魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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ある日のこと -前編-

 その日、ベラトリックス・レストレンジは機嫌が悪かった。姿を現してから一切の言葉を口にせず、靴の爪先をこつこつと神経質そうに鳴らして、時折不満を発散するように大きく舌を打つ。数人の男を従えていたが、その者たちはレストレンジのあまりの苛立ちぶりに戦々恐々という様子で、可能なかぎり刺激をしないように努めていた。

 変に怯えた態度を見せれば付け入られるだけだと知っていたジェーンは、無関心を貫き、魔法省から連れて来られているマグル生まれの者たちの名簿の確認を行っていた。その日は数が少ない方だったが、それでも、十人以上ものマグル生まれの魔女や魔法使いが、ただマグル生まれであるという理由だけで、アズカバンに投獄されようとしていた。

 アズカバンは絶海の孤島にある、魔法族の犯罪者を収容しておくための監獄だ。姿現しを含むあらゆる魔法が封じられている他、周辺の海流が複雑に入り組んでいるため、泳いで陸を目指すことはもちろん、普通の船では海を渡ることも難しい。仮に脱獄することができても、生きて戻ることは困難だろう。不可能だと断言できないのは、過去にシリウス・ブラックという名の囚人が――後に無実の罪で収監されたことが公表されている――煙のように消え、脱獄に成功した前例があるからだ。脱獄の手段は未だ公表されていない。

「おい、お前」ジェーンが名簿と向き合っていると、レストレンジが低く唸るような声で言った。「お前のことだよ!」

 自分のことを呼びつけているとは露ほども思わずにいると、何者かがジェーンの肩を小突いた。何事だと顔を上げると、近くにいた魔法使いがジェーンを睨み、軽く顎をしゃくる。示された方を見やると、傲然たる態度で胸の前に腕を組んだレストレンジが、据わった目でこちらを見ていた。

「何かご用命でしょうか、マダム・レストレンジ」

「ヤックスリーのやつはまだなのか?」

 さあ、と言って首を傾げることは容易いが、そんなことをしては命がいくつあっても足りないだろう。ジェーンは手にしていた名簿を閉じると、レストレンジに向き直った。

「私は先に行ってマダムのお相手をしているようにと仰せつかっただけですので」

「はっ、お相手を仰せつかっただけ、だって?」笑わせてくれる、と言って、レストレンジは不遜に笑った。「お前ごときに私の相手が務まるとでも? ヘルガ・ハッフルパフの末裔だか何だか知らないが、お前の家系も所詮は穢れた血の混ざりモノじゃないか。こんな落ちこぼれの魔女に私の相手をさせようとは、ヤックスリーも底意地が悪いよ」

 ああ、これは当たり障りのない相手を適当に捕まえて、腹に抱えた鬱憤を晴らそうとしているだけなのだと、ジェーンはすぐに察することができた。肝心なのは、このベラトリックス・レストレンジに癇癪を起させないことだ。ただ静かに、滞りなくこの仕事を終わらせ、無事に魔法省へ帰還することだけが、ジェーンの任務だった。

 だが、そうは言ったものの、コーバン・ヤックスリーがアズカバンにはやって来ないことを、ジェーンは知っていた。今頃は、魔法法執行部の部長室で眠りこけていることだろう。

 無味無臭の検出不可能な睡眠薬を調合するにはそれなりの期間が必要だったが、服用させることにかんしての苦労はなかった。あの部屋を好んで訪れる者は誰ひとりとしておらず、もしいたとしても、お茶に招かれたいと願う者はいないはずだ。部屋にあるティーセットに魔法薬を仕込んでおけば、部屋の主だけが屋敷しもべ妖精の淹れた紅茶を口にする。ヤックスリーは午後の紅茶を欠かさない。この時間になってもアズカバンに現れないということは、ジェーンの作戦が成功したということだ。

「あの男はこの私を何時間待たせるつもりなんだ」

「昨日、部長がお帰りになる折に、明日の午後六時、マダム・レストレンジがアズカバンにいらせられるので、どうかお忘れになられませんようにとお伝えいたしました」

「あいつに私との約束を反故にするだけの度胸があったとはね」

「失礼ながら」そう言うと、レストレンジはジェーンを横目に見る。「そのようなご判断をされるのは時期尚早かと存じます」

「どういう意味だ?」

「Mr.コーバン・ヤックスリーは魔法法執行部の部長であらせられると同時に、死喰い人の幹部としても広く周知されています。魔法省の実権を奪われ、追い出された――特に失脚した元闇祓いなどからは相当に恨まれ、命を狙われる立場にあるといえるでしょう。Mr.ヤックスリーに限ってそのようなことはないと思いたいですが、元闇祓いのキングズリー・シャックルボルトは侮れない人物です」

「お前はヤックスリーがシャックルボルトに劣るとでも言うのか?」

「いいえ、マダム」

 どちらが勝っているかなど、ジェーンにとってはどうでもいいことだった。ただそこに脅威があるということを示せれば、比較対象など誰でもよかったのだ。だが、闇の帝王の名が禁語に指定されていることを推測することもできず、うっかり口を滑らせるような間抜けな男という印象はあったが、自分の心根にも気づかず秘密を共有し続けるヤックスリーとならば、おおよそ互角の戦いをするのではないかとは思っていた。

「ただ、相手が一人だとは限りません。さすがの死喰い人も闇祓い級の魔法使いを複数人同時に相手をするとなると、ある程度は難儀するのではないかと」

「確かに連中は徒党を組んで我々に抗おうとしている」

「殊に失礼なことを申し上げているという自覚はございますが、可能であれば、どなたかが部長の安否を確認するために戻られた方がよろしいのではないでしょうか。ご命令とあらば、私がすぐに見て参りますが」

 レストレンジはいくらか考えるような素振りを見せたあと、近くにいた仲間を呼び寄せた。そして、何事かを耳打ちされた仲間は黙って頷き、もう一人と連れ立ってその場を離れていく。レストレンジはジェーンの助言を受けて、仲間をロンドンに向かわせたようだ。アズカバンの建物の外に出れば、魔法を使うことも、姿現しをすることも可能になる。

「いかがいたしますか?」ジェーンが平然とした口振りでそう問うと、レストレンジは煩わしそうな目で睨みつけてきた。「すぐに刑を執行されますか? それとも、このままMr.ヤックスリーを待たれますか?」

「そうだな……」

 ベラトリックス・レストレンジの周りに残された仲間の数は三人だ。一人は仮面をつけているが、残りの二人は素顔を晒している。ジェーンにも見覚えのあるその顔は、かつて魔法法執行部で働いていた魔法使いたちだ。元々純血主義だったのか、ただ単に長い物に巻かれる主義なのかは、興味がないので考えない。だが、その顔と名前だけはしっかりと、頭の中の記憶の糸に縛り付けた。

「お前はどう思う?」

「……私、ですか?」

 まさか問い返されるとは思ってもいなかったジェーンは、レストレンジを相手に目を丸くしてしまう。何かを判断する立場にないと言うのは、レストレンジが求めている答えではないのだろう。

「立場上、Mr.ヤックスリーを待たないという選択肢は存在しません。大臣からも部長の指示にはよく従うようにと命じられております」ジェーンがそう言うと、レストレンジは皮肉っぽく鼻で笑った。「ですが、あの方であれば、この場はマダム・レストレンジのお言葉に従うようにと、そうおっしゃるのではないかとも考えます」

「さて、それはどうだろうね」

 くくく、と笑うレストレンジの横顔を見やりながら、ジェーンは内心で大きく息を吐き出し、極度の緊張感を緩和させようとしていた。何でもない、平気だという顔をして、頭の中では目まぐるしく思考を巡らせている。

 部屋の隅にはアズカバン送りにされたマグル生まれの魔法使いたちが追いやられ、自らのどうしようもない末路を想像して、体を震わせているのだ。平然としているジェーンを猛然と睨み、敵意を表している者もいる。泣き叫びながら助けてくれと懇願された記憶が不意によみがえり、心臓が抉られるような心地がしていた。

「あの男は魔法省の仕事に私が関わることをよしとしていないのさ」

 だからこそこうしてちょっかいをかけてやっているんだが、と言う表情には、どこか狂気じみたものを感じた。退屈で退屈で仕方がないというふうな、空虚さのようなものも感じられる。

「あのお方に魔法省を任されたのは自分なのだから、お前は手出しをするなってね。あいつは私が羨ましいのさ。だって、そうだろう? 私は誰もが羨む居場所を手に入れたんだ。この世界で最も偉大な魔法使いの隣にいられるという、この身に余る栄誉を得た。これは望んで手に入れられるものではない。私は選ばれた存在なんだよ」

 落ち窪んだ目が異様にギラギラと輝いている。ジェーンは人知れずぞっとしながらも、その感情を腹の奥底に押し留め、心底興味がないというふうを装った。

 一体この世界に生きる内の何人が、闇の帝王の隣に立つという栄誉を得て、自らが選ばれた存在などと嘯くことができただろう。

 レストレンジのものの考え方が、この上なく馬鹿馬鹿しいとジェーンは思った。少なくともジェーンは、たとえ相手が誰であれ、上に立つ者が自らにかしずく者を我が物のように扱い、振る舞うことを許せないと思う。

 例えば、それが英国の女王陛下であっても、ジェーンの考えは変わらない。上に立つ者は常に、下にいる者を敬い、尊重するべきだ。民の存在しない国の王になど、存在価値はないのだから。

「それに比べ、お前は本当に哀れだな。あんな男の手駒としてこき使われる気分はどうだ? あれはさして有能とは言えない男だろう? まあ、無駄な仕事を増やすことにかんしては、超一流と言えるかもしれないが」

 ジェーンは口を噤んだまま黙していた。やはり、レストレンジはジェーンの答えなど望んではいないと分かるからだ。だが、無視をしていると思われては、そのうち逆鱗にも触れてしまうだろう。長い期間、魔法界の最高権力者の傍らで仕事をしていると、そうした者たちの機嫌を肌で感じ取れるようになる。必要なのは、程よい距離感だ。近すぎず、遠すぎず。無関心は相手の虚栄心を刺激し、不興を買うことにもなり得る。

「ああ、それにしてもむしゃくしゃするね!」

 レストレンジは豊かな黒髪を掻きむしりながら吐き捨てるように言った。その杖腕には自身の杖が握られているものの、ここでは闇の帝王であっても魔法を使うことはできない。だからこそ、ジェーンはアズカバンの敷地外ではなく敷地内に、それとなくレストレンジを誘導したのだ。そうでなければ今頃は、その苛立ちに任せて多くのマグル生まれたちが犠牲になっていたことだろう。

 最終的に、待つことに飽きたレストレンジが先に帰ると言い出せばこちらの勝ちだと考えていたが、今のところは想定外の辛抱強さを見せている。正直なところ、レストレンジがここまで長く居座り、ヤックスリーが現れるのを待ち続けるとは、ジェーンは思ってもいなかった。長くとも精々三十分程度だろうと踏んでいたが、もうその時間は優に超えてしまっている。

 このとき、何かが妙だ、とジェーンは感じはじめていた。酷く嫌な予感がしていた。

 果たして、ベラトリックス・レストレンジはここまで我慢強い女なのか。苛立ちを隠しはしていないが、ここまでの不満を募らせておきながら、周囲に危害を加えないことが、果たしてあり得るのか。もしかしたら、相手を嵌めようとしている自分こそが、相手に嵌められているのではないか。こちらの行いのすべてが露見していて、この場にいる者のみならず、ヤックスリーを含めた全員がジェーンを陥れようとしているというのが、最悪の展開だろう。

 ジェーンの心臓は、ルーファス・スクリムジョールが目の前で殺された日と同じくらい、大きく鼓動を打っていた。ついに自分の番が回ってきたのかという思いと、ようやくこの不毛な慈善活動を終えられるという思いが、同時に込み上げてくる。

 迷っている暇はない――ジェーンがそう思ったとき、レストレンジが動きを見せた。身体を強張らせ、身構えそうになってしまうのを、奥歯で頬の内側の肉を噛み、どうにか持ち堪える。

「いつまでもこうしていたって埒が明かないからね、私は魔法省に戻る。ヤックスリーがどうなったって構いやしないが、あのお方は利用価値があると考えておいでだ。もし敵襲を受けているんだとしたら、あの男一人では手に負えないだろう」

「そういうことでしたら、お引止めはしません」

「そうだろうよ」

 皮肉っぽく吐き出された言葉にすら、何か含みのようなものを感じてしまい、ジェーンの脳内では様々な可能性が複雑に絡み合っていた。


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