魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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校長

 卒業以来ホグワーツ魔法魔術学校の敷地に足を踏み入れたことは一度もない。コーネリウス・ファッジが魔法省大臣だった頃、あの男はアルバス・ダンブルドアの助言を求めて頻繁に足を運んでいたが、それに同行したこともなかった。一緒に来ないかと誘われたこともあったが、あれこれと口煩く命じてくる上司がせっかく留守にするのだ、大量の仕事を片付けるのにこれ以上の好機はないと、ジェーン・スミスは望んで留守番を買って出ていた。

 ホグワーツはスコットランドの北部、深い森と山に囲まれた奥地にある。隣接しているホグズミード村はイギリスで唯一魔法族のコミュニティーだけで成り立っている村だ。夏のこの時期は気候も穏やかで、外国から旅行にやってくる魔法族の姿もちらほら見られる。特定の週末には保護者の許可を得た三年生以上のホグワーツ生で賑わい、一気に騒がしくなるが、それ以外は静かなものだ。

 とはいえ、例によって例の如く、ジェーンはホグズミード村に良い思い出があるわけではない。かといって嫌な思い出があるわけでもないので、数年振りにやって来たところで感慨に浸るようなこともなかった。他の生徒に比べて圧倒的に足を運んだ回数が少なかったことも、理由の一つなのかもしれない。元々出不精なジェーンは、誰もが楽しみにしているホグズミード休暇を、ホグワーツで静かに過ごしている方がずっと好きだったのだ。誘われれば付き合わないこともなかったが、自分から進んで出向くということはほとんどなかった。

 ここはロンドンよりも気温が低く、風が乾いているので、夏用のマントを羽織っていても少し肌寒いくらいだった。しかし、ホグワーツに向かって続いている馬車道を歩いているうちに、身体が徐々に汗ばんでくる。軽く息が切れてきたのを感じ、日頃の運動不足と寄る年波には勝てないのだということを、ジェーンは思い知らされていた。

 マントを外し、禁じられた森の方向から吹いてくる風を全身に感じながら、ジェーンは歩く。今日のように突き抜けるような青空の日は珍しい。こうした日は分厚い本を小脇に抱え、ちょっとした木陰に腰を下ろして読書をしている時間が、学生時代のジェーンにとっては数少ない至福の一時だった。

 数か月前には激しい戦場となっていたホグワーツだが、今現在は損壊などは見て取れない。当時は相当な壊滅具合だったと聞いているが、生徒たちのいない夏の休暇中にかなりの修繕が進んでいるようだ。魔法省からの応援も来ているはずなので、今日もこの広い城のどこかでは引き続き作業が行われているのだろう。卒業生たちも時間を見つけては手伝いに来ているという話だ、新学期までには元通りのホグワーツに戻っているに違いない。

 馬車道をまっすぐに進んでいって間もなく、ジェーンはホグワーツの正面玄関に辿り着いた。樫の扉は大きく門戸を開いている。人気のないホグワーツは、ホグズミード休暇で大勢の生徒たちが出払っているときの雰囲気によく似ていた。

 玄関ホールはひっそりと静まり、足音が反響する。正面に見えている、何度転がり落ちそうになったか分からない大理石の大階段は、異様なほどの威圧感を放っているように感じられた。学生の頃のジェーンは、極力この大階段を上り下りせずに済むよう、いつも回り道をして大広間や地下牢教室に向かっていた。

 だが、もう大丈夫だろう。たとえ足を踏み外したとしても、己を護る呪文はいくつも習得している――ジェーンは自らをそう鼓舞し、玄関ホールを通り抜けて、大階段に足を掛けた。一段、また一段と足を進め、ついに上りきったところで、ほっと安堵の息を吐く。トラウマというものはなかなか消えてなくならないものらしい。先ほどとは別の汗が滲む額を拭いながら、ジェーンは校長室に向かって歩き出した。

 魔法生物規制管理部の部長がホグワーツの校長宛に手紙を送ってから三日後に返事は届いた。返答は簡潔だったが、快いものだった。しかしながら、城の修繕の他にも、九月から始まる新学期の準備や、空席になってしまっている教員の補充など、校長が携わる雑務は多岐にわたる。今は最も忙しい頃合いだ。あまり長居をして邪魔をしないようにしなければならない。

 在学当時、校長だったアルバス・ダンブルドアと言葉を交わしたことは数える程度しかなかった。人によっては、一度も話したことがなくても、何ら不思議ではなかった。数々の伝説的な逸話を持つ偉大な魔法使いは、生徒たちにとって酷く遠い存在だったのだ。ホグワーツのどこかで偶然出会うことがあっても、気安く話しかけられるような相手ではない。向こうから話しかけてこられたとしても、緊張で言葉が出ない者がほとんどだ。

 アルバス・ダンブルドアという人は神格化されたような存在だった。本人がそれを望んでいたかどうかは分からない。だが、周囲はそうあれかしと願っていた。ダンブルドアがいれば何もかもが上手くいくと信じていたのだ。かつてグリンデルバルドを打ち負かしたように、史上最悪と謳われた闇の帝王を滅ぼすことができるのはダンブルドアだけだと、そう信じて疑わなかった。

 だからこそ、あの偉大な魔法使いの死は、イギリスの魔法界のみならず、世界中の魔法界に衝撃を与えた。まるでこの世の終わりが訪れたかのように、この国は大きな悲しみと、それ以上の絶望に覆われてしまった。ダンブルドアの死がきっかけとなり、ヴォルデモート卿や死喰い人たちの活動が一気に勢いづいたのは、言うまでもないことだ。

 多くの職員がホグワーツで行われた葬儀に出席したがる中、ジェーンは魔法省に残り、各国から次々と寄せられる問い合わせに対して、その一つ一つに丁寧な返信を行っていた。

 多くの人々が絶望していたほど、ジェーンはダンブルドアの死に対して何か特別な感情を抱いてはいなかった。非情と言われても仕方のないことだが、名前を知っている程度の誰かの死を悼むほど、ジェーンは情に厚い人間ではなかったのだ。むしろ、ジェーンにとっては後に訪れるセブルス・スネイプの死の方が、ずっと衝撃的だった。

 二体のガーゴイル像が護っている校長室の前までやって来たジェーンは、一度息を整えてから、一方のガーゴイル像に声を掛ける。部屋にいるはずの校長に取り次いでもらえるよう頼むと、程なくして道は開かれた。隣り合わせになっていた像は左右に割れ、その背後の壁がごりごりと削るような音をたてて開く。目の前に現れた階段はマグルの世界にあるエスカレーターのように、上に向かってゆっくりと動いていた。タイミングを見計らって階段に足を乗せると、階段はジェーンを校長室の前まで運んでくれる。扉の前に到着すると階段は動きを止め、下に見えているガーゴイル像は定位置に戻ろうとしているところだった。

 控えめにノックすると、どうぞという声が返ってくる。微かな緊張と共に扉を開くと、一瞬、何人もの視線が自分に集中したような感覚を覚えた。途端に背筋がぞくりとするものの、次の瞬間には身体が強張るような感覚からは解放されていた。

「どうしました?」

 足を踏み入れたところで動きをとめたジェーンに向かって、校長室の中程まで進み出てきていたミネルバ・マクゴナガルが、訝しげに声を掛けてきた。マクゴナガルは洒落た深緑色のベルベットのローブを着ていた。ジェーンが学生だった頃から、同じ色のローブを好んで身に着けていたような覚えがある。背筋をすっと伸ばし、威厳たっぷりに振る舞う姿勢は、相変わらず凛々しいものだった。

 ジェーンはどくんと大きく波打った心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐き出した。

「本日はお時間をいただきましてありがとうございます、マクゴナガル先生」

「いいえ、ミス・スミス。どのような形であれ、本校の卒業生が再びこの学び舎に戻り、健やかな姿を見せてくれるのはとても喜ばしいことです」

 本当に喜ばしいと思っているかどうかは微妙な表情だ。マクゴナガルはジェーンの姿をとっくりと眺めた後、ローブの裾を翻しながらこちらに背を向けた。

「お茶はいかがですか?」

「いえ、私は――」

「少し座ってお話をしましょう、ミス・スミス」

 長居はしないつもりでいたジェーンだが、マクゴナガルは最初からもてなすつもりでお茶の用意を済ませていたようだ。勘弁してくれと思いながらも、学生時代の上下関係が染みついているせいで無下に断ることもできず、ジェーンは促されるまま椅子に腰を下ろしてしまった。

 マクゴナガルはその様子を満足げに見ると、執務机の隣に立って既に準備されていたティーポットの頭を杖先で叩く。間もなくするとティーポットの注ぎ口から香りの良い湯気が立ち上り、琥珀色の液体がカップに注がれた。ジェーンは差し出されたカップをソーサーごと受け取り、砂糖とミルクを丁重に断った。

 ジェーンは若干引きつった自らの表情をカップの水面に認めてから、恐る恐る顔を上げた。

 少し話をしようと言われたところで、ジェーンには話したいことなどありはしない。ホグワーツで占い学を受け持っているケンタウルスと話をさせてほしいと、そう願い出ただけだ。言い方は悪いが、ホグワーツの校長と話をするためにやって来たのではない。そもそも、この魔女はもてなしの準備までして自分と何の話をしたいというのか、ジェーンには微塵も見当がつかなかった。

「心配しなくともフィレンツェには既に話を通してあります」ジェーンの困惑している気持ちを汲み取ったのか、マクゴナガルが自身の椅子に腰を下ろしながら言った。「もうすぐ禁じられた森を出てくるはずです」

「森で暮らしながらホグワーツで働いているのですか?」

「当初はやむを得ない事情があってホグワーツでの生活を余儀なくされていたのですが――詳しい話は本人の口から聞いた方が良いでしょう。本来であれば、もうホグワーツで生活をする必要も働く必要もないのですが、ダンブルドアに受けた恩を返すまでは、占い学の教授として働かせてほしいと言っているのです」

「恩、ですか」

 ケンタウルスが人間に対して恩を感じるなど、とんと聞かない話だ。話を聞かせてほしいというジェーンの要請に応じてくれたのも、その恩とやらに関係があるのかもしれない。

「恩と言えば」マクゴナガルは紅茶にミルクを入れ、それをスプーンで掻き混ぜながら言った。「ホグワーツの修繕のために技師の手配と派遣をしてくださったのはあなただそうですね、ミス・スミス」

「それは魔法省大臣室の仕事であって、私個人の采配ではありません」

「各国の魔法省へアルバス・ダンブルドアの訃報を出したのもあなただと聞いています」

「それも大臣室付きで手分けをして行いました、マクゴナガル先生」

 取り付く島もないような物言いのジェーンを見て、マクゴナガルは僅かに苦笑いを浮かべて見せる。それから、机の脇に置いていた円状の缶を手元に引き寄せると、蓋を開いてジェーンの前に置いた。中にはクッキーやドライフルーツが詰められていて、途端に甘い香りがふわりと舞う。何か一つでも手に取らなければ缶は下げられそうになかったので、ジェーンは桃のドライフルーツを指先で摘まみ取った。

「失礼ですが、誰からそのお話をお聞きになったのですか?」

「キングズリー――いえ、現魔法省大臣からです」

「では、あまり信用なさらない方がよろしいかと」ジェーンが皮肉っぽくそう口にすると、マクゴナガルはその真意を問おうとするように首を傾けた。「あの人は私を過大評価しているだけなのです、先生」

「そうなのですか?」

「今先生がおっしゃったことに偶然私がかかわっていたというだけのことです。評価されるべきは大臣室付きの補佐官たちであって、私個人の功績ではありません。魔法省にお勤めだった先生にならご理解いただけると思います」

「私はほんの数年で魔法省を離れた人間ですから、残念ながらあなたの言葉を正しく評価できるだけの経験値がありません。ですが、魔法省大臣があなたに見いだしている評価は、あながち間違いとは言い切れないと思っています」

「……おっしゃっていることの意味が分からないのですが」

「人となりというものはそうそう変わらないということです」

 自分の人となりを理解してもらえるほど、ジェーンはマクゴナガルと懇意にしていたわけではない。基本的に変身術の授業以外で会話をする機会はほとんどなく、身近な存在だと感じたこともなかった。しかし、マクゴナガルは違ったようだ。紅茶と茶請けのドライフルーツを口にする気配さえ窺わせないジェーンを見て、何かを懐かしむように目を細める。

「長年教職に携わっていると、生徒一人一人に目を配ることが自然とできるようになってくるものです。それに、目立つ生徒の場合は特に、嫌でも視界の中に飛び込んでくるものなのですよ」

 自分が目立つ存在だなどと思ったこともなかったジェーンは、マクゴナガルの言葉に目を丸くしてしまった。だが、すぐに悪目立ちという言葉が脳裏を過り、妙に納得をしてしまう。そういう意味でならば、ジェーン・スミスは間違いなく目立つ存在だったことだろう。

 七年間友達も作らず、机にばかりかじりつき、唯一連む相手といえば一学年上のスリザリン生だけだ。一日中誰とも話さず、その必要性さえ感じず、ただ狂ったように本と向き合っていた。そうしている間だけは、世界が自分のことを見逃してくれているように感じられていたからだ。


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