日高がのんびり筒井家の湯船に浸かっている。
海王ではガードの硬さに定評のある日高だが、まだほとんど良く知らない男の家でこうしている自分が不思議で仕方がない。
ただ筒井につまらない下心が無いのは女の勘でわかっていたし、何より一緒に体力の限界まで走り、一緒に鍵を探し歩き、妙な仲間意識のような物が芽生えていた事も否定出来ない。
(天国……♡)
肩までどっぷり浸かって、目を閉じて上を向く。体はクタクタの冷え冷えだったので生き返った心地である。
(筒井君は今時の若者にしては親切ね。いや、全然今時っぽくないか)
鍵は開けてくれる業者がいるらしく、後でネットで調べる事になっている。一応また外に探しに行くが、これで最悪の場合でも窓を割る事もなくなった。
(どんな結果になるにせよ、何かお礼した方が良いわよね……。数日彼ひとりだって言ってたし、ごはんくらい作ってあげようかしら。カレーなら持つし、うん、カレーを作ってあげよう。日高特製海王カレーを……!)
美味しい、美味しい、とがっついて食べる筒井の姿を想像し「ふっふっふ」と笑みが零れる。
(後でハゼショーに一緒に買い物に行って……。あ、ちょっと楽しそうかも?)
浴室ドアで隔たれた洗面所では洗濯機がゴンゴン回っており、その音にかき消される程度ながらに、彼女は楽しそうに鼻歌を歌い始めた。
あまり好かれてはいないようだが、これを機に筒井と友人になれれば、と言ったところであった。
そんな時、洗面所のドアがガラッと開かれた。浴室の磨りガラスドアに見えるのは筒井だ。
「か、買って来たよ!」
浴室の日高へと上ずった声が届いた。
「あら、随分遅かったのね。その辺に置いておいて頂戴」
何を買って来てもらったのかと言えば、女物の下着である。
それは数十分前、日高が風呂へ入る直前の事だ。
『筒井君、お願いがあるんだけど』
浴室へ繋がる洗面所。閉めた引き戸の向こう、廊下にいる筒井へと日高が呼び掛けた。
『私達走って汗かいたじゃない? それで下着までビショビショになってるの』
『は、はあ。それで……?』
『もう履きたくないし他の服と一緒に洗っちゃうから、コンビニで新しいの買って来て。お金は後で払うわ』
『えぇッ!? 嘘でしょッ!?』
『嘘? まさか、私のパンツが本当にビショビショのぐしょぐしょかどうか確認させろ、そう言っているのかしら? さすがに見損なったわ』
『じゃなくて! 女物の下着とか恥ずかしくて買えないって!』
『大丈夫よ。お店の人はそんな事気にしないから。普通にパッパッとやってくれるわ』
そんな経緯があり筒井をコンビニまで走らせていたのだが、大分時間が掛かっていた事から、レジへ持っていくのに相当苦しんだ模様。
風呂を出た日高は下着のパッケージを開けてゴミ箱へ。それが数日後旅行から帰った筒井の母親に発見され家族会議に発展するのだが、また別の話である。
◆
リビングにて、筒井の上下セットのスウェットを借りた日高は、申し訳なさそうにちょこんとソファに座っている。しゅん……、という擬音がピッタリだ。
何があったのかと言えば、立て替えて貰った下着代金を払おうとして財布を開けたところ、散々探していた鍵が小銭と一緒に入っていたのである。
「騒がせてごめんなさい……」
「ううん。また探しに行かなくて済んだし、本当に良かったよ」
ソファから離れた食事用テーブルの椅子に腰掛けている筒井は、無駄な労力を使わせた事には一切怒らずに笑っている。
するとしおらしい態度も一転。日高は「あらそう。それもそうよね」と普段の強気な笑顔に戻った。
「筒井君みたいにお金騙し取られても『良かった、病気の子供はいなかったんだ』ってタイプ、とても好感が持てるわ」
「僕ってそんなタイプかな……」
「きっとそうね。それより筒井君もお風呂行って来たら? 汗臭いのが近くにいたらかなわないもの」
鼻をつまむ仕草をされた筒井は「じゃあ帰ったら?」とは言えずにシャワーで汗を流しに行った。
(何か変な感じするよなぁ……)
ザーッというシャワーの音に身を包まれながら、筒井は大きく息を吐いた。朝の時点で今日起こる事を1万個くらい予想したとしても、日高が我が家にいる、という予想はまず出て来なかっただろう。
(ギャル子が怒りそうだな……)
打倒日高のギャル子には説明し辛い状況。だがもう家の鍵は見つかったのだし、浴室の外で回っている彼女の衣服及び下着を入れた洗濯機が止まれば帰るだろう。
筒井がシャワーから出ると、日高はリビングのソファで横になってテレビを眺めていた。さらにはソファ横の小さなテーブルには勝手に淹れたコーヒーが湯気を立てている。
「お帰りなさい。筒井君もコーヒー飲む?」
「……いや、いいよ」
「あら、舌が子供なのね。なら一緒にテレビ見ましょうよ、これ面白いのよ」
(何でそこまで言うのかなぁ)
筒井は相手にするのも面倒臭そうに食事テーブルの椅子へ。
そのまま離れた席で筒井も何となくテレビを眺めていた。映っているのは各地域のレポーターが「ゴールデンウィークは何処も大賑わいです!」と観光名所や行楽地を紹介するような番組だ。
いつの間にか「私ここ行った事ある」だの「へぇ、良いなぁ」などとまったりな空気が流れていた。
やがてピーピーと洗濯機が止まった音がリビングに届いた。筒井は洗濯物を持ち帰るための袋でも渡そうと思ったのだが、日高はまたも勝手にベランダに干して来て、
「今日は曇ってるし、乾くのに時間掛かりそうね。筒井君も洗濯物あるなら早めにしたら?」
とか言ってまたソファを占領しテレビを見始めた。
そんな彼女を横目に筒井は思うのだ。
(この人いつ帰るんだろ……)
干したばかりの洗濯物が乾くまで居るつもりかもしれない。だが聞くのも「帰れ」と言っているようで口にし辛い。
言えずにいると、日高は「あー、足疲れたわー」と寝ていた体を起こし、ソファに右足を乗せ、膝を抱えるように脚のマッサージを始めた。もはや完全に我が家だ。
それどころか、
「ねぇ、ちょっとこっちの脚マッサージしてくれる?」
「何で僕が。自分でやれよ」
「あなたのせいでいつもより走り過ぎたんだから、責任取りなさいよ。ほら、左脚だけで良いから」
筒井へ向けてニュッと差し出された左脚。自分の貸した色気の無いスウェットを履いているので、それ程変な気にはならない。オマケに自分も色違いのスウェットを着ていたりする。
「わかったよ。言っておくけど、別に上手くないからね」
「それは困るわ。私、定期的にお店に通うくらいマッサージにはうるさいのよ。駅前のモミーテってお店ね。あそこには日々の疲れを癒して貰った良い思い出がたくさんあるわ」
どれだけハードル上げるんだよ、と渋々ながらもソファの前に
「痛かったら言ってよ?」
力加減がわからないので適当に揉んでみると、
「んはぁッ❤︎」
「何でそんな声出すんだよッ! からかうのはやめろよ!」
「ち、違うのよっ。思ったよりかは気持ち良かっただけよっ。で、でもそれが全力だとしたら大した事ないわね……」
と言いつつ「ふーっ❤︎ ふーっ❤︎」と息を荒くしている日高。強気な表情は崩していないが、口角がヒクヒクと小さく動いている。
「あっそ。じゃあこんくらい?」
「〜〜ッ❤︎❤︎❤︎」
瞬間、これまで感じた事のない快楽を受け、日高は手のひらで口を塞ぎ大きく仰け反った。
(な、何コレッ! こんなの知らないッ! お店のマッサージとは全然違う……ッ! ううん、これに比べたら、あんなのマッサージでも何でもない、ただのごっこ遊びだわっ! そう、マッサージごっこ屋さんよ! もうこんなの知っちゃったらあんなお店二度と行けないわッ!)
通いつめたマッサージ店の思い出は一瞬で筒井に上書き消去され、気を抜けばまた変な声が漏れてしまいそうだった。時折身体をビクンッ! ビクンッ! と強く震わせながら、快楽に堕ちぬよう必死で抗っていた。
「やっぱスウェット越しだとあんまり効かない? ちょっと失礼するよ?」
筒井、暴挙に出る。スウェットを膝下まで捲り上げ、白く透き通るような日高の脚を露わにさせたのだ。
(う、嘘っ! スウェットの厚い生地越しでもこんなに気持ち良いのに、生でなんかされたら絶対……ッ!)
堕ちる──。現時点で崖っぷち。これ以上の快楽に耐えられるはずがない。
(で、でも……)
未知なる快楽へ期待と不安を抱きながら、筒井に触れて貰うのを生唾を飲んで待つ。
そして彼女の左脚へ今まさに触れようとした直前であった。何を思ったのか、筒井はピタリと動きを止めてしまったのだ。
(え……? どう……して……?)
早く触って欲しかったのにどうして止めるのかと、この時日高は筒井を強く恨みさえした。
まさかそんな風に思われているとはつゆ知らず、筒井はこう言うのだ。
「ごめん、つい熱中しちゃって。考えたら、直接触られるなんて嫌だよね」
人をここまで期待させておいてからのあまりにも無慈悲な発言に、日高の胸が切ない気持ちでいっぱいになっていく。
そして──、
「……じゃない」
「え? 何だって?」
小さな声に筒井が聞き直すと、日高は顔をカァッと赤くして叫んだ。目にはうっすら涙を浮かべて、今にも泣き出してしまいそうだ。
「嫌じゃないからっ! そんな事どうでも良いから早くしてぇっ!」
そこから先は酷かった。声の我慢など一切しない。乙女として他人には聞かせてはならない、いやらしく、はしたなく、みっともない声だという自覚はあった。だが構わなかった。
だってこんなに気持ち良いんだもん──、と。
「あー、スッキリしたっ! これで明日からの合宿もバッチリね!」
ソファに座りながら大きく伸びをした満足顔の日高。その一方で筒井は、どう言う訳か床に座り込んで頭を抱えている。
「なんて声出すんだよ……。マンションなんだから隣も、上も下も聞こえちゃうだろ……」
「しょうがないでしょ? あんなの誰だって声出ちゃうわよ。そう、全て公平のせい。私は何ひとつ悪くないわ」
冷静になっても、己の痴態を思い出して恥ずかしがるどころか偉そうな日高。
「それにさっきから公平って何だよ。公宏だよ」
「あら失礼。あなたの下の名前、葉瀬の書類でチラッとしか見た事なかったのよ。では改めて、公宏」
最後に小首を傾げ「んふっ」と可愛らしく笑ってみせる。
筒井の言う「さっきから」とは、彼女はマッサージの途中から昂ぶり過ぎて「公平ッ❤︎ 公平ッ❤︎」と何回も叫んでいたのだ。その度に筒井は「公宏だって!」って言っていたのだが、全く耳に入っていなかったようだ。
「大体、何で急に下の名前で呼ぶわけ?」
嫌ではないが、両親以外にそう呼ばれた事はないのでくすぐったい気分だ。
「私は今日1日で公宏をとても気に入ったの。友達として仲良くなりたいのよ。ああ、念のためもう1度言うけど友達としてね」
「今日1日って……。まだお昼前なんだけど。大体僕、キミに気に入られるような事したっけ?」
色々あったが、朝が早かった分まだそんな時間だ。日高は嬉しそうに語る。
「共に汗を流し、鍵を失くした時も色々親切にして貰って、あとマッサージも最高だったわ。それに困った事に海王って何かと鼻につくエリート意識高い連中ばかりなのよ。私ってあなたみたいなのの方が楽で良いみたい。一緒にいて居心地が良いって言うのかしらね。この家も自分の家より自分の家って感じだもの」
「日高さんも十分エリート意識高いと思うけど……」
「私は良いのよ。と言う訳で、友達として今後ともよろしくして欲しいんだけど」
握手を求める日高。ところが筒井がやや戸惑いながら握手に応えると、彼女の息がマッサージを受けていた時のように「はぁっ❤︎ はぁっ❤︎」と荒くなり始めた。目の焦点も合っておらず、正直不気味だ。
「まさかとは思うけど……。上手い事言って、僕の事マッサージ係にしようとしてない?」
「し、心外だわ! さっきの言葉は本心! それは本当、信じて! ただ、ただね? 今度はいつしてくれるのかなって思っただけなの。ほら、それを楽しみに日々頑張れるって言うかっ」
指摘されてギクリとした日高が目を泳がせる。
「またさせるつもりではあるんだ……。でもキミの声やばいしなぁ」
「だ、だめかしら!? もう絶対変な声は出さないって約束するから! 神様にだって誓う!」
日高はこの世の終わりのような顔をして頼み込む。その必死さに筒井は驚きを隠せない。
「そ、そこまで? でも僕ってそんなに上手かったの? どうも信じられないなぁ」
試しに握手をしたまま日高の手を揉んでみると、
「ひぁっ!? それ反則ぅっ❤︎ ふ、不意打ちなんて卑怯だわっ❤︎ あっ、無理っ❤︎ こんな気持ち良いの、絶対声出ちゃうっ❤︎ あん、素敵よ公宏っ❤︎ 公宏〜っ❤︎」
(この人本当に大丈夫かな……)
またも喘ぎ声を上げ悶え狂うその姿に、筒井はポカンと口を丸くしてしまった。
よくわからないままに半ば強引に友達にされてしまったが、それでも虫ケラ同然の扱いだった頃に比べればずっとマシだ。
それから日高に言われるままソファに並んで座り、テレビを見ながらだらだら過ごしていた。筒井はすっかり気に入られてしまい、やけに距離を縮められている。肩や膝がくっついているが、囲碁部で女耐性を身に付けた筒井の心は、幸か不幸かその程度では揺らがない。
「あぁ、肩凝ったわねぇ〜」
「……」
筒井、無視。
「腰も凝っちゃって、大変よ」
「……」
またもや無視で、日高はアメリカ人のようにオーバーに肩を竦める。
「そう、無視なの。でも良く考えれば、私は自分の欲求だけを満たそうとしていたわ。友達同士なんだから、そういうのは良くないわよね。これはもう反省する。公宏に嫌われたくないもの」
そして強気な表情でビシッと人差し指を立て、
「そこでwin-winの取引よ? 公宏、今私欲求とか言ったけど、人間の持つ三大欲求って知ってる? 睡眠欲、食欲。あとひとつは?」
「せ、性欲……?」
「うん正解♡ 男の子が絶対好きで、そのどれかひとつを満たせるモノ。私はそれを公宏に提供するわ。3つの内どれとは言わなくても、もうわかってるとは思うけど」
んふっ♡ と挑発的な顔で、腕を組んで胸を寄せあげた。色気の無いだぼだぼのスウェット姿でも中々にエロい。
筒井はゴクリと息を飲む。たかがマッサージをさせるために、まさかそこまでするのはありえないとは思うが、あの異様な乱れっぷりを見た後ではそのまさかも完全に否定する事も出来ない。
「い、一応聞いておくけど……。何なの?」
ようやく強い興味を示してくれた事に日高は嬉しそうに口元を緩め、筒井の耳元で囁く。
「カ・レ・エ♡」
「はぁ?」
カレエって何だ、僕はそんなエッチな言葉は知らないぞ、と筒井は間の抜けた顔。
日高はソファから立ち上がると顎に手の甲を添えた偉そうなポーズで、
「そろそろお昼だし、カレー作ってあげる。日高特製海王カレーよ? まぁ本当はお風呂入ってた時から、親切にしてくれたお礼に作ってあげようと思ってたんだけどね」
「カ、カレー……? 何だよそれ! 回りくどくて紛らわしい言い方するなよ! そもそも性欲とか問題にした意味ないじゃん! 絶対わざとだろ!」
騙された事に顔を赤くしている筒井の様子が面白いようで、日高は「アハハ」と声を上げ笑い始めた。
「もちろんわざとよ? 無視されたお返し♡」
◆
近所のスーパー『ハゼショー』で一緒に買い物。2人とも色違いのスウェット姿なので、他の人からはお泊まりの後か、同棲カップルと思われているだろう。
「1回帰っても良いんじゃない? キミの家すぐそこなんだろう?」
「面倒臭いわ」
カゴを持って食料品売り場をうろつく筒井が隣の日高に言うが、返事はノーであった。彼女がカレーには使わなそうな物まで手に取っているので筒井は首を傾げる。
「キャベツとかはいらないでしょ?」
「どうせご家族が留守の間はコンビニ弁当とかで済ませるつもりなんでしょう? 他にも何か作り置きしておいてあげる。食べたい物あったら言って?」
正直、もっと性根の腐った女かと思っていたので、気を使ってくれる日高が意外であった。
「あ、ありがとう。でも明日から合宿なのに、こんな事してて大丈夫?」
「だからこそ英気を養おうって言うのよ。合宿ではひたすら囲碁漬けなんだから。食事と睡眠以外は全て碁──、ってのは言い過ぎだけど」
「そう言えば合宿ってどんな事するの?」
夏にでもやれたらなぁとは思っていたので、海王囲碁部の合宿を参考にしようと聞いてみる。
「今年は3泊4日、長野の大きなホテルで全国から集まった強豪高校囲碁部との合同合宿なの。だから他校の部員と打ったり、それから来てもらったプロの先生に教えてもらったり。夜はひたすら詰碁解かされたり。と言っても、私も先輩達から聞いただけなんだけどね」
「うわぁ、何それ楽しそう! 良いなぁ〜!」
「楽しそう? そんな遊びも全然無い合宿、海王でも嫌がる人は多いのに」
「そうかな? だって碁って楽しいモノじゃないか」
筒井の囲碁バカっぷりを知らない日高は目を丸くしている。思わず「下手の横好きなのね」という言葉が出掛けるがギリギリで喉の奥に押し戻した。
優しい筒井といるのは落ち着くし、体を触って貰えたら嬉しいし、これから友達としてもっと仲良くなりたいとも思っている。しかし碁の方面では圧倒的格下に見ているのは昔から何ら変わらない。
シーフドカレーを連想させる日高特製海王カレーは何の変哲も無いが美味しいカレーだった。たくさん作ってくれたので、今晩も、明日の朝も食べられる。
それに、女子が自分の家の台所で料理を作ってくれている後ろ姿にある種の感動さえ覚えた。上下スウェットと筒井の母親のエプロンじゃなければ、いかに筒井と言えども堕ちていたかもしれない。
カレーの他にも色々作ってくれて、料理などしない普通の男子高校生の筒井にはありがたい限りだ。
食事の後、日高が筒井の部屋を見たいと言うので、2人はリビングから場所を移した。
日高は部屋に入ってひと通り眺めた後に、碁の本が大量に並ぶ本棚を興味深そうに上から下まで目を移し始めた。
「随分持っているのね」
「長い間、本で勉強するしかなかったから。これでも結構部室に持って行ったんだけどさ。キミのおかげで親がくれた食費も結構余りそうだし、また1冊買っちゃおうかな」
ベッドに腰を下ろしている筒井は、新しい本を買うのが楽しみらしく「えへへ」と笑った。
日高は呆れた様子で振り返り、そんなにやけている彼へと歩み寄る。
「公宏って本買ったら強くなれると思っちゃう人? 本も良いけど、強くなりたかったら強い人に1局でも多く打って貰う事。葉瀬の部員はまだみんな1年生だったわね、顧問の先生はどんな方?」
言いながら筒井の隣にくっつくように座ると、ベッドがギシッと軋みを上げた。
「碁は全く知らない先生なんだ。でもそこまで贅沢言ってられないよ」
「あら、残念だけど葉瀬の先は見えてしまったわね。家も近いし、公宏には空いてる時に私が見てあげる」
クスクスと笑う日高。葉瀬が今も将来も、海王のライバル校には成り得ない劣悪な環境と思ったのだろう。
やがて筒井の膝の上の右手に自身の左手を重ねると「ん……❤︎」と甘い声を出しながら、愛おしそうにゆっくりさすり始めた。
友達の枠を超えた過度なスキンシップに驚くところだが、今の筒井はそんな事よりもただ不愉快だった。気持ちはありがたいが随分上から言ってくれる。葉瀬などもはや眼中に無し、眠りながら打っても勝てると思っているのだろう。
実際海王中女子チームの大将だったので相当強いのはわかっている。しかし自分はともかく、大切な仲間達まで舐められては黙っていられない。
筒井は膝の上で強く拳を握り込んだ。自信はある。日高に教えているであろう海王の顧問や強い部員など、もはや比べ物にならない強い人に毎日のように打って貰って付けた自信だ。
深い呼吸の後に、うっとりとしている日高の目を真っ直ぐ見つめる。
「だったら今から打とうよ。僕だって成長してるんだ。キミにだって負けるつもりはないよ」
どこか頼りない普段とは打って変わった真剣な顔付きに、日高の表情に一瞬ながら驚きの色が見えた。そして筒井の拳から手を離し、改めて返すのは、逃げも隠れもしないという王者海王の風格漂う不敵な笑み。
「面白いじゃない。そこまで言うのなら全力で叩き潰してあげる」