魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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再訪

 魔法省大臣は午後の始業の放送が聞こえると同時に席を立つと、ただ一言「邪魔をした」とだけ言い、ケンタウルス担当室を出て行ってしまった。取り分けたサンドイッチも淹れ直した紅茶も手付かずのまま残されている。結局のところユアンから借りたローブを返却しただけで、一体全体何をしにやって来たのかということは分からずじまいだった。

 ジェーン・スミスは机の上を片付けながらため息を漏らすと、精神的苦痛を蹴散らすように頭を掻きむしった。それからしばらくの間、身体をぐったりと脱力させて机に伏せていたが、こうしてばかりもいられないと起き上がり、後片付けを再開させる。新聞、雑誌、本を読み終えるとすぐに奥の部屋から資料を取り出してきて、再び最初から目を通しはじめた。

 これまでただの一度もケンタウルスが利用していないからといって、この先一度も利用されることがないとはかぎらないのだ。もしかしたら今日、明日にも利用者があるかもしれない。そうしたときに対処できず、手間取っているようでは話にならないだろう。それこそ魔法省の評判を貶めることになってしまう。異動してきたばかりだというのは、何の言い訳にもならない。

 しかし、そうした心配をよそに、ケンタウルスが担当室の扉を叩くことはなく、ジェーンはその日の仕事を終えた。他の職員たちがあくせく働く姿を横目に見ながら魔法省を後にする。どこかへ寄り道することもなく帰宅すると、既に店じまいを終えていたユアンが機嫌良く迎えてくれるが、同時に気づかわしげな目でジェーンを見た。

「まっすぐ帰ってこないで、好きに遊んで来てもいいんだよ」

「今日中に目を通しておきたい資料があったから」

「昨日も同じことを言っていたね」

「そうだった?」

「そうさ」

 今度の休みにでも遊びに行くとは言ってみるものの、ユアンは苦笑いを浮かべてそれに応じている。信じていない様子だ。それはそうだろう。ジェーンが勤めはじめてからこちら、魔法省が休みの日に遊びに出掛けたことなど、片手で数える程度しかない。

「夕飯は?」

「自分でするから大丈夫、ありがとう」

 部屋に戻ってすぐバスルームに向かい、軽くシャワーを浴びてから部屋着に着替える。ベッドの上に放り投げた鞄の中から資料を引っ張り出し、昼食の残りのサンドイッチを食みながらそれに目を通していると、足元にふわふわとした気配を察知した。どうやら閉め忘れた扉から猫が入ってきてしまったようだ。

「ただいま、クロケット」

 ジェーンの足に身体をすり寄せながら、クロケットは深みのある声で鳴いた。頭をそっと撫でてやるとその場にころりと寝そべり、もっと撫でてくれと催促をしてくる。ジェーンは手に残っていたサンドイッチを口の中に詰め、ナプキンで手の平を拭ってから、その場にしゃがみ込んでクロケットの腹をまさぐるようにして撫でた。まるで毛足の長い高級絨毯のような手触りだ。ブラッシングに余念がないユアンの努力の賜物だろう。だが、あまり調子に乗って撫で続けていると気分を害してしまうので、要注意だ。

「明日から私の仕事について来ない? 考え事をまとめるために話相手がほしいのだけれど、誰もいなくて」

 そいつは遠慮すると言わんばかりにジェーンの手の甲に爪を立てたクロケットは、ゆっくりと起き上がり、尻尾を立てたまま部屋を出て行く。

「つれないのね」

 その後ろを追いかけていき、階段を降りていく後ろ姿に向かってそう声を掛けるが、クロケットはか細い声で返事をするだけで振り返ることはなかった。

 

 しかし、おかしなことに、翌日の昼休みにも魔法省大臣がケンタウルス担当室に現れた。

 建て付けの悪い扉は開けたままにしていたが、奥の部屋で資料を漁っていたジェーンには、廊下の向こうから歩いてくる足音が聞こえなかったようだ。こんこんこん、という昨日と同じノックの音が聞こえ、ジェーンが奥の部屋から顔を覗かせると、そこにキングズリー・シャックルボルトの姿があった。

「……」

「何か言ってくれ」

「遠方からのご足労、痛み入ります、大臣」

「今日は手土産を持ってきた」

「はあ、それはご丁寧に」一体どういう風の吹き回しなのだろうと思いながら、ジェーンは何冊もの資料を抱え、シャックルボルトの前に姿をさらす。「散らかっていますが、お入りください」

「忙しそうだな」

「嫌味を言いにいらしたのですか?」

「いや」シャックルボルトは苦笑いを浮かべながら首を横に振った。「今のは失言だった」

 シャックルボルトが言うように、ジェーンは朝から忙しくしていた。もちろん、朝一番にケンタウルスが現れて、何らかの相談を持ち掛けてきたわけではない。だが、昨日持ち帰った資料を読み進めていくうちに、それらが相当昔にまとめられたものであることに気づき、情報の更新が必要なのではないかと考えたのだ。

 各保護区の環境調査はここ十数年行われておらず、群れの数やケンタウルスの個体数も把握できていないのが現状だ。ケンタウルスは魔法省に管理されたくなどないだろうが、もしもの時のためにある程度の情報を得ていなければ、担当室としても対処することができない。先の戦いで犠牲が出ているのは、何も人間ばかりではないのだ。

 そうしたことを踏まえると、まずは手持ちの資料で情報収集をしたのち、現地調査に向かうのが最善であると、ジェーンは既に結論付けていた。

 ジェーンは杖を軽く振り、部屋中で山となっている資料をふわりと浮かせると、空の戸棚に収めた。壁に貼り付けていたイギリス全土の地図をシャックルボルトが眺めていたが、ジェーンはそれを手元に呼び寄せ、くるくると巻き取って傍らに置く。

「それで、本日はどのようなご用件です?」

「君に聞いておきたいことがあるんだ」シャックルボルトはそう言いながら、手土産が入れられている紙袋を差し出してくる。「実は、昨日もその話をするつもりで来たのだが」

「では、今日は単刀直入に願います。ご覧の通り暇ではありませんので」

「もちろん、そうしよう」

 昨日の少し戸惑っているような様子とは違い、引き締まった面構えをしたシャックルボルトは、ジェーンに向かって座るように言う。ジェーンが紙袋を机の上に置き、言われるがままに腰を下ろすと、シャックルボルトも机越しに腰を据えた。

 小さく咳払いをしたあと、短く息を吐き出す。

「先日の査問会の後、魔法警察部隊を聖マンゴに派遣し、アズカバンに収容されていた者の中でも比較的心的外傷の少ない患者から調書を取らせてきた。大臣室からの持ち出しは厳禁だとウィーズリーがうるさいので持っては来られなかったが、実に不可思議な調査結果が記されていた」

「吸魂鬼の脅威に晒されていた人々に正確な証言が可能だったかどうかは甚だ疑問ではありますが」

「吸魂鬼がエネルギーとするのは人々の希望や幸福だ。その反動として、絶望や不幸といった類の記憶は多くの場合、より強く印象付けられることになる。自分をいっそ死んだ方がましと思えるような環境に送り込んだ者のことは、何があっても絶対に忘れないだろう。むしろ、その恨みは日に日に増していったはずだ」

 ジェーンはやはり黙っていた。シャックルボルトが言わんとしていることが理解できたからだ。瞬時に余計なことを口にするべきではないと判断し、ただ黙してシャックルボルトの言葉を待った。

「警察部隊の者の話では、ドローレス・アンブリッジを罵る声はあっても、君の名を――ジェーン・スミスの名を挙げて呪いの言葉を吐くような者は、誰一人としていなかったそうだ」

「そうですか」

「誰一人として、というのが奇妙だとは思わないか?」

「いえ、特には」

 一体何の話をしているのか分からないというふうな顔をして、ジェーンは手土産の袋を手に取り、その中を検める。手を入れて中身を取り出してみると、ジェーンが好きでよく飲んでいる銘柄の茶葉であることが分かった。しかも、限定缶に入っているものだ。シャックルボルトが誰からジェーンの好みを聞いたのかは分からないが、ご苦労なことである。

 目立った反応を見せないジェーンを目の当たりにしたシャックルボルトだったが、たいして気にしていない素振りだ。それどころかシニカルに笑んで見せたかと思うと、ポケットから何枚かの紙切れを取り出し、それを机の上に並べはじめた。ちらりと横目で見やると、すぐに日刊預言者新聞の切り抜きであることが分かった。それはジェーンにも見覚えのある記事だった。昨日まとめて読んだものの中に含まれていたものだ。

 死からの帰還――という何とも仰々しい見出しで、死亡届が出されたはずの者や、吸魂鬼のキスを施行されたはずの者が、ある日突然ひょっこりと帰ってくることが多発している、という内容のものだった。

 ジェーンは手にした缶を紙袋の中に戻すと、それを再び傍らに置いて、シャックルボルトに目を向けた。

「この切り抜きが何か?」

「リータ・スキーターが書いたものだ」

「ゴシップ記者がオカルト記者に転向でもしたのかしら」

「これらの記事は読んでいるか?」

「新聞と週刊誌と話題の本にはほとんど目を通すようにしています」

「どう思う?」

「リータ・スキーターの書くものに信憑性があるとでも?」

「では、これらの記事はすべて彼女の出任せか?」

「私には判断しかねます」

 すました態度でいるジェーンを見つめたまま、シャックルボルトは顎に手を添え、何やら思案げにしている。椅子の背凭れに寄り掛かって身体を預けると、リラックスするような姿勢で足を組んだ。ぴんと背筋を伸ばし、見方によっては緊張感を漂わせている様子のジェーンとは対照的だ。

 まるで勝ち誇っているかのような面持ちが気に入らず、ジェーンが微かに片頬を引き攣らせると、シャックルボルトは口角を持ち上げて笑った。

「ヴォルデモート卿の失脚が彼女のジャーナリスト魂に再び火をつけてしまったようだ。アルバス・ダンブルドアの伝記だけでは飽き足らず、また何冊かの本を書くつもりらしい。既に構想は練ってあると熱心に話して聞かせてくれたよ」

「大臣自らリータ・スキーターとお会いになったのですか?」

「彼女に直接聞きたいことがあったからな」

「さぞかし無駄なお時間を過ごされたのでしょうね」

「ああ、まさか私の口からこのようなことを言う日が来ようとは想像したこともなかったが――」シャックルボルトがそう言って頭を傾けると、左の耳に飾られた金のピアスがきらりと輝いた。「実に有意義な時間だったことは間違いない」

 リータ・スキーターの書く記事は、その多くが事実を誇張し、読者好みに歪曲したものばかりだ。この新聞記事も例外ではない。あの女記者は読者が自分の記事を読んであれこれと噂し、熱狂し、疑り深くなることを悦び、楽しんでいる。

 日刊預言者新聞や週刊魔女をはじめとした週刊誌がリータ・スキーターの記事を欲しがるのは、その名の知名度と話題性で発行部数が伸びることを実感しているからだ。実際、内容など問題ではない。本来であれば、真実を見る目を持っている者ほど、リータ・スキーターの記事には見向きもしないはずだ。

 この魔法省大臣なら尚のこと、無視をして然るべきと判断するのが普通だろう。だがしかし、キングズリー・シャックルボルトは自らの足でスキーターの下に出向き、その上彼女との話が有意義であったなどと言う。ジェーンにはその神経が分からなかった。

「彼女は今回の記事を好感度と更なる知名度の向上のために書いたのだと言っていた。今後のための宣伝活動だと」

「売名行為の間違いでは?」

「皮肉なことに、スキーターが書いた記事の中で最も評判が良く、最も多くの人々に読まれたものは、ザ・クィブラーに掲載されたものだ。ヴォルデモート卿の復活を目撃したハリー・ポッターのインタビュー記事だが――」

「読みました」

「真実は人の心を打つということを理解していながら、スキーターはそれを良しとはしていない。それでは何の面白味もないという。真実を伝えるだけならば他の記者がいくらでもやっているのだから、自分は自分にしか書けないものを書くのだとも言っていたな。あれくらいたくましくなければ、ジャーナリストなどやってはいられないのだろう」

「真実を正しく伝えてこそ真のジャーナリストと呼べるのでは? 彼女はただのゴシップ記者です」

「だが、あの記事にかんしては一切嘘偽りはないと断言している」

「それを信じたのですか?」

「既に裏付けは取れているからな」シャックルボルトは小さく肩をすくめた。「死んでいるはずの人間が生きていた。それは嘘偽りのない真実だった」

「では、まずは魔法生物規制管理部の部長に話を聞いてみるべきです。存在課の課長であれば、より詳しい話を――」

「残念ながら、彼らは当時部長と課長の席を空けていた。そのことについては責めてやるな。職員たちは代理を立てはしたが、普段通りの働きは到底見込めなかっただろう。連日、通常では考えられない人数の死亡と失踪届が出され、彼らはそれを受理し続けていた。それでは、身も心も疲弊するはずだ」

 シャックルボルトはまっすぐにジェーンの目を見つめている。何か強い確信があるというふうな表情だ。ジェーンはただ、その眼差しから逃げないようにするだけで、今は精一杯だった。

「もし何者かが虚偽の死亡届を書き、提出していたとしても、彼らにそれを精査するだけの余裕があったとは思えない。もしくは、分かった上で受理していたという可能性も皆無ではないだろう」

 ジェーンは目を伏せ、ほう、と息を吐いた。今度はシャックルボルトが黙り込み、ジェーンが話し出すのを待っている。

 シャックルボルトは既に裏付けは取れていると言った。だが、ある程度のことは把握できているとしても、全体像としては未だ朧気で、すべてを理解したとは言い難い状況に違いない。

 さて、困ったことになった――ジェーンは内心で困り顔を浮かべるが、実際には平然とした面持ちで、シャックルボルトと正面から対峙するしかなかった。

「なぜ今になって私にその話をするのです?」ジェーンはシャックルボルトの瞳孔がほんの僅かに広がり、瞬時に縮まる様子を、じっくりと観察していた。「まったくもって無意味かと」

「なぜそう思う?」

「既に査問会は終了し、処断は下されました。その結果として私はここにいるのです、大臣」

「それはその通りだが――」

「大臣は私に自分を恨んでいるかと問いましたね」シャックルボルトが頷くのを待って、ジェーンは続けた。「私は恨んではいないと申し上げました。ただ、腹を立ててはいると。私はあなたから向けられる罪悪感が気に入らないのです」

「しかし」

「私は人を殺しました。それはマグル生まれの人々です。何枚もの死亡届を書き、それを存在課に提出しました。その事実は変わりません」

「だが、彼らは生きている」

「彼らが生きていることと、私がここでこうしていることは、まったく別の問題です」

「……君は私を責めているわけか」シャックルボルトは参った様子で後ろ頭を掻いた。「初動が遅すぎる上に調査が不足していた」

「それに、私が死喰い人に資金を提供していたことは疑いようのない事実です」

「同じことをしていた連中は他にいくらでもいる」

「魔法省大臣ともあろうお方がそのようなことを」

「魔法省大臣になど誰がなっても構わなかったのだ」僅かに吐き捨てるような口振りでシャックルボルトは言った。「今回は偶然私に白羽の矢が立ったというだけのことだ」

「それでもあなたは魔法省大臣なのです」

 魔法省大臣など誰がなっても同じだとジェーンは思う。極端な話をすれば、無能な人間でも魔法省大臣になることは可能だろう。

 大昔の無才な王のように、ただ玉座をあたためてさえいれば、黙っていても周囲の者たちが政を行ってくれる。それと同様に、魔法省大臣はただ補佐官が差し出す書付にサインをしていれば、黙っていても魔法界は回っていくのだ。

 だが、ジェーンは無能な魔法省大臣を望んでいるわけではない。有能であればそれに越したことはなかった。むしろ、ジェーン・スミスは後者を待ち望んでいる。自分が仕えるに足る主君を待ち続ける従者のように、次こそはと期待しているのだ。


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