その夜は、綺麗な満月だった。
大気も寝静まる深夜。ひんやりとした静寂の中で、鋼と鋼を擦り合わせる荒々しい音が響く。
刃と刃の交わる、剣戟の音色だ。
ここは
夜更けから唐突に始まった音色はどれ程続いただろう。始まりと同じく、甲高い金属音は二つ、三つと連なり唐突に途切れて終わる。
「……これで、私の二千一勝目ね」
そう乱れた声音で呟いたのは、艶のある黒髪を短く切り揃えた少女。そして、倒れて首筋に刃を突きつけられているのは、緑の短髪をした少年だった。
悔しい。そう涙する少年に、何時の間にか少女は、その胸中を吐露していた。
「本当はさ……悔しいのは私の方…………」
「女の子はね、大人になったら男の人より弱くなっちゃうの……」
「私ももうすぐ、キミ達に追い抜かれちゃうわ……」
「ゾロはいつも言ってるよね。世界一の剣豪になるって。女の子が世界一強くなんてなれないんだって、パパが言ってた……!!」
そう、弱気を晒す少女の言葉を遮り、少年は言う。
そんなこと言うな、と。
そんなお前に勝つために特訓している自分が馬鹿みたいだろ、と。
この日、この時、少女と少年は誓った。
どちらが先に世界一をその手にするか競争だ、と。
☆
これは、或いは途切れることなく紡がれた、少女のその先の物語。
☆
その夜も、綺麗な満月だった。
一つ、あの時と違うのは、そこらじゅうに転がる死体から立ちこめる死臭と血の香りが、静寂を湛える月光へ鮮血染みた赤を混じらせていることか。
ここは一億何千万ベリーだかの賞金が掛けられた海賊団が根城と
片や、老齢に達しながらも充実した気迫を滾らせ、白髪混じりの長髪を後頭部で括った老人。片や、齢十をいくつ越えたかと言う、艶のある黒髪を肩口で切り揃えた、こんな殺伐とした場所には余りにも場違いな少女。互いに襤褸同然の黒い着物に身を包み、腰には刀を帯びている。
「さて、準備運動は十分じゃろう。やるとするか」
そう、嗄れた声で少女を促す老人の言葉に、小さく頷く。
プレゼントを今か今かと待ち望んでいる誕生日前の幼子のような雰囲気。そんな少女の反応に厳めしい顔を微かに笑みの形に歪め、老人は刀の鯉口を切る。
「分かっておるじゃろうが、これが最後の鍛練となる。主は強くなった。或いは、その若さでこの儂に匹敵し得る程に。なればこそ今この瞬間、儂を完全に越えてみせよ」
「当然です」
一言、短く少女は返す。
しゃりん、と鈴が鳴るような澄んだ音。
父と娘、いや、祖父とその孫ほども歳の離れた二人は、まるでそうすることが当然のように、互いに人斬り包丁を鞘から抜き放ち、構えることなく切っ先を垂らす。
「「…………」」
少女は刀の感覚を己の身体に染み込ませるように微かに上下させながら、今まで師と仰いできた痩躯の老人を見据えた。
深紅の月光の下、宝玉の如く曇りなく煌めく眼。そこに迷いはない。
三年間。
けっして長いとは言えないまでも、短いとも言えぬ年月を共に過ごしてきた。数々の鍛練を、苦楽を共にしてきた。そんな、娘同然の弟子を斬ろうとしているにも関わらず、師の瞳には一切の躊躇いがなかった。油断すれば斬られる。油断せずとも斬って捨てられる。それを可笑しいと疑うことはなかった。
これから親同然の師と命を賭して殺し合うのだから、当然、悲しいし、哀しい。人としてごく当たり前の感性と平行して存在する、強者との闘争に舌舐めずりする剣客としての自己。少女もまた、如何にして師を斬るか思考し続ける。
「……、……」
「、…、…………」
町の剣道場で行われる試合のように、気合いを発することもなく、静かな呼気だけが涼やかな夜風に紛れて消えて行く。
切っ先を下段へ落としたまま、右手で握った刀を微かに揺らし、じりじりと少女と老人は円を描くように足を動かす。五メートルほどの距離は次第に狭まり、一足一刀の間合いへ互いの身を寄せて行く。
二人が取った構えは、ある流派では無形の位とも呼ばれるものだった。構えとはとても言えない。傍目から見ればただ自然体で突っ立っているだけにすら見えるそれ。
構えなど不要。剣の術理とは、太刀の早さが決める、と言うのが老人の持論であった。故に、その老人から剣を学んだ少女にもまた、構えなど有って無いようなものだ。
どれほど無言の間合い取りが続いたか。示し合わせたかのようにそれすらもぴたりと止まる。じり、とも二人は動かず、ただ互いの身体を、その瞳を注視するのみ。
二人の気迫に気圧されたのか、何時しか鈴虫の音色も止んでいた。
「……素晴らしい」
老人の呟き。
「…………っ」
必死に繕っていた真剣な表情をぴくりと震わせ、思わず、親に誉められた幼子のように無垢な笑みを浮かべてしまう。三年前、己より遥かな高みに居た達人。親同然と慕っていた老人の言葉に、笑みを堪えられなかったのだ。
嬉しかった。だからこそ、更なる死線の深淵へ突き進むことで、少女は応えとした。必ず斬る。その念を全身から漲らせ、しかし、肉体は意気込みにつられることなく程よい緊張を保ち、隙を探る。
そんな反応に老人は頬を吊り上げ、凄惨な笑みを浮かべた。
太刀の早さ。老人が至上とする術理を、弟子である少女は当然のように叩き込まれている。ここで言う『早さ』とは、速度の事ではない。当然、剣撃の速度も勝負における重要な一要因ではあるが、それよりも重要なことが、
「先の取り合い。理解しているようでなによりじゃわい」
「……先に動いて、先に斬る。動きから思考を読み取り、それよりも先に」
虚空に煌めく火花。
瞬き一つの内に老人と少女の立ち位置が入れ代わり、一瞬遅れて刃を擦らせる澄んだ金属音が鳴り響く。
下段からの掬い上げに、同じく掬い上げを合わせた。
会話の途中で斬り掛かられたことなど露とも気にせず、年老いてなお際立つ師の剣閃の冴えに、目を輝かせる。
「ふむ」
「あはは」
再び訪れる静寂。血の香りが混じる夜風が吹き抜ける中で、二人は鏡写しのように刀を下げ、相対する。
少女は知っていた。
師の立つ場所は、およそ人が達することが出来る臨界。そんな男の剣戟に着いて行ける己と、そんな師ですら世界最強ではないと言う現実。
超えるには、人の域など突き抜けなければ話にならぬ。
「ふ、ふふ……っ」
堪らない。全くもって世界は広く、遊んでも遊び切れぬ遊園地のようだ。世界には更なる上が居る。なればこそ、この師を越えて更なる一歩を踏み出さねば、と。
「…………八双、か」
「はい」
片手で下げていた切っ先を持ち上げ両手で握り、頭の右横で刃を立てて構えを取る。構えなど無意味と断じながらも、やはり、師を斬るにはそれだけでは足りない。攻めの気を滾らせ、剣気を打ち込み隙を誘う。
ただの剣気だからと馬鹿に出来ない。一定以上の危機察知能力を持つ者ならば、その本能を刺激され意図せず隙を生んでしまうのだ。
だが、
「やるのう」
「……っ」
流石は嘗て、
動かない。いや、思考の上で走らせる剣戟は、それこそ刹那の内に千にも達するほどだった。敵手の動きを予測し、その予測を更に予測し、未来予知じみた先の取り合いに興じる。
『覇気』と呼ばれる技法だ。
現象と化した能力者すらも切り裂き、異常なまでに五感を尖らせるそれ。知覚に特化した『見聞色』の覇気による先の取り合いは、常人では想像することさえ不可能な領域にある。覇気を自在に操れなければ、敗けは必至。師のそれは少女のそれの一段上。ならば、この瞬間に越えて見せろ。そう言うことなのだろう。
押し寄せるは嵐の如き剣閃の群れ。感覚の上で走らされたその群れには、幾つかの空白があり、針の先程でも気を抜けば肉が反応し、斬り掛かってしまいそうになる。だが、その空白は実の空白か、はたまた虚の罠か。
「……っ」
虚実入り混じる無音の剣戟。迷いは剣閃を鈍らせ、その鈍りは命に関わる緩みとなる。そんな無様を師が見逃す筈もない。
絶体絶命。いや、当然の帰結か。経験で劣り、鍛練の年月で劣り、ならば、勝つにはどうすれば良い。
そうして少女は、
「あはっ」
故郷から拐われるように連れ出され、剣鬼と謳われる老人と修行の旅へ出てから一番の、咲き誇るような笑みを浮かべていた。
度し難いほどに、愉しかった。
ただ金属の塊を振るうだけだと言うのに、そこには計り知れぬ精緻な技術の応酬がある。刹那の気の緩みが、死へと繋がる興奮がある。師がその半生を掛けて練り上げてきた剣は、微塵の隙も見出だせぬ次元にある。
これほど斬りがいのある相手と死合えるなど、剣士として望外の悦びに他ならない。
今この瞬間にも、潜り抜けた死線の数だけ高い場所へ登れている気さえした。
だから、
……だからこそ、更に上を見たい
此より上にはいったい何が在るのか。
最強。或いは、無敵。或いは、……人の身では想像すら及ばぬ神域か。
それが知りたい。
その思考は狂気だ。
遥か高みへ。その為ならば、何もかも切り捨てられる。
親同然に慕っていた師を斬ることは残念だけれど、それで更なる高みを臨めるならば、斬って捨てて見せよう。
人として間違った思考。それをそうと悟りつつも、己の欲求の為に少女はその狂気へ自ら身を浸す。
故に、
「……、……ふぅ」
微かな呼気と共に、知らず知らずの内に強張っていた全身の力を抜いた。思考は泡の如く浮かんでは消え、最後に残るは少女の血肉と刀だけ。刀と己との境界があやふやに、佇む世界がゆらりと静かに遅滞する。
刹那、世界が音もなく切り替わった。
色彩を欠いた視界。皮膚と刀身に触れる空気の流れ、物体が発する振動、斬りにくいモノと斬りやすいモノが感覚的に理解出来る。
静かに浮かべた笑みは、これ以上無いほどの極上。一段上へ踏み入れた確信がある。その場所をなんと呼べば良いだろう。明鏡止水、無我の境地、或いはゾーン……そんな言葉で説明出来るほど単純な場ではなく、同時に、それほど難解でもない場。
「行きますよ、お師匠」
目を見開く師の姿すらも、何処か遠くに感じた。
叩き付けられる剣気を散らそうと無理に反応せず、ただただ心地好いシャワーを浴びるように目を細めて気配を感じる。
「然り」
と、師の呟きが風に溶けて消える。
この瞬間、少女は正しく剣術の体現者、刀の申し子であった。
刀と肉体、刃身一体の有り様。その呼吸、瞬きに至るまで全てが少女と言う名の刃であった。
そして、最後の剣戟が月光を受けて煌めく。刹那を更に細分した塵芥の刻の砂粒。一生涯にも値する数十秒。一太刀一太刀に魂を込めた万にも届く剣戟の末、
「良く、やった」
いつの間にか、少女は師を斬っていた。
自身ですらいつ斬ったのか分からぬ、肩口から脇へと鮮やかに抜ける袈裟懸けの一刀。
遅れて噴き出す命の赤。
「……はい」
「ごっ、ふ……、……ふ、ふ。やはり、儂の目は曇っておらんかった、の」
喉奥に競り上がる血を飲み下し、満足そうに笑みを浮かべる師の姿。
「……よくぞ、練り上げ、た」
死に瀕した身体で老人は刀を鞘へと納めると、黒々と光る鞘ごとその眼前へ墓標を突き立てるように突き刺す。
「初代、村正じゃ……もって、いけ」
「…………はい」
短なやり取りの後、足下で広がる血溜まりを眺め、
「そ、のまま、研ぎ澄まし続けよ。我が、弟、子よ……」
呪い染みた言葉を遺し、びちゃり、と老人は血の海へと倒れ伏した。
最期まで笑みを浮かべながら、少女が師と仰いだ男は、あっさりと事切れた。最強などと言う馬鹿げた夢を追い求め、生涯を剣に捧げた一匹の修羅は、こうして息を引き取ったのだ。
そうして、
「……今までありがとうございました。さよなら、お師匠。ホントに楽しかった。あの夜、私を無理矢理にでも連れ出してくれたこと、感謝します」
一匹の修羅が世に解き放たれる。
「ぁあ……」
血塗れの刀を振るい、大地に鮮血の弧を描く。紅い月光を反射した刃が妖しい輝きを湛え、強者を斬った実感と達成感に上気する少女の顔をその刀身へ映し出した。
師を切り裂いた刃を掲げ、天に浮かぶ月すら斬らんと少女は、
「世界一になるのは私よ、ゾロ」
クイナは頬を吊り上げる。
師を切り捨てた直後にも関わらず、その微笑みは純真無垢、無邪気な幼子のようだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
どうにももう一つの方に筆が乗らず、放置していたこちらに力を入れようかなと浮気してしまいました。
毎日更新をしている猛者の方々には頭が上がりませんが、ちょくちょく進めていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
それでは今回はこのへんでm(__)m