とある屋敷の和室からは碁を打つ音──。
盤を挟み向かい合っているのは幼稚園ぐらいの女の子と、猿のような顔をしたプロ棋士の爺さんだ。2人は孫と祖父の関係にある。
小さな手で黒石を掴み、ぺちっと打ち下ろす。
まだ大人しくしていられない年頃の子供だ。それにしてはしっかり背筋を伸ばし、きちんと正座をしている。
「おじいちゃん、ここはノビといて良いのー? こっちからマゲといた方が良いかなぁ?」
石が並ぶ盤の上で指を泳がせる幼女。祖父は孫の成長を見たのか、嬉しそうに「うんうん」と頷いている。
「強くなったのぉ。わしの弟子達なんかよりよっぽど才能あるわい」
「えー? ホントー?」
「おう、ホントじゃホントじゃ」
褒められた幼女はパァッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「じゃあ大会でも優勝出来るー? あたしね、賞状が欲しいの」
「大会? んー、そうじゃのう。もっと、もーっと碁を練習すればきっと出来るぞい?」
「うんっ、じゃあもっと頑張って練習するっ」
「そうかいそうかい。そんなに練習してしまったら、その内わしみたいにプロになってしまうかもしれないのう」
ところが幼女はぷるぷると顔を横に振り、元気に立ち上がると万歳ポーズ。
「ううん。あたしね、お姫様になるのっ。あとぷいきゅあにもなるのっ」
「ふぉっふぉっふぉ。そりゃ楽しみじゃのうっ」
祖父は孫が可愛くて可愛くて仕方がなかった。厳しいプロなど目指さなくとも、優しく元気な子に育ってくれればそれで良いと思っていた。
それから少しの年月が経ち、小学2年生となった幼女は初めての大会に出場した。
公民館の小さなホールで行われる子供囲碁大会だ。出場者は高学年生が多いが、プロを目指せるような神童はおらず、凡才ながらも根気良く碁を続けてきた幼女ならば優勝出来る可能性は十分あった。
たとえ最年少でも、碁に費やして来た時間も指導者のレベルも幼女が群を抜いている。それゆえか、大した苦戦もせずにあっさりと決勝まで勝ち進む事が出来た。
決勝の相手は6年生の活発そうな男子。対局席に着く前に、父親から「盤と石だけを見ろ」とアドバイスを受けており、活発君は父親に碁を教わったように思える。
実力は互いにアマ低段者クラス、今大会最もハイレベルな対局である。
対局は始まったのだが、早い段階から活発君は奇妙な感覚を覚えていた。奥歯を食い縛り顔を歪めている。盤面以上に「こんなバカな」といった思いなのだ。
盤を挟んだ席に着くのは本当に小さな幼女。飴玉ひとつで大喜びして、ゴツンと頭を叩けばビービー泣いてしまいそうだ。
だがその小さく頼りない手から打ち放たれる1手1手が鈍器のように重く、刃物のように鋭い。今大会で戦った誰よりもだ。その見た目とのアンバランスさに動揺を抑えきれない。
(お、落ち着け……。パパに言われた通り盤と石だけ見てれば良いんだ……。さすがパパだ。最初から僕がこうなる事を予想していたんだ)
序盤早々、少しばかり相手にリードを許してしまった活発君。目を閉じ深く深呼吸──。
次に大きく両の瞳を見開いた時、彼の前には弱者たる幼女の姿は存在していなかった。見えるのは盤と石、それだけだ。
(負けられない──。優勝したらパパに天体望遠鏡買って貰えるんだッ!)
一転、氷のような冷静さ。碁笥からカチリと黒石を掴み取り、勝利への意志を示す如く大袈裟に振り上げる。
(あとマウンテンバイクも!)
盤を突き抜けたのは力強い打音──。もう微塵も隙を見せやしない、作りやしない。その覚悟を決めた音だ。
(んー。こっち! 何となく広いからこっち!)
対して幼女はペチ、ペチ、と可愛いらしい打ち方。だが幼女とは思えぬ真剣な眼差しで一生懸命打っている。
(あたし勝つもん!)
優勝して賞状が欲しかった。自分の頑張った証が欲しかった。
瞬間、活発君の置いた黒石に弱さが見えた。それ即ち勝機だと、幼女の直感が確かにそう告げていた。
(ここ行けそう!)
盤の交点が輝き放つ──。
幼女はそれに導かれるように小さな手で掴んだ白石を撃ち出した。
気合いの一撃。活発君の呼吸が一瞬ながら止められた。
(ツキアタリで下辺を攻め……!? ど、どうしようっ、コスミツケてもノビられれば中で眼が出来なくなっちゃう……。かと言って中央に頭を出してもシノギがあるかわからない……)
ゴクリと何度も息を飲む。石を掴んでは離し、時間だけが流れていく。
(こ、こうなったらシノギ勝負だ!)
自信は無い。だが複雑な読みが要求される局面だ。アマゆえの読み間違いもあるためどちらに転ぶかはやってみなければわからない。
だが、勝負に出た活発君の1手。その1秒後には再び手番が回って来てしまった。
(ノ、ノータイム……!? まさかここを読み切っているのか……!? いやありえないッ! こっちも早く眼形を作るんだ!)
汗が頬を伝う。敗北の予感が全身を覆う。それでも
だが幼女には終着点が見えている。相手が何処へ打とうと、何をしようと無駄な足掻き──。
(そのワリ込みはサガリで終わりだよ!)
口元緩ませた幼女に貫かれた活発君の心の臓。黒の息の根止める最後の一撃一打だ。
「し、死ん……ッ!」
もはやどうにもならない、誰の目にも明らかな死に石。
活発君は盤にへばり付くように顔を近づけ──、やがて鼻をすする音と共に発せられたのは、幼女の優勝を決定づける投了のひと声であった。
「優勝は2年生の桑原さんです!」
「ありがとうございまーすっ!」
表彰台に上がった幼女は区長のおじさんから満面の笑みで賞状を受け取った。わーい、わーい、と来場者みんなに見えるように掲げ、かかとを上げたり下げたり喜びを表現していた。
頑張った証、これは一生の宝物にしよう、帰ったら何処に飾ろうかな、など胸がいっぱいだ。
だがどういう訳か、幼女に送られる拍手は数え切れる程度だ。ほとんどの人がしらけたような、冷めた目を向けている。
もしかしたら大会で優勝してもこんなものなのかと、幼女は段々と視線を下げ始めた。
とても寂しかった。優勝の喜びなどもう何処かへ消えてしまった。ここに居るのが辛かった。
さらに耳に入って来たのは頑張って優勝を掴み取った幼女にとって、この上なく残酷な言葉であった。
「あいつプロ棋士の孫なんだろ? 勝って当たり前じゃん」
「教えるのじいさんだけじゃなくて、通いの弟子とかもいるしな。これ完全にチーターだろ。優勝剥奪で良くね?」
わざと聞こえるように言われた心無い声が彼女の胸に突き刺さる。
「〜〜ッ!」
下唇をギュッと噛んで俯き泣きそうな顔を隠す。強く噛んで、噛み締めて涙を堪える。言いたい奴には言わせておけば良いと、実力で優勝したのは自分なのだからと、その手に握られた賞状が幼女を支えてくれていた。
だが──。
だがここで前代未聞、ありえない事が起こった──。
「えーと、ではそうですね。彼女は優勝取り消し処分と致しまして──」
区長が市民の声に負けたのだ。多くの不満の声が聞こえてしまい、イベント失敗を恐れてつい、と言ったところか。
幼女は係の大人に「あは、ごめんね?」と笑って賞状を取り上げられ愕然。
幼女は「何で、どうして」という言葉が頭の中を駆け巡りながら、盛大な拍手による繰り上げ優勝の表彰を蚊帳の外から見つめていた。
さすがにこれはニュースでも不祥事として取り上げられた。区長は辞任に追い込まれ、幼女にも謝罪及び再度優勝の賞状が渡される事になった。
が、それで幼女の心の傷が癒えるはずもない。
「そんなのいらないッ!」
幼女はそれから1度も碁を打っていない。日々頑張った結果がアレなど、バカバカしくてやっていられなかった。
しかし幼女が碁をやめても、碁は幼女を離さない。家の何処に居ても聞こえてくるのは祖父達による碁を打つ音だ。
皆頑張っている。それでもプロになれなかった弟子達は去って行く。その姿に少しばかり自分を重ねていた。
そして頑張った者はしっかり報われて欲しいと、そう思うようになった。頑張った者が自分のようにならないように、何か手を貸してあげたいと思うようになった。
やがて高校に入学した幼女、もとい少女。同じクラスの隣の席には、入学早々囲碁部設立を目指しひとりで頑張ろうとしている少年がいた。
「葉瀬中出身の筒井公宏です! この学校で囲碁部を作るつもりです! よろしくお願いします!」
囲碁という言葉もあり、高校初日の少女の記憶に1番残ったのは筒井の存在であった。
そして少女は思うのだ。
碁はもう打たない。だけど──、と。
◆
立派な門構えのちょっとしたお屋敷。カコーン、と音を鳴らす
「ただいまー」
日もとっくに沈んだ時間、玄関の引き戸を開いたのは筒井達とのカラオケ帰りのギャル子だ。彼女の派手な装いに似合わないが、この純然たる和の屋敷がギャル子の自宅である。
玄関には来客の黒い皮靴が何足も並んでいるが、いつもの事なので特に何も思わない。
長い廊下の奥からはパチ、パチ、という音。こちらもこの家の平常運転である。
「おやお帰り、ギャル子ちゃん」
廊下を進んだところで部屋から顔を出したのは彼女の祖父だ。しわくちゃで猿みたいな顔、頭のてっぺんは涼しげだがやたら後ろ髪が長い。
「田代の奴が美味い菓子持って来たんじゃ。後でお食べ」
「んー」
気の無い返事と共に開いた障子から部屋の中に目を向ければ、4〜5人のスーツ姿の大人達が碁を打っている姿。彼らはプロ棋士である祖父の通い弟子達であり、研究会の最中である。
「しかしまたそんなハレンチな格好しよって。いかんのう」
「えー、可愛いんだから良いじゃん」
ジロジロと上から下まで眺めた祖父は、顎に手を当てて小さなため息を吐き出した。
「胸も開き過ぎじゃし、スカートも短すぎるわい。何よりヘソなんか出しとるとは何事じゃ」
「うっさいなぁ、お祖父ちゃん嫌いっ」
「あぁ、嫌いとか言わないでおくれ……。ギャル子ちゃんに嫌われたら生きていけんわい……」
ギャル子が言い捨てて歩き始めると、祖父がオロオロしながら後を追い掛けて来た。オマケに同情を引こうとわざとらしく「ゴホッ、ゴホッ」と咳を入れたり──。
あまりに煩わしいので不機嫌そうに振り返ったギャル子。
「じゃあどうやったら囲碁部に人が集まるか教えてくれたら、許してあげる」
「囲碁部? ギャル子ちゃん囲碁部に入っとったのか? 聞いとらんぞ」
祖父は初耳な情報に小首を傾げると、ギャル子は面倒臭そうに髪を指でくるくる巻く仕草を始めた。
「ま、成り行き? 他校の囲碁部の女が喧嘩売ってきたから、まぁ軽く捻ってやる的な? んで、そいつとやるためにはちゃんと部にしないとだから、あとひとり欲しい訳」
「何じゃ。もう絶対碁はやらないと言っておったのに。それ程そやつに腹を立てておるのか?」
「それもあるけど……。入学してからずっと頑張って囲碁部作ろうとしてる奴がいんのね? でも今日やっとあたしが入ったくらいでさ。頑張ってる奴には良い目にあって欲しいじゃん? だからさぁ──」
「男かッ!?」
ギャル子のセリフを遮って大声を出した祖父。顔は紅潮し血管も浮き出ており、本気で怒っているのは見て明らかだ。
あまりの形相にギャル子はきょとんとしてしまう。
「え? クラスの男子だけど?」
「好いておるのかッ!?」
「まあ気にはなってるかな? これまでも仲良かったは仲良かったんだけど、マジで気になり始めたのは今日なんだよね? つか、あたしの事真剣に考えてくれてさぁ、そういうの嬉しくない? それで今日一緒にカラオケ行ってきて、密着してマジやべぇ、みたいな? しかもあたし首んとこの匂い嗅がれて『ん……❤︎』とかマジ変な声出ちゃってさぁ」
ケラケラ思い出し笑いをしながら饒舌に喋り始めたギャル子。
が、そんな彼女に背を向けた祖父はダダダダッ! と廊下を駆け出して──。
またまたダダダダッ! と鉢巻袴姿に槍を握り締め戻って来た。
「その不届き者は何処のどいつじゃッ! 八つ裂きにしてくれる!」
「何でよ! お祖父ちゃん嫌い!」