とある中学の3年生の夕日が差し込む教室では、いくつもの机や椅子が倒れ、教科書やノート、筆記具が散乱し、まるで嵐が過ぎ去った後だ。
男子も女子も壁に張り付くようにして教室中央に目を向けていた。これ以上ないくらいに大きく開いたその瞳は、まるで悪夢でも見ているかのようだ。
視線が集まる真ん中にポッカリ出来たスペースでは、長い金髪を振り乱した少女が、床に広がった水を犬のようにピチャピチャと一心不乱に舐めていた。
すぐそばにはその水が入っていた、まだ中身の残っているペットボトルが転がっている。そんな事にも気が付かないくらいに喉が渇いているのだろう。
そんな少女を、2人の女子生徒が抱きしめた。もうやめて! と泣き叫びながら強く抱きしめ続けた──。
◆
筒井家にて初練習を行なった土曜日から、週が明けての月曜日。
部員も揃ったので朝のビラ配りもひとまずはお休み。普段より遅めに家を出て登校中の筒井は、学生鞄の他にもうひとつ大きめの手さげバッグを持っていた。歩くたびにガシャガシャと音が鳴る。中身は折り畳み碁盤と碁石である。
自宅には盤と石が2セットあるので、これを本日引き渡しされる部室で使おうというのだが、それとは別にもうひとつ大きな理由があった。
「メガネ、おはぽよー」
校門手前、同じく登校中のギャル子がポニーテールを揺らす小走りで肩をポンッと叩いて来た。シャツを腹の上で結び、今日も元気におヘソを出している。
「それ碁盤とかっしょ? あたしも持って来ようかと思ったんだけど、家に脚付きのしか無くてさ」
「部費貰ったら何セットか買うつもりだし、今は3人だけだから1つあれば十分だよ」
「へぇ、部費ですか〜。良いですね〜」
「何だよその目は。大して貰えないだろうし、貰えたとしても私的な事には使わせないぞ」
ギャル子が両目を¥マークにしており、良からぬ事を考えているのは丸わかりだ。
「じゃあせめて昼寝用のマットを」
「そんなでかいの邪魔だろ!?」
「買ってくれたら、あたしと添い寝出来るかもよ?」
んふっ、と艶やかな唇に指を当て、1番可愛い角度と自負しているであろう上目遣いで見上げる。おまけに学ランの肘あたりをちょっと引っ張ったりと小細工も交えて。
筒井は2、3度ゴクリと息を飲み、
「………………いや、買わない買わない」
「今結構考えたっしょ? ねぇねぇ考えたっしょー?」
「朝からうるさいよっ」
アメーバみたいに纏わり付いて来るギャル子を引き離すべく、早足で校門をくぐり抜けた。
元々割と仲が良かったが、最近はそれに輪が掛かっている。となると、こんな事も聞かれる。
「筒井ってギャル子と付き合ってんの?」
昼休み、筒井は教室の窓際隅っこにて2人の男子とお弁当タイム。二言めには「あ〜、彼女欲しい」だの「もう誰でも良いから付き合いてぇ」だのと、万年飢餓状態の2人だ。
坊主頭の男子に付き合っているかと聞かれた筒井は「いや、そんな事ないよ」とお弁当をモグモグほうばる。やけに急いでいる感じだ。
「部活一緒だしね。大切な仲間だよ」
それなりに意識はしているが、部内でそういう男女のなんちゃらをするつもりはない。それでもそんな女の中に男ひとりという部の状況は眩しいようで、
「ギャル子とオラ子だろ? お前ハーレムかよ、それもう碁なんて打ってる場合じゃねぇだろ」
「そうだぜ。俺もオラ子に顔とか踏んで貰いてぇよ」
羨ましがる坊主に同意するように、ロン毛の男子からおかしな発言が飛び出した。
「俺もって何だよ俺もって! 僕はそんな事されてないし、されたくもないよ!」
「マジかよ、お前人生9割損してんな」
よくヘッドロックを掛けられて強烈な痛みの中にも胸が当たってちょっと嬉しかったりもするが、幸か不幸か、まだ踏まれて悦ぶ境地には達していない。
「そんなに言うなら2人も囲碁部に入りなよ? たしかまだ帰宅部だろ? 公式大会までに男子部員あと2人は確保しておきたいからさ」
「やだよ。碁なんてダセェし、女にモテねぇじゃん」
坊主とロン毛の声が重なった。あまりにもぴったりハモられ、筒井はヘソを曲げてしまう。
「何でみんなやりもせずダサいって言うかなぁ!」
「まあまあ、良い事教えてやっからキレんなよ。実はさっきスマホいじってたらスゲェ良い事発見してさぁ。聞いたらマジでテンション上がっから」
「なになに?」
ニヤリと笑みを浮かべた坊主へと耳を傾けたロン毛。まだ高校からの短い付き合いだが、筒井はどうせ下らない事だと何となくわかっている。
案の定──、
「来年のバレンタイン、何と日曜日!」
「バカお前、そんなの去年から知ってるっつーの! まぁぶっちゃけありがてぇけどさ」
彼らが何を言っているかというと、バレンタイン当日に学校で無駄なそわそわをしなくて済むし、1個も貰えなくても「学校休みだったから」と言い訳になる、という事である。
「良いよなぉ、キミ達人生幸せそうで……」
4月現在の内から来年の2月、それも下らない事で喜べる彼らに筒井は盛大なため息を吐き出した。代表がこの男子達のようにバカであれば、自分の口にしてしまった言葉に苦しんでおかしな事にはなっていなかったかもしれないのだ。
「ごちそうさまっ」
「早いじゃん。何かあんの?」
2人よりもだいぶ早く弁当を空にした筒井。ちょっとね、と弁当箱を自分の鞄にしまい、教室中央でギャル子、オラ子と共に昼食中の代表の元へ足を向けた。
どしたー? と彼女達の視線がそばに来た筒井に集まる。
「代表、ごはん食べたら1局お願い出来ないかな? 元院生のキミに是非打って貰いたいんだ。盤と石はロッカーにあるから」
突然の申し出に、ギャル子とオラ子は怪訝な表情を浮かべる。土曜日にした話を聞いてなかったの? とそんな思いだ。
筒井は百も承知。そして代表に頼めるのはこの昼休みの時間だけだ。放課後になれば何を置いても母親の見舞いに行ってしまう。母親想いで結構な話なのだが、彼女はそこに異常な執着を持っている。
プロ試験の対局中に母親が事故に遭ったと聞いた時、気が動転していた事から対局の方を気にする発言をしてしまった。後悔してもしきれない、絶対に何かの間違いにしなければならない。ゆえに彼女の行動はあまりにも極端と化してしまった。
そんな自分がおかしい事は代表自身もわかっている。だから心配してくれるギャル子達に申し訳なく思って苦しんでいる。自分の事など気にせず楽しくやって欲しいと望んでいる。
母親の意識が戻らないだけでも死ぬ程苦しいはずなのだ。さらに自分の発言、親友達の事も上乗せされ、代表はそのうち本当に壊れてしまうかもしれない。
だから筒井は昼休みの今、碁を打って欲しいと申し出た。説得やら何やらはギャル子達がとっくにやっているので今さらだし、付き合いの浅い自分が言ったところでどうにかなるとも思えない。
だったらと、少しでも楽しい事、好きな事をすれば何かが変わるかもしれないと思ったのだ。ハッキリ言ってこれ以外は何も出来ないし、下心抜きで代表に打って貰いたいのは本心である。
それでも断られてしまえばそれまでであったが──。
「うん、良いけど? なら盤と石持って来てくれる?」
別段困り顔も見せず、お弁当を口に運びながらあっさり了承され筒井は拍子抜けしてしまった。
「ほ、本当ッ!? 本当にッ!?」
「ん? うん」
代表は筒井の大袈裟な驚き方にやや眉をひそめる。おそらくギャル子達に自分の話を聞いたのだろうな、とひとり納得。
ペラペラ話された事に対して気を悪くはしない。むしろ逆、きっと話さなければならない状況にさせてしまったのだと、親友達に心の中で謝った。
廊下のロッカーへ向かった筒井の背中を他所に、
「う、打つのかよ……」
弁当を食べる手を止めて、オラ子は驚きに大きく開いた目を代表へと向けた。
「元院生だって教えちゃったし、言われるかなとは思ってたわよ? プロと住んでるあなた達と違って、彼には教えてくれる人いないんでしょ?」
「そうだね。顧問は頼み込んで名前だけ貸してもらったド素人以下だし」
ギャル子としては口うるさいのがいなくて嬉しい限り。だが1番やる気がある筒井には指導者がいてくれた方が良いとは思っている。
「つーかさ、代表って打とうと思えば打てるんだな。てっきり石持ったら発狂して『お母さん! お母さん! イヤーッ!』って床転げ回るのかと思ってたぜ」
オラ子の安心するような発言に、代表はムスッと拗ねたように顔をしかめた。
「発狂!? せめて発作って言ってよ! まぁ石はあれから1回も触ってないけどさ」
奇声を上げ床を転げ回る事については否定しない。本当の事だからだ。
「何だよ、だったらこんな教室でぶっつけ本番とかやめとけよ。もうアタシ、あんなの嫌だよ……」
オラ子が視線を落とした。次いでギャル子も。2人は代表がおかしくなった場面を思い出し、じわっ、と目元に涙を浮かべている。
「大丈夫だって、学校にいなきゃいけない間は平気なんだから。お母さんと高校行く約束したおかげかしらね? じゃなきゃ学校だって来ていないもの」
あはは、と笑ってみせるが2人は顔を上げてはくれない。
「……病み過ぎだってわかってるわよ。何度も言うけど、いつでも見捨ててくれて構わないから」
「それは無理」
今度はギャル子とオラ子から、同時に力強い眼差しが返された。代表は見つめ返す事が出来ずに少し視線を逸らした。
代表は母親の見舞いへ行くのを無理に止めようとするとおかしくなる。
学校にいる間は『母親の見舞いへ行く』という選択肢を選ぶ事が出来ない。ゲーム画面のように、文字が灰色になっている状態だ。
だが休日や放課後などになればそれも選択可能、と同時に数多くの選択肢も表示される。
遊びに行く、ショッピングへ行く、友人のお誕生日会へ行く、定年退職する先生のお別れ会へ行く、クリスマスパーティーへ行く、初詣に行く、告白されに放課後校舎裏へ行く、etc──。
しかし今度は『母親の見舞いへ行く』以外を選ぶ事が出来なくなる。遊びに行ってからお見舞い、お見舞いに行ってから遊びに、なども不可。それは彼女にとって遊びに行く方が母親より大切という事になってしまうからだ。
もし他の選択肢を選ぶ、もしくは無理に選ばせようとすれば、
『お前は母親よりもそんなモノを選ぶのか、お前にとって母親はそんなものか、やはりあの時の言葉はお前の本心なんだ──』
こんな声が頭の中に響き渡り、頭を抱えうずくまり発狂する。中学ではクラスメイトからドン引きされた事もあるし、俺が支えてやると吠えた男子もいざ現場を目の当たりにすると視界から消えていった。
代表はそれで良いと思っていた。これであの時のような過ちを犯さずに済むのだから、と。
しかしそれは独りよがり。大切な親友達に辛い想いをさせる結果を招いてしまった。
「だったらさ、アタシらとも打ってくれんの? 打ってくんなきゃ顔に『筒井専用』って書いちまうぞ」
「昼休みならね。でもあなた達には私よりもっと良い先生がいるじゃない」
ギャル子もオラ子も囲碁部に入ってからは家で1日1局打って貰っている。しかしそれとこれとは話が別で、ギャル子が不満げに口を開く。
「はぁ? あたしら代表と打ちたいんですけどー。て言うか一緒に遊びたいんですけどー。つーわけで、今日あたしとも打ってよ」
「ダーメ。2局も打つ時間無いでしょ? 今日は筒井君と」
「えー!? なら折り畳みの囲碁セット買ってくるんで、明日から多面打ちね!」
「多面打ちかぁ、それでも良いわよ?」
ウェーイ、と嬉しそうにギャル子とオラ子はハイタッチを交わした。
ひとつの机に碁盤と碁石を乗せて向かい合う筒井と代表の姿に、周りのクラスメイト達の「なんだなんだ?」という注目が集まる。碁を知らない者達にとって、どんなゲームなのか程度には興味があるようだ。
クラスメイト達に囲まれる対局席の中、代表が「そう言えば」と筒井へ問いかける。
「筒井君の棋力はどれくらいなの?」
「えっと、二段くらいかな」
「そっか。今日は取り敢えず4子でやってみようか?」
「う、うんっ!」
目を輝かせる筒井。プロ級の相手に打って貰った経験など無いのでワクワクして仕方がない。
盤を前に白の碁笥に指を入れた代表が、その懐かしい感触に一瞬戸惑いをみせた。
プロの道は捨てても碁は好きなままだ。ネット碁だって母親の病室でやれない事もない。それでも嫌な思い出が蘇るので、これまで遊びでも打とうとはしていなかった。
何より彼女にしてみれば、選択肢うんぬん以前に己は趣味や娯楽を興じて良いような人間ではないのだ。
代表は自分が嫌いだ。あの日間違いでもあんな事を口にしてしまった自分を最低な人間だと思っている。
だからこれはあくまで皆のために打つだけだ。
両隣に目を移せば嬉しそうな親友2人の顔。代表は彼女達が大好きだ。自分ですらとうに自分を見捨てている。しかしギャル子とオラ子は決して見捨ててはくれなかった。
そんな彼女達を悲しませたくない、苦しませたくない、応えてあげたい──。
そのために自分に掛けてしまった呪いを解きたかった。いつまでもこのままで良いはずがない。
だから彼女は石を掴んだ。
盤上へ打ち下ろす白の石に、変わりたいという強い意を込めて──。
◆
その日の放課後はいよいよ念願の部室だ。葉瀬高には部室棟という5階建の建物が通常校舎とは別個に建てられている。
古い建物なので外観は所々コンクリートも剥がれ、中も灰色で薄暗い。
部室棟に足を踏み入れた囲碁部メンバー達。皆揃ってジャージ姿だ。今日は部室の掃除をするのだ。
借りて来たホウキ、雑巾、バケツやらを手に、囲碁部の部室がある2階へ。エレベーターもあるが、出入りの楽な2階をゲット出来たのはありがたい事だ。
そして目の前には部室の頑強そうな鉄ドア。筒井は先程学校側から受け取った鍵でガチャリと開けた。
照明を付けると3人から「おおっ」と歓声が上がる。
歓声の割には大した部屋ではない。室内は木張りの床、窓有りの8畳程の広さで、お情け程度に本棚が置かれているだけだ。
しかしこれから色々持ち込んで、好きなように改造する楽しみもある。何より、今日からここが自分たちの城というのがたまらなくテンションを上げる。
「よし! それじゃあ掃除始めよう!」
筒井の声に女子2人が「おーッ!」と拳を突き上げた。
せっせと掃除をする囲碁部メンバー達。
「テメェら! 床も壁も舐められるくらいに綺麗にしろよ!」
兄と2人で暮らしているオラ子は家で家事全般をこなしているため、ここぞとばかりに掃除マル秘テクを披露。
広い屋敷に住んでいるギャル子も手伝い経験からか掃除慣れしているようでテキパキこなしている。
そんな黒ギャル達に対して凡夫筒井は「うわぁ、すごいなぁ」と立ち尽くしていた。
「そこのカカシ。バケツの水取り替えて、雑巾も洗って来い」
「任せて!」
オラ子から指示を与えられ、喜んで部室を飛び出した筒井。各階には水道が付いており、お茶やコーヒーを淹れている部もある。
「よう、やってんな」
水道で雑巾を洗っている筒井は声を掛けられた。将棋部1年の加賀だ。
「うん。まさか4月中に部に出来るなんて思わなかったよ」
「囲碁部は1年だけってのは羨ましいぜ。
加賀はウンザリ気味に『王将』と書かれた扇子で自分を仰ぎ始めた。
「良かったらそのうち遊びに来なよ。大会も近いし、加賀が打ってくれたら皆も良い練習になるから」
「ま、気が向いたらな。それよかお前、ギャルなんかとうまくやってけるのかよ。そのうち喰われちまわねぇか?」
「大丈夫だって、2人ともすごく良い子達さ。今だって頑張って掃除してくれてるし」
驚かすように言う加賀へ、筒井は「まさかぁ」と笑って返すのであった。
殆ど物が無い事もあり、3人掛かりならば1時間程でピカピカだ。
椅子が無いので適当に床に座ってお疲れのジュースを飲んでいると、オラ子が我が家のようにゴロンと寝っ転がった。
「
「畳かぁ。値段とか知らないけど畳の部室ってのも良いよね。そうしたら低いテーブルもいるね」
筒井はこうやって案を出し合うだけでも楽しそうだ。その案にギャル子も乗っかって来る。
「あたしも畳が良いかな。腹筋出来るし」
「何で腹筋?」
「いやいや、ぶよんぶよんのお腹なんて出せないじゃん。あたし家で腹筋しまくってるし。ほら、ちょっと触ってみ?」
言って立ち上がると、ペロン、と体操着をめくり、筒井の眼前にお腹を晒してきた。
「や、やめろよ。恥ずかしくないのかよっ」
「ん? むしろ通常営業なんだけど」
「それはそうだけど……」
普段は健康的なエロなのだが、両手で服を掴みめくり上げている様はとても如何わしいエロに思えてしまう。
普段もあまりマジマジと見た事も無いので改めて間近で見てみると、確かにダンサーのように引き締まっている。
筒井とて人の子、女体に触りたくないと言えば嘘になる。特にここ最近はやたらベタベタしてくるので、ここはひとつハッキリ言っておかねばと心を鬼にした。
「聞いてギャル子。女の子の体に気安く触るのは良くないと思うんだ。こういうの、古い考えかもしれないけどさ」
「じゃあ気高く触って下さい」
「け、気高くって……。それ意味違くない……? ああ、もう面倒臭い。じゃパッと触るだけね」
「うん、触って……❤︎」
ハートを付けるな! と表情を歪めながら、ギャル子の腹部に手を伸ば──、
「きゃぅんっ❤︎ エッチぃん❤︎」
「まだ触ってないだろ!?」
いきなりギャル子が変な声を出すので手が引っ込んでしまった。そしてさらにオラ子も立ち上がり、こちらもスリムなお腹を晒してきた。服をめくり上げ過ぎて危険なエリアまで見えそうだ。
「まあ折角だし、アタシのも触っとけよ。ぶっちゃけ身体にはマジ自信あっからよぉ、ギャル子にも負けねぇっつーか?」
「ほう、抜かしよる。じゃあお腹対決ね? メガネ、公正なジャッジを」
「何で!? 落ち着けよ! キミ達おかしいよ!」
「つべこべ抜かしてんじゃねぇよ。あー、やっべ❤︎ これちっと興奮すっかも❤︎」
座り込んだ筒井の眼前にはお腹をめくっている黒ギャルが2人。オラ子に至っては既にお腹を筒井の頬に押し付けている。負けじとギャル子も反対から、押し付け始めた。
「ほら、オラ子よりあたしのお腹の方が好きでしょ? つかこの眼鏡邪魔っ、取っちゃえー」
さらに眼鏡をひょいっと外され遮る物は無し、筒井は完全に2人のお腹でぎゅうぎゅうに挟まれ、頭がくらくらし始めた。何故畳の話から一気にこんな事になったのか訳がわからない。そして薄れゆく意識の中でこう思うのだ。
(こ、これは一刻も早くまともな部員入れなきゃ大変な事になるぞ……)
◆
「だからこんな手はありえないの!」
10日程が経った4月末日の昼休み教室。代表の筒井への指導は日に日に厳しくなっていった。
当初は優しく「わぁ、筒井君すごいわねぇ、偉いわねぇ。ここはこうなのよー ? うんうん、そうそう」と教えてあげるつもりだったのだ。
しかしこれまで誰の指導も受けた経験が無かったためか、教えてあげたら伸びる伸びる。もしかして若鶏戦で海王の1年生と渡り合えるかも? という期待も見え始めてしまった。そんな訳で代表の育成心に火が付いてしまい──。
「こういう露骨な手がうまくいく訳がない! 実際、ノビからノゾキのコンビネーションでキミは打つ手に困ったでしょう!? この場面では一間に受けて我慢するしかなかったのよ!」
「はい」
「同じような事を3日前にも注意したはずよ!?」
「はい」
「やる気あるの!?」
「はい」
打ち終えた筒井に最初から並べ直しながらお説教、と同時にギャル子とオラ子との対局も進めている。代表の怒涛の3面打ちはこのクラスの日常風景となっていった。
碁のわからないクラスメイト達でも、1手1秒足らずで3面打ちをする代表の姿に「何かわからないけど代表スゲェ……」と驚きっ放しである。
同じく代表の日常である上級生から告白の呼び出しを受けても──、
「手が離せないのでこちらでどうぞ!」
と、この始末。脈無しも良いところだ。中には本当に対局中の席までやって来て、注目を浴びながら告白する猛者もいたが。
正直言っておっかない。だがいつもよりずっと生き生きしているのは、事情を知る者知らぬ者含め誰もが思うところであった。
「あ、もう昼休み終わり?」
教室の時計に目を向けた代表はもどかしい表情をしている。教え足りない、もっと時間があればと思ってしまう。
「放課後部室に来てくれて良いんだぜ?」
「……いじわる言わないでよ」
にしし、という冗談っぽいオラ子の笑いは、代表の言葉を受けると柔らかな笑みへと変わった。
「な、何よその顔。あんたがそういう顔すると怖いんだけど」
「いや。お前が何かしたいって思うのなんて久しぶりだなって。すぐに自分にはそんな資格無いからとか、そんなんばっかだったのによ」
「……私は私が嫌い。それはずっと変わらないわ」
「まーた始まった。アタシもギャル子もお前が大好きなんだからさ、そういうのやめろよ。なぁ、筒井も代表の事好きだよなっ?」
いきなり話を振られた筒井は「へっ!?」と大きな動揺を見せた。顔を赤くして下を向き、無駄に眼鏡をくいくいと上げ始める。
「そ、そそそんな、すっ、好きとか……! ぼ、ぼぼぼ僕はそ、そんな……!」
「なんだテメェ、代表の事好きなんじゃねぇのかよっ!? スマホの待ち受け、代表の写真の癖によぉっ!」
「デ、デタラメにも程があるだろッ! 代表、そんなの嘘だから!」
「大丈夫よ筒井君。私はそういうの気にしないから安心して?」
大慌ての筒井へ、ニコッと送られた笑顔。モテモテ超絶美少女だという事は自分でわかっているため、待ち受けにされている事は信じている模様。
が、それはあまりにも名誉毀損。
「何だよもう! ほら見てよ! 僕の待ち受け!」
机をバンッ! と両手で叩いて立ち上がった筒井がスマホを取り出し皆に見せつけた。しかしまんまデフォルト画面で何の面白みも無く「あぁ、うん」という冷めた反応である。
ハッとした筒井は「じゃなくてっ!」と頭を小さく横に振って、気を落ち着ける。
「あのさ、例え本人でも、自分の好きなモノや人を嫌いって言われたら嫌だってのはすごくわかるよ? 僕も碁をダサいとか言われると嫌だし……。ってギャル子、人の物で何やってんだよ」
良い事を言ったぞ、と満足した筒井であったが、ふと目を移せばギャル子が筒井のスマホで自撮りしようとしていた。
「待ち受け画像プレゼントしてあげようと思ったんだけどさ。でもやっぱみんなで撮ろうよ。囲碁部ウェーイっつって。もちろん代表も」
「……私は囲碁部じゃないわよ」
「待ってるから大丈夫だよ」
寂しげな代表にギャル子が優しい口調でそう言った。オラ子も筒井も同じ想いだ。
その日の放課後。掃除を終えた代表はすぐに病院へ向かう。高校最寄りの葉瀬駅から電車で5駅移動した地元の駅にある大病院だ。
半年間毎日通っている事に加え、元々目を引く容姿のため看護師達からはすっかり名前と顔を覚えられている。大雪が積もろうと、台風が直撃しようと、1日足りとも欠かさず母親の見舞いに来る彼女を感心を通り越して変な目で見る者も少なくない。
母親は個室の病室で変わらぬままだ。もしかしたら目が覚めているかも、という淡い期待は毎日裏切られている。
意識の戻らない母親は自分で寝返りをうつ事もない。人間ずっと同じ体勢でいると血液の巡りが悪くなる。介護士がやっているであろうが、全身をマッサージしながら学校の話をするのが代表の日課だ。
最近は話す内容に昼休みの碁についても追加され、特にその事を楽しそうに話している。
「あの子達、中学の頃は私が誘っても碁なんてやらなかった癖にね。お昼だって早く食べろってうるさいのよ?」
途中、ふと壁のカレンダーが目に入った。今日で4月も終わりだ。めくって5月にしなければならない。
「ゴールデンウィーク、今年は5連休くらいだっけ。その間はみんなと打てなくなっちゃうし、明けたらすぐに大会か……」
若鶏戦はどちらかと言えばお祭りみたいなものだろうし、別にどうしても勝たなくてはならない大会でもない。しかし他でもない碁に関してやれる事があるのにしてあげられないのは、モヤモヤした物を作ってしまう。
「部活でちゃんと練習やってるのかしら。顧問の先生も先輩もいないからってお菓子食べてだらだらしてたり……。て言うかあの子達、筒井君に変な事してなきゃ良いけど……。彼も口ばっか達者で簡単に流されそうだし」
つい愚痴っぽくなる。一度見に行きたいが、その一度さえ叶わないのが今の自分だ。
マッサージの手を止めて、ポケットからスマホを取り出す。表示されているのは、強引にギャル子が待ち受け設定にした学校で4人で撮った写真だ。
「酷い顔……」
自嘲気味な小さな呟き。笑顔は得意のはずなのに、右端の自分は4人の中で1番笑えていない。
可愛らしい笑顔のギャル子。勝気な笑顔のオラ子。女子と密着して照れ笑いの筒井。そして困惑を残したまま引きつって笑う代表。
つい酷い自分の顔を親指で隠しでみれば、それはずっと望んでいた光景だった。おかしくなってしまった自分の事など気にせず楽しんで欲しいという、ずっと親友達に強いてきた光景だ。
いざ目の当たりにした途端、寂しさがどっと込み上げ、思わず顔を隠していた親指をパッと離してしまった。
元に戻った4人の写真にいささかの安堵を覚える。皆と一緒にいたい、今は確かにそう望んでいる。いや、本当は心の奥の奥ではずっと望み続けていた。
「いつか私も一緒に──」
希望に満ちたセリフとは裏腹に、いつかとはいつだろうと、目を伏せた代表。気持ちは確かにあるのに、自分に掛けてしまった呪いがそれを許してはくれない。
誰も得しない、自分も周りも悲しませるだけの呪い。母親だって今の自分がこんなだと知ったら喜ぶはずがないのはとっくにわかっている。
「私、何やってるんだろ……」
自分のバカさ加減に涙が滲み出てくる。
涙は頬を伝い、母親の痩せた手に落ちて広がった。
その時──。
その時、別に奇跡も何も起こらなかった。母親が目を覚まして、痩せた手で涙を拭ってくれる事もなかった。
そしてまた翌日の放課後、代表が同じ班のクラスメイト達と校庭の掃除をしている。早く終わらせて母親の見舞いへ行こうと、無駄話もせずにホウキを手にせっせと動いている。いつもの事だ。
と、そこへ──、
「あ、代表。また明日ねー」
校舎から出て来たギャル子とバッタリ合い、彼女は小さく手を振ってきた。隣には同じく手を振るオラ子と筒井の姿もあり、3人揃って部室棟へ行くのだろう。これもまたいつもの事だ。
「うん。バイバイ」
ニコッと笑顔で返そうとしたところ、突如ぞわりとした寒気に襲われた。まるで自分だけが置いて行かれるような寂しさ。見える場所にいるのに、渡る橋が無くて自分は決して足を踏み入れる事が出来ない断絶された感覚。
そして気が付けば、背中を向けようとしていたギャル子の腕をホウキを手放して掴んでいた。
えっ、と驚く顔をされた時には既に離していた程度の、ほんの一瞬の出来事だ。
「ごめん、なんでも──」
「おいでよ!」
慌てて笑顔を取り繕った代表のセリフは途中で遮られた。
どうしたの? など聞く必要は無い。ギャル子はすぐに真剣な顔で手を差し出していた。これまでずっと「自分の事は気にせず楽しんで欲しい」と言い続けていた代表が、無意識にせよ違う態度を示してくれたのだ。置いて行かないで、という心の叫びが聞こえたのだ。
しかし代表は「ごめんなさい……」と親友と繋ぐべき自身の右手を、左手で隠すように胸元へ閉じ込めてしまった。まだ呪いに抗える自信は無い。
「あ……」
ギャル子は無理にでも代表の手を掴むべきかと迷う。しかし過去の経験上、それはロクな結果を生まなかった。最後の1歩は彼女が踏み出さなくてはならないのだ。自分に出来るのは彼女が伸ばした手を見逃さないようにしてあげる事だけだ。
差し出した手は重ねられる事無く行き場を失い、弱々しくゆっくりと閉じていく──。
だが最後にはギュッ! と強く握り込まれ、
「ずっと待ってるから!」
飛びっきりの笑顔を残してギャル子は背中を向けた。
遠ざかるその背中、その手には、もうこの手は届かない。自分の足で踏み出し、追い掛けなければ届かないのだ。
掃除を終え、鞄を取りに戻った教室。同じ班の者達はとうに帰り、代表は自分の席に立ち、ひとりずっと歯を食いしばり下を向いていた。
(私はいつまであの子達に甘えてるつもりなの……!)
そんな彼女の苦悩をあざ笑うように、ドクン、ドクンと鼓動が早まり始めた。学校は終わったのだから早く母親の元へ行け、と呪いが命令しているのだ。
母親よりも友人を選ぶのか、また母親以外のモノを選ぶつもりか、お前にとって母親はその程度の存在か、やっぱりあの時の言葉は本心なんだ、と──。
「……ごめん」
乱暴に鞄を手に取った彼女は足早に教室を後にした。
母親の元へ行く事が大切だ。そうしようと、そうしなければいけないと、あの日決めたのだ。
それは絶対に変わらない。変えるつもりもない。
けど、だけど──。
徐々に足音の間隔が短くなる。誰もいない長い廊下に、何かに抗うような彼女の強い足音が大きく響き渡る。
パリンッ──、と胸の内の何かにヒビが入った。
下駄箱を目もくれずに通り過ぎ、上履きのまま校舎から飛び出した。
段差でバランスが崩れ掛かるが、構わず強く地を蹴って踏み出した。胸の内の何かを踏み潰すように強く、強く地面を蹴り飛ばした。
「ごめん……! ごめん……!」
どちらが、ではない。どちらも大切なのだ。簡単に選んだり捨てたりなんて出来ないくらい大切なのだ。
大切なもの、全部抱えて生きていきたいのだ。
胸の内で粉々に砕けた呪いの残骸、それらを全て吐き捨てるように彼女は叫んだ。きっと大抵の学生が口にした経験のある言葉だ。
「今日部活で遅くなるからッ!」
彼女のつま先は親友達がいる場所、部室棟へと真っ直ぐ向いていた。