魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

18 / 22
大臣室

 ジェーン・スミスの手で書かれた死亡届の数は百件以上にも渡った。しかしながら、死亡届を提出すれば、それですべてが万事解決するわけではない。代わりの死体を調達し、逃走ルートを確保して、場合によっては、当面の間だけでも身を隠せる場所を用意してやらなければならないこともあった。

 アズカバンでは、死喰い人やその手先の者が度々姿を現し、マグル生まれの処刑を楽しんでいた。アズカバン送りにされたマグル生まれたちの死因は、吸魂鬼のキスばかりではない。人間狩りは普通に行われていた。杖を奪われた魔女や魔法使いを磔の呪文で苦しめ、服従の呪文で快楽を得て、気が済むまで蹂躙した。辱めを良しとせず海に身を投げる者もいた。

 そうした者たちに不自然に思われないためには、それなりの工作が必要不可欠だった。あわや、ということがなかったわけではない。忘却術を使用したこともある。肝を冷やしたことは一度や二度ではなかったが、ジェーンとかかわりを持ったマグル生まれの人々の多くは、今も無事に生きているはずだ。

 だが、残念なことに、すべての人を救ってやることはできなかった。返す返すも悔やまれるが、冷静に考えれば、そのようなことは到底不可能だったのだと分かる。人間一人の手が届く範囲などたかが知れているのだ。ジェーンの手で救うことのできた命は百余人と数としては少なかったのかもしれないが、上出来だと褒められるくらいの働きではあったはずだ。

 

 こうして当時のことを思い返していると、ジェーンは未だに無念や後悔、懺悔の気持ちに苛まれることがあった。眠れない夜を過ごすことも、悪夢にうなされることもある。そうした現象は徐々に薄れていくだろうという当人の期待をよそに、それはむしろ、最近になってより強い感覚となって脳裏を過っていた。忘れようとすればするほどに、鮮烈な記憶がよみがえっては、ジェーンを苦しめた。相談する相手がいないというのも、心的な外傷を助長させる一要因なのかもしれない。

 

 魔法生物規制管理部の部長から預かった仕事は、ジェーンがこの一年間で提出した死亡届の確認と訂正作業だった。

 これが実に面倒で、書類上は既に死亡している人間を生き返らせるためには、いくつかの手順を踏まなければならない。大臣室付きにいた頃は、まさか自分がこうして事後処理に追われることになるとは思ってもおらず、手順の簡略化について根回しをすることすらしていなかった。すべてを他人任せにしようとしていた自分に落ち度があったのだと考え、ジェーンはひたすら料紙にペンを走らせるしかなかった。

 次から次へと届けられる書類を開封しては、ため息を吐く。ようやく終わりが見えてきたと思うと、新たな書類が届けられた。それでも何とかすべての仕事を片付けた頃にはもう、時刻は午後九時を回ってしまっていた。

 ジェーンは久しく感じていなかった目の奥の傷みを妙に懐かしく思いながら大きく伸びをする。酷く凝り固まっていた肩と背中の筋肉をほぐすと、僅かに背筋が痺れるような感覚の後で、全身に熱い血潮が巡るのを感じた。以前はこうした作業を苦も無くこなしていたのだから、何かを怠るということは、安息を手に入れる一方で、これまでに獲得した能力の一部を失うことにもなり得るのだろう。継続は力なり、とはよく言ったものだと、ジェーンは思う。

 

 清書を終えた書類をファイルにまとめてから、ジェーンはそれらを抱えてケンタウルス担当室を出た。省内に残っている人の数はあまり多くない。残業を強いられている者の他は、魔法法執行部や魔法事故惨事部、魔法運輸部など、二十四時間体制で魔法省に詰めている部署の夜勤担当の者がほとんどだ。

 魔法生物規制管理部がある地下四階はひっそりと静まり返っていた。廊下には自分の足音が反響するばかりで、昼間の騒がしさからは程遠い静寂が、暗闇の中に溶け込んでいる。部長には、書類は直接魔法省大臣に届ける旨を知らせてあるので、問題はない。

 エレベーターは途中止まらず、ジェーンは誰とも顔を合わせることなく、地下一階に到着した。通常であれば一度補佐室を通してから大臣室に向かうのが礼儀だが、今日は全員家に帰したと話していたので、顔を出すだけ無駄だろう。そう考えたジェーンは、エレベーターの中で腕に抱えたファイルを抱え直すと、待合室を抜けてまっすぐに大臣室を目指した。

 ジェーンは、こんこんこん、と素早くノックをした。腕の中から滑り落ちそうになったファイルを慌てて支え、すぐに姿勢を正すが、待てど暮らせど返事はない。もう一度ノックをしても返事はなく、不可解に思ったジェーンは、扉の取っ手に手を伸ばした。留守にしているのかと思いきや、取っ手は何の抵抗もなく回り、重厚な木の扉は音もなく押し開かれた。

「……」

 返事がなかった時点で予想はしていたことだった。ジェーンは脱力するようにため息を吐いてから大臣室に足を踏み入れ、誰も見ていないのを良いことに、足を使って扉を閉めた。

 キングズリー・シャックルボルトは机に伏せて居眠りをしていた。ちょっとした仮眠のつもりなのか、無意識下で意識を手放してしまったのかは分からない。だが、残りの仕事は自分が終わらせておくと言っておきながら居眠りに興じるとは、些か格好の悪い話だとジェーンは思う。しかしながら、ヴォルデモート卿が斃れてからこちら、魔法省大臣は休みらしい休みを取っていないのだ。たまには我が物顔で大臣室を出入りする補佐たちを締め出し、自分の配分で仕事をしたいという気持ちも分からなくはなかった。

 執務机に歩み寄ったジェーンは、机上に散らかっている書類に素早く視線を走らせた。少なくとも、今すぐどうにかしなければならないものはないようだと確認してから、抱えていたファイルを机の端に置く。それから、シャックルボルトの身体の下敷きになっていた紙をそっと引っ張り出し、しわになった部分を魔法で伸ばしていると、とある字面が目に飛び込んできた。

 

≪ロドルファス・レストレンジがアメリカ合衆国に渡った可能性について――≫

 

 ホグワーツの戦い後、多くの死喰い人やその傘下、スナッチャーたちが捕えられた。命を落とした者も多い。中には逃亡した者もいる。その中で、魔法省が最も重要視し、同時に危険視しているのが、ロドルファス・レストレンジだった。ヴォルデモート卿の右腕と称されていたベラトリックス・レストレンジの配偶者で、死喰い人の幹部としてそれなりの立場にあったとされている男だ。魔法省に顔を見せることはなかったので、ジェーンとの面識はない。

 第二次魔法戦争直後から、魔法省大臣は闇祓いに逃亡したロドルファス・レストレンジの捜索を命じていた。しかしながら、レストレンジの行方は杳として知れぬまま、その捜査網は今や国外にまで広げられている。ヨーロッパ各国の魔法省には既に手配書を送っているものの、どうやらかんばしい返答は得られていないようだ。ジェーンがさっと目を通した闇祓いの報告書には、捜索は難航している旨が事務的に記されていた。

 キングズリー・シャックルボルトが抜け、幾人かが殉職した闇祓い局の現状は、おそらく未だかつてないほど悲惨な状態だ。適性検査と訓練課程を終え、ようやく闇祓いとして働きはじめたばかりのニンファドーラ・トンクスを失ったのも、相当な痛手だろう。だからこそ、魔法省大臣は即戦力となる闇祓いの増員を急いでいる。もし、逃亡した死喰い人たちが新たな軍を築き、それを従えてこの弱り切っている魔法省に攻め入ってきたとしたら、それを迎え撃つだけの余力が現状残されているかどうかは、甚だ疑問だ。

 机に突っ伏したまま微かに唸り声をあげたシャックルボルトに横目を向け、ジェーンはほんの少しだけ哀れに思いながらその横顔を見た。何でも一人で解決できる者の性は理解しているつもりだったからだ。下手に他者の力を借りるよりも、自分一人で片付けてしまった方が早く、楽であることを知っている。悪く言えば、頼ることに慣れていないのだ。この男はそもそも、そうした性質の人間なのではないかとジェーンは思っていた。本当であれば、大勢の者の上に立つべき人間ではないのかもしれない。それなりの地位を与えられたとしても、ある程度の自由は認められていた方がずっと、自らの力を発揮することができる。

 もちろん、魔法省大臣の椅子に座ることを選んだからには、その職務をまっとうするだけの覚悟と自信があるのだろうが――ジェーンは大臣室内にあるクローゼットからマントを一着取り出してくると、それをシャックルボルトの肩に掛けてやった。

「さて、と」

 ジェーンは手にした杖をくるりと回し、足の長いスツールを呼び出した。それに軽く腰を掛けると、机の上に散乱している書類を軽く仕分け、早急さを求められるものから順番に並べていく。ペンスタンドに立っていた純白の羽ペンを拝借し、不要な紙の裏側にメモを残しながら、いかにすれば魔法省大臣にかかる負担が必要最低限で済むかを考えていた。

 補佐官の務めは様々あるが、魔法省大臣に降りかかる過重な負担を可能なかぎり取り除き、補助をすることが一番の仕事だとジェーンは定義していた。

 魔法省中から日々寄せられる案件の量はあまりに膨大で、魔法省大臣一人きりでは到底さばき切れるものではない。補佐官はそれらを精査し、より重要度の高いものだけを魔法省大臣に任せるのだ。それ以外の種々雑多なものは、個々人の責任の下で処理することになっている。どれだけ些細な案件でも最終的には大臣の指示を仰ぐことにはなるが、仕事としては書類に目を通し、サインをするだけの状態に仕上げておくのが慣例だった。

 忙しさでいえば、魔法省大臣よりも補佐官の方が上かもしれないが、補佐官が行う業務は個別に評価されることはない。特に下級補佐官の功績は上級補佐官に持ち逃げされ、罪過は当たり前のように押し付けられる。ドローレス・アンブリッジのように恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ上司を持ち上げ、愛想を振りまいて懐に入り込み、大臣のお気に入りという不動のポジションを狙うのでなければ、相当な忍耐力を必要とする仕事だ。現状、補佐官として大成するためには、多くの月日を要することだろう。魔法省大臣の最も近くで仕事をしているからといって、それが成功の近道になるとはかぎらないのだ。

 

 ジェーンが口許に手を添えながら書類に目を通していると、不意に、視界の端が明るくなるのを感じた。反射的に顔を上げると、丁度視線の先にあった豪奢な暖炉に火が入り、炎の中に何者かの生首がひょっこりと現れる。

 ジェーンにはその顔に見覚えがあった。暖炉の煤でも吸ってしまったのか、げほんごほんと咳き込んでいる生首の様子を見に行くために立ち上がり、急ぎ足でそちらに向かう。

「ご無沙汰しております、議長」

 そう声を掛けながら暖炉の前で膝をつくと、その人物は大きく咳払いをしながらジェーンを見上げた。一瞬訝しげな面持ちを浮かべるものの、ジェーンの顔に焦点が合うと、こわもての顔からは想像のつかない愛想の良い笑顔を見せた。

「これはこれは、ミス・スミス」男は好奇心に満ちた目でジェーンを見た。「私の記憶違いでなければ、君は確か、その大臣室から追い出されて久しかったはずだが」

「おっしゃるとおりです、議長」

 ジェーンは素早く肩越しに振り返って後方を確認するが、シャックルボルトが起き上がる気配は今のところない。ジェーンがこうして膝をついた格好をしているのも、魔法省大臣が居眠りしている姿を見せないためなのだが、そうした気遣いなど当人には知る由もなかった。

「今日は書類を届けに――」

「こんな遅い時間にかね?」男は僅かに目を伏せ、腕時計を覗き込むような仕草を窺わせた。「こちらは午後五時なので、そちらは十時くらいだろう。君の栄転先はケンタウルス担当室だ。残業には縁遠い部署だと思うのだがね」

「……さすがはMACUSAの議長殿、英国魔法省の内情にまでお詳しいとは恐れ入りました」

 ゆるく笑みを浮かべながら皮肉っぽいことを口にするジェーンだったが、男に堪えた様子はない。それどころか、もっといじり倒してやろうという思いが、暖炉の炎越しに透けて見えていた。

 MACUSAとはアメリカ合衆国魔法議会の通称だ。イギリスの魔法省大臣室はアメリカの魔法議会とも定期的にやりとりをしているので、大臣室付きだったジェーンにはもちろん、その議長とも面識があった。MACUSAの議長はこわもてだが人好きのする性格をしていて、思慮深い一面も有している。

「亡命にご協力してくださったことに関しては心より感謝しておりますが、他国の煙突飛行ネットワークを無断使用するのはご遠慮ください。本来、魔法省大臣室の暖炉はネットワークから隔絶されているものなのです」

「だが、不正に侵入する手段を私に教えたのは君だ、ミス・スミス」

「国家の非常事態でしたので」

「それについては理解している」

「議長」

 ジェーンが呆れの中にも厳しさを滲ませた声を出すと、議長は僅かに首をすくませながら、片方の口角だけを持ち上げて笑った。

「こちらとしても、君がそこにいることは想定外だった。今日はMACUSAの議長としてではなく、友人として、キングズリー・シャックルボルトに個人的な話があったのでね」

「大臣でしたら――」

 あいにく席を外している、と口にしようとしたジェーンの肩に、そっと何者かの手が触れた。小さく肩を震わせてから背後を振り仰ぐと、暖炉に浮かび上がる顔をまっすぐに見ているシャックルボルトの姿があった。その横顔には、寸前まで正体もなく眠っていた名残すらなく、すっかり魔法省大臣の顔で魔法議会議長と対峙していた。

「お待たせして申し訳ない、議長」

「彼女を補佐官に戻したとは聞いていなかった」

「まさか」ジェーンに手を貸して立ち上がらせると、シャックルボルトは暖炉の前に立った。「私がどれだけ懇願しても、彼女は首を縦には振らないでしょう」

「そうだろうな」議長は何か含みのありそうな口振りでそう言ったが、すぐに表情を改めると、声色を変えて先を続けた。「さて、そろそろこの体勢にも疲れてきたので、用件だけを手短に伝えるとしようか」

 確かに、暖炉に上半身だけを入れた姿勢は、いつまでも保ち続けられるものではない。不要な時間を使わせてしまったことに多少の申し訳なさを覚えながら、ジェーンは数歩後退ってから、くるりと踵を返した。手に持ったままだった書類を机に置き、退室の準備をはじめる。しかし、議長はそれを待たずに話し出してしまった。

「お訊ねの死喰い人の残党――ロドルファス・レストレンジの件だが、今のところめぼしい情報は得られていない。捜索隊にMACUSAの闇祓いを数名投入しているが、足跡は一切辿れない。君はこちら側の大陸に落ち延びたのではないかと考えているようだが、海を渡っていない可能性の方が高いだろう」

「近隣の国は」

「どこへ行くにしてもアメリカを経由するはずだ。その形跡がないということは、ヨーロッパのどこかにいるか、未だ国内に潜伏しているか」

 MACUSAは他国から流入してくる犯罪者の取り締まりに関しては、鷹のように厳しい目を持っている。捜査態勢が完成されているので、そう簡単に議会の目を掻い潜ることはできないはずだ。議長の言葉をそのまま受け取るならば、ロドルファス・レストレンジは海を渡ってはいないのだろう。だが、裏社会に精通している者を懐柔することができれば、議会に悟られることなく身を隠すことは可能かもしれない。

 しかしながら、それはどこの国に対しても言えることだ。あらゆる手段を講じれば、このロンドンに身を潜めていたとしても、魔法省から完璧に姿を隠すことはできるのだから。

「近いうちにMACUSAから正式な文書が届けられるはずだが、君には私の口から直接話しておこうと思ってね。あわよくばイギリスの魔法界に恩を売れるチャンスだと考えていたのだが、残念だよ」

「いえ、大変感謝しています、議長。我々の手助けが必要なときは、何なりと。助力は惜しみません」

「それは実に心強い」

 すっかり出て行くタイミングを逃してしまったジェーンは、そ知らぬふりをしながら、手持ち無沙汰に執務机の上を整頓していた。けれど、丁度別れの挨拶に差し掛かったところで思い出したように名前を呼ばれ、頭を抱えたくなる。どうか余計なことは言ってくれるなと思いながら暖炉を振り返ると、議長と目が合った。議長はすうっと目を細め、口を開いた。

「私が以前君に伝えた言葉は、今もまだ生きていることを覚えていてくれ」

「……分かりました」

「一度環境を変えてみるのも悪くはないだろう?」

 議長はジェーンに向かってそう言ってから、シャックルボルトと二、三言葉を交わし、暖炉から跡形もなく姿を消した。

 シャックルボルトは暖炉を見やったまま少しの間考え込んでいた様子だったが、ふわあ、と大きな欠伸を漏らしたかと思うと、ジェーンを振り返る。

「ついついうたた寝をしてしまった」

「私の目には熟睡しているように見えましたが」

「ほんの二、三十分のことだ、大目に見てくれ」

 少しだけ申し訳なさそうな面持ちを浮かべながら、シャックルボルトは執務机に戻っていった。ジェーンは椅子の背凭れにかけられていたマントを受け取り、それをクローゼットに戻すために歩きながら話し続けた。

「大臣が眠っている間に、大臣が起きていれば片付けられたであろう仕事は、私が精査しておきました。それらを簡単にまとめたメモがあるので、すぐに確認してください。それから、私の所見ではありますが、今日中に終わらせておいた方がいいものと、明日でも間に合うものとに仕分けておきました。ご参考までに」

「君が持ってきた書類はどれだ?」

「机の端にあります」ジェーンはクローゼットから取り出したハンガーにマントをかけながら答えた。「部長は大臣に受理していただくようにと」

「胸が躍る仕事だな」

 そう言ってファイルを手に取ったシャックルボルトは、早速その中身に目を通しはじめる。ジェーンはクローゼットの戸の陰からその様子を眺めていたが、程なくして、シャックルボルトには届かないほど小さく息を吐き出した。頭の中の葛藤には気づかないふりをして、クローゼットの戸を静かに閉める。

 もとよりジェーンの役割は自らがやり遂げた仕事を大臣室に運ぶまでが本分であり、それ以上のことを求められているわけでも、強いられているわけでもない。やりたいか、やりたくないかでいえば、やりたくはなかった。しかしながら、やるべきかやらざるべきかでいえば、前者を選択してしまう程度の人情は持ち合わせている。

「……コーヒーと紅茶、どちらを飲まれますか?」

 ジェーンがそう問いかけると、シャックルボルトはやや意外そうな顔をしてこちらを見やった。すぐに視線を逸らしたものの、何やら機嫌が良さそうに破顔し、手元の書類に目を落としながら口を開く。

「コーヒーをいただこうか」

「では、隣の部屋で淹れてきます」

「ああ」

 もっと薄情になれたならと思う。もっと無責任になれたなら、どれだけ楽になるだろうと考える。見て見ぬふりをすることができたなら、自分の生き方に息苦しさを覚えることも、不必要な苦労を背負い込むこともないのだろう。だが、どうしても薄情にはなりきれない。無責任に振る舞うこともできない。見て見ぬふりをするよりも、手を差し伸べる方を選択してしまうのだ。

 昔、お前のそれはただの偽善だと言われたことがあった。お前のそれは善意や優しさなどではなく、自分という存在を他者に認めさせるための手段にすぎないのだと、言葉を浴びせられたことがあった。他者を通さなければ自分を認められない弱い人間なのだと言われ、当時のジェーンは妙に納得してしまった。自分は他者に感謝をさせ、それを甘んじて享受することで、かろうじて自我を肯定しているに過ぎなかったのだと、思い知らされた。

 そういう人間にとって、このイギリスの魔法界はあまりに狭く、生きにくい。ふとした瞬間に、その場で見境なく叫び出したくなるような思い出がよみがえり、羞恥心を煽られる。ここではないどこかへ行けば、この筆舌に尽くしがたい思いが消えてなくなるというのであれば、今すぐにそうしたいと、ジェーンはいつも思っていた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。