「――着きました……間違いなく、ここです。」
案内の為に一人だけ前を歩いていたティアナがそう言って立ち止まり、なのは達の方を振り返る。
そこは一見すれば何の変哲もない森の中の一角であり、周囲を見回しても彼女が滑落するような穴は見当たらない。
しかし、ティアナには確信があった。一見して何の目印も無いが、確かにここで……
「ここであたしは左脚を撃たれてバランスを崩し、そして……」
ティアナは迷いなく背の高い茂みの一つに歩み寄ると、それを搔き分けてその先を示した。
「この茂みを突き抜けて……この、崖に……」
彼女が掻き分けて見せたその先は崖になっており、覗き込む眼下には光さえ届かない暗黒の亀裂がその口を薄く開けていた。
「……案内ありがとうティアナ。
やっぱり、今でもここは怖い?」
なのはは微かに震えるティアナの左脚を一瞥すると、彼女に尋ねる。なのはは言葉にしなかったが、その眼は「無理と感じたのならば引き返しても良いよ」と彼女に問いかけていた。
ティアナは自らの脚の震えを自覚しつつも、なのはから与えられた選択肢に毅然とした態度で返した。
「そうですね、この崖に来るのはあれ以来ですけど……再現されたデータだって分かってても、正直怖いです。
だけど……なのはさんがここにあたしを連れて来たのは、今のあたしなら乗り越えられるって信じてくれたからだって事も分かってます。
だったら……あたしは応えたいです。絶対に。」
そんな彼女の姿に、なのはの眼が微かに揺れる。
何時しかティアナの震えは左脚に留まらず、その全身が震えていた。それは恐怖に竦んだからではなく、恐怖と戦う決意から来る『武者震い』だと感じたからだ。
――これならきっと大丈夫。
ティアナの決意に引っ張られるように、なのはの心も固まった。
「分かった。
それじゃあ先ず……
そう言ったなのはの眼前にウィンドウが表示される。
ティアナからは内容が分からないそれをなのはが操作すると……
「――え。」
突如としてティアナの立っていた足場が崩れた。
『第一段階、先ずはこの状況に対処してみて。
直ぐにこっち側に復帰しても良いし、崖の底に安全に降り立ってから戻って来ても良い。
とにかく、対応できる事を見せて。』
すっかり遠くに離れてしまったなのはの声が、彼女の耳に明瞭に届く。念話とも違うその感覚は、ここが仮想空間故のものだとティアナに理解させた。
しかし、今のティアナはそんな事で誤魔化しきれない恐怖に包まれていた。
身体が遥か下の地面に引っ張られる感覚、手を、足を、顔を空気が撫でては置き去りにする絶え間ない喪失感。
落ちる、落ちる、落ちていく……そう理解する程に、彼女の心はどうしようもない恐怖に包まれて行く。
――怖い! 怖い!! 怖い!!!
するべき事は分かっていても、既にその手にクロスミラージュを構えていても、放ったアンカーが自らの身体を安定させるイメージが湧かない。その不安から腕が震え、照準が定まらない。
――このままじゃ、あの時と同じように……!
思わず固く閉じた瞼の裏に、当時の感覚が明確に蘇る。
何時衝撃が来るともしれない闇の中、滑落の際に傷ついた左脚の痛み以外の何も分からないあの感覚。
いつ地面にぶつかるのか、その時どれほどのダメージを受けるのか……その時、自分は生きていられるのか。
そんな何も分からない恐怖……しかし――
「ティアアアァァァーーーーーーッ!!!!」
その闇から掬い上げてくれた友人の声が、その全てを砕き、塗り潰してくれた。
再び崖の上に戻った時の光景、スバルに抱えられた時の感覚……そして、あの暗黒の崖の底で見上げた空に、スバルの顔が覗いた時の安心感。
「っ!!」
自然と目が開いた。開いた光景の先……あの時と同じように、崖から身を乗り出してこちらを覗き込むスバルの顔が見えた。
震えが止まる。冷静な思考が戻って来る。しかしあれから落下を続けた彼女の位置からでは、いくつも突き出した木の根のどれもが遠く、アンカーが届かない。
だが……
――そこ!
二丁のクロスミラージュから放たれたアンカーが、彼女とそう高さの変わらない位置の岩肌の両サイドに突き立つ。
「くっ……ぅ!」
やや遠くの岩肌に伸びた魔力のワイヤーは、彼女の身体をまるで振り子のように揺らし、その遠心力は彼女の体に多大なGの負荷をかけた。
だがその負荷を乗り越え、タイミングを見計らいワイヤーを消せば、彼女の体に残るのは彼女を上空へ持ち上げる運動エネルギーだ。
「届、けぇっ!」
運動エネルギーが切れる直前に放たれたアンカーは、今度こそ崖から突き出した木の根の一つを捉え、彼女の身体をしっかりと支えたのだった。
「ティア……良かったぁ……!」
崖の下を覗き込んでいたスバルの安堵した様子に、私も胸をなでおろす。
それと同時に、やはり彼女を連れて来た事は間違いではなかったのだと実感した。
過去の失敗から来る経験は、半端な成功体験よりも未来に活かされる。だがそれも大き過ぎれば良くないイメージばかりが先行し、行動を妨げる枷になる……
正直、私もティアナがその枷に囚われる事を危惧していたし、その不安は的中した。
ティアナはあの時確かに恐怖と戦う覚悟を決めていた。
もしも冷静に深呼吸をし、コンディションを万全に整え、『行きます!』と宣言し、自らの意思で崖に飛び込めば今回以上の結果を容易く得る事が出来ただろう。
『こうなると分かった状態』を乗り越えるのは、『突然訪れた困難』を乗り越える事に比べれば遥かに簡単だ。
そう言った小さな成功体験を少しずつ糧にして一歩一歩乗り越えていく……そんな方法もあったかもしれない。
だけど、それではダメなのだ。
確かにその方法でも暗闇の恐怖は乗り越えられるかもしれない。しかし、『突然の恐怖』に弱くなる可能性があった。
予め想定できる事態には強いが、急な状況の変化に弱い……それはセンターガードの素質としては2流も良い所。その上、私達機動六課が対峙する事を宿命付けられたのは『正体も分からない滅び』と言う脅威だ。
時期不明、正体不明、戦力不明……何も分からない事態に、そんなティアナでは対処できない。
彼女を機動六課にスカウトしたのは、何もアニメで彼女を知っていたからではないのだ。
彼女達の能力が同年代の魔導士の中でずば抜けており、成長の見込みも大きかったことから『脅威に立ち向かう戦力として相応しい』として純粋な実力で選んだ精鋭なのだ。
だから、彼女には一流のセンターガードになって欲しい。
彼女達の将来の為にも、その将来に彼女達が生きていられる為にも、一流でなければならない。それ故の荒療治。
『暗闇に対する恐怖』『突然の脅威に対する対応力』『分からない事態に怯まない精神力』……その全てを満たす為に、優しい手段を取っていられるだけの余裕は無い。
「――そう言う事だから、手を放してくれないかな? スバル。」
「ッ! ……わかり、ました。
…………取り乱して、すみませんでした。」
「大丈夫だよ。貴女が怒る事も覚悟の上でやった事だから。」
私の胸ぐらを掴んでいたスバルの手に触れてそう事情を説明すると、彼女は何とか怒りを堪えるようにして手を放してくれた。
スバルの気持ちは分かる。確かにティアナはこの試練を乗り越えてくれた……この結果があったからこそ、今彼女は私の胸ぐらを掴むところで留まれたのだ。
だけど、当然失敗のリスクだってあったのだ。そして失敗すれば、ティアナが二度と立ち直れないリスクも……
この仮想空間では命に影響が出る事は無い……しかし、心は違う。
極限までリアルに再現された空間の中で得られる経験は、現実のそれと殆ど同じ密度を誇る。だからこそここでの経験がリアルに活かされるし、成果も如実に表れる。
だがそれは逆もまた同じ。
ここで得てしまったトラウマは、リアルにも悪影響を与える。仮想現実での訓練を長く積んで来たスバルにも、それが分かっているのだ。
「……この訓練が終わったら……」
「うん?」
「一度、仮想空間内での模擬戦をお願いします。そこで割り切りますから。」
とは言っても、心と言うものは理屈の外にあるものだ。
今の彼女の中には、どうしても堪え切れない衝動が渦巻いているのだろう。
微かに伝わる空気の振動が、彼女の本気をそのまま伝えて来た。
「……うん、良いよ。何度でも。」
「ありがとう、ございます。」
これは一発や二発、顔を殴られる覚悟が必要かも。
「面白い話をしてるじゃない。当然、あたしもその場に居るのよね?」
「ティア! 大丈夫だった!?」
「平気よ。……さっきはありがとう、スバル。
アンタのおかげで立ち直れたわ。」
「! ……えへへ、どういたしまして。」
今しがたクロスミラージュのアンカーで崖を上って来たティアナが話に加わり、スバルに感謝を伝えると、今度は私を真っ直ぐ見つめて告げた。
「あたしもなのはさんに届けたい思いがあります。
ですから、あたしも模擬戦に混ぜて貰っても良いですよね?」
「うん。全ての訓練を乗り越えてくれたなら、いくらでも付き合うよ。」
今の二人がかりなら……特に、あの事件で知ったスバルのISなら、私のプロテクションも破れるだろう。彼女の出した条件である仮想空間内なら、リスクである腕の故障も模擬戦後には無かった事になるし、間違いなくやる気だ。
……これは一発や二発じゃ済まないかも。
こんな形で決まった模擬戦だとしても、私は手加減をする気は無い。
だけど……それでも、この訓練を終えた後のこの二人が組んだ時、もしかしたら彼女の拳は私を捉えるかもしれない。
そのくらいの
だって、彼女達は私達が実力で選んだ掛け値なしの
第一段階が完了して第二段階へ……と行きたいところですが、全部描写すると話数を大分使うので次回は合流(午後の訓練)からです。
どんな訓練だったかは描写を軽く挟む予定ですが、簡単に言うと色んな状況で何度も落ちます。(勿論第一段階とは別の目的があってのものです)