筒井とギャル棋士   作:ようぺい

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6話 代表vs塔矢アキラ

「またカツ丼〜?」

 

 食卓に並んだ丼が目に入り、ウンザリとした声を上げた少女。長い金髪ストレートで、顔立ち整った見目麗しい少女だ。

 

 ここひと月強の間にカツ丼が夕飯だった回数は両手では数え切れず、既に席に着いている母親へ不満をぶつけてやった。

 

「せめて牛丼とかでも良くない? こないだギャル子達とお店行ってすごく美味しかったの」

 

「何言ってるの。明日は凄く強い子なんでしょ? カツ丼食べないで何食べるのよ」

 

 彼女の母親──。流暢な日本語を話しているがイギリス人だ。日本の風習や迷信を日本人以上に信じているらしい。

 

 そして娘と同じ長いブロンドヘアー。後ろを黒いリボンで結んだ美しい母親である。

 

「うん。2つも年下だけど、受験者の中で1番強いよ。やるの楽しみだよ」

 

 椅子に腰を下ろした彼女はその顔を思い浮かべ、真剣な顔付きと共に少し声が低くなった。

 

「あら、そんな怖い顔しちゃダメよ。あなたは昔から笑顔が可愛いんだから」

 

「笑顔だけー? この超絶美少女はいつだって可愛いんですけどー?」

 

 にまっ、と怒り笑顔を見せた彼女。釣られて母親もクスッと笑いを零した。

 

 

 2人で楽しく会話をしながら食事を進めていると、母親が何か思い出したように箸を止めた。

 

「そういえば、あなた合格したら高校はどうするつもりなの? 先生にも言われてるでしょ?」

 

「まだわかんない。プロ試験受かったら考える。一応女子高生経験したいとは思ってるけどさ。放課後は友達とカラオケ行ってー、みたいな?」

 

 母親から進路を尋ねられた彼女は箸をマイクに見立て口元に添えた。そんな楽しそうに語る彼女に優しい目が向けられる。

 

「そうね。お母さんもあなたの高校の制服姿見てみたいわねぇ」

 

「じゃ、じゃあさっ。高校生になったらそれ頂戴?」

 

 照れ臭そうに母親の肩あたりを指した彼女。肩にはリボンで縛った髪が少しばかり覗いている。

 

 思わぬ要求を受け、母親は意外そうな顔だ。

 

「このリボン? こんなの何処にでも売ってるじゃない」

 

「わかってないなぁ。お母さんのが良いの。受け継ぐ的な?」

 

「変な子ねぇ。だったら今あげようか?」

 

「ううんっ、高校入ったらで良いよ」

 

 彼女は母親が大好きだ。いつも優しくて、学校の友人達からは美人で羨ましがられるし、自慢の母親なのだ。

 

「あとねぇ、プロになってお金貰えるようになったら、お母さんに旅行プレゼントしてあげるね? 何処に行きたいか考えといてよ?」

 

「あらあら、気の早い。でも楽しみにしてるわね?」

 

 娘の親孝行な気持ちが嬉しくて、母親は頬に手を当てて優しく微笑んだ。母親にとっても自慢の娘なのだ。

 

 

 ◆

 

 

 そして翌日。総勢25名の受験生による総当たり戦を週3回、およそ2ヶ月に渡るプロ試験も終盤に入った10月初頭。

 

 試験会場は千葉県にある日本棋院囲碁研修センター。既に大部屋和室の対局場へ行った者達もいれば、ギリギリまで飲食自由な長いテーブルがある休憩室でリラックスしようとする者達もいる。

 

「でさぁ、どっちが勝つと思う?」

 

 ここ休憩室では、中学生と高校生の院生男子2人がそんな話題で盛り上がっている。

 

「うーん、やっぱり塔矢アキラだろ。彼の負ける姿は想像出来ない」

 

「んだよ伊角さん。院生(ウチ)のエースも無敗だぜ? 若獅子戦での倉田プロとの対決も見応えあったし、俺は互角と見たね。て言うか塔矢に一泡吹かせてくれって感じだぜ」

 

 伊角と呼ばれた院生は「そうだなぁ」と腕を組んで頷いた。

 

 塔矢アキラ──。現名人の中1の息子。受かって当たり前の前評判通り、この試験終盤まで不戦敗1の実質無敗。皆が人生を賭けて挑むプロ試験ですら通過点に過ぎないといったところだ。

 

 結局6対4で塔矢有利という意見に落ち着いた。しかし他の受験者であれば10対0から8対2が良いところである。

 

 そしてそんな話題の中心人物である塔矢アキラの対局相手が、この休憩室に姿を現した。

 

 入り口前で立ち止まり、空いている席を探す少女に手を挙げた院生の2人。それに気が付いた彼女が彼らに小さく手を振って歩み寄る。

 

「和谷、伊角さん、おはよー」

 

「おっす。今日は全勝合格1番の壁だな」

 

「別に全勝とかはこだわってないわよ。それでももちろん勝つつもりだけどね。いや、絶対勝つ。昨日もお母さん特製カツ丼食べたし」

 

 中学生の院生男子、和谷に言われ「ふふん」と笑みを浮かべた彼女は肩に掛けたカバンをテーブルの上に置き、隣の椅子に腰を下ろした。ふわりと石鹸の香りが漂い、男子達の心拍数が上がってしまう。

 

「ハハッ。実は俺も昨日カツ丼だったけどな」

 

 誤魔化すように笑う伊角。しかしそれを聞いた和谷は眉をひそめ、ぐで〜んと両腕伸ばしテーブルに伏せてしまった。

 

「良いよなぁ、もう俺なんてカツ丼食っても意味ねぇし……」

 

 プロ試験も終盤近くになれば既に敗退確定している者も出てくる。和谷もそのひとりだ。

 

「腐らない。不合格が決まっても、明日へ繋がる碁を打ちましょうって篠田師範(せんせい)が言ってたでしょ?」

 

「わかってるって、ちょっとぐらい愚痴らせろよ」

 

 彼女に言われ、和谷は羨むような目を伊角へ向ける。

 

「伊角さんは3位食い込めそうだよな。残りの相手にはまず負けないし、そちらの全勝様が辻岡さんと真柴に黒星プレゼントしてくれるから」

 

 現在トップは無敗の彼女。2位は1敗の塔矢アキラ。合格ラインの3位は伊角他2名。伊角以外の3位争いをする辻岡と真柴は彼女との対局を残しているので1敗は濃厚、ゆえにその分伊角が有利である。

 

 が、当の本人の表情は明るいとは言えない。テーブルに置いた拳は強く握られており、無駄に力が入っている様子だ。

 

「……いや、最後まで何が起こるかわからないし、そんな余裕は無いよ。そう、余裕なんて無いんだ……」

 

 ずずず……、と黒いオーラを纏い始めた伊角。実力はあるのにメンタルが脆いという定評がある。

 

 体を起こし、椅子に背中を預けた和谷が呆れた顔を向ける。

 

「何だよ、また変な緊張してんの?」

 

「私が肩揉んであげようか? 1分1000円で」

 

(たけ)ぇよッ!」

 

「そりゃJCリフレだもん、高いに決まってるじゃん。あ、もうすぐJKになるからお求めはお早めに」

 

 にしし、と笑う彼女に対して伊角は驚きに目を見開いた。

 

「プロ試験受かっても高校行くのか?」

 

「うん、やっぱり青春もしたいし。プロ舐めんなって思われるかもしれないけどさ」

 

「青春かぁ。そういや青春って何だっけな」

 

 碁漬けの高校生活を送っている伊角は今ひとつ思い浮かばず頭を捻らせる。

 

 その一方で彼女は楽しそうに指を一本ずつ折っていく。

 

「友達と放課後遊びに行くでしょ? カッコイイ彼氏も作るでしょ? 部活なんかも入っちゃおうかなー? おっと、高校と言えば文化祭もあるんだった。ヤバイ、今から楽しみ」

 

「えー、俺は行きたくねぇけどな。だって勉強あんだぜ、勉強! こうなったら絶対来年受かってやる!」

 

 くだらない話で時間を潰し、壁の時計に目を向けた彼女はペットボトルドリンクに口を付けて「ふぅ」とひと息。続けて心の中で「よし!」と気合いを入れて席を立った。

 

「じゃ、打倒塔矢アキラしてくるわ」

 

 

 碁盤が並んだ広い和室。既に対局席に着いている者も多い。彼女は自分の対局席まで足を運ぼうとすると、目に入ったのはオカッパ頭の少年だった。

 

 彼が塔矢アキラ。彼女の対局相手である。

 

 しかし塔矢はそばに立つ彼女を見ようともしない。下手したら誰が今日の対局相手なのかも知らないのだろう。ただ碁盤に静かな目を落としているだけだ。

 

 彼女が座布団に腰を下ろしたところでようやく面を上げた。

 

「おはようございます」

 

 軽く頭を下げての柔らかい物腰だ。名人の息子、そして受験者達の中で群を抜いた実力を持ちながらも、全く偉ぶった態度を取らない。

 

 彼女も負けじと「おはよう♡ 今日はよろしくね♡」とニッコリ笑顔。だが心の内では戦の準備は万全、闘争心がグツグツと煮えたぎっている。

 

 

 やがて全ての対局席が埋まり──、

 

「時間になりました。始めて下さい」

 

 篠田八段。院生師範にして試験監督を務める、眼鏡を掛けた温厚そうな50代くらいの男性だ。彼の声を合図に、受験者達の対局の幕が開いた。

 

 先手黒番の彼女は目を閉じ大きく深呼吸、そして力強く見開くと共に碁笥(ごけ)から黒石を掴み取り、盤上右上隅へと打ち下ろした。

 

 昨日はぐっすり眠れて寝起きも良い、そして気合いも十分、調子はハッキリ言って最高。今なら誰にも負ける気がしないとさえ思える絶好調だ。

 

 

 そのおかげもあってか序盤は互角の進行、そしていよいよ足を踏み入れた中盤戦。ここからだ。互いの陣地を侵略し合う力と力のぶつかり合い、ここからが塔矢アキラの真骨頂──。

 

 

 盤上広く配置された黒石を見下ろす塔矢。

 

(足が早いな。これ以上黒に模様を拡大されると厄介か)

 

 早過ぎず遅過ぎず。塔矢は絶妙のタイミングで敵陣へ白石を打ち出した。戦いの始まりだ。

 

 彼女は目を細める。塔矢の白石が黒の勢力圏にいながらも、脈打つように力強く生の輝きを放っている。攻め切れるものなら攻めてみろ、そんな声が聞こえて来そうだ。

 

(入って来たか……。楽にサバけると思うなッ!)

 

 待ちに待った塔矢との読み比べの時に、黒石を掴んだ指に力が入る。次瞬、打ち放つのは打倒塔矢アキラの意志──。

 

 

 激化する石の競り合い──、互いに妥協を許さない手の連続が、ひと辺で始まった戦いを盤面広くまで複雑に拡大させていく。

 

 双方互角、いや旗色が悪いのは塔矢だ。

 

(う、巧い手順だ……! さらにノビからノゾキの連打で一気に眼形を奪うなんて……!)

 

 執拗な攻めに塔矢の掌に汗が滲む。彼女が全勝だという事は知っていたが、その予想以上の強さに表情まで歪みかける。

 

 しかし差し込んだ光明。塔矢の脳裏に浮かんだ、自石の安定を得られる閃き。その導く光に沿うように彼は打ち進め──、

 

(よし、このトビで繋がった。黒に大きな厚みを持たれてしまったが、左辺の攻防はまずまずのワカレだ。次は上辺にどう手を着けるか──)

 

 ひと息交じりに置いた白石。ひとつの戦いが終わり、次の戦場を見据える塔矢。

 

 瞬間、彼女の眼差しが鋭さを増した。

 

(ワカレたつもり!? そのトビは繋がっているようで薄い!)

 

 とどのつまり正着に非ず、緩着だ。この好機を逃す手は何処にも無い。

 

(主導権を握るなら今! このツケで痺れてろッ!)

 

 高らかに乾いた打音が鳴り響く──。

 

 盤上にて不気味な気配を放つその黒石、塔矢の見ていた光明も閃きも、何もかもを闇の谷底へと突き落とす、好手妙手を超えたまさしく鬼手──。

 

(え……ッ!?)

 

 強烈に撃ち込まれた黒石に、塔矢がハッと口元を押さえた。

 

(そっちの石にツケるなんて……!? いや、白の切断を狙うならば絶好の位置だが、こんなの手になるはずが……)

 

 一瞬意図がわからなかったが、深く読めば読む程に彼の表情に苦しさが露わになっていく。

 

 盤横に置かれた対局時計、彼の持ち時間は大幅に減っていた。その時には心臓を鷲掴みにされた気分であった。

 

(あ、ある──! この人、まさかここまで読んでくるのか……!?)

 

 してやられたと認めるしかない。ここからはどれだけ致命傷を避けられるかの勝負だ。

 

(……このツケに手を抜けない以上、どうやっても白は切断されてしまう。攻めはさらに厳しくなり、僕にかなり厳しい展開だ……。どうすれば……)

 

 恐れを抱きながら盤上からチラリと顔を上げれば、そこにあるのは父親の傍らで見て来たプロ達と何ら変わらぬ棋士の顔。対局前に見せたニッコリ笑顔が嘘のようだ。

 

(ここまでの試験で大した苦戦もしなかったせいか──。僕は心の何処かで他の受験者達を侮っていたのかもしれない……)

 

 何様のつもりだ、と己を(いさ)める。膝の上に置かれた両の拳を痛い程に強く握り締める。

 

(この人は強い! もう隙は見せない、形勢はかなり傾いてしまったが、まだこれからだ!)

 

 塔矢の言う通り、まだこれからなのだ。碁の盤面は広い。ひとつの戦場での損は他の戦場で取り返せば良い。

 

 そして無意識レベルの侮りも慢心も捨て去った全力の塔矢は、逆転の機を狙い今は耐え忍ぶ。僅かでも隙あらば相手の肺腑引きずり出し、喉笛噛みちぎるべく、虎視眈々と今は爪を研ぎ、牙を磨く。

 

 

 

 繰り広げられる熾烈な激闘。だが差は縮まらない。彼女が依然としてリードを保っている。

 

(下辺の4子は取られたけど中央に地が付いた! このまま勝ち切ってやる!)

 

 見え始めたゴール。彼女はそこを目指し盤上へ手を伸ばし続ける。

 

(これでもう白の捲りはありえない!)

 

 勝利宣言に等しい勝ちの体勢をガッチリ固めた1打に、彼女の頬が僅かながらに弛緩する。

 

 同時、そのたった1打に塔矢の両の瞳が大きく開かれた。

 

(そこだッ!)

 

 耐えに耐え、ようやく訪れた逆転へ繋がる隙。奥へ奥へと、もう絶対に離さないと言わんばかりに、彼女の身に深く爪を、牙を食い込ませる。

 

(ハサミツケ……!? しまった、この局面では右辺のアテが利いてサガリでは間に合わない……! か、勝ちを焦り過ぎたッ!?)

 

 ゴールテープを切る直前に足元が崩壊した思いだ。乱暴に碁笥から黒石を掴み取り、悔しさと共に盤へと下ろす。

 

(まだゴールは消えていない! 集中を切らすな! まだ打てる! 絶対に勝てる!)

 

(負けない……ッ! 勝つのは僕だッ!)

 

 形勢は完全に五分──。

 

 ぶつかり、交錯し合う、互いの想いを込めた黒と白。最後の最後までどちらに転ぶかわからない勝負だ。

 

 しかし──。

 

 しかし、その勝負は誰も予想しない終わり方を迎える事となった──。

 

 試験監督の篠田が2人の対局席へ真っ直ぐ向かって来た。強張った顔をして、足音を立てないように、それでいて出来るだけ急ぐように。

 

「ちょっと来てくれるかい、急いで」

 

 肩を叩かれたのは彼女だった。

 

 え? 何で? と突然の事に目を見開いた顔を師範へ向けた彼女。廊下へ連れて行かれる彼女を見ている塔矢も同じ表情だ。

 

 2人とも嫌な予感がしていた。プロ試験の対局を中断させたのだ。それに値する十分な理由がある何かがあったに違いないのだ。

 

 廊下に出たところで篠田が彼女の両肩に「落ち着いて聞いて」と両手を置いた。

 

「お母さんが交通事故に遭われた。危険な状態だ、タクシーは呼んであるからすぐに病院へ行って。松岡さんは付き添いお願いします」

 

 篠田の隣にいる松岡と呼ばれた中年男性から「早くっ」と言われるが、彼女は「え……」と身体を震わせてその場から動けない。突然信じられない事を言われて頭が追い付かないのだ。

 

 ただ対局室の方向と、大人2人の顔へ焦点の定まっていない目を移していき、

 

「ま、まだ、対局が──」

 

 瞬間、彼女はバッ! と自身の口を強く塞いだ。

 

 え──?

 

 私、今何言った──? と。

 

 彼女は後になっても、この時何故そんな事を口にしたのかわからない。何が何だかわからないから口にしてしまったとしか言いようがない。

 

「バカ! どちらが大切か考えなさい! たった1敗だ! それに今年がダメでもまだキミにはチャンスは何度もある!」

 

 言われなくてもわかってる──。

 

 たとえラストチャンスだったとしても、そんな事わかってるのに──。

 

 結局付き添いに腕を引かれる形でタクシーに乗り込んだ彼女。病院へ到着するまで、祈るように手を組み合わせ、俯いてガタガタと震え続けていた。

 

 

 母親の手術は成功し、命は取り止めた。

 

 だが彼女は残り数戦を全て不戦敗、ただの1度も盤の前に姿を現さずにプロ試験を敗退してしまった。

 

 事故に遭った事を聞いた時に口にしてしまった自身の言葉が、呪いのように彼女の心を縛ってしまったのだ。

 

 時間が経てば経つほど、母親より対局を気にしてしまった事が許せなかった。気が動転していたにしろ、このまま碁の道を歩み続ければ、いつか本当にそうなってしまいそうになるのが怖かった。

 

 

 

 プロ試験が終わり、約半年が経った桜満開の4月──。

 

「お母さん、これ高校の制服。どうかな?」

 

 病院の個室。ブレザーの制服姿の彼女は照れ臭そうにくるりと回ってみせた。

 

 彼女の母親はベッドで仰向けのまま、安らかな表情を浮かべている。

 

「言ったっけ? ギャル子とオラ子も同じ学校なのよ? あの子達、もうすっかり黒ギャルになっちゃってさぁ。お母さん、見たら絶対笑っちゃうよ」

 

 クスクスと笑う彼女。

 

 母親は変わらず安らかな表情を浮かべている。少し痩せ、手足が細くなったが、あの日からずっと変わらずに綺麗なままだ。

 

 彼女は柔らかな笑顔を母親へ向けて、ポケットから黒いリボンを取り出した。

 

「お母さんの貸して貰うね? 良いでしょ?」

 

 言ってサイドに束ねた髪をキュッと結び上げた。そして棚に置かれていた手鏡で鼻歌交じりに角度を変えてチェック。

 

「似合う? 美少女過ぎてまた男の子寄って来ちゃうかな」

 

 何を語り掛けても返っては来ない。母親は事故の後から1度も目を覚ましていないのだ。

 

 そして彼女は母親に会いに来る事を他の何よりも優先した。好きな事、楽しい事、やりたい事、友人の誘いですらも全て断ち、ここへ来る事を最も優先した。

 

 そうしなければ、あの時の言葉が自分の本心だったのではないかと恐ろしくなるのだ。

 

 彼女は目を伏せて下唇をギュッと噛み──、次いで満面の笑顔を作った。どれだけ苦しくとも、母親が褒めてくれた笑顔でありたかった。

 

「じゃあ、また来るから。学校行ってくるねっ」

 

 

 ◆

 

 

「まぁ、そんな感じ? 代表の奴、学校にいる時以外はずっと病院いるんだぜ? もちろん今だってな」

 

 筒井家の食卓。お昼の素麺を豪快にすすりながら、オラ子は代表に関する話を終えた。

 

 横から筒井の母親の「あらぁ、可哀想にねぇ……」という嘆息(たんそく)が何度も漏らされる中、筒井の箸は綺麗なままテーブルに置かれたままだ。予想していた以上に重たい話で、気の毒過ぎて食事が喉を通らないのだ。

 

「お、お母さんの事はどうにもならないけど……。そんな全部やめちゃうような生き方は絶対間違ってる……、と思う。何かしてあげられないかな……」

 

 筒井の言葉に、元気なさそうにチュルチュル麺をすすっているギャル子が箸を止めた。

 

「あたしもオラ子も、思い付く事は全部やったの。遊びに連れて行こうとしたり、美味しいもの作ってあげたり──。でもダメなの……。あたし達が心配すればする程、代表は辛くなっちゃう。代表が望むように、あたし達には普通に楽しく毎日を送る事しか出来ないんだよ……」

 

 楽しく毎日を送る──。手を尽くし、悩み苦しみ、それでもどうにもならなくて、彼女達は代表の望み通りにしたのだろう。彼女達の性格を考えれば苦渋の決断だったのは筒井にも容易に想像出来た。

 

「……でもそれって本当に楽しんでる? もう僕にはキミ達が無理して楽しんでいるようにしか思えないよ」

 

 偉そうな筒井の言葉に、苛立ちをぶつけるような眼差しが返される。

 

「じゃあどうしろって言うのよ……。眼鏡掛けてるんだから教えてよ……。あたし、マジ何でもするよ……?」

 

 やがてポロッと粒の涙を零し始めたギャル子。やり切れない表情をしたオラ子が頭を優しく撫でると、そのまま筒井へと横目を向けた。

 

「頼むから、学校で代表に会っても普通に接してやって欲しい。あいつがまだまともにしていられるのは学校だけなんだよ。面会時間終わるまで病院にいて、家帰ったら、マジで暗闇で膝抱えてるような奴だからさ」

 

「そ、それはわかってるけど、でも……」

 

 何の解決にもならない。だが解決の糸口さえ見つからない。ハッキリ言って気持ちが沈んでいる。それでも聞かない方が良かったなどとは思わなかった。

 

 この問題をどうにかしなければ、囲碁部が本当の意味で始まる事はないのだから。

 

 

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