魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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ある日のこと -後編-

 ベラトリックス・レストレンジは仮面の男一人だけを引き連れて部屋を出て行った。心なしかその足取りが軽く感じられたのは、気のせいではあるまい。素顔を晒さず、終始仮面を身に着けていた人物は僅かにジェーンを振り返るものの、レストレンジに急き立てられ、その背中を追いかけていく。

 これは好機か、あるいは罠か。

 後を任された二人の男は、レストレンジが姿を消すと急にそわそわとしはじめ、互いに目配せを送り合っていた。おそらく、ただの使い捨ての兵隊として連れて来られただけなのだろう。もしくは、レストレンジが想定外の動きを見せたので、話が違うと内心では慌てているのかもしれない。

 

「はじめてもよろしいですか?」ジェーンは二人の男に向かってそう声をかけた。男たちは顔を見合わせ、一方が微かに頷く。「では、こちらの書類にサインをいただきます」

 ジェーンはそう言うと、男たちに背を向けて、マグル生まれの者たちの方へと足を向けた。見るからに怯えた表情の魔女と魔法使いたちは、近づいてくるジェーンから少しでも遠く離れようと、壁にぴたりと身を寄せていた。

「この部屋を出てすぐに、あなた方の身柄は吸魂鬼に引き渡されます。その前に、こちらの同意書にお一人ずつサインをお願いします」

 そう言って、ジェーンは手にしていた名簿を差し出した。しかし、誰一人それを受け取ろうとする者はいない。それはそうだろう、同意書にサインをしてしまえば、自分の魂は吸魂鬼の手へと渡ってしまうと信じているのだ。

 暗く冷たい牢獄の中、いつ外へ出られるかも、明日まで生きられるかも分からないまま、孤独と戦い、寒さに凍え続ける。美しい思い出は吸魂鬼の餌となり、すべて吸い尽くされて、残されるのは絶望と、人間という魂の器だけだ。

 

「――あんたは一体何人のマグル生まれを、こうしてアズカバン送りにしてきたんだ?」ジェーンよりも年若い青年が前に出てきたかと思うと、使命感に燃えるような眼差しで、猛然とこちらを睨みつけてきた。「そうやってさも当然みたいな顔をして、あの連中と同じ場所に立っているつもりでいるんだろう? ヘルガ・ハッフルパフの血筋だって? だから何だっていうんだ。そんな古臭い血にすがって、自分は他の誰よりも尊い存在だとでもいうつもりか? あんたの首を掻き切れば、俺たちと同じ赤い血が噴き出すんだぞ。それともなんだ、あんたら純血の魔法使いからは、黄金の血でも溢れ出すっていうのか?」

 目と鼻の先に迫っている青年の顔は酷く青ざめていた。目の奥底には強い意志と決意が見え隠れしているものの、体は恐怖に震え、血の気が引いているのが見て取れる。

 ああ、これは――ジェーンはマグル生まれたちの魂胆をすぐに察した。そして瞬時に、それを利用しようと考える。崖っぷちに立たされている以上、利用できるものはすべて有効的に活用しなければならない。

「言いたいことは、それだけですか?」ジェーンはわざと反感を買うような物言いをした。「こちらにサインをお願いします」

 もう一度同じ言葉を口にすると、青年は一瞬にして激高し、ジェーンに掴みかかってきた。それが合図だったかのように、他の魔法使いたちも一斉に動き出すと、残された二人の男に勢いよく飛び掛かった。羽交い絞めにされているだけのジェーンとは違い、男たちは床に押し付けられ、杖を取り上げられている。

「だからそいつらを拘束しろと――っ!」

 床に押し付けられた一人が声を荒げるものの、誰かの脱ぎたての靴下を口の中に詰め込まれ、言葉までをも封じられていた。

 そう、ジェーンはマグル生まれの者たちを拘束してはいなかった。ここへ運ばれてくる者のほとんどは、既に戦う意欲を失くしている。マグル生まれ登録委員会に杖を剥奪され、吸魂鬼がうろつく魔法省の地下牢で一夜を明かせば、誰もが戦意を喪失するというものだ。

 今回移送してきたマグル生まれたちがその影響を受けていないのは、地下牢で過ごすことなくアズカバンに連れて来られたからだろう。地下牢は他のマグル生まれたちでいっぱいだと告げると、ドローレス・アンブリッジは尋問が済んだ者たちを、そのままアズカバンに連行するようにとジェーンに命じた。反論ならいくらでもできたが、ジェーンはアンブリッジの命令に、大人しく従った。

 

「おい、杖はどこだ!」

「右のポケットです」

 ジェーンがそう応じると、青年は近くにいた魔女に向かって、杖を取り上げるように言った。魔女は、まるで何十匹という蛇が入れられた壺に手を入れるような顔で、ジェーンのポケットをぐるりとまさぐる。そして、見つけ出した杖を素早く取り上げると、両手で強く握り締め、胸元に抱いた。

「それで」先ほどまでと変わらない口振りでジェーンは言った。「これからどうするつもりですか?」

「逃げるに決まってるだろ」

「どうやって?」

「建物の外に出れば姿現しが使えるからな」

 この惨憺たる事態を包み隠さず報告すれば、アンブリッジは癇癪を起し、金切り声で怒り散らすのだろう。上司としての責任は一切負わず、すべての責めはジェーンが受けることになるのだ。

「あんたが先頭だ」

 アズカバンはもともと要塞として築かれた建造物だ。建物の中は入り組んでいる。不慣れな者は、見取り図でもないかぎり外へ出ることは難しいだろう。ジェーンも曲がる角を一つでも間違えれば、たちまちのうちに吸魂鬼の餌食だ。そうでなければ、ここが闇の魔術の研究施設として使用されていた頃に、拷問の末殺された船乗りたちの亡霊に憑りつかれ、二度と日の目を見ることはない。

 どちらも御免被りたかったジェーンは、後ろに回された両手を拘束されたまま、先頭に立って歩き出した。

「当たり前に姿現しをすると言っていますけれど」ジェーンは前を向いたまま口を開く。「資料によれば、あなた方の内の半数が試験に合格していないようですが」

「合格していないやつは姿現しができないとでも?」

「いいえ。でも、姿現しをした先でバラける可能性は高い」

「このままアズカバンに放り込まれるより、バラける方がずっとマシだ」

 果たして、ここにいる全員がそのように思っているのだろうか。体がバラける恐怖は、それを経験した者にしか分からないという。指の爪がバラける程度ならば何の問題もないが、試験に挑戦した者の中には上半身と下半身がバラけ、上手く接合ができずに、そのまま命を落とした例もあった。途中で眼球が行方不明になり、二度と復元されなかった者がいることも、ジェーンは知っていた。

 

 何度か角を曲がり、階段を上り下りして、建物の外を目指す。後ろの方では、マントを頭から被せられ、ローブの裾を破り取った布の切れ端でぐるぐる巻きにされた男たちが、絶え間なく唸り声をあげていた。うるさい、黙っていろと殴られても大人しくならないので、何事かを伝えようとしているに違いないが、そう助言したところでマグル生まれたちは聞く耳を持たないに決まっている。

 

 アズカバンの守衛は魔法警察部隊の管轄だ。ジェーンには幼馴染以外にも何人か顔の利く相手がおり、ここへ足を運ぶのは決まって、その相手が守衛を任されている日だった。

 だが、今日は違う。いつものように見ず知らずの人間の墓を暴き、アンデット化させた傀儡を引き連れてやって来たのでもないのだ。今日は、正真正銘生きた人間を連れてきている。レストレンジが視察に来るという以上、実際に生きた人間を連れて来なければ、水面下で行ってきたすべての努力が水の泡と化すからだ。

 自らの命を最優先に考えるのであれば、マグル生まれたちの命は切り捨てて然るべきだ。ジェーンの本心もそう告げている。だがしかし、ほんの少しだけ残されている良心が、それを許さなかった。一方では罪に手を染め、一方では偽善に勤しんでいる――ジェーンはそうした自分に吐き気がするほどの嫌悪感を抱いていたし、すべてを放棄して逃げ出したい衝動にも駆られていた。

 一体何のためにこんなことをしているのか、幾度となく自問自答を繰り返しても、決まって答えは得られない。

 

 ようやく守衛室の前まで戻ってくると、その部屋はもぬけの殻となっていた。通常ならばあり得ない事態だ。しかしながら、ジェーンの推測通りならば、突き当りの扉を開いた先には、最悪の魔女が待ち構えている。

 だが、マグル生まれの者たちにはそうした危機感というものが欠如していた。むしろ、出口が目の前に現れた喜びに胸を躍らせているようだ。ジェーンが止める間もなく何人かが駆け出し、歓声を上げながら重たい鉄の扉に飛びついた。

「待って――」

 思わず声を上げるものの、前のめりになった体はすぐに引き戻される。反射的に振り返ると、青年がジェーンを見下ろし、勝ち誇ったように笑っていた。その表情が苦痛に歪むまで、もう幾ばくもないだろう。どうか自分の推測が誤りであれと願うが、開いた扉の隙間から見えたものが光ではなく闇だった時点で、無意味な願望は思考の外に追いやった。

 ガラガラガラ、という聞きなれない奇妙な音と共に、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、吸魂鬼が滑り込んでくる。あと一歩で自由を手に入れられるという喜びに満ちたエネルギーを吸い上げるべく、吸魂鬼は扉の前にいる者の身体の上に素早く覆い被さった。

「おい……」青年の表情からは余裕の色が消え去り、声に絶望が滲んだ。「おい、あれはどういうことだよ……」

 

 生気が吸い取られる。魂が抜けていく。吸魂鬼の口づけで、人間はただの器と化す。

 

 ジェーンは青年の力が弱まった隙に、するりと腕の中から抜け出した。もう彼らは助けられないと、吸魂鬼の餌食となった者たちに見切りをつける。ジェーン・スミスに救えるのは、自らの手が届く範囲内にいて、その指示に大人しく従う者たちだけだ。だが、今はそれさえも危ういだろう。

「生きてここを出たい人は、私に従って」

 守衛室の前に置かれている古びた長椅子に片足を乗せ、ローブの裾から覗くふくらはぎのホルダーから杖を抜き取ったジェーンは、マグル生まれの者たちをぐるりと見回した。ジェーンのポケットから杖を奪った魔女は、それを胸に抱いたまま、恐怖に慄いた表情を浮かべていた。

「杖を所持している人は前へ出て。あなたのそれは偽物です。その二人をこちらへ、急いで」

「誰があんたの言いなりになんか――」

「死にたければ好きにしなさい」ジェーンは青年に向かって冷たく言い放った。「もうあなたに構っている余裕はない。早く、その二人をこちらに寄越して」

 こうなってしまっては、全員が助かる見込みはない。多少の犠牲は否めない。自らの選択に後悔するのは、未来の自分に任せればいい。

 この世の終わりが来たかのような顔をしている面々を押し退け、ジェーンはマントを被せられている男たちをひっつかみ、引きずるようにして歩き出した。何かのはずみで口の中に詰め込まれた靴下が落ちたのか、二人のうちのどちらかが大声を上げる。

「この穢れた血め!」その激昂が狭い廊下に響き渡ると、人間の魂を食らい尽くした吸魂鬼が次の獲物を狩るべく、こちらに意識を向けるのが分かった。「お前たちに魔法を使う権利はない! 資格もない! 我々から魔法を盗んだ大罪人どもが!」

「俺たちは魔法を盗んでなんかいない!」

「ならばなぜマグルの分際で魔法が使えるのだ!」

「そういうふうに生まれたからだ!」確かに、それ以外に理由はないとジェーンも思う。「なあ、あんたらは怖いんだろ! 俺たちマグル生まれがもたらす変革を恐れているんだ! 自分たちが無知で無能だって知らしめられることが、許せないんだろ!? だから俺たちみたいなマグル生まれを排除して、自分たちは特別な存在だって思い込みたいんだよな!?」

 

「――おやおやおや、ずいぶんと威勢の良い声が聞こえてくるじゃないか」

 

 心底ぞっとする、小動物を猫かわいがりするような声が、鉄の扉の向こう側から聞こえてきた。その声音とは相反する、頭上から信じられないほどの圧力で押し潰されるような感覚を味わいながら、ジェーンは死喰い人の軍門に下った男たちを盾にして立つ。

「マダム! マダム・レストレンジ! 謀反です!」

「へえ、そうかい」レストレンジは愉快そうに応じた。「それで、ジェーン・スミスとかいう女は、白なのか? 黒なのか?」

「し、白です、マダム!」

 男がそう答えると、今度は明らかに不愉快そうな舌打ちが、ここまで聞こえてくる。

 そうか、この男たちは自分を見張るために連れて来られただけの、ただの捨て駒だったのか。護衛の兵隊ですらなかったのだと、ジェーンは思う。それなりの地位を与えられておきながら、それでも魔法省から寝返り、良かれと思って長い物に巻かれた結果が、これだ。

 ジェーンは必死に叫んでいる男の背中を、迫りくる吸魂鬼に向かって勢いよく突き飛ばした。マント越しにも分かるのだろう、自身を覆い尽くす冷気に狂気の声を上げると、うつ伏せの身体をよじり、死に物狂いでその場から逃げ出そうとした。ジェーンに腕を掴まれているもう一人の男も、何か嫌な予感を感じ取ったのか、呻き声を上げながら肩を大きく揺すり、その手から逃れようとしはじめる。

 飢えた吸魂鬼が夢中で人間の魂を貪る様子を横目に見てから、ジェーンは後ろを振り返った。

「この隙に外へ」

「あんた、正気かよ……」

「正気でこんなことができるとでも?」

 未だしぶとく抵抗を続けている男の肩の下に靴の先を滑り込ませ、ジェーンがその体を仰向けにさせると、吸魂鬼は男の顔がある辺りにゆっくりと吸い寄せられていく。この時に聞いた断末魔の叫びは、死ぬまで耳に残って離れることはないだろう。

 

「誰かの命を犠牲にしてまで生きたくないというのなら、そこで自分の順番が回ってくるのを待っていればいい」

 強気な言葉を口にしていながらも、ジェーンの全身からは血の気が引き、杖を握る指先は感覚を失うほどに冷え切ってしまっていた。だが、何があっても心だけは閉ざしていなければならない。何一つ読み取らせてはいけないのだ。

 閉心術は吸魂鬼に対しても有効であるとされていた。吸魂鬼の前ではそれを維持することすら至難の業だが、閉心術を試みることで感情が読み取りにくくなり、標的にされる可能性が低くなるといわれている。

 アズカバンでは基本的に魔法を使用することができない。それは周知の事実だが、ならばなぜ、シリウス・ブラックは動物もどきになることができたのか。ジェーンにはそれが疑問だった。おそらくは、杖を用いることなく己の肉体のみで完結する魔法は、アズカバンの建物内でも使用することができるのだ。その証拠に、閉心術を試みているジェーンに、吸魂鬼は今のところ関心を示していない。

「今すぐに決めて」ジェーンは後ろを振り返り、答えを迫った。「私に従って生き延びるか、楯突いて死ぬのかを」

 

 死はなぜかいつも頭の片隅にあって、いつしか誰の身にも訪れるものなのだと理解したとき、何もかもが腑に落ちたような気がしたことを覚えている。自分が生まれたことに意味などない。人は勝手に生まれ、勝手に死んでいく。生きることに意味を見い出せる人間はごく少数だ。死の間際に後悔するような人生を送る者の方が、ずっと多いのだろう。自分は後者に違いないと、ジェーンは常々思っていた。

 ジェーン・スミスにとって、死など些末な問題だ。それでも死に抗い続けているのは、自分の亡骸に縋って号泣する父親の姿を、容易に想像することができたからだった。母が旅立った日の夜、お前は自分より先に逝かないでくれと懇願してきた父親のか細い声が、まるでたちの悪い呪いのように、耳の奥にこびりついて離れない。そうした父親の在り方こそが、ジェーンを偽善に走らせる一要因となっていた。

 娘の死を嘆く父親がいる。その事実が、赤の他人の背後にも透けて見えた瞬間、ジェーンの頭のネジが飛んだのだ。

 目の前にいる死にかけた人間にも家族はいる。その人間が死ねば、誰かがその亡骸に縋り、一晩中泣き続けるのだろう。その様子は、頭の中で自分の亡骸と号泣する父親の姿にすり替わり、いつもジェーンを苦しめた。

 きっと、最初に透けて見えたときにはもう、心が壊れはじめていたのだ。多少の犠牲は致し方ないと諦める反面、意固地になって他者の命を救おうとする。自分の命になど何の価値もないと思う反面、他者の命を犠牲にしてまで生き延びようとする。この手で人を殺めることすら厭わなくなったというのに、同時に生かそうともしている。ジェーンの行動は、明らかに矛盾していた。

 何が正しいことなのかも分からなくなっていた。正義なんてものはどこにもなかった。そうだ、これは戦争なのだと、そう思い知らされる。自分はその真っただ中にいて、今更逃げ出すことなどできないのだと、そう思った。

 助けてと叫んでみたところで、誰も助けてはくれない。それなのになぜ、ただ縋るだけの誰かを、命懸けで助けているのだろう。まるで使命を帯びた者のように、誇り高い円卓の騎士のように、勇者になどなりえない、ただの人でしかないというのに。


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