まだしばらくはこの拷問のような尋問に近い拘束が続くのかと考えていたジェーンだったが、校長室の窓から禁じられた森を出てくる一頭のケンタウルスの姿を捉え、救われたような思いがしたのは言うまでもない。また何事かを話し出そうとしているマクゴナガルを横目に見ながら立ち上がり、窓の外を指で差した。
「お茶の用意までしていただいて恐縮ですが、約束の方がいらしたようなので、私は失礼させていただきます、マクゴナガル先生」
それはあまりに礼を欠く態度だったにもかかわらず、マクゴナガルは多少眉を顰める程度に表情を変えただけで、嫌味のようなことを口にしたりはしなかった。だがその代わりに、帰り際にもう一度立ち寄るように、と釘を刺すことは忘れなかった。
「それが礼儀というものです、ミス・スミス」
マクゴナガルの言葉は尤もだと思ったジェーンは黙って頷き、足早に校長室を後にした。受け入れたくはなかったが、納得せざるを得ないことだ。そう自分に言い聞かせながら動く階段を降りていくと、何かが崩れるような大きな音が遠くの方から聞こえてくる。ジェーンが廊下に出ると、二体のガーゴイル像は再び定位置に戻った。
「ピーブズ!! いい加減にしないか!!」何者かの怒号が廊下に響き渡った。「邪魔をするなと何度も言っているだろう!! これ以上邪魔をするようなら、いいか、お前をクリスタルの瓶に詰めて湖の底に沈めて――おい!! 聞いているのか――!!!」
ああ、ピーブズのいたずらか――ジェーンはそう思うと同時に、何とも言えぬ感情が沸き立つのを感じていた。懐かしいような、苦々しいような、切ないような、形容しがたい奇妙な感覚だ。だが、それはピーブズに向けられた思いではない。あの災厄のようなポルターガイストが、けたたましい笑い声をあげながらこちらへやってくる前に、さっさとこの場を離れるのが得策だろう。さもなければ、学生の頃のようにいたずらの餌食になることは目に見えている。
ジェーンが廊下を早足で歩き、大理石の大階段のところまで戻ってくると、丁度ケンタウルスの姿が正面玄関に現れたところだった。太陽の光をその背に受けた様相は、全身が淡い黄金色に輝き、なんと神々しいことか。ジェーンは一瞬にして目を奪われたが、再び聞こえた背後からの怒鳴り声で我に返り、どこか覚束ない足取りで階段を降りていく。
「あなたがジェーン・スミスですか」
かぽ、こぽ、という小気味良い蹄の音が、石造りの建物の中で反響する。こちらへ近づいてくるほどに大きくなる体躯を見上げながら、ジェーンは頷いた。
「はい、魔法省ケンタウルス担当室の室長、ジェーン・スミスです。ミスター――」
「ただのフィレンツェで結構」
不勉強なことに、ジェーンはケンタウルスに対する敬意の表し方を知らなかった。人間を相手にするような態度で接していると、このケンタウルスを即刻不愉快にさせてしまいかねない。さて、どうしたものかと考えながら、最近覚えたケンタウルス関連の情報を引き出そうとしていると、フィレンツェはジェーンが思いもよらなかった行動に出た。目と鼻の先までやって来ると、軽く腰を屈め、右手を差し出してきたのだ。
それはいわゆる握手というもので、人間同士の挨拶に他ならない。思わず驚いて目を丸くしていると、フィレンツェは同じ姿勢を保ったまま小首を傾げた。
「これがヒトの挨拶の仕方だと学習したつもりでいましたが、違いましたか」
「い、いいえ」
ジェーンは首を横に振ると、差し出された腕が引かれてしまう前に、フィレンツェの右手をそっと握った。その手は成人男性よりも一回りは大きく、ごつごつとしていて、皮膚が硬い。人間よりも体温が高いと分かるほど、あたたかかった。
「はじめまして、フィレンツェ。こちらの申し出を承諾してくださったことに感謝します」
「魔法省に関心はありませんが、あなたは良い人物だとミネルバ・マクゴナガルから聞いています。ですから、会っても良いと答えました」
「私が良い人間かどうかは個々人の――」
どうやら、魔法使いとポルターガイストの戦いは激しさを増してきているようだ。今度は高い金属音が先ほどよりも近くから聞こえてくる。廊下のどこかに飾られている甲冑がなぎ倒されたに違いない。そもそも、あの甲冑は一体何のために飾られているのか、ジェーンは未だに疑問に思っていた。
「私の教室へご案内します、ジェーン・スミス」肩越しに後ろを振り返って音の出所を探っているジェーンの頭上から、フィレンツェがほとんど感情を感じさせない声で言った。「嵐が去るのを待ちましょう」
フィレンツェが教える占い学の教室はすぐ近くにあった。大理石の大階段は上らず、向かって右側に進んでいくと、ジェーンが学生の頃は使われていなかった教室がある。古びたプレートにはうっすらとだけ十一番教室と記されているのが見て取れた。扉は古かったが、人の手が頻繁に触れる取っ手の部分だけが、新品のように輝いていた。
「……」
ケンタウルスが授業を行っている姿など想像することもできなかった。生徒たちを席に着かせ、黒板に板書を行いながら進行するものではないだろうと考えてはいたが、これならば納得だ。
十一番教室の中は、森だった。森そのものと言っても過言ではないだろう。まるで禁じられた森の一角を切り取ってきたかのような空間に目を丸くしていると、先を歩いていたフィレンツェがジェーンを振り返った。
「どうぞ、こちらへ。椅子はありませんが、どこでも好きなところに座ってください」
教室内には木々が生い茂り、天井を感じさせない空がある。土の地面はところどころが苔生していて、青々とした森の香りを一層強く感じさせるようだった。ジェーンは足元の苔を踏まないように気をつけながら進み、座るのに丁度良さそうな石を見つけると、そこに腰を下ろした。
「ミネルバ・マクゴナガルは、あなたがケンタウルスについて学びたがっていると言っていましたが」
石に腰掛け、しわにならないようローブとマントの裾を整えていると、フィレンツェがそう口にしながら近づいてくる。ジェーンは顔を上げ、ブロンドの髪に隠れた、宝石のように透き通る青い色の目を見つめた。
「ケンタウルスが人間をどのように認識しているかは存じ上げているつもりです。ですが、ケンタウルス担当室の室長として配属された以上は、あなた方と魔法省を繋ぐ入り口として、多少の結びつきは必要なのではないかと――」
「我々は魔法省と結びつくことを望んではいません」
「分かっています」
「先の戦いでヒト族に荷担したのは我々の森を護るため」
「ええ、そうでしょう」
「一時の気紛れを久遠の盟約であるかのように捉えられては迷惑です――というのが、禁じられた森に住まうケンタウルスの総意であると思っていてください」
ジェーンはそうしたフィレンツェの物言いから、言葉とは違った意味の思いを感じ取っていた。おそらく、フィレンツェと他のケンタウルスとの間には、考え方の齟齬があるのだろう。この見るからに穏やかそうなパロミノのケンタウルスは、ジェーンが本を読んで知ったつもりになっているケンタウルスとは、明確に違うと言い切ることができる。初対面で握手を求めてきたのが良い例だ。
「あなた自身はどのように考えているのですか?」
「私個人の考えがケンタウルスの総意に反映されることはありません」その答えを受けても尚ジェーンが視線を逸らさずにいると、フィレンツェは表情の乏しい顔に、僅かな困惑を滲ませた。「私はようやく群に戻ることが許されたのです、ジェーン・スミス。もうしばらくホグワーツで教鞭を執ることさえ非難されているこの状況で、魔法省に味方するような発言をすれば、今度こそ永久に追放されてしまいかねません」
「それでもあなたは、再び群れから追放されるかもしれないリスクを冒してでも、教授として残ることを選んだのでしょう?」
「ほんの一、二年の間だけです。それでアルバス・ダンブルドアへの借りは十分に返せると考えています」
「なぜアルバス・ダンブルドアに借りが?」
「ケンタウルスの世界から追放された私をこのホグワーツに住まわせてくれました」
「でも、その原因を作ったのはアルバス・ダンブルドア本人なのでは?」
「アルバス・ダンブルドアの提案を受諾したのは私個人の決断です」
数年前、魔法省大臣室付き上級補佐官の地位にあったドローレス・アンブリッジが、当時の魔法省大臣コーネリウス・ファッジの要請によって闇の魔術に対する防衛術の教授職に就いたとき、ホグワーツでは不必要な改革が行われようとしていた。本来は校長に決定権のあるホグワーツの教員の任命や教育方針に魔法省が口を挟み、最終的にはダンブルドアを校長の座から引きずり降ろして、アンブリッジを校長の席に据えるという暴挙に出たのだ。
人は自身の身の丈に合わない地位を受け入れるべきではないとジェーンは思う。自分という存在を客観視することができれば、自分自身が校長の器でないことは理解できたはずだ。だが、アンブリッジには客観性が欠如していた。そして、正当性というものも持ち合わせてはいなかった。希少性のある能力を正しく評価することができていれば、カッサンドラ・トレローニーの玄孫に当たるシビル・トレローニーを解雇することはなかっただろう。
だがしかし、魔法省大臣によりホグワーツ高等尋問官に任命されたアンブリッジは、ホグワーツに相応しくない教授を解雇することはできても、新たに雇用する権限を有してはいなかった。魔法省はホグワーツの校長が適当な人材を見つけ出せなかった場合に限り、ホグワーツの教職員を任命する権限を得るが、校長が相応しい人物を割り当ててしまえば、それを検分する権利はあっても、ただ気に入らないからという理由だけで処分を下すことは許されない。
そして、アルバス・ダンブルドアの人選は正しかった。ケンタウルスは星を読み、草を燃し、過去と未来を精査する。それが占いの起源だ。本来であればケンタウルスのみが伝承してきた秘術を人間に教示するなどあり得ないことだが、フィレンツェはそれをすると決意した。結果的に群を追放されるが、それをダンブルドアの責任とは考えていない。
だが、ダンブルドアは分かっていたはずだ。フィレンツェにホグワーツの教師になってほしいと乞えば、ケンタウルスたちの中でこの問題が提起され、最悪の事態を招きかねないと。そうした一つ一つの負の積み重ねが、互いの種族の溝を深くしていくのだと。
「……ああ、そうだ」
そうなのだ。間違っているのは自分も同じなのだとジェーンは自覚した。そして、学んだ。この問題には誰も巻き込んではならなかったのだ。他者の善意を利用してはならない。それを考えることさえ罪深いことなのだと。
自らの膝に頬杖をつき、どこか呆れたような、はたまた何かを悟ったような面差しでため息を吐いたジェーンを、フィレンツェは心なしか不思議そうに見た。
「あの魔法使いはある意味で死しても尚偉大なのかも」
「はい?」
「いいえ、何でもありません」ジェーンはゆっくりと頭を振り、その場に立ち上がった。「これ以上あなたの立場を悪くするような事態になることを、私も望んではいません」
人間の世界も、ケンタウルスの世界も、実はそう変わらないのだろう。フィレンツェにも理解者はいるはずだ。しかし、だからといって群の中で水を得た魚のように生きていけるかといえば、そうではない。同じ種族同士ならば分かり合えるというのはただの幻想だ。反りが合う者もいれば、合わない者もいる。自ずと争いは生まれるが、それが当然のことであって、むしろそうでなければ、世界は死にたくなるほど退屈に違いない。
それぞれの世界で平穏に生きていくためには、飲み込まなければならない問題が数多く存在する。ジェーンやフィレンツェはそうした問題と上手く折り合いをつけ、自分だけの心地の良い場所を見つけて、何かを諦めながら生きていた。己の我を通せば非難されるが、それは覚悟の上なのだ。
だが、そうした自分をいつだって受け入れてくれる、見守っていてくれる誰かがいるのといないのとでは、心の在り様が変わってくる。今のフィレンツェにとっては、ようやく戻ることを許された禁じられた森や、そこに生きる仲間の存在が何よりも尊く、大切なのだろう。
「ケンタウルス担当室に異動を命じられた以上、この職務は全うしますが、そのためにあなたの力を借りようなどという愚考は捨て去ります」
「では、どうするおつもりです?」
「いずれ担当室を利用するケンタウルスが現れないとも限りません」
「あなたが魔法省の看板を掲げている限り、我々に受け入れられることはないと考えるべきです。あなたというヒトがどれほど真摯で、誠実で、ケンタウルスに対する慈愛に満ちていたとしても、それには何の意味もないのです」
「それは絶対に?」
「はい」フィレンツェはこくりと頷いた。「ケンタウルスは矜持の高い種族です。一度こうと決めたことは多くの場合覆りません。自らの意思をころころと変えるケンタウルスは、いずれ仲間からの信頼を失います。我々は他者から蔑まれることが何より許せないのです。そして同時に、侮られないための行動を心がけています」
「私は確かにケンタウルス担当室の室長ですが、必ずしもケンタウルスと懇意になりたいと思っているわけでは――」
「あなたの行いが仕事のためであれ、私情で行われるものであれ、我々がいちいちその理由に気を留めると思いますか?」僅かに眉間を寄せたフィレンツェは、根気強く言い聞かせるように先を続けた。「ケンタウルスがヒトに向ける感情は嫌悪と憎悪以外にはないと思っていてください。基本、ケンタウルスは自分たちの縄張りにヒトが足を踏み入れることを喜びません。他に比べればヒト族に理解のある我々の群ですら、数年前禁じられた森に足を踏み入れた魔法省の人間に、自分たちの法を行使しようとしました。ヒトが言うところの、非常に野蛮な法律で、です」
数年前という言葉を聞いて、ジェーンはすぐさま該当の事件を思い出した。ドローレス・アンブリッジが禁じられた森に入り、一時的にではあるものの、ケンタウルスに連れ去られたというものだ。その事実を恥じたアンブリッジが真実を語りたがらなかったため、知っている者は多くない。ジェーンも詳しいことは知らなかった。
「ケンタウルスに連れ去られ、その法で裁かれるはずだった人間が、なぜ助かったのです?」
「私はその場に居合わせなかったので、この目で見たわけではありませんが、アルバス・ダンブルドアに救い出されたとか」
「でも、ダンブルドアはその時ホグワーツにいなかったのでは?」
「その日の夜にはホグワーツに戻っています」
ジェーンは頭の中を整理する。ドローレス・アンブリッジがケンタウルスに連れ去られた同日、魔法省ではそれ以上の大事件が起きていた。ホグワーツを抜け出してきた生徒と死喰い人、不死鳥の騎士団を名乗る魔法使いらが神秘部に侵入した。そして、ヴォルデモート卿が姿を現したかと思うと、アトリウムではダンブルドアとの死闘が繰り広げられたのだ。
当時魔法省大臣だったコーネリウス・ファッジは、ダンブルドアからの再三の警告を退け続け、ヴォルデモート卿の復活を決して認めようとはしなかった。それなのにもかかわらず、自らの周囲にはいつも闇祓いを配置し、常に怯えながら何かを警戒している様子だったことをジェーンは覚えている。
結局のところ、ダンブルドアの言葉は正しかったと証明された。
「ダンブルドアは魔法省で例のあの人を撃退した後、ホグワーツに戻ってアンブリッジを救出した――まあ、あの偉大な魔法使いになら、その程度のことは造作もないことなのでしょうけれど」
ジェーンは独り言を漏らすようにそう言うと、複雑な面持ちで頭を掻く。いっそのこと、そのままケンタウルスの法によって裁かれ、心神喪失状態にでも陥ってくれていたらよかったのにと、そう思わずにはいられなかったからだ。ドローレス・アンブリッジが療養のために魔法省を離れていれば、それだけで救われた命は数多くあったことだろう。返す返すも悔やまれるが、そうしたジェーンの物の考え方は、推奨されるべきものであってはならない。
「アルバス・ダンブルドアは常に我々を尊重してくれました。だからこそ、ケンタウルスはアルバス・ダンブルドアに敬意を払うのです。あの方の助けが入らなければ、あの魔法省の人間が解放されることはなかったでしょう。最悪の場合、命が絶たれていたかもしれません」
むしろ、そうなることを望んでいたと言ったら、このケンタウルスはどのような反応を見せるだろうかとジェーンは考えた。残酷だと顔を顰めるだろうか。それとも、たいして興味もなさそうに「そうですか」と応じるのだろうか。
だが、死して無に還れば、それで何もかもが終わってしまう。あの女は暗く冷たい独房の中で永遠に苦しみ続ければいいのだ。絶海の孤島で、荒れ狂う大海原を眺めながら、絶望し続ければいい。
惜しむらくは、あの女は間違っても、自らの行いを後悔しないということだ。ドローレス・アンブリッジの辞書に殊勝という文字はない。あの歪んだ笑みを浮かべる唇から懺悔の言葉を聞くことは絶対にないのだ。自らの罪の半分をジェーン・スミスに擦り付けようとしたように、残り半分の罪も、そうせざるを得なくした世論に責任を負わせようとしたに違いないのだから。