クイナ剣客伝   作:藍上 尾

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第四話

 

 

 

 迅い。

 

 一段上の領域へ踏み込んだ少女の動きに、ムサシは辛うじて反応するのが精一杯だった。音すら遅れる閃光が如き斬撃。

 

 鍛え抜かれた動体視力ですらクイナの鋭利を見失っていた。

 

 ……刃が、見えぬ

 

 気配のみで反応。見聞色の覇気を限界を超えて練り上げ、それでもなお、致命を薄皮一枚躱す綱渡りだ。

 

 これが父を、剣鬼を屠った化け物の実力だと言うのだろうか。決死の防戦。己が編み出した双天一流、二刀による鉄壁が崩されかけている。針の先ほどの微かな隙を縫うように振るう反撃の刃も、当然の如く躱された。

 

 血飛沫が視界に散る。

 

 終わりが近い。そう遠くない内にこの均衡は崩れるだろう。だが、それこそがもはや唯一の好機である、とムサシは決意する。

 

「……!」

 

 交錯する剣戟の末、遂に致命の隙が生じてしまう。

 

 迫る袈裟懸けの一刀。

 

 絶殺のそれが完全な脅威となる前に踏み込む。視界を埋め尽くすような『死』を幻視するほどのそれ。無数の命を喰らってきたであろう、亡者の念が染み付いた鮮血色の太刀筋。背筋に走る怖気と悪寒、悲鳴をあげる本能を理性の綱で縛り付ける。

 

 集中。

 

 世界が緩く遅滞しているとさえ錯覚する境地へ踏み入る。砂浜に打ち捨てた一粒の米を見つけ出すような奇跡を掴み取る。

 

「っ!!!」

 

 衝撃。

 

 激痛。

 

 着物が裂け、肌が切れ、肉に食い込み、骨を断つ寸前、袈裟に入った村正の刀身を極限の覇気と筋肉の締め付けで抑え込む。

 

「っ、捕まえ、たぞッ!!!」

 

 鋭利な痛みを堪えながらも、ムサシは会心の笑みを頬に浮かべた。

 

 渾身の力で締め上げている刀身は引き抜くのに一呼吸は必要だ。ここからは回避も防御も間に合わない。

 

 何かのアクションを起こすよりも自身の振り下ろしの方が速い。

 

 乾坤一擲、肉を切らせて骨を断つ渾身の一撃を振り下ろさんと力を込める、その一刹那、

 

「ガッ、」

 

 未曾有の衝撃がムサシの腹筋を貫いた。

 

「ハァッ!?」

 

 ムサシの腹部に突き刺さったのは、両手で握っていた筈の村正に左手を残したクイナの右掌底だった。

 

 寸勁。

 

 ムサシの知る由もないことだが、それはかつて大陸の拳法家を名乗る男が操っていた技法を少女が盗み、自己流に取り入れた超至近距離での技の一つだった。

 

 戦艦の主砲が如き衝撃は、たったの一発で武装色の防御を纏っていた腹筋を貫き、ムサシの肋骨を粉々に蹂躙。それだけに止まらず内臓が破裂するようなダメージを肉体の内側へと貫通させてくる。

 

 辛うじて背後へ跳ぶことで衝撃を逃し即死は免れたが、既に人体の限界を遥かに超えたダメージだ。さながら内臓をミキサーにかけられるような激痛。喉の奥から鮮血が溢れ出し、呼吸が止まる。

 

 心臓も痙攣し脈拍が停止。

 

「ぁ、ぐ、、、……ぁ」

 

 視界全てが赤く染まる。

 

 ……まだ

 

 空に浮かぶ無数のシャボンが斜陽と月光に彩られる幻想的な夜景が、朱に染まる。

 

 ……俺は、こんなところでは

 

 それは、つい数時間前に目にしたあいつの死に様の如く鮮血に塗れるようで、

 

 ……終われない

 

 死に体の肉に鞭打ち、地に崩れようとする足を強引に踏み止まらせる。

 

 前を、クイナを見据えるムサシの眼光。

 

 その瞳に少女の姿は映っていなかった。

 

「……、ぁ」

 

 そこで、意識が途切れた。

 

 

 

 

 

 

 初めて会ったときは、頼りない奴だなと思った。

 

 まだ剣の道に入る前の話だ。ミヤモト家の長男として幼いながらも自覚し始めた、六歳の冬。

 

 暗部の頭に連れられてきたのがユウと名乗る女の子だった。

 

 あの頃はまだ今ほど日に焼けておらず、どことなくそわそわした様子を常にうかがわせていた。なんでも、将来の自分の直属の護衛になるらしい。

 

 幼い頃はまだ上下関係も曖昧で、仲の良い友達のような関係だった。常に身体のどこかを怪我していて、修業が辛いと泣き言を溢していた。そんな姿にしょうがないな、と頭を撫でてやるのが日課になっていた気がする。そんな関係が一年も続くと、いつの間にか守ってやらないと、なんて家での立場を考えたら的外れなことを思うようになっていた。

 

 十歳の頃に父が放浪の旅より戻り、剣の鍛錬が課されるようになったあの頃。十人いれば九人死ぬと噂される親父の鍛錬に、死にもの狂いでついていったのはあいつが居たから、だったのだろう。

 

 好きになった子を守る力、なんて青臭いにも程がある始まりではあった。だが、その原動力があったからこそ、今の自分が居るのだろう。

 

 分かっていた。いや、分かっていたつもりになっていただけなのかも知れない。

 

 俺は、あいつが好きだったんだ。

 

 そんなあいつが死ぬ原因を作ったのが俺自身。

 

 剣の高みを目指す、なんて本末転倒を阿呆にも追い求めてしまった愚者だ。

 

 ならばせめて、犠牲にしてしまった分も合わせて、高みに踏み込まねば納得出来まい。

 

 誰でもなく、俺自身が納得出来ない。

 

 このままでは死に切れない。

 

 自業自得と言われればそれまでだが、それがどうした。

 

 なぜ忘れていたのだろう。

 

 好きだったあいつをみすみす死なせてまで極めようとした道だ。こんなところで途切れさせてしまうほど、俺のあいつへの想いは浅くなかったのに……

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、……今のはちょっと危なかったわ」

 

 まさか確実に追い詰め、繰り出した逃れようのない王手を寸前でひっくり返されそうになるとは、と。

 

 クイナは背筋を伝う冷汗の感覚を愉しみながら、寸勁の震脚で地面にめり込んでしまった右足を引き抜いた。新調したばかりだというのに、もう草履がボロボロだ。買い換えないと、なんて頭を振るう。

 

 まだまだ未熟。足元が壊れるということは、それだけのエネルギーを無駄にしているということだ。

 

 だが、今は反省よりもこの死闘の余韻を楽しむとしよう。

 

 微かに上がった呼吸を正す。

 

 死合いの終わりを告げるかのように西の地平へ陽が沈んだ。

 

 どこか物足りなさを感じるものの、これ以上の贅沢は言うまい。本当に久方ぶりに血湧き肉躍る剣戟を交わしたのだ。また一段、この死合いで高みへと近付けただろう。

 

 クイナは全身の火照りを払うように深く一息吐くと、十メートル、地を滑るように削りながら踏み止まり、佇む男へと声を掛ける。

 

「……楽しかったわよ、ムサシ。貴方の双天一流、しかと味合わせてもらったわ」

 

 返事は返って来ない。当然だ。見聞色の覇気によって鋭敏化した少女の感覚は、目前の男の生命活動の停止を告げているのだから。

 

 死してなお倒れることを拒む猛者へと感謝の念を込めながら、クイナは村正を腰の鞘へと戻そうとした。

 

 その瞬間、

 

「……、ッ!!」

 

 爆風を受けたような衝撃が身体を突き抜け、思わず動きを止めた。

 

 否、実際には爆発など起きていない。

 

 少女、クイナが動きを止めたのは、爆風にすら感じられる常軌を逸した剣気の為だった。

 

 喉元の薄皮一枚先に刃を突き付けられているような存在感。得物を仕舞うのは危険だと、剣客としての本能がクイナの動きを止めさせたのだ。

 

「まさか。……いえ、それでこそ」

 

 確実に仕留めた筈だった。

 

 呼吸も心臓も停止していた。だが、それでもなお、男は蘇って来たのだ。ただそれだけのことだ。

 

「死んでも生き返る奴もいるってことね。勉強になったわ」

 

 どくん、と強く脈打つ鼓動が聞こえる。

 

 大小一対の刀を翼の如く横に広げ、ムサシが構える。

 

 暴風の如き強烈な剣気を前に、鎮火しかけた闘争心が再燃した。

 

 素晴らしい。意識もないだろうに、それでもなおこの圧力だ。光のない瞳の奥、このままでは終われないと猛る、業火の如き意思の炎を垣間見る。

 

 頬がつり上がる。

 

 まだ終わらない。この楽しい愉しい死合いは、まだ終わってはいないと確信する。

 

 村正の切っ先を垂らし、右手一本で緩く握って佇んだ。

 

 無形の位、とも呼ばれる構え。師であった剣鬼が好んだそれを、無意識の内にクイナは最適解として選択していた。

 

 ただ刀を片手に立ち尽くしているようにも見えるその姿。師の教え、先を取る太刀の早さを体現した姿がそれだ。立っているだけの姿勢に、歩くだけの動きに、達人の域に踏み入った程度の武術家では惑わされ、一刀の下に沈むだろう。

 

 この構えを取った段階で、既にクイナは先を取っている。表出しているのが動きの途中を切り取った一点に過ぎないが故に見ただけでは分かりにくいが、攻撃を繰り出そうと敵が意識した時には既に、クイナの方が早く動いている。動こうとした時には、既に動いているのだ。

 

 クイナは常に動いている。その動きの一点を切り取った姿がこの構えなのである。

 

 死に体の猛者が魅せる気迫を前に、少女に油断は無かった。

 

 月光の下、一陣の風が吹く。

 

 男の瞳に意識の炎が燃え上がる。

 

 ぱちん、と遥か上空でシャボンが弾けて消える。

 

 刹那、

 

「ォオオオオオオオ!!」

 

「ッッッ!!」

 

 間合いを潰し、刃を振り下ろさんとするムサシの姿がコマ落としに迫っていた。

 

 雷の如き疾さで閃く、覇気に染まった黒刃。

 

 つい先程までとは桁外れに違う踏み込みのキレに、目算を誤ったのだ。

 

 まさかこの瞬間まで真の動きを隠していたのか。音速を超え、されど一切の無駄がない動作は衝撃の発生すらも許さない無音のそれ。

 

 辛うじて割り込ませた村正の切っ先が、右の大刀を掬い上げるように防ぐ。だが、その時には既に左の小刀がクイナの鼻先に触れていた。

 

「くッ! ふ、ふふ、あはははははっ!!」

 

 深く頬を裂かれながらも、首を傾けて回避。

 

 負けじと少女も踏み込む。

 

 交錯する真紅と漆黒の太刀筋。

 

 無数の火花が咲き誇り、音すら背を追う神速がせめぎ合う。鋼の鋭利が踊るように、されど互いの命を掻き消さんと赤と黒が拮抗する。

 

 そう、拮抗していた。

 

 先程まで防戦一方だったムサシの動きが、ここに来て階段を一足飛びに駆け上がるかのように洗練されていく。

 

 実力を隠していた。否、そうではない。一刀ごとに、目前の男は恐るべき速度で進化しているのだ。

 

「くっ、……ふふ、、……ふ」

 

「ガァアッ!!!」

 

 猛る。

 

 譲れないものを貫き通す為に、魂を削らんばかりの闘気の奔流が吹き荒び、それを斬り裂き音を超えた無音の太刀が閃いていく。命を蒔きとして燃え上がるムサシの進化は止まらない。

 

 真円が崩れる。

 

 S字を描き、直角に曲がり、二振りの刀が夢幻の如く神速域で揺らめき、クイナの防御を抜けてくる。深く肉を断たれる感覚。全身に走る灼熱のような刀の痛みに、裡より溢れる笑みが抑え切れぬ。

 

 刹那に走る十の斬撃、瞬き一つで倍に増え、一呼吸で百へ至る。

 

 凌駕される。拮抗が崩れ、紅い斬閃が漆黒に塗り潰されていく。

 

「、く、ぅあふっ、……つ、!」

 

 死線の最中で研ぎ澄まされた見聞色の覇気が見通す未来。

 

 あと五手の内にムサシの刃はクイナの命に届くだろう。

 

 死が迫る。

 

 絶対的な死。

 

 己を上回る強者。

 

 終わりが近い。

 

 否。

 

 そこで漸く、

 

「……、……ぁあ」

 

 少女の裡の奥深く、眠っていたモノが目を醒ました。

 

 悠久にも思える退屈な数年間。気の抜けた素振りのような一刀で吹き飛ぶ弱者の群れを相手に、それでも高みを目指さんと刀を振る内に忘れ欠けていた少女の輝き。

 

 かつて剣鬼が少女に見た、天才と呼ぶことさえ憚られる、天の災いが如き天賦。

 

 そう。あと五手の内に刃が己の命に届くならば、その五手で相手を凌駕すれば良いだけのこと。

 

「    っ」

 

 牙を剥くような笑みをクイナは浮かべた。

 

 ……あいつが相手なら最高だったのに

 

 不意の思考が脳裏に過って、一瞬後には溶けて消えた。

 

 無駄が削ぎ落とされ、身体の奥深くにいつの間にか出来ていた澱みが吹き飛び、残っているのはクイナと村正、一人と一刀。

 

 全細胞が奮い立つ。

 

 ……さあ、行こう

 

 跳ねる。

 

 呑まれかけていた紅が、黒を弾き返す。

 

「ッ、ガァアアアアアッ!!!」

 

「はは、ははは、ぁははははひゃひゃひゃひゃっ!!」

 

 両者ともに一歩も引かない。渾身に渾身を重ね、持ち得る限りの全てで以って魂の如き鋼の鋭利を叩きつけ合う。

 

 その光景は、まるで二つの宝石が互いで互いを研磨しているかのようで。

 

 その光景は、まるで二人が手を取り踊っているかのようで。

 

 加速度的に咲き誇る火花の数は増え、それに累乗するかの如く、虚実の次元も更なる高次へ突入していく。百手先を読み合いながらも、一手毎に進化する斬撃。力も技も速度も、何もかもが、敵手を追い越さんと進化に進化を重ねて加速していく。

 

「「    ッ!!」」

 

 一刀毎に伝わるムサシの感情。譲れぬもの、犠牲にした者の為、命を燃やし尽くすことの出来る感性は、クイナには到底理解出来ない。だが、それもまた頂へと至る道の一つなのだろう。

 

 少女はただ己の我を突き詰めるのみだ。強くなりたい。世界最強の剣客へ。誰かのためではなく、ただ己が高みに立ちたいが為に。

 

 今、こうして全存在を賭して己と鎬を削ってくれる男に、クイナは抱き締めたいほどの愛情を感じた。それは幼い頃、最高のライバルとして誓い合ったゾロへ向けていた感情に近いもので。

 

 まったく、嫌になる。これでは気の多い痴女《ビッチ》のようではないか。だが、それもまた良し。強者を求める剣士としての本能が、今この男との死合いの中でどうしようもなく疼くのだから。

 

 恋人同士で睦言を交わすが如く、宿敵を愛するように閃く剣戟。それはもはや音の域を遥かに超え、衝撃と化して周囲の樹木を破壊していく。

 

 紅い閃光と化す村正と、二振りの漆黒が重なる。

 

 世界が上げる悲鳴の如き衝撃が、ヤルキマンマングローブの樹海を突き抜けた。

 

 

 

 

 

 

 音が遠い。

 

 鼓膜は耳鳴りに埋め尽くされ、視界は血涙に紅く滲む。口の中は鉄の味に支配され、動く度に全身が軋み、鈍い音が内側に木霊した。 

 

 もはや何合目かもわからぬ剣戟の交錯。

 

 幾百幾千と限界を超えた。

 

 幾百幾千と全霊を叩きつけた。

 

 それでもなお、目前の敵は倒れない。

 

 壁を超える。今まで、つい先ほどまで限界だと感じていた領域を踏み越えて駆け上る。

 

 負けぬ。

 

 ムサシの心を占めるのは、その想いのみだ。父を、剣鬼を超えるなんて思考は欠片も残ってはいない。そんなものは既に燃え尽きていた。

 

 だってそうだろう。最愛を最愛だと見失ってまでも追い求めた道なのだから。この程度で止まる訳にはいかないのだ。この程度で終わるほど、自分のユウへの想いは弱くはないのだから。

 

 より強く、より速く、進化に進化を重ねるような超常の域に踏み入る斬撃が弾かれる。一秒前の少女の動きを限界を超えて追い抜けば、さらにその一秒後には紅い斬撃が追い付き抜き去っていく。

 

 際限なく削り合い、高め合う互いの剣戟。

 

 おそらく、クイナと出会わなければ何十年と掛けて研ぎ澄ませたかもしれない頂への道程を、ムサシは僅かな時間で駆け上がり、登り詰めていた。

 

 先へ。

 

 先へ。

 

 何処までも何処までも、幾百幾千の限界の壁を突き破って。

 

 だが、止まぬ雨がないように、終わらぬ死合いもないのだ。

 

 大小二振りの愛刀が大きく弾かれた。手放さぬように握りしめるものの、強い痺れが両腕を苛んだ。

 

「……、くっ!?」

 

「疲れちゃった? いえ、まだでしょ。まだまだまだまだッ、愉しみましょうよッッ!!!!」

 

 押し負ける。よろめくように後退するムサシへ向けて、クイナの斬撃が紅く閃く。

 

 自身の動きが衰えた訳ではない。限界を超えて、今もなお少女を斬らんとムサシの四肢は神速域で斬撃を放っている。それにも関わらず、追い付けない。刃は空を切り、一方的にムサシの身体が切り裂かれていく。

 

 限界。

 

 真の意味での、これ以上ない高みへ至るための階段が、目前で途切れていたのだ。

 

 生まれ持った才覚と、積み上げてきた収斂の果て。

 

「俺、は……」

 

 呟き、少女を見据える。

 

 凄惨な笑みを浮かべ、何処までも高みへ駆け、飛翔していく化け物の姿を。

 

 ……そう言うことか、父よ

 

 最期の輝きが、交差した。

 

 

 

 

 

 

 十字に重なる漆黒を断ち切るように、一筋の真紅が空間ごと切り裂くように輝いた。

 

「「……、っ!!」」

 

 クイナとムサシ、二人の影が交錯する。

 

 紅と黒、空間に刻まれた二色の斬光が溶けるように消えていく。

 

 互いに一足一刀の間合いで背を向け、二人は振り抜いた得物を中空でぴたりと静止させる。

 

 残身。

 

 背を向け合ったまま、穏やかな時間が緩やかに過ぎて。

 

 凛、と。静寂に支配された世界に響く涼やかな刃の音色。

 

「……か、はぁッ」

 

 不意に、クイナが微かな呻きを溢して膝をつく。

 

 びちゃ、と地を濡らす少女の鮮血。全身に浅く負った斬撃、そして最後の交錯で刻まれた首筋の傷が花開くように命の赤を噴き出す。あと数ミリの紙一重で頸動脈を裂かれていた。

 

 限界を踏み越え、飛ぶような勢いで駆け上がった頂への道。

 

 全身の筋肉が痙攣し、傷口は異様なまでに熱い。

 

 震える脚に力を入れて立ち上がる。ともすれば取り落としてしまいそうに震える手で村正の血を払い、音もなく鞘へと収めながら振り返ると、クイナは笑った。

 

「私の勝ちよ、ムサシ」

 

 鍔鳴りの音。

 

 つられるように、男の二刀がその半ばから砕け散る。

 

「嗚呼」

 

 限界以上に酷使され、足元へ弾けるように物寂しく転がる刃の破片を眺めるムサシ。

 

「俺の、負けか」

 

 振り返った男の身に深く刻まれた、胴を横一文字に断つ一刀。

 

 口端からこぼれる鮮血が滝の如く地を叩き、腹圧に臓物がこぼれぬように筋肉を締めるものの、死を先延ばしにすることが精一杯の有り様だ。

 

 噴水のように命がこぼれていく。

 

「……、が、ぁ、、、一つ、聞かせろ」

 

 血塗れの口を動かし、男が問うた。

 

「お前は、何のために、……その刀を、振るう?」

 

 その問いに籠められる想いは、クイナには理解出来ぬものだ。だから、即答する。死を前にしたこの愛おしき猛者の冥土の土産に、幼げな笑みを浮かべて嘯く。

 

「もちろん、愉しいからよ。自分と相手の生死が溶け合う瞬間がこの上なく、ね」

 

 理由などない。

 

 誰かの為ではない。

 

 手段が目的に変わる何てこともない。

 

 只々、己が愉しむ為だけに、クイナはこの道を突き進むのだから。

 

 究極の自己中心主義の塊こそが、剣客という化け物の姿なのだから。

 

「……は、は、どうりで、敵わん……わけだ」

 

 もはやムサシはクイナを見てはいなかった。色濃い死の気配が男を包み、その肌から血の気が引いていく。

 

 遠く夜空に浮かぶ月を仰ぐように顔を向けて、

 

「さらばだ、クイナ。俺は先に地獄へ逝くとしよう」

 

「さよなら、ムサシ。最高に愉しかったわ」

 

 男の呼吸は停止した。

 

 心臓が脈を止め、その身体が血の海に倒れ伏す。

 

「ふ、ふふ……」

 

 身体を震わせ、クイナは立ち尽くす。

 

 ムサシとの死合いが少女に齎した脳内麻薬の大量分泌。絶頂にも似た多幸感が全身を包み込む。

 

 生涯において一番だと断言できるほど、最高の気分だった。

 

 ふと顔を上げれば、ムサシが最期に仰いでいた月が煌々と空に輝いていた。どんな心持であの光を見上げたのか少女にはわからない。だから、クイナは幼き日に誓ったライバルの姿をそこに見出した。

 

 あの、月光の下で交わした頂点を争うという誓い。

 

 ……いま、どうしているかしら。こんな幸せな日々をおくっているといいのだけど

 

 おもむろに持ち上げた手の平を月へと翳し、握りこむ。

 

 願わくば、彼ともこんな魂を削り合うひと時を過ごしたいものだ、と。全身に走る激痛と多幸感を噛み締めながら、しばしの間、少女は余韻に浸って身を震わせるのだった。

 

 

 

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