幼馴染の男が店舗兼住居のスミス家に到着した時、その周辺には既に、日刊預言者新聞や週刊魔女などの記者らが集まりはじめていたらしい。人目に付きにくい路地の方から自宅に入り込んだ幼馴染は、何も知らずに開店準備をはじめていた父と二人で二匹の猫を抱え、外で待たせていたマグルのタクシーに乗り込んで、急いでその場を離れたという。幼馴染から顛末を聞かされ、問題のザ・クィブラーを手渡された父は、それにじっくりと目を通してから「こんなことがあったのだね、知らなかったよ」と言って、静かに微笑んでいたそうだ。
リータ・スキーターは魔法界の鼻つまみ者だが、彼女の書く記事は噂好きの魔法族にとってはあまりにも魅力的で、抗うことのできない吸引力があるようだ。第二次魔法戦争中にスキーターの著書『アルバス・ダンブルドアの真っ白な人生と真っ赤な嘘』が出版されると、誰もが興味本位でそれを購入した。かく言うジェーンも例に漏れない。
リータ・スキーターが寄稿するだけで、新聞や雑誌の売り上げが伸びると言われている。その事実を証明するように、書店に並べられたザ・クィブラーは飛ぶように売れたらしい。その日の夜には、各家庭の夕食の席で話題に上り、件の問題はイギリスの魔法界中に知れ渡ることとなった。
一晩だけ幼馴染が一人住まいしているアパートに避難していた父と猫たちは、その後すぐ、本家に身を寄せることが決まった。当主に事情を話すとジェーンのことも匿うと申し出てくれたが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、丁重に断ったのは数日前の話だ。
ジェーンはロンドンにあるマグルのホテルに泊まり込み、この事態が落ち着くのを待って、魔法省の仕事に復帰するつもりでいた。父が本家の世話になっているというのに、自分だけが逃避行をするわけにもいかないだろう。アメリカの魔法議会を頼ろうかとも考えたが、同じ理由で断念をした。
今はとにかく、人目に付かないように身を隠し、ほとぼりが冷めるのを待つのみだというのが、さしあたってのジェーンの決断だった。
故に、ジェーンは当面の間は仕事を休み、休暇を享受しようと目論んでいた。幼馴染に頼んで買ってきてもらった本が、ベッドサイドのテーブルに置かれ、冷蔵庫の中では数本のワインが冷えていて、つまみのチーズと生ハムが出番を待っている──はずだった。
「どうしてこんなことに……」
百歩譲って魔法生物規制管理部の仕事であれば引き受けても構わない。だがしかし、今目の前にあるのは間違いなく、大臣室付きの補佐官が行うべき仕事だ。
自らがしでかしたことは、自らの手で尻拭いをしろということなのか──ジェーンは丁寧な羽ペン使いで文字を綴りながら、ぐっと奥歯を噛み締める。
魔法省大臣から出される手紙の多くは大抵の場合、大臣室付きの下級補佐官の手で書かれている。他の部署ではある程度の定型文が用意されているが、魔法省大臣から送られる手紙は多岐に渡るため、その時々に応じて臨機応変に対応しなければならない。
今回は、第二次魔法戦争中に一度は死亡届を受理され、死亡したことにされてしまったマグル生まれの魔女や魔法使いたちに送る謝罪の手紙を書かされていた。何年も前、魔法を使って書かれた謝罪の手紙を受け取った相手に、誠意が足りないのではないかとクレーム──もとい、お叱りを受けてからは、謝罪文は直筆で書くというあり得ない決まりが罷り通っている。
全部で百通以上──厳密には、百八十九通の手紙を書かなければならない。
「ホテルの宿泊費用を出してやるとは言ったが、タダで出してやると言った覚えはないからな」着の身着のままホテルに向かおうとしたジェーンの背中を呼び止め、キングズリーが厳しい面持ちで言った。「後程仕事を届けさせる」
その日の夜、このうんざりとする程の量の仕事を届けにやって来たのは、パーシー・ウィーズリーだった。機密書類を魔法省の外に持ち出すなんて信じられないと憤っていたが、魔法省大臣の命令には逆らうことができなかったのだろう。書類はカムフラージュするように、ダイアゴン横丁にある悪戯専門店の紙袋の中に入れられていた。
「僕はこれで失礼するよ」
パーシーは実家で夕食を食べるのだと言って足早に出て行ったが、またすぐに戻って来たかと思うと、明日も同じ時間に来ると言い残して、今度こそ駆け足で帰っていった。第二次魔法戦争が終結すると同時に、家族との間にあった蟠りも解け、今では週末ごとに帰省しているそうだ。先の戦争で弟を一人亡くしたと聞いたが、職場でその話をしたことは一度もない。
ジェーンは不意に、査問会に掛けられる少し前、魔法省のエレベーターで父親のアーサー・ウィーズリーと偶然乗り合わせたことを思い出した。
「やあ、どうも」
遠くから急いで走ってくる人影が目に留まったので、発進させずに待っていると、アーサー・ウィーズリーは息を切らしながらエレベーターに乗り込んできた。本当にパーシーの父親かと疑うほど愛想の良い人物で、にこにこと人好きのする笑顔を浮かべながら、気安く挨拶をしてきた。
「キングズリー──いや、魔法省大臣から呼び出しを受けましてね」
「大臣から伺っております」
「えっ?」
「大臣室付き下級補佐官のスミスです」
「──ああ、ではあなたが!」アーサーは二人きりのエレベーターの中で大声を出したかと思うと、ジェーンの手を取ってがっちりと握手をした。「あなたのことはパーシーから聞いています。いつも息子を助けてくださっているそうで」
「いえ、こちらこそ息子さんにはいつも助けられています。本当に優秀な息子さんですね」
「ありがとうございます」
息子を褒められたアーサーが酷く嬉しそうに眦を下げていたことを覚えている。
幼い頃は、父親というのは皆穏やかな生き物だと思っていた。自分の父親も本家の当主も驚くほどおっとりとした人だったので、幼馴染の父親が豹変したときは酷く驚いたものだ。このウィーズリー家の父親は、ユアンのように穏やかな人らしい。それだけで好感を持つことができた。
「是非今度我が家においでください。一緒に食事をしましょう。妻が作る料理はどれも絶品ですよ」
共に一階でエレベーターを降り、大臣室の前まで付き添って行くと、アーサーはそう言ってから、軽い足取りで室内に姿を消した。
パーシーは一体自分のことをどのように話しているのかと疑問に思ったが、それを当人に問い詰めたことはない。聞いたところで仕方がない。他人からの評価になど興味もない。
悪戯グッズ専門店の紙袋に紛れ込んでいたらしいピンク色のピグミーパフに邪魔をされながら、ジェーンは一通、また一通と手紙を書き綴っていく。そうしているうちに、自分が助けられたのは、たかだか百八十九人の命でしかないのだと思い知らされ、大いに気持ちが打ちのめされた。
見過ごした命があった。見殺しにした命もあった。あと一歩のところでこの指の間をすり抜けていった命があった。全員を救えたわけがない。だが、看過した命のことを考えると、酷く寝覚めが悪かった。
これがあの魔法省大臣の魂胆なのだとしたら、あまりに底意地が悪いとしか言いようがない。だが、これが命の選別をした自分への罰なのだとしたら、甘んじて受け入れるしかない。
サイレンを鳴らした警察車両がホテルの前を通り過ぎていく。その音で我に返り顔を上げると、机の上にある置き時計が目に入った。時刻は午後六時を過ぎている。もう間もなくパーシー・ウィーズリーが今日の分の手紙を受け取りにやって来るはずだ。
「……気が滅入るな」
ジェーンは宛名を書いた封筒に手紙を入れ、それらを麻の紐でまとめて縛ると、メモ書きを添える。その手紙の束を紙袋に入れて目立つ場所に置いてから、そのままバスルームに足を向けた。
痛いくらいの水圧のシャワーを浴びながら、このろくでもない思考も水と一緒に流されてしまえば良いのにと思う。
「僕には分からないな」一昨日、青白い顔をして手紙を書いていたジェーンを見て、パーシーが本当に分からないというふうな顔をして言った。「もっと胸を張ればいいじゃないか。君はそれだけのことをしてきたんだ。命懸けで大勢の命を救った。それは誰にでもできることじゃない。少しくらい自分を誇ってもいいだろう?」
もしも清廉潔白なヒーローだったなら、ここまでの罪悪感に苛まれることはなかったのだろう。だが、ジェーン・スミスは違う。
ただ純粋に人の命を救っていたわけではない。人の命を救うために数々の罪を犯した。死喰い人と取引をしたこともある。中途半端に自らの命を賭して、いざ自分自身の命が危険に晒されれば、あの青年が言った通り、他者を盾にしてでも生き延びてきた。
すべての秘密を打ち明けたとしたら、ジェーン・スミスを担ぎ上げようとしている人々は途端に反旗を翻し、徒党を組んで糾弾することだろう。たちまちのうちに裁判にかけられ、自らを弁護する声すら罵声に掻き消されて、アズカバンで吸魂鬼の餌食にされることになる。
実際にそうなってしまったとしたら、自分はその瞬間も、毅然と頭を上げていられるのだろうかと、ジェーンは思った。魔法界の語り種にされるのなら、最後の最後まで自分を貫きたいと強く思う。無様な人間にだけはなりたくない。自分の命は自分で守ってきたのだ。だからこそ、決して命乞いなどはしないし、したくない。
ただただ、どうしようもなかったのだ。
この世界には、どうしようもないことが溢れている。
このどうしようもない世界の中で、最善だと思うことに命を賭け、今の今まで生き延びてきた。細い綱の上を真っ直ぐに歩いてきた。今になってようやく、自らが歩いて来た道を振り返り、顧みている。
自分自身に暗示を掛けるように、自分は正しいことをしているのだと言い聞かせてきたが、今となってはもう、何が正しかったのかも分からない。
「──ねえ、私の娘は? 私の夫はどこ?」
これは、ザ・クィブラーの発売日に、魔法省大臣室に一時避難していた時の話だ。
酷くげっそりとした女が、何の前触れもなく魔法省大臣室に飛び込んできた。痩せ細った体に、痩けた頬、目の下にはくっきりとした隈があって、目が落ち窪んで見える。だが、眼光だけは驚くほど鋭かった。
人員不足のせいで警備が手薄になっていると何度も指摘していたというのに、今になってもまだ、守衛の数は増えていないようだ。それならば、しばらくの間は魔法警察部隊をエントランスの警備に回した方が良いと進言すれば、警察部隊は死喰い人の残党狩りと外回りに多くの人員を割いているので、省内の警備には使えないと言われたことを思い出していた。
「私の家族はどこにいるの? 今すぐに私の家族を返して! 返してよ!」
ヒステリックな金切り声を聞いて駆けつけて来た補佐官の制止を振り払い、その女は大臣室の中程までやってくると、椅子の向こう側に立っていたキングズリー・シャックルボルトに掴み掛かった。そして、その細腕からは想像もつかないような強い力で、キングズリーの体を大きく揺さぶった。
「わ、私の家族は生きているのでしょう? ねえ、そうなんでしょう? ほら、この記事で読んだわ。ジェーン・スミスという魔法省の職員が、多くのマグル生まれの命を救っていたって。国外に逃していたって。ねえ、私の家族は? どこ? どこに逃したの?」
その女の手にはくしゃくしゃになった紙が握り締められていた。恐らくは、ザ・クィブラーの該当のページを破り取ってきたのだろう。
女が着ていたのはくたびれた部屋着だ。足元に目を向ければ、片方はスリッパ、もう片方は素足という、見るに耐えない格好だった。すぐ目の前にジェーン・スミスがいるというのに、酷く血走り、見開かれた目は、キングズリーだけを見据えていた。
「落ち着いてください、ミズ」キングズリーは深みのある低い声で、穏やかに声を掛けていた。「詳しい話は私の補佐官がお聞きします」
「ねえ、生きているのよね? 私の家族は、間違いなく生きているのよね?」
魔法省大臣は自らに縋るその女を憐れむような目で見つめていた。その女が補佐官に引きずられるようにして大臣室を出ていくのを見送る眼差しは、気の毒にと、可哀想にと、そのように物語っているようだった。
「ですから申し上げたのです」
補佐官と女が大臣室から姿を消してからそう声を上げると、扉の方に目を向けていたキングズリーが、平然とした面持ちで応接用の椅子に腰を下ろしたままのジェーンを訝しげに見た。
「……何の話だ?」
「エントランスの警備を増やすべきだと申し上げました」
「君には人の心が──」
「補佐官は日々様々な問い合わせの対応に追われています。皆、自分の順番が回ってくるのを律儀に待っているのです。あの方を優遇するのは間違いです」
「家族を失った者の悲しみに寄り添うことも間違いだと言うのか?」
「我々は慈善活動家ではありません。職員の中にも家族を失った者は大勢おります。ウィーズリーは先の戦争で弟を──」
「そんなことは知っている」
「軽はずみに謝罪をすれば、民衆は闇の帝王に関わるすべての死の責任を、魔法省に押し付けようとするでしょう。運良く命を救われ、亡命して生き延びた人々のことを非難する者が現れます」
「彼女の家族は生きているかもしれないだろう」
「亡命した方々は、亡命した先の魔法省や議会から生活費を支給されていました。期限は先の戦争が終結するまでというお約束です。既に生活費の支給は廃止されているので、そのまま移り住むことを選択した方以外は、帰国の途に就いて久しいはずです。帰国に必要な旅費も負担してくれるという協約でしたから、尚のこと帰国は進んでいるでしょう」
「記録を調べれば──」
「本名では差し障りがありましたので、亡命に際し作成し、他国に提出した書類はすべて偽名を使用しています。本名と偽名を照合するための記録は残していません。現状は自己申告に頼らざるを得ない状況です」
「後々面倒なことになるとは思わなかったのか?」
「闇の帝王や死喰い人が、国外に逃亡したマグル生まれの魔女や魔法使いをご丁寧に追いかけていって手を下すとは考えておりませんでしたが、戦争が長期化し、グリンデルバルドの時と同様に各国に飛び火する可能性も皆無ではないと考えました。何らかの事故や手違いで私以外の何者かに書類を見られでもしたら、すべての労力が水の泡になることも考えられました。人手も不足しておりましたので、多少の不手際があったとしても、それを責められることはないだろうと判断したまでです。ご承知おきの通り、事後処理に手間は掛かっておりますが、この程度のことは大臣室付き補佐官にとっては瑣末な仕事ですので、どうぞお構いなく」
私はもうその補佐官ではないのですが──そう言うのを、キングズリーは何とも形容し難い面差しで睨んでいた。ジェーンのことを、人の心が分からない、血も涙もない女だと思っているに違いない。
だが、役所仕事というのはそういうものだ。少なくともジェーン・スミスは、誰かを特別に贔屓したことはない。もしマグル生まれの魔女や魔法使いを助け、亡命させたことが贔屓に当たるのだとしたら、それは不徳の致すところだとしか言いようがなかった。
「……昨日大臣に提出した書類の中に亡命から帰還した魔女と魔法使いの記録があったはずです」
「ああ」
「魔法生物規制管理部の部長のところに新しい情報が届いているかもしれません。闇の帝王の死後、霊魂課にゴーストの登録が増えていると聞いています。それから、不名誉な死を遂げたマグル生まれの方々の杖を可能な限り掻き集め、備品倉庫に保管してあります。返還を希望する親族の方にお返ししてください」
ジェーンには他人の悲しみに寄り添うだけの心の余裕はない。他人を憐れむほどの優しさもない。最も助けを必要としていたときに、何もしてくれなかった他人を、信用しようとは思わない。
それでも、人の心をなくした覚えはない。
「君は──」
キングズリーは何かを言いかけるが、そのまま唇を噛むと険しい表情を浮かべ、続くはずの言葉を飲み込んでいた。