魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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善悪の定義とは

 ジェーン・スミスがはっきりとした拒絶を示して以降、魔法省大臣がケンタウルス担当室に姿を現すことはなくなっていた。

 だが、奇妙なことに元同僚たちが空いた時間を見つけては度々ケンタウルス担当室を訪れ、仕事の愚痴を漏らしたり、助言を求めたりしてくることがある。最終的には、今の魔法省大臣は以前の三人に比べると些かマシだと口を揃えて去っていくので、何者かの差し金である可能性は否めなかった。

 ある日、母親が焼いてくれたというクッキーを持参してやって来たパーシー・ウィーズリーは、椅子にどっかりと腰を下ろすと机に頬杖をついて、紅茶を淹れているジェーンを恨めしそうに睨んだ。

「ずいぶん楽しそうにやってるじゃないか」

「そう見える?」

「補佐室にいるときよりずっと顔色が良いようだし、それに何より健康そうだ」

「毎日三度の食事と八時間の睡眠がとれているからかもね」

「僕は相変わらず一日二回の食事と四時間睡眠が基本だよ」

「愚痴を言うくらいなら大臣室付きを離れたら? 肩の荷が下りて楽になれると思うけれど」

「これは愚痴なんかじゃない。ただ事実を述べているだけだ」ジェーンがティーカップをそっと置くと、ウィーズリーは背筋を正して座り直し、反射的に感謝の言葉を口にした。「君一人分の穴埋めをすることくらい、この僕にしてみれば造作もないことさ」

「はいはい、そうですか」

 手土産に受け取ったクッキーを皿に出すと、ウィーズリーはそれをやや乱暴に一枚取り、半分に割った一方を口の中に放り込んだ。いやに硬そうな音のするクッキーを奥歯でごりごりと噛み砕きながら、淹れたての紅茶を口に運ぶ。まだ熱い紅茶が舌先に触れた瞬間、口汚い悪態を吐いたのを見て、ジェーンはこの青年が酷く不機嫌であるということを察した。

「話したいことがあるのなら、聞くだけは聞くけど」

 ジェーンがそのように言うと、カップを遠ざけるように押しやっていたウィーズリーが顔を上げた。その眼差しを受け止めながら肩をすくめると、ウィーズリーはこれ見よがしにため息を吐く。

「僕は君がいなくなったことに腹を立てているんじゃない」相槌を打つ代わりに首を傾げてみせると、ウィーズリーは続けた。「異動は君の希望じゃないけど、戻らないと決めたのは君の意思だろう。それを無理やり連れ戻そうとするのは大きな間違いだ。それなのに、大臣や他の何人かの補佐官は、未だに君を連れ戻す方法を画策している。僕はそういう、君に執着している連中に腹を立てているんだ」

 ああ、この青年はどこまでも誠実で賢明なのだと、ジェーンは改めて思った。

 何事にも終わりがあることを知っている。いや、最近になって知ったのかもしれない。同時に、過去に身を置くのではなく、前へ進むことも知っているのだ。もしかしたら、置き去りにしてでも遠ざけたい過去があるのかもしれないが、そこまで踏み込んで訊ねられるほど、ジェーンとウィーズリーは気安い仲でもなかった。

「君だって、自分の意思で戻らないと決めた誰かを当てにするのは間違っていると思うだろう?」

「そうね」

「だから僕は言ってやったんだ。もうジェーン・スミスに期待するのはやめて、現実を見ろって。君が戻ってくるのを待ち続けていたら、いつまで経っても現状に慣れることはないからね。それに、期待をし続けるというのは、いつまでも君に重荷を背負わせたままでいるということにもなるんだ」

 正直に告白してしまうと、ジェーンはこのとき、ウィーズリーの言葉に少なからず胸を打たれていた。

 この一年間を共に生き抜いてきた同僚だからこそ言える言葉なのだろう。ただの優しさだけではない。ジェーン・スミスの現在を、最も正しく理解している。

 この一年で変わったのはジェーンだけではない。パーシー・ウィーズリーもまた、大きな変化を遂げている。何より他者に対する思いやりが増したようだった。だが、自分本位でなくなるというのは、良いことばかりではない。周囲の変化に敏感になってしまえば、その分だけ心労も膨れ上がるということなのだ。

「私に言えたことではないのかもしれないけれど、他人よりまず自分の心配をしたらどう?」カップの中に僅かな砂糖をこぼしてスプーンで混ぜている間、二人は黙っていた。「あなただってこの一年間働きづめだったのだし」

「僕は君ほどアンブリッジや死喰い人から気に入られていたわけじゃなかったからね」

「そうでしょうとも」

「君はなんだってあんな従順なふりをしていたんだ?」

「その方が楽だったからに決まっているでしょう?」

「簡単に言うんだな」

「それ以外に理由なんてないのだもの」

 その方が本当に楽だったのだ。反抗すればやることなすことにケチをつけられる。しかし、仮初めの信頼でも得ることができれば、厳しい監視の目からも逃れることができた。

 ウィーズリーが気づいていたかどうかは分からないが、補佐官は常に見張られていた。それはドローレス・アンブリッジも同様だ。あのアンブリッジでさえ、死喰い人から本当の意味では信用されてはいなかったのだ。なぜそれを知っているのかといえば、ジェーンがアンブリッジの動向を、逐一死喰い人に報告させられていたからだった。

 だからこそ、ジェーンは補佐室ではいつも気を張っていた。自分と同じように、誰かが自分を見張っているかもしれないと、そう考えていたからだ。補佐室で信じられる人間はかぎられていた。その見極めを誤っていたら、今頃はそれこそ生きてはいられなかったことだろう。

 

 ジェーン・スミスが死喰い人から信頼されていると完全に確信したのは、たった一人で大臣室に呼び出されたときのことだった。そこでは、魔法法執行部部長だったコーバン・ヤックスリーが、我が物顔で大臣の椅子に腰を据えていた。

「お呼びでしょうか」

 魔法省大臣であるパイアス・シックネスがこのときどうしていたかといえば、彼はまるで屋敷しもべ妖精のように、大きな暖炉の前に座り込んで、そこへ大量の石炭をくべているところだった。このときのジェーンは、魔法省大臣が何者かに操られていると確信していても、その相手が誰かということにまでは考えが至っていなかった。いや、知る必要のないことだと、無意識に思考を断ち切っていたのだろう。知りすぎるということは、時として自らの首を絞めかねないことだと、そう知っていたからだ。

 椅子の座り心地を堪能するように肘掛けをいやらしく撫でていたヤックスリーは、ジェーンが机越しに立つなり、こちらを見上げてきた。まるでこの国のすべてを手に入れたかのような満足げな面持ちを見ていると、ぞわぞわとした悪寒のようなものを背中に感じる。虫唾が走るような悪人面だ。おぞましいほどに気色の悪い笑みが自分に向けられた瞬間、ジェーンは逆流しようとする胃酸を押し戻すために、強く唾を飲み込んでいた。

「もういい、シックネス」

 ヤックスリーがジェーンに目を向けたままそう言うと、暖炉に石炭をくべていた魔法省大臣は小さなシャベルを放り出して、その場にすっくと立ち上がった。こちらをくるりと振り返ったシックネスの表情は、酷くぼんやりとしていた。両方の目の焦点が合っておらず、眼球は微妙にずれた状態で、震えるように痙攣している。

 ジェーンの目にはパイアス・シックネスの意識が服従の呪文に抗おうとしているように見えた。しかし次の瞬間、ヤックスリーがシックネスに向かって杖を振りかざす。すると、シックネスの表情は恍惚としたものになり、表面に現れようとしていた意識が再び、深いところへと沈んでいくのが分かった。

 服従の呪文は、一度呪文を唱えればその効力が永続的に続く類の呪いではない。使用した者の力が強ければ強いほど効力は増すものの、呪文としての拘束力は徐々に弱まっていくものだ。だからこそ、長期に渡って服従の呪文で誰かの精神を操りたい場合は、術者が常に近くにいて、効力が弱まった頃を見計らい、呪文の重ね掛けを行わなければならない。

 普通、権力者を服従の呪文で操り、政を牛耳る算段を企てている者は、自分が術者であると名乗り出ることはしないだろう。常に陰に潜み、安全圏から様子を窺っているはずだ。だが、ヤックスリーはその禁忌を自ら冒した。それは物語の黒幕が突如として正体を現すに等しい事態だった。

 確かにヤックスリーは頻繁に魔法省大臣室を訪れていた。魔法法執行部部長ならば日に何度大臣室を訪れようが不自然ではない。しかしながら、コーバン・ヤックスリーという男が魔法法執行部部長の職務を不備なくこなせているとは到底思えなかった。だが、魔法法執行部部長のサインが記されている書類に手抜かりがあったことは、不思議なことに一度もなかった。他の誰かに政務を任せていたとしか思えない。

 そしてこれは、ここ数か月の働きを評価する最終段階にあるのかもしれないと、ジェーンは瞬時に察知していた。自らの秘密をあえて露見し、相手の出方を窺う算段なのだ。ジェーンの態度が気に入らなければ、ヤックスリーはこの場で死の呪文を行使するだけで構わない。

 ジェーンは無表情のまま、思考を高速で回転させていた。開口一番、たった一言間違えただけで、この命は瞬く間に消滅することだろう。少なくとも、この男に殺されるのはごめんだと思いながら、ジェーンは余裕を表すように、ゆっくりと大きく瞬きをした。

「私はアンブリッジ女史ほど扱いやすい女ではないつもりですが」

「あの女は汚れ仕事を片付けさせるための手駒に過ぎない」

「それを女史がお聞きになればさぞ胸を痛めるのでは?」

「勘違いをさせておけばその分よく働いてくれるのだ、そのような失敗は冒すまい。あの女には今後とも変わらぬ期待を寄せているとも」

 どのような凶悪な顔の者でも、笑みを浮かべればどこかに柔和な雰囲気が感じられるものだが、この男にはそうした気配が一切ない。笑顔は不気味な歪みとなって、見る者に精神的な苦痛を与える。

「ところで、闇祓いのガウェイン・ロバーズは知っているな」

「はい」

「私はあの男にお前の調査を命じていたのだ。いや、正しくは魔法省大臣が、だな」くくく、と肩を震わせながら笑ったヤックスリーは、未だ暖炉の前で立ち尽くしているシックネスを横目に一瞥した。「ジェーン・スミスの仕事ぶりには舌を巻く、というのが、ロバーズの調査報告だ」

「さようですか」

「気にはならないのか?」

「探られて痛い腹はありませんので」

 実際には、探られれば探られるほど痛い腹を抱えていたのだが、そうした表情はおくびにも出さない。いつ頃からか、ポーカーフェイスが得意になってしまっていた。それが喜ばしいことなのかどうかは疑問だが、この通り役には立っている。

「あの女は使い勝手はいいが、自分の立場を勘違いしている節がある。おかしなことに、自分も我々と同じ場所に立っていると思い込んでいるようなのだ」

「彼女は他者からの評価を得れば得るほど付け上がるタイプの人間です、扱いには十分に注意していただかなければ」

「お前は違うのか?」

「あなたがもし私と女史を同列に考えていらっしゃるのなら、これ以上の侮辱はありません、ヤックスリー卿」

 ジェーンがそのように呼び掛けると、ヤックスリーは僅かに驚いたような表情を窺わせた後、満更でもなさそうな顔をして見せた。

「私がこの魔法省のためにどれほどの働きをしているのか、それを最も理解しているのは他ならぬ私自身です。闇祓い局の局長が私をどのように評価したにせよ、それで何かが変わるということはありません」

「酷い自惚れだな」だが、とヤックスリーは続ける。「気に入った」

 本来であれば気に入られたくなどないのだが、背に腹はかえられない。気に入られるための選択をし続けなければ、生き残ることのできない世の中だ。

 ジェーンは目を細めて微笑みに近い表情を浮かべてから、壁に掛けられている時計に横目を向ける。時刻は四時半。間もなくマグル生まれ登録委員会の午後の尋問が終わる頃だった。

「私と話していながら時間を気にするとは、肝が据わっているな」

「五時にアンブリッジ女史が裁定済みの取調べの書類を取りに来られる約束なのですが、手付かずの状態で机の上に置いたままになっているので、お叱りを受けることになるのではないかと考えていました」

「確かにあの女のヒステリックな声は聞くに堪えない」

「可能であれば三十分ほど退室させていただきたいのですが」

「いや、今日はもういい」ヤックスリーはそう言うと、椅子からゆっくりと立ち上がった。「私も行かなければならないのでな」

 どこへ、などというおこがましい質問はしないにかぎる。それ以前に、ジェーン・スミスには興味がないのだ。

 仕事ならばいくらでも引き受けよう。だが、その仕事の邪魔だけはしないでほしいというのが、ジェーンのささやかな願いだった。本当ならば一分たりとも無駄話に付き合っている暇はないのだから。

 席を立ち、机をぐるりと回り込んでジェーンの前で足を止めたヤックスリーは、非常に満足げな面持ちを浮かべているように見えた。

「職務に私情を挟まないお前にならば、私の代わりが務まるだろう」

 以後、ジェーンとヤックスリーとの間には一種の盟約のようなものが結ばれた。互いに何かを頼み、頼まれたわけでは決してない。だが、ジェーンは察した。ほんのちょっとした目配せの一つで、すべてを理解した。

 コーバン・ヤックスリーが魔法省を離れている間は、ジェーンが魔法省大臣の世話をすることになり、同時に、その政務を肩代わりするようにもなっていった。この事実は誰にも話していない。もし話していれば、魔法省大臣に許されざる呪文を使った咎で、間違いなくアズカバン送りにされていたはずだ。ジェーンは紛れもなく当事者であり、加害者でもあったのだ。

 ジェーンは自分が悪事に手を染めていることを自覚しておきながら、それに甘んじていた。理由などない。ただ、その方が楽だった。都合が良かった。理由が必要なら、何度でもそう答えるだろう。

 

 昼休みを終えてパーシー・ウィーズリーがケンタウルス担当室を出て行くと、ジェーンは再び静かな空間にたった一人で取り残されていた。毎日息が詰まるような窮屈さを感じているので、ビルの管理部に窓の取り付けについて相談の紙飛行機を送ってあるのだが、未だ返事はない。忘れ去られているか、後回しにされているかのどちらかだろうが、ケンタウルス担当室の場所が分からないという可能性も、無きにしも非ずだ。

 椅子に深く腰を下ろし、仰け反るようにして身体を背凭れに預け、ジェーンは天井を見上げる。前任者かそれ以前の職員がこの部屋でタバコを吸っていたようで、天井や壁紙はヤニで黄ばみ、薄汚れていた。時おり、天井の上からかさかさと奇妙な物音が聞こえてくるので、何らかの魔法生物が住み着いているのかもしれない。屋根裏に好んで住み着く魔法生物でなければ、魔法省で過労死でもした人間が成仏できず、ゴーストになって居付いているのだろう。

 この地下四階は魔法生物規制管理部なので、どちらも管轄の内だ。部長から出張の許可を得るついでに、話を聞いておいた方がいいのかもしれない。


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