筒井とギャル棋士   作:ようぺい

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久しぶりなので前回のあらすじ
塔矢が代表をライバル視している事にショックを受けた進藤。ライバルの座を取り戻そうと覚醒して代表を圧倒するが、代表も覚醒してなんやかんやで互角のまま終局。


15話 伊角さんは心が脆い

「私の半目勝ちね」

 

 綺麗に整地された盤上。代表が安堵のため息と共に、項垂(うなだ)れている進藤へ結果を告げた。

 

 周囲の観戦者達からは落胆の声か広がる。代表の味方である高校生達も「ここまで来たんだから進藤に勝って夢を見せて欲しい」という気持ちがあった。

 

「今日のところは勝たせて貰ったけど、メッチャクチャ強くてビックリしちゃった。最初から検討しましょ?」

 

 代表は石を碁笥に戻し始めたが、進藤の頭の中は「負けた」で埋め尽くされ、彼女の声は届いていない。

 

 そして佐為もまた沈痛な面持ちだ。双方最善手順で進藤の1目半勝ちを確信していたところから代表が放ったヨセの妙手。天国から地獄に突き落とされたようでダメージは大きい。

 

(あの手順、気付かなかった……)

 

 進藤はもちろん、佐為も幽霊とはいえ人間だ。神ではない限り誰にでも見落としはある。

 

(私もまだまだか……。だがそれが良いのかもしれない)

 

 佐為の口元に不敵な笑みが浮かんだ。碁を打ちたい、更に強くなりたいという想いが溢れ出てくる。

 

(たった千年で極められる程、碁は浅いモノではないと改めて思い知らされた。それでこそこの道を選んだかいがあるというものだ)

 

 それはそれとして、今は進藤の事だ。励まさねばと、明るく振舞ってみせる。

 

(ヒカル、負けはしましたが素晴らしい1局でした。あんな碁を見せられて心が動かない塔矢ではありませんよっ)

 

(それでも負けちゃダメだったんだ……。 もう何もねぇよ……)

 

 返された進藤の心の声は弱々しかった。

 

 塔矢のライバルは代表の方がふさわしい、自分じゃない──。

 

 突きつけられた結果が、これまで碁を打ち続けていた意味を崩壊させていく。真っ直ぐ進もうとしていた道が途切れてしまい、これからどうしたら良いのかわからなくなる。

 

「クソォ……ッ」

 

 肩を震わせ漏らした声には涙が交ざっていた。次第に大きくなっていく嗚咽。進藤は俯いたまま泣き続けた。

 

「ヒカル……」

 

 藤崎は進藤の肩に手を伸ばそうとするも、途中で止まってしまう。慰めてあげたいと思う反面、涙の理由を半分も理解していない自分ではその資格は無い、そんな気がしたのだ。

 

 誰も進藤に声を掛けられない。掛ける言葉が見当たらない。そんな中で筒井が代表に恐る恐る耳打ちする。

 

「ライバルの座を返上してあげたら……? なんて……」

 

「そんなもんあげたり貰ったり出来るわけないでしょ」

 

 バカね、と肩をすくめる代表。そもそも彼女は進藤のように塔矢のライバルの座に興味はない。かと言ってわざと負けてやる程甘くはない。後はご自由にどうぞというスタンスである。

 

「それに、単純により強い奴がライバルの条件って言うのであれば、私や進藤君の他に適任がゴロゴロいるじゃない。ああ、そういうところではライバル関係と恋愛って似てるわよね」

 

(何で女の子ってすぐ恋愛に話持ってくのかなぁ……)

 

「筒井君、その顔は何?」

 

 物言いたげな顔をした筒井に細めた目がジロリと向けられる。

 

「別に。恋愛と似てるって言うのは、必ずしも頭が良くてカッコも良くて、お金持ちで──、って好条件な相手を好きになるわけじゃないって事?」

 

「そうそう。恋愛ってのは奥が深〜いのよ。筒井君も恋愛にお困りだったら、歩く恋愛辞書である私にいつでも相談して頂戴」

 

(恋愛経験無い癖に……)

 

 腕を組みうんうんと頷く代表。恋愛は知り尽くしたと言わんばかりに得意げな態度を取られ、またまた筒井は呆れ顔だ。

 

 下手な事を言って「何よ! もう筒井君には碁教えないから!」とヘソを曲げられてはかなわないので口に出す事はしない。

 

 ところがそんな代表に後ろのオラ子からコツンと脳天チョップ。

 

「おいおい、お前何もかんも未経験の癖に語ってんじゃねぇよ」

 

「何よ! あんただってそうじゃない!」

 

 ケンカが勃発しかけたが、皆の注目を集めてしまい、代表は恥ずかしそうに咳払いをひとつ。

 

「話が逸れたけど、結局重要なのは塔矢君が今の1局を見てどう思ったかってところなのよ」

 

 言うと、代表は盤横で難しい顔をしている塔矢を「ねぇ?」と見上げる。塔矢は目が合うと、何も口にする事無く視線を床に落とした。

 

 

『俺の幻影なんか追ってると、ホントの俺にいつか足をすくわれるぞ』

 

 塔矢はいつか進藤に言われた言葉を思い出していた。その時は鼻で笑い飛ばしていた言葉だ。

 

 確かにsaiの件は気になる。今すぐ進藤に全てを問いただしたい。けれど今まさにあの時の言葉通りになろうとしているじゃないか、塔矢はそう思った。

 

 ハッキリ言えば今の進藤に絶対に勝てるという自信は無い。それほどの強さだった。

 

 驚き、焦り、高揚、そしてそれらと同時に湧き上がるのは、「進藤だけには絶対に負けたくない」という強い想い。そう、代表よりも、他の誰よりも、進藤だけには──。

 

 それはライバル心に他ならない。

 

 進藤が代表に敗れても、誰に何を言われなくても、答えは胸の内にあったのだ。

 

 が、それを素直に口にする塔矢ではない。

 

「村上二段──」

 

「え?」

 

 何処かで聞いた名を口にされ、目を擦りながらゆっくりと顔を上げる進藤。

 

「若獅子戦、キミの1回戦の相手だ」

 

「そうだっけ……」

 

 今となってはどうでも良いのだろうか、進藤は投げやりな返事だった。

 

 そんな腐っている進藤に苛立ちを覚えながら、塔矢は少しの間を置いて再び口を開く。

 

「……2回戦で待っててやる。村上二段なんかに負けたりしたら承知しないからな」

 

「待ってる……? でも俺は負けたのに……」

 

 大きく開いた赤い目を向けられ、塔矢はため息を吐き出した。勝敗しか見ていない素人扱いをされたようで、ハッキリ言って不快である。

 

「勘違いしているようだから言ってやる。キミは今の対局にライバルの座を賭けていたつもりだったようだが、誰が僕のライバルかは僕自身が決める事だ。勝手に熱くなって勝手に腐っていられたら、こっちはたまったもんじゃない」

 

 そしてひと呼吸を置き告げた。

 

「もう直接打つ事でしか本当のキミはわからない。今度は失望させるなよ」

 

「あ……」

 

 唖然としていた進藤は立ち上がり、塔矢の目を真っ直ぐに見据えた。

 

 互いに目を逸らさない。塔矢の目は確かに進藤に向いていた。塔矢の瞳には進藤が写っていた。

 

 進藤の拳がギュッと握り込んだのは覚悟。何が何でも塔矢の視界(このばしょ)に喰らい付いてやるという覚悟だ。

 

「ああッ! もう『ふざけるなッ!』なんて言わせねぇ! 絶対2回戦に勝ち進んでやるから待ってろよ!」

 

 

 ◆

 

 

 理科室の机の上にはクッキーが盛られた3枚の紙皿。藤崎、津田、そして塔矢が作った物である。

 

 進藤は対局の疲れを癒すようにクッキーを口へ放り込んでいく。

 

「こっちがあかりので、こっちが津田のか。……うん、どっちもうめぇ。味が違うから交互に食べると止まんねぇや」

 

「……」

 

 幸せそうに食べる進藤を、緊張した面持ちでジッとみつめているのは隣に座る塔矢だ。

 

「うめぇうめぇ。糖分が脳に行き渡るぜ」

 

 しかし待てど暮らせど、進藤はJC達のクッキーにしか手を付けようとしない。耐え兼ねた塔屋がついに口を開く。

 

「待て進藤。何故僕が作ったクッキーを食べない……!」

 

「へんっ、お前が作ったやつなんか食いたかねぇよ」

 

「ク……ッ! おのれ進藤、やはりキミという奴は……!」

 

 塔矢の目にうっすら涙が浮かび始める。クッキーを作っていた時からこういう事も予測していたが、いざ言われてみると結構悲しかった。

 

「ヒカル最低っ! ヒカルのお母さんに言うからね!」

 

「塔矢君に謝りなよ!」

 

 JC達から批難の声。一緒に作ったからか、塔矢とは妙な友達意識が生まれている。

 

 女子を敵に回すと恐ろしいと思ってか、進藤は素直に謝った。

 

「わ、悪かったよ。だから中2にもなって泣くなって」

 

「な、泣いてなどいない! それに泣いていたのはキミの方だろうが!」

 

「はぁ? 俺は全然泣いてねぇし。さっきはたまたまあくびが出て、ちょっと涙が出たかもしれねぇけど、泣いてはいねぇもん」

 

 まるで小学生の言い訳。これには全員がポカンと口を開いてしまう。

 

「ど、どうしてキミはそうやって口からデマカセばかり……!」

 

「う、うるせぇな。食ってやるから黙ってろよ」

 

 さすがに苦しかったかと思い、誤魔化すように嫌塔矢のクッキーを口に運んだ進藤。もぐもぐと咀嚼する様を塔矢はそわそわしながら見つめている。

 

「……どうだ? 美味しいだろう? 美味しいと言え、早く言え」

 

「……まあフツー。これなら俺が作った方が絶対美味いぜ」

 

「キミが? い、意外だな、まさかお菓子作りが得意なのか?」

 

 塔屋はよく考えれば進藤の情報をほとんど持っていなかったので、思わぬ特技に目を丸くしたのだが、

 

「いや、1回も作った事ねぇけど?」

 

「ふざけるなッ!」

 

 感心したのも束の間。塔屋が机を両手でバンッ! と叩くと共に、椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がった。

 

「作った事もないくせによくそんな事が言えるなッ!」

 

 負けじと進藤も立ち上がり顔を突き合わせる。

 

「クッキーくらい作れるに決まってんだろッ!」

 

「じゃあ作れ! 今すぐ作れ! 大体キミは何故前髪だけ金髪なんだ! まさかカッコいいと思っているのか!? 中途半端でイライラする! いい加減にしろ!」

 

「何だとォッ! 俺だって前から思ってたけどお前のその髪型ヘルメットみたいでムカつくんだよ!」

 

 本格化し始めた子供同士のケンカに、皆はそそくさと退避するのであった。

 

 

 

 

 言い合うだけ言い合ったふたりは息を切らして机に突っ伏している。その様子をギャル子は羨ましそうに眺めていた。

 

「良いなぁ、あたしもライバル欲しいなぁ」

 

「日高がいるじゃん」

 

 筒井が日高の名前を出したので、塔矢はムクリと顔を上げた。

 

「日高? もしかして海王の日高先輩ですか?」

 

「うん、この前海王の女子達とちょっと揉めてさ」

 

「ああ、大会でもそちらにちょっかい掛けていましたしね。口の悪いところがありますが、本当は優しい先輩なんですよ?」

 

 塔矢が日高の肩を持つのでギャル子は不満げに眉をひそめる。

 

「ふん、そもそもあいつが碁を打ってるところ見た事ないしね。海王中で大将やってたから強いはずって事しか知らないもん。だからまだライバルも何もないって」

 

 それもそうか、と筒井は手元に黒と白の碁笥を引き寄せた。

 

「じゃあ日高の打ち碁並べてあげるよ。少しは力がわかると思うよ」

 

「日高先輩の? どこでそんなモノを?」

 

「まさか海王にスパイでも送り込んだ?」

 

 ふたりをシカトしてパチパチとスムーズに石を並べていく筒井。ギャル子と塔矢は碁の内容よりも打ち碁の入手先が気になる様子。

 

「昨日の互先の1局だ。白が日高」

 

「き、昨日……!? 黒は?」

 

 ギャル子の問いに筒井は答えず石を並べ続ける。

 

「黒は誰?」

 

 またまた聞かれるが筒井は口を開かない。

 

「ここの黒は良い手ですね。黒はどなたですか?」

 

「でもどっかで見た打ち方……。黒は誰!? まさか──」

 

 途中塔矢からお褒めの言葉を交え、黒の正体を予感したギャル子が大きく目を見開いた。

 

 そして──。

 

「僕だよ」

 

 眼鏡をクイッと上げてようやく答えた筒井。その口元には薄っすら自慢げな笑みが浮かんでいた。

 

 

 ◆

 

 

 翌日の5月5日。進藤が院生研修のため日本棋院に訪れていた。時間少し前に研修部屋である広い和室に入室。ズラリと並ぶ碁盤前には既に多くの院生達が着いている。

 

 自分の席へ向かう途中、「オッス」と仲の良い和谷と軽く挨拶を交わした。

 

「遅ぇ」

 

「へへ、寝坊しちゃって。そうだ和谷、俺昨日さ──」

 

(ヒカル、後になさい。もう師範(せんせい)が来てしまいますよ)

 

 代表と会った事やプロ試験にも出る事について話そうかな、と思ったが佐為の言う通りあまり時間も無いため後にする事に。それに対局直前だ。喜ぶだけなら良いが、数少ない合格枠を争う強力なライバルの復帰に動揺してしまうかもしれない。

 

「やっぱ後でいいや。じゃあ頑張れよ」

 

「頑張んなきゃいけないのはお前だろ。今日の相手わかってんのか?」

 

「わかってるよ。やるの楽しみだぜ」

 

 和谷に踵を返した進藤。対局相手が空席になっている自分の席の座布団に腰を下ろしたのだが、

 

「ぷっ」

 

 そこでつい笑いが吹き出てしまった。隣の佐為へ横目を向け、

 

(しっかし昨日は筒井さん傑作だったよなぁ。ギャル子さんから『浮気ッ!』ってぶん殴られて首絞められてさぁ)

 

(ええ。筒井さんのくせに女の子に手を出しまくるからです。天罰が下ったんですよ)

 

 思い出されるのは日高と何があったのかを根掘り葉掘り問いただされていた、筒井の情けない正座姿だ。

 

 と、そこへ──、

 

「おはよう。何か面白い事でもあったのか?」

 

 中2の進藤よりも一回り年上である対局相手の青年が姿を見せた。進藤はひとりで笑ってると思われたのが恥ずかしくて目を泳がせる。

 

「お、おはよう伊角さん。昨日ちょっとね」

 

 進藤の対局相手は院生順位1位の伊角慎一郎。その実力はそこいらのプロを上回る。

 

「そう言えば進藤と研修手合いで当たるのは初めてだな。空き時間に何回か打った事はあるけどさ」

 

「うん。でも負けないよ」

 

 伊角へと返すのは強気な眼差し。本来であれば胸を借りるような、もしくは気圧されていたかもしれない実力差のある相手。半分遊びの対局でもここまで勝率0パーセントである。しかし今の進藤は最強の院生を前にしても落ち着き払っている。

 

 対局開始までの残り僅かな時間の中、進藤は静かな視線を盤上に落とした。広大なはずの19路の盤が狭いとさえ感じられた。冷静で、それでいて暴走するかのような打ち気が体中を駆け巡る。

 

(早く打ちたい。昨日のがマグレじゃないって見せてやる)

 

 それから少し間を置いて入室した篠田師範。挨拶の後、対局の開始が告げられた。

 

 各対局席から重なる「お願いします」という声と、カシャッという対局時計の音。

 

 いつもと変わらぬ研修手合い始まりの風景の中で、進藤は目を閉じてスゥ、とひと呼吸。まだ、目は開けない。

 

 違う、これじゃない。もっと盤の中深くへと潜り込むように、盤の底に手を伸ばすように意識を集中させる。

 

 次瞬、弾けるような無音が轟いた──。

 

 周囲の微々たる音が、巨大な無音に飲み込まれたように何も聞こえなくなったのだ。そう、昨日はこの感じだったと力強く目を見開いた。

 

(いくぜッ!)

 

 カチリと黒石を掴み取った進藤の指が、待ちわびたと言わんばかりに盤へと駆ける。

 

 ここから先は以前の進藤とは別次元──。

 

 代表との対局で爆発的に引き上げられた力が、迷う事無く盤上へと解き放たれた──。

 

 

 ◆

 

 

 ピ、ピ、ピ、という対局時計のカウントダウン。60分あった持ち時間を使い切り、1手1分以内に着手しなければならない苦しい状況。もし打てずに表示が0になればどうなるかは言うまでもない。

 

 その崖っぷちに追いやられているのは伊角──。形勢自体は悪くはない。何とか進藤と渡り合っている。が、その代償として時間を失ってしまった。

 

 残り一桁秒で何とか着手、時間切れを回避。得られたのはほんの少しの安息の時間。

 

(どうなっている……。コイツ、本当に進藤なのか……?)

 

 対局が始まってから何度同じ疑問を持ったのかわからない。初手合いだがこれまでの成績からして、進藤は伊角より2つ、3つは格下と言って良い打ち手だったはずだ。

 

 子供は突然伸びる。それはこの院生でずっと目の当たりにしてきた。もう子供とは呼べない年になってしまった伊角はそれを羨ましく、そして恐ろしく思う日々だった。

 

 しかしそれにしたってこれはないだろうと、動揺を抑えきれない。そんな自分に喝を入れるように、両の眼を鋭く形どる。

 

(いかん、集中しろ……! 進藤の手番中に考えられるだけ考えるんだ!)

 

 とは言え厳しい。相も変わらず飛んで来る痛烈な1手1手に表情を歪めさせられてしまう。

 

(反発された……! 隅の黒2子を捨て、オシから白に圧迫をかけてまとめて攻めるつもりか……?)

 

 59、58、と再び始まったカウントダウン。限界まで加速させた思考を振り絞り、勝利へ近づく道を模索する。

 

(ノビ──。いやトビツケの方が難しくなるか。出ギリならこちらもキリ返してカウンターを喰らわせてやる)

 

 残り3秒。パチリと勝負の意を込め打ち放った白石。カシャッと時計を止めた左手か膝上に置かれるよりも早く──。

 

 パチリ、カシャッ。

 

 伊角の心臓を跳ね上がらせた音の2連撃。進藤の残り持ち時間は15分、余裕はある。それにも関わらずのノータイム打ち。その手はとっくに読んでいる、時間など使うに値しない局面だと言っているのだ。

 

「く……ッ」

 

 必死で喰らいつこうとするも、牙も、爪も届かない。ここまでミスらしいミスはなかった。いつも通り力は出せていたはずだ。だが進藤を相手に劣勢に追いやられていく。それはとどのつまり、単純に力負けしているという事に他ならない。

 

(進藤は、既に俺よりも、上……?)

 

 ゴールが狭まり遠ざかる。この対局ではない。院生達の最大目標であるプロ試験合格だ。席はたったの3つ、その1つはもう進藤に──。

 

(バカ、今は集中しろッ!)

 

 つい余計な事を考えてしまう自分に苛立ち、焦りが生まれる。集中しろという己への叱責が既に雑念であるかのように、負のスパイラルに堕ちていく。

 

(しま……ッ!)

 

 打ちつけた白石から指が離れた瞬間ハッとした。明らかに緩い手。案の定進藤から放たれた咎めの石に、もはや手の施しようがない。

 

 肩を小さく上下させる伊角はゴクリと息を飲む。どうする、どうする、どうする、と時間だけが無為に過ぎていく。どれだけ思考を巡らせようとも、彼の手にはたった1枚のカードしか残されていなかった。

 

「ま、負けました……」

 

 直後にピー、という長い電子音。伊角は負けた。進藤にも、自分にも負けた。

 

 

 対局を終え、観戦に移っていた院生達からせき止められていたどよめきが起こった。進藤が伊角を破ったのもそうだが、何より進藤の信じられない強さだ。

 

「やったぜ、伊角さんに勝った」

 

 院生達から畏怖を思わせる視線を受ける中、「へへっ」と喜びを露わにしている進藤。1位である伊角に勝てた事で自分の成長を実感出来たようだ。

 

 対局中とは別人のような、子供らしい笑顔だ。伊角はなるべく平静を装って口を開いた。

 

「……すこいな。急に強くなって、何かあったのか?」

 

「うん。昨日絶対負けられない対局があって、『死んでも負けるもんか!』って壁破っちゃった感じ? もう負けたら碁やめてやるくらいの覚悟で。まあ結局負けちゃったんだけどさ」

 

「昨日? そういや対局前に昨日がどうとか言ってたな。誰と打ったんだ?」

 

網代木(あしろぎ)って超キレイなお姉さん。俺が院生なる前まで院生やってたって言ってたから、伊角さんも知ってるでしょ?」

 

「あ、網代木!? アイツと打ったのか!?」

 

 思わぬ名前を口にされ、伊角は声を大にした。それに周りも反応し、ざわざわと騒がしくなる。

 

 そこへ眉を八の字にしてやって来たのは師範の篠田だ。

 

「コラ、まだ対局中の子もいるんだ。静かにしなさいっ」

 

「すいません……。進藤が昨日網代木と打ったって言って……」

 

 面目なさそうな顔を上げた伊角の言葉に耳を疑い、驚きの眼差しを進藤へ向ける。

 

「ほ、本当かい進藤君……」

 

「えっと、昨日俺の通ってる葉瀬中の囲碁部と、お姉さんが入ってる葉瀬高の囲碁部で一緒に練習して、その時に」

 

「囲碁部……。そうか、また碁を始めたのか……。網代木君は元気そうだったかい?」

 

「元気でしたよ? それで今年のプロ試験も受けるって言ってました」

 

「そうかそうか。いやぁ、良かった」

 

 心から安堵する篠田師範。意識不明が続く母親の見舞い以外全てを放棄した日々を送っていた代表の事を、今でもずっと心配していたのだ。

 

 ところが、

 

「途中でバックれた癖に。自分勝手な奴」

 

 ボソッと呟いたのは飯島という眼鏡の男だった。強い打ち手の受験を疎ましく思ってしまうのは無理もない。何せ合格枠はたったの3つだ。

 

「よせよ。事情が事情だろ」

 

「けど、去年だってアイツが合格した真柴と外来にきっちり黒星つけてりゃ、伊角さんは受かってたはずなんだぜ? それを不戦敗で白星なんかあげちまうから」

 

 伊角は視線を落とす。確かに否定は出来ない。まず不合格はないと思っていたくらいだった。が、やはりそれを言うのは筋違いだ。

 

「誰が誰にとか、プロ試験でそんなの言い出したらキリがないだろ。アイツが元気なった事を喜んでやろうぜ?」

 

「フンッ、それで落ちてりゃ世話ねぇぜ」

 

 飯島は背中を向けたが、言った伊角も心中穏やかではなかった。

 

 現時点の実力順ならば代表と進藤が合格濃厚。もっとも、単純に実力順で合格が決まる訳ではない事は伊角は身を持って知っているが。

 

(去年も塔矢アキラと網代木が群を抜いていて、それを考えると今年も似たような状況だが……)

 

 去年のプロ試験と違うのは、下だった者達が実力を付け自分に肉迫している事だ。そしてプロ試験まで3ヶ月もある。子供の急成長を体感したばかりの伊角にとって、それは自分の合格を脅かすには長過ぎる時間であった。

 

(弱気になるな……。俺だってまだ伸びるんだから……)

 

 

 そして昼食を挟んでの午後の対局。ここで勝って気を取り直すつもりだったのだが、

 

(進藤はまた勝ったのか……)

 

 対局中に後ろを向いた伊角。院生3位の本田が青ざめた顔で震えているのが遠目でもわかった。やはりマグレではなかった、進藤の強さは本物だったと、伊角の胸の鼓動が焦りを交え早まっていく。

 

 そして気が付けば自分の対局は酷い有り様になっていた。他が気になってまるで実力を出せていない。

 

(まだだ! 逆転は出来る!)

 

 もがく、もがく、もがく──。絶対に諦めないという執念を込めて猛追を仕掛ける。

 

(気にするな! 俺は俺だ! 進藤なんか、進藤の事なんか──)

 

 進藤の碁がチラつく。あっという間に自分を超えてしまった才能に、自分の碁が歪んでいく。

 

 そして終局。もはや意味があるとは思えない整地作業が終えられた。

 

「18目半の、負け……」

 

 悔しさを噛みしめて深く頭を下げた伊角。結局挽回出来ずに敗北してしまった。オマケにとっくに投了すべき碁だったにも関わらず、終局まで打ってしまった事が恥ずかしく顔を上げられない。

 

(まさかフクに負けるなんて……)

 

 相手は院生14位の福井という小学生。伊角ならばまず負けない相手だ。大差からも読み取れるように、明らかに調子を崩してしまった。

 

 

 代表の参戦、進藤の急成長が大きな話題となり、伊角が福井に負けたのは大したニュースにはならなかった。いや、皆自分の事で精一杯だったのかもしれない。とにかく、気にするな、そんな日もあるさ、などと慰められるのはゴメンだったのでむしろ良かったとも言える。

 

 伊角は院生研修が終わると日本棋院をひとりで後にした。いつもは仲間と一緒に帰るのだが、どうにもひとりで帰りたかった。

 

 徒歩1分足らずの市ヶ谷駅を前にして、気が変わったように爪先を歩道へ戻した。今日は歩いて帰ろうというのだ。

 

 背中を曲げ、地面を見つめ、辛気臭いオーラを纏い、トボトボと歩く。

 

(俺はまた落ちるのか……?)

 

 毎年あと一歩のところでプロ試験に落ちている。このままでは今年も落ちる気しかしない。

 

 日も暮れ始め、1時間程歩いたところで雨が降って来た。別に濡れても構わないと思った。不調や沈んだ気分もろとも、全てこの雨で洗い流して欲しかった。

 

 やがて「あれ?」と顔を上げた。

 

 2時間も歩けば帰れる距離だったはずだ。が、気が付けばそこは全然知らない街。何処でどう間違えたのか思い返すのも面倒臭い、自分の方向音痴に呆れて大きなため息が漏れ、気分がとことん堕ちていく。

 

 歩く気力を失い足が止まる。傘を差した通行人らにどんどん追い抜かれていく様が今の自分そのままのようで滑稽に思えた。

 

 それだけでは終わらない。神に嫌われたかのように災いが伊角を襲った。

 

「ボサッと突っ立てんじゃねぇぞッ!」

 

 あろう事か、後ろから自転車に追突され、ドグシャァァァッ! とド派手に倒れてしまったのだ。

 

「いて……」

 

 今日はメチャクチャだ。自分はこんなところで何をやっているのだろうと、瞳が光を失っていく。

 

 追い討ちをかけるように誰も助けようとしない。起き上がれない伊角に向けられるのは、通行人達による携帯のカメラと薄ら笑いだけであった。

 

(本当に、あるんだな……)

 

 テレビでこういうシーンを見た事があるが、本当に心が冷えていく。

 

 否、ひとりだけ──。

 

「大丈夫? お兄さん」

 

 しゃがみ込んだ少女が倒れている伊角に傘を差し、手を差し伸べてくれていた。

 

 髪からしたたり落ちた雨粒で視界がにじむ。小麦色の太もも奥にある派手なパンツが見えてしまっている少女の手に、伊角は自身の擦りむいた手を無意識に預けていた。

 

 

 

 

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