魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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守るということ

 今夜は私の部屋を使えば良いと言ったジニーの申し出を、ジェーンは丁重に断った。今はウィーズリー家のリビングのソファに横たわって、剥き出しになった天井の梁をぼんやりと眺めている。

 その天井の梁は異常なほどにたわんでいた。天井そのものが湾曲しているようにすら見える。魔法によって支えられていなければ、今すぐにでも押し潰されてしまうのだろうと、容易に想像することができた。少し前までは、階上から足音や物音が聞こえていたが、今はひっそりと静まり返っている。夜更けも過ぎ、朝の方が近い時間帯だ、皆床に着いたのだろう。

「お客様をこんなところに寝かせるなんて忍びないわ」

 ウィーズリー夫人はそう言いながらも、厚手のパッチワークキルトの上掛けと、温かいはちみつミルクを入れたマグを手渡し、寝室に下がっていった。

 かの英雄と親友だというパーシーの弟ロンは、最後までジェーンのことを疑心に満ちた目で見ていたが、夕食後に帰ってきたジョージ──ダイアゴン横丁でウィーズリー・ウィザード・ウィーズという悪戯グッズ専門店を経営している──にさっさと寝ろと尻を蹴飛ばされ、渋々というふうにリビングから姿を消した。

「あんたのことはパースから聞いてるよ」キッチンにある夕食の残り物をかき集めていたジョージが、階段を上る前に後ろを振り返ってこう言った。「まあ、ゆっくりしてって」

 ジェーンの監視役を任されているのであろうパーシーはといえば、早々にその任務を放棄したような様子で、一番に寝室に戻っていってしまった。それがジェーンに対する信頼の表れだと言えば聞こえはいいが、ジェーンにはその信頼に添えるだけの自信はない。そもそも、ジェーンはパーシーの忠告には一度も耳を貸したことがないので、何を言っても無駄と諦めている可能性の方が高いだろう。

 魔法省が陥落し、闇の帝王の支配下にあった一時期、ここは不死鳥の騎士団と呼ばれる正義を自称する集団の本拠地だったそうだ。闇の帝王は純血の血筋を尊ぶ傾向があったため、所謂血を裏切る者と称されたウィーズリー家でも、積極的に粛清されることはなかった。もしくは、闇の帝王が寛大なお心を以てお目溢しをしてくださっていたのかもしれない。ジェーンも半純血ではあるものの、ヘルガ・ハッフルパフの血筋であることが、あの動乱の最中を生き延びられた理由の一つではあるはずだ。

「血を裏切る者などさっさと始末してしまえば良いものを」

 あれほど闇の帝王を慕っていたベラトリックス・レストレンジも、こればかりは理解に苦しむというふうに陰口を漏らしていたことがあった。パイアス・シックネスに執務をさせている傍で、ジェーンに買って来させた昼食を貪りながら、ヤックスリーが応じた。

「あのお方にはあのお方のお考えがあるのだ」

「お黙り。そんなことはお前に言われなくても分かっているよ」

 魔法族の純血は年々数を減らしている。絶滅危惧種と言っても過言ではない。学者の中には寧ろ、既に純血は存在していないとすら考えている者もいるくらいだ。近年では近親交配が問題視されていることから、中には半純血を受け入れることを許容する家門も出てきてはいる。しかしながら、純血主義に傾倒していた多くの家系は闇の帝王が討ち滅ぼされたことをきっかけに、徐々にではあるが考え方を変化させていくのではないかと、ジェーンは考えていた。

 純血は一種のブランドだ。自らの名前を煌びやかにする装飾品でしかない。魔法族としての実力は必ずしも血に起因しないということを人々は知るべきなのだ。それをヘルガ・ハッフルパフの血筋である自分が語るのは筋違いなのかもしれないが。

 結論から言うと、ジェーン・スミスは忠誠の術を用いて、ロドルファス・レストレンジと子供の秘密の守人になっている。この術を用いたのは魔法省で査問会に掛けられる以前のことだ。

 ロドルファスと子供は、マルフォイ家が密かに所有している、とある邸宅に隠れ住んでいる。ジェーンが秘密を打ち明けた相手は、マルフォイ夫妻二人だけだ。これによって、もしジェーンが死んだとしても、マルフォイ夫妻が秘密の守人を引き継ぐことになる。

「魔法省では今、闇の帝王に加担したと思われる魔法省の職員が取調べを受け、場合によっては査問会に掛けられて、法廷に立たされています。生き残った死喰い人も順次裁判に掛けられています」

 ロンドンの街の一等地、ナイツブリッジの一画に場所を移した四人と赤ん坊は、ランプの灯りが点る薄暗いリビングで、顔をつき合わせていた。赤ん坊はナルシッサの腕に抱かれてすやすやと眠っていた。

 室内の調度品はどれも一級品だった。マルフォイ家の人々はマグルのことを散々馬鹿にしているが、この部屋を飾る家具の数々は、そのマグルの家具職人が作ったものである。まさか、それを知らないということはないだろう。父のユアンが金を工面するために売り払った家財と似たものが、その部屋にいくつかあったことを覚えている。

「こいつらはその裁判で死喰い人の残党狩りに手を貸すことを条件に赦免されたそうだな」

 ロドルファスの嫌味っぽい物言いを聞き、顔面を蒼白にしたルシウス・マルフォイが、僅かに体を硬直させるのが分かった。隣に座っているナルシッサは、酷く不快そうに眉を顰め、子供を抱く手に力を込める。なるほど、やはり子供は世話をしてやっているのではなく、人質に取っているのだろうと、ジェーンの想像は確信に変わった。

 触らぬ神に祟りなし──これ以上のごたごたに巻き込まれるのはごめんだと考えたジェーンは、ロドルファスの発言を聞かなかったことにし、話を先に進めることにした。

「十中八九、私も査問会に掛けられることになります。この約一年間、私はコーバン・ヤックスリーの手足として働いておりましたので、審問官の中には私が闇の魔法使いと通じていたと考える輩もいるでしょう」

「だろうな」

 ロドルファスはそう言いながら、くっくっくっ、と噛み殺すような笑い声を漏らした。こんな残忍な魔法使いでも、皮肉や冗談の類で笑えるのだ。

「生き残った死喰い人の中には、私をヤックスリーの忠実な僕だったと証言した者もいます。私自身がそのように振る舞っていたわけですから、致し方ないことなのでしょうが」

 知り得る限りの言葉を駆使して誰かの気分を良くさせることは得意だった。相対する者の顔色を窺いながら、その人物が好む言葉を探り当てていく作業は、呼吸と同じくらい自然に行うことができる。真正面から煽てた方が良い者は煽て、遠回りな物言いでさりげなく称賛した方が良い者はそのようにし、少しずつ懐に潜り込んでいく。

 ロドルファス・レストレンジは存外頭の良い男だ。恐らくはジェーンの魂胆など見え透いているのだろうが、その上で付き合ってくれているのだろう。今この瞬間の会話を楽しんでいるようにすら見える。まるで、遠い異国の地で何年かぶりに言葉の通じる同胞に出会えたかのように。

「私には何人かの死喰い人との間に繋がりがあります。その大半の死喰い人は死にましたが、生き残った者が裁判で私の名前を口にする度に、私への疑いは深まっていくはずです」

 ジェーンはそこまで口にしてから、口を真横に引き結んだまま一言も発しようとしないルシウス・マルフォイを横目に見やった。

 この男も例外なく裁判に掛けられたが、あの日のアズカバンでの出来事を口外することはなかった。それが何故なのかを考えると、やはり思い至るのはベラトリックス・レストレンジの赤ん坊のことだが、そこまで義理堅い人間なのかどうかは甚だ疑問だ。

 あのとき、ベラトリックスの腹の子を持ち出したのは、無事に逃げ切るための口実だったのかもしれない。この男が嫁の姉妹の子を愛しているとは思えない。ナルシッサが抱いている赤ん坊を見る眼差しは露骨に嫌悪感を帯びているように見える。

「そう遠くない未来、魔法省は私とミスター・レストレンジとの間に何らかの繋がりがあるのではないかと、そう疑い始めるはずです」

「そこまで先のことを見通せているというのに、お前はそれでも私と取り引きをするというのか?」

「はい」ジェーンは一拍の間も置かずに応じた。「魔法省が私を守ってくれるというのなら話は別ですが」

「今この場では、我々とお前の間に魔法省という盾は存在しない」

「魔法省が正しく盾として機能していれば、この国が闇の帝王の剣に貫かれることはありませんでした」

 魔法省も、闇の帝王も、詰めが甘いのだ。常に最悪の事態を想定していない。だから、最後の最後で油断をし、弱者に足元を掬われる。

「もしも、今後私が何らかの罪に問われ、査問会に掛けられて、法廷に立たされるようなことになったとしても、公の場であなたのことを口外しないとお約束します」

「恐喝、拷問、自白剤──吐かせようと思えば手段ならいくらでもある」

「まず忠誠の術ですが、これは恐喝や拷問の類で自白を強要することはできません。守人は自らの意思で打ち明ける以外に、他者と秘密を共有する術がありません。私はあなたとお子さんを秘密の中に隠します。そしてすぐに、そちらのマルフォイ家のご夫妻にだけ、隠された秘密を共有します。そうすれば、もし私が死んだとしても、守人としての役割はご夫妻に移譲され、秘密は守られます」

 守人から秘密の中身を打ち明けられた者は、それを共有する仲になったとしても、秘密を口外することはできない。だがしかし、最初の秘密の守人が死ねば、秘密を共有していた者すべてが、次の秘密の守人となる。秘密を知る者が多ければ多いほど、この忠誠の術の効力は弱まり、秘密を守ることが困難になる。

「もし──可能性は低いですが、査問会であなたとの繋がりを疑われた場合、もしくは別の場所であなたとの関係を訊問された場合は、すべての質問に対して『その質問にはお答えできません』と答えることにします」

「ほう」

「あの魔法省大臣のことですから、頑なに何も答えようとしない私を見て、その言葉の真意を汲み取ってくださるはずです」ジェーンは自分でも気付かぬうちに、にんまりとした笑みを浮かべていた。「ジェーン・スミスは破れぬ誓いを結んでいるのではないか、と」

「だが、それでは私とお前の繋がりが確実なものとして認識されることになる」

「これはあなたや私にとって非常に都合の良い勘違いです。例えば、私があなたとの繋がりを疑われ、そんなものはないと嘘を吐いたとします。しかし、魔法省はそれを信じられず、それこそ恐喝、拷問、自白剤の使用に踏み切るかもしれません。そして、私はロドルファス・レストレンジとの間には繋がりがあると白状する羽目になることでしょう。すると、彼らは私がもっと隠し事をしているのではないかと疑い始めます。私の秘密は次々と暴かれ、立場も危うくなる。ですが、その質問には答えることができないと言えば、あなたとの繋がりは確実にあると明言する代わりに、もしかしたら命を脅かされている可能性があるのではないかという深読みを誘うことができるのです」

「お前にとって都合の良い勘違いかもしれないが、私には何の利点もなさそうだがな」

「この受け答えをすることで、私と接触した時期を曖昧なままにすることができます。闇の帝王が存命当時のことなのか、あるいは死後のことなのか。これはあなたにとっても好都合なのでは?」

「私にとって最も好都合なのは、お前が正しく忠誠の術を使用したのを確認した後に、お前をこの手で殺し、お前の中にある秘密を永遠にすることだ。そうすれば、私は誰にも見つけ出すことのできない隠れ家を手にすることができる」

「もちろん、それも一つの手ではあります」否定しないジェーンを見て、ロドルファスは僅かに目を丸くした。「私がこの邸宅を秘密の中に隠したとしても、ミスター・レストレンジは自由に出入りすることができます。ただ、あなたが外出先で不慮の事故に遭った場合、ここにいるお子さんを助けられる人間は誰もいません」

「この俺が不覚を取るとでも?」

「私はもしもの話をしています」

「では、もし俺が不覚を取るような事態に陥ったとしたら、お前がこのガキを助けてくれるとでも言うのか?」

「私を頼るよりもマルフォイ夫妻を頼った方が賢明なのでは?」

「俺がこいつらのことを信じているとでも思っているのか」

「私のことは信じてくださっているのですか?」

「それとこれとは話が別だ」

「お約束は致しかねます」

「実にお役人らしい物言いだ」

「今の私に確約することができるのは、あなたとお子さんの秘密の守人になることと、その秘密を守ること、ただそれだけです。そもそも、私が秘密の守人になる利点は、普段の生活においてあなた方との接点が皆無だという前提の上で成立するものです。これより以降、あなた方と積極的に接触するつもりは一切ありませんので」

「私にはお前の損得勘定が理解できそうにない」

「理解は必要ありません。必要なのは、否か応かの返答だけです」

「こちらが否を選んだらどうする?」

「そのときは仕方がありません」ジェーンはこれ見よがしに肩をすくめて見せた。「あなたが私を殺す前に、私があなたを殺します」

 はっはっはっ、と腹を抱えて笑うロドルファスを見やりながら、こんな男でも心底愉快そうに笑えるのだなと思い、ジェーンは絶望的な気持ちになる。こんな男ですら感情を剥き出しにして笑えるというのに、ジェーンはもう何年も、こうして笑った覚えがない。

「大人しく死を選ぶものだと思っていたのだがな」

「自分自身の死に対しては何ら特別な感情を抱いてはいませんが、私が死ぬと嘆き悲しむ人がいることは知っています。ですので、簡単には死ねないのです」

「私はどうやら死というものに慣れすぎている」

「存じ上げています」

「今思えば、あのお方は異常なまでに死を恐れていた……」

 命あるものは皆すべからく本能的に死を恐れるものだ。人は皆死の先にあるものを知らない。だからこそ、神様などと呼ばれる超常的な存在に縋り、救いを求めてしまう。特に、マグルの世界ではそれが如実に現れ、日曜日を迎える度に教会へと足を運ぶ。

 かつて父は無神論者だった。だが、母は神を信じていた。母に病気が見つかると、二人は足繁く教会に通い、病が快方に向かいますようにと祈り続けた。それこそ、藁にも縋るような思いで。それでも、母は病に蝕まれて死んでしまった。父は未だ教会に通い続けている。

 死への恐怖を克服するために、宗教に救いを求めるのと、錬金術や分霊箱といった闇深い魔術の研究を行うことの、一体どちらが賢明なのだろう。

 ジェーンは死をも恐れぬ者が偉大だとは思わない。死は正しく恐れられるべきものだ。吟遊詩人ビードルの物語に登場する三兄弟の末の弟が、死から身を隠すマントを自らの子供に譲って死を受け入れたように、人々はいずれ訪れる死を甘んじて受け入れる──それが、最も賢明だと言わざるを得ないのではないか。

 死は平等に訪れる。

 永遠に生き続けるのではないかと思われていた偉大な魔法使い、アルバス・ダンブルドアが死に、史上最悪にして最強と謳われていた闇の魔法使いも討ち滅ぼされて、死の平等性は証明された。

 無敵の杖を手に入れたところで、死者を甦らせる石が存在したところで、死から身を隠すマントを持っていたところで、人は死から逃れることなどできはしない。

 死は受け入れるべきものだ──が、今はそのときではないと感じるのなら、抗うこともまた認められて然るべきなのだろう。

 昆虫や動物が本能で死を嫌うように、我々人間もまた、本能で死を恐れている。死んだら終わり。生きとし生けるものは皆、その法則を本能で理解しているのだから。

 ジェーンはソファの上で小さく身じろぎをする。

 結局、一睡もできないままたわんだ天井を眺めていることしかできなかった──そんなふうなことを思いながら、徐々に白んできた空を横目に見やっていると、遠くの方で何者かが姿を現す、バシッ、という音が聞こえてきた。

 それはほんの些細な音ではあったが、自分の心臓の鼓動すら煩わしく感じられるほどの静寂の中では、あまりに大きく、注意を誘う物音だった。

 普段から取り出しやすい場所に仕込んでいるダミーの杖ではなく、足に巻きつけたホルダーから本物の杖を素早く抜き取ったジェーンは、音もなくソファから起き上がった。身を低くしたまま、ウィーズリー夫人から借り受けたキルトをずるずると引きずって進む。

 自らの存在を隠そうともしていない大きな足音は、あっという間に小屋の前まで近づいてきた。出入り口として使われているキッチンの勝手口のすぐ近く、物陰に隠れていたジェーンは、屋内に足を踏み入れようとしている黒い影に向かって、大きく広げたキルトを放り投げる。

 ぎゃ、と上から潰された猫のような声が、キルトの下から聞こえてきた。視界を塞がれると同時にその場に尻餅をついた誰かは、自らを覆うキルトを払い落とそうとするが、ジェーンが額の位置にぴたりと杖先を突きつければ、途端に大人しくなった。

「名前を」

「私はこの家の主人、アーサー・ウィーズリーだ」キルトの下の男は静々と応じる。「君の名前はジェーン・スミス。私はキングズリー・シャックルボルトからの依頼で、君をこの家で安全に匿う任務を引き受けた。今は我が家の守りを強固とするために一時的に帰宅をしただけで、またすぐに魔法省に戻らなければいけない。もしよければ、その杖を下ろしてくれないだろうか。この通り、敵意はないよ」

 この通り、と言いながら、その男はキルトの下で両手を頭の上に掲げてみせる。ジェーンは手にしている杖先を軽く動かし、男を覆うキルトをゆっくりと剥ぎ取った。

 キルトの下から現れた男は、ほとんど禿げ上がっている赤毛の頭を撫でながら、困ったような笑みを浮かべてジェーンを見上げていた。

「いやはや、まさか自分の家に帰って来てこのような仕打ちを受けるとは、思いもよらなかったよ」

「大変失礼いたしました。もしかしたら魔法省大臣が来たのかもしれないと思いまして、つい」

 ジェーンがそう言って手を差し伸べれば、ウィーズリー氏は驚いたように目を丸くしてから、ははは、と笑って破顔した。

「それは面白い冗談だ」

 ジェーンの手を掴んで立ち上がったウィーズリー氏は、そう言いながらローブについた砂埃を手早く払い落とす。

 冗談などではない、至って真面目であると言ったところで、この男は重ねて笑うだけなのだろう。キルトを畳みながらそのように思っていると、ウィーズリー氏はゆっくりと室内を見回してから、再びジェーンに目を向けた。

「さて、このような朝早くに何をしていたのか、聞いても構わないかな? 枕が変わると眠れない質なのかい?」

「そこのソファを借りて横になってはみたのですが、色々と思うところがありまして。あれこれと考え事をしていたら、いつの間にか空が白んできていました」

「しかし、どうやら私は賭けに勝ったようだ」ウィーズリー氏はこちらに椅子を勧めるが、ジェーンが首を横に振ると、自分だけ腰を下ろして先を続けた。「ここへ帰ってくる前に少しだけキングズリーと話をしたのだがね、彼はもう既に君はこの家を抜け出して、どこかに逃亡しているだろうと言っていたのだよ」

「私は随分と信用がないようです」

「彼は正義感が強すぎる半面、多少疑り深いきらいがある。前職の闇祓いとしてのキャリアがそうさせたのだろうが、あれは一種の職業病だ。ただの友人である私が言うのもなんだが、どうか許してやってほしい」

「私は魔法省に所属する有象無象の手足に過ぎないのです、ミスター・ウィーズリー。大臣からここに居ろと命じられたら、それに逆らうことなどできません」

「君が本当にその有象無象の手足に過ぎないのだとしたら、こうしてわざわざ匿うような手段を取らないのではないかな?」

「私に大臣の考えていることは分かりかねます」

「それは彼にも言えることだ、ジェーン」見た目にはどこか頼りない印象を覚えるウィーズリー氏は、父のユアンとどことなく雰囲気が似通っていて、少し苦手だとジェーンは思う。「彼も君が何かを考えているのか分からない。だからこうして監視を付ける」

「そのようなことをおっしゃってもよろしいのですか?」

「君は疾うに気づいているのだろう? だが、私や私の家族は君を客人としてもてなしたいと思っている。積極的に監視をするつもりもない。君は好きなときに出ていけるし、いつでも戻って来られる」

 この穏やかな語り口も、酷くお人好しなところも、ジェーンには実父を連想させるのだ。見掛け通り良い人なのだろうとは思うが、その言葉の端々には「出ていっても怒りはしないが、君なら我々の期待を裏切りはしないだろう」というふうな圧も感じる。

 こういう人間は、普段はおっとりして見えるのに、実際は誰よりも意思が強く、頑固だ。他者に自らの意見を押し付けず、あくまで尊重してくれはするものの、自らが定めた正義の道を踏み外した瞬間に軽蔑し、途端に壁を作る。

 純血の家柄でありながらマグル贔屓であることが災いし、魔法省では日の目を見ることのない、じめじめとした湿り気を帯びる日陰の部署に配属されてきた男だ。誰もこの魔法使いを脅威だとは思わない。だがしかし、あのキングズリー・シャックルボルトがこの男の家に自分を預けたことには、間違いなく理由がある。

 能ある鷹は爪を隠すということなのか、もしくは、ジェーン・スミスがこういう人柄の人間に弱いということを踏まえてのことなのか。恐らくは前者なのだろう。

 ジェーンが小さく息を吐き出すと、ウィーズリー氏はその真意を探るような、好奇心に満ちた目で見つめてきた。

「この家の方々に危険が及ばないよう善処します」

「うちの子たちには最低限自分の身は自分で守るよう言って聞かせている。一番下の子はもう一年ホグワーツが残っているが、みんなもう大人だからね」

 そう言ったウィーズリー氏の眼差しに、少しだけ寂しげな、暗い影が落ちた。亡くなった息子のことを思い出しているのだろう。

 先頃のホグワーツの戦いに家族で参戦し、犠牲が一人だけで済んだというのは、本来であれば賞賛に値することなのかもしれない。だがしかし、名誉の死というのは、生者の勝手な押し付けだ。彼らはまだ生きていたかったはずなのだから。

「お慰めの言葉もありません」

「ああ、すまない、顔に出ていたか」ウィーズリー氏は苦笑いを浮かべながらそう言い、手の平で目元を覆い隠した。「まさか、自分の子供が、私や妻よりも先に逝ってしまうなんて思わなくてね。いや、覚悟はしていたつもりだったのだが。時々、あの子がまだ近くにいてくれるような気がして」

「……ケンタウルス担当室に部署を移してから、魔法生物規制管理部の仕事をよく手伝っていたのですが」ジェーンがそのように話し出すと、ウィーズリー氏は静かに顔をあげる。「ここ最近、霊魂課に新たなゴーストの登録が増えています。それと同時に、ご家族や近しい間柄の方を亡くした方々からの問い合わせも。本来であれば望んではいけないことなのかもしれませんが、もしも亡くなった方がゴーストとして存在しているのであれば、会いたいのだと」

「実際に会えた人はいるのかい?」

「何組か。果たしてそれが幸運と言えるのかどうかは分かりません」

 自らの命が絶たれたとき、魔法族の人間は選択することができる。素直に死んであの世に行くか、痕跡として今生に残るか。だが、大体の魔法族はそのまま死を受け入れ、黄泉の世界へと旅立っていく。ゴーストになってまで今生に残ることを選ぶのは、その先へ進むことを極端に恐れる者や、この世に未練や後悔を残している者が多い。

 自らの死を受け入れて無に還るのか。

 永遠の過去を生き続けるのか。

 どちらの選択が正しいのかは分からない。だがしかし、ゴーストになったことを後悔しているという話を聞くにつけ、死んでしまったときは悪足掻きをせず、素直に死を受け入れようと、ジェーンは心に決めている。

「先の戦いではたくさんの命が犠牲になった。息子はその中の一人だ。何人かの友人も亡くした。多くの人が同じ苦しみを抱えている。そう考えることでしか、自分の心を慰めてやることができなくてね。家族や友人の手前、毅然と振る舞ってはいるが、立ち直るまでにはどうしても時間が掛かりそうだよ」

 朝と夜の狭間にある曖昧な時間帯になると、人の心は驚くほど弱々しくなって、前向きなことを考えられなくなる。徐々に白んでいく空の色は、白と呼ぶには烏滸がましいほどくすんでいて、どこか物悲しい。

 光の加減のせいだろう、酷く頬が痩けて見えるウィーズリー氏の横顔を見て、ジェーンは一度口を開きかける。だが、すぐに閉口した。掛けられる言葉などあるわけがなかった。

 May their soul rest in peace──そんなありきたりな言葉は、聞き飽きているだろう。

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