強引に埋めようとすれば、

 

(進藤の中にもうひとりいる……?)

 

 どうしても非現実よりの答えになってしまう。だがこれ以上の答えは現状出せそうになかった。

 

 

 ◆

 

 

 中盤戦最後の最後で進藤が巻き返し、局面は終盤戦に突入した。

 

 ヨセを得意とする筒井が計算中──。

 

「これはヨセ勝負だね。かなり細かいなぁ、えっと……」

 

「ねぇメガネ、代表勝つよね? 勝つでしょ? ねぇってば!」

 

「筒井さん、ヒカルの勝ちだよねっ? 勝ちって言ってよ!」

 

 両脇のギャル子と藤崎が筒井の腕を引っ張り始めた。

 

「あーもう! やめてよ、わからなくなっちゃったじゃないかぁ」

 

 筒井はウザったそうにため息を吐き、計算を諦め整地まで待つ事にした。

 

 その様子を横目に佐為はクスクスと笑う。こちらはとっくのとうに計算済みだ。

 

(ここから双方が正しくヨセればヒカルの1目半勝ちですよ。えへん)

 

 ところがその笑みがたちまちに不安げな表情へ変わっていく。重大な失念だ。すっかり逆転したかと思っていたが、進藤にはヨセの甘いところがあり、それを思うと勝利を確信するのはまだ早過ぎたのだ。

 

(……いえ、きっと大丈夫。今のヒカルならば間違う事はないでしょう。……ですよね? ね?)

 

 進藤の後ろで両手をバタバタさせてヨセの進行を見守る。

 

 それも杞憂であった。厄介な計算の必要なヨセも、進藤は本能で正しくヨセていく。ホッとする一方、階段をすっ飛ばして成長されてしまったようで、指導者の佐為としては少しだけ寂しさも覚えてしまう。

 

 そして今度は柔らかな眼差しを代表へ。届かなくても感謝を送りたかった。

 

『娘よ、感謝します。そなたのおかげでヒカルは壁を打ち破る事が出来ました。プロへ行くのであれば、近くヒカルと相まみえる事があるでしょう。その時が楽しみです』

 

 1手1手終局へ近づく。互いに見えている正解の道筋を辿るように石が置かれていく。

 

 そんな中で佐為にはひとつだけ気掛かりがあった。集中している進藤の耳には入っていなかったが、塔矢が三谷らにsaiについて尋ねていた件だ。

 

 対局が終われば塔矢から問いただされる事は目に見えている。一難去ってまた一難、勝利の余韻に浸る時間さえ無さそうだ。

 

(全く、筒井さんがネット碁の話なんてするから面倒な事になったじゃありませんか)

 

 ムスッと睨んでやるが筒井は盤面に夢中。他の皆も「どっちが勝つの?」とハラハラしている。ひとりひとりの顔にゆっくり目を移していくと感慨深い気持ちになっていった。

 

(……この者達も筒井さんが囲碁部を作らなければこんな風に集まる事は無かった。そう思うと人の縁とはつくづく不思議なものですね)

 

 ふふ、と笑みをこぼし、穏やかな表情で終局を待つ。

 

(素晴らしい1局でした。おめでとう、ヒカル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐為の背中にゾクリと寒気が走った。

 

 それこそ幽霊でも見たかのように目を見開いた。

 

 瞬きが出来ない。盤上から目が離せない。

 

 思考が鈍る。

 

 代表が置いた白石の意図が読み取れない。

 

 ヨセはどれだけ複雑であろうと正しい道はひとつ。

 

 ひとつしかないのだ──。

 

 

 

 

 

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