我慢は三日が限界だった。
だがしかし、事態は三日で終息するほど容易なものではない。アズカバンから集団脱獄をした死喰い人の残党たちは、昼夜問わず活動を続けていたという。そんな中でも、魔法警察部隊員及び魔法警察特殊部隊員はマグルの目を掻い潜って交戦し、既に脱獄犯の半数は捕らえたという話だ。さすがは第二次魔法戦争を生き抜いた猛者たちと言うべきか。脱獄犯の残りの半数は、何処かに潜伏し、反撃の機を狙っているようで、今は静かにしている。
魔法事故惨事部所属の忘却術師たちは、トラファルガー広場にて魔法使いたちの戦闘を目撃してしまったマグルの記憶を操作するため、マグルの医者を装い、簡易テントの中でその手腕を振るったそうだ。今回もガス爆発が理由として使われたらしい。道路の陥没を修繕する費用は、魔法省からイギリス政府に支払われる。
ジェーン・スミスは、特例として魔法省大臣室の仕事を手伝いながら、今もまだ隠れ穴に身を隠していた。キングズリー・シャックルボルトに命じられ、魔法省と隠れ穴を行き来して資料や書類を運んでいたのは、パーシー・ウィーズリーだ。
機密資料を室外に持ち出すのは規則違反だと不満を漏らしていたので、それに目を通しながら「それだけ魔法省大臣に信頼されているんだよ」と言ってやると、こちらに悟られまいと表情筋を固めながらも、満更でもなさそうにしているのが伝わってきた。
全くもって御し易い青年だ。あまりに素直すぎて心配になると、ジェーンは思う。
隠れ穴のリビングの一角を借りて仕事をしていたジェーンは、一日の大半をその椅子に座って過ごしていた。腹が空こうが空くまいが、きっちりと時間通りに出てくる一日三食の食事を、大人しく摂取し続けた。
ジェーンの体重は間違いなく増加の一途を辿っている。
モリーはジェーンがカトラリーを手放すと、もう食べないのか、もっと食べろと言って、次々と皿に料理を盛る。もういらないと断っても、遠慮はいらないと言って、続々と皿に料理を盛る。これはもはや拷問だろうと思いながら、ジェーンは料理を口に運び続けるしかなかった。
善意の押し付けというものは、往々にして悪意よりも質が悪い。
三日目の夕食時、ジニーが「食べられなければ残していいのよ」と言って皿を取り上げてくれたことに、ジェーンは心の底から感謝していた。
現状に変化の兆しが見えたのは、ジェーンが隠れ穴にやって来てから四日目の朝のことだった。相変わらず魔法省大臣は姿を現さなかったが、数日ぶりに帰宅したアーサー・ウィーズリーの傍には、なぜか件の大英雄──額に稲妻型の傷を持つ、選ばれし者の姿があった。
良く焼けたベーコンをナイフとフォークで切り分け、目玉焼きの黄身と一緒に口元に運んでいたジェーンを尻目に、隣に座っていたジニーは椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
「おはようございます、おばさん」
勝手口の前で立ち止まった選ばれし者は、キッチンにいるモリーに目をやり、愛想良くにこやかに挨拶をした。朝日を背負っているからだろうか、あまりに神々しくて目が焼かれそうになる。
「ハリー!」
立ち上がったときの勢いを殺さぬまま、ジニーは選ばれし者の腕の中に飛び込んで行った。その体を真正面から受け止めた選ばれし者──ハリー・ポッターは、周りの目を気にしながらも、ジニーの背中をとんとんと優しく叩いてやっている。若人たちの青春が眩しく、ジニーの目は完全に眩んでしまった。
「随分遅かったな、ハリー」ジニーに遅れて席を立ったロンも、勝手口の前までハリーを迎えに出ていた。「連絡くらい出来なかったのか?」
「居場所は誰にも言うな、誰とも連絡を取り合うなって、キングズリーから釘を刺されていたんだよ」
「だから仕方がなかったって?」
「ロン」
アーサーは咎めるようにその名を呼んだ。勝手口から家の中に入り、自らの妻に軽い抱擁とキスをしてから、再び不満顔のままの息子に向き直る。
「そうやってハリーを責めるのはやめるんだ。自分はもう子供じゃないと言うのなら、大人としての分別をわきまえなさい」
ロンは言い返さなかった。だが、到底納得などしていないであろう面持ちのまま、自分の席に戻って来て、どっかりと腰を下ろす。
「ねえ、今までどこにいたの?」
ジニーがハリーの体から離れ、その顔をじっと見つめながら訊ねた。ハリーは了承を得るようにアーサーの顔を見上げてから、ジニーとロンを交互に見た。
「キングズリーの守護霊が飛んできて、アズカバンから死喰い人が脱獄したから、自分が迎えに行くまでは、グリモールドプレイスに留まるように言われたんだ。でも、あそこはもともと不死鳥の騎士団の本部として使われていたし、前にヤックスリーを招き入れたこともある。新しい対策を施してはいたけど、不測の事態も考慮して、ここ何日かはキングズリーの家に避難してた」
「いつだってそうしていたんだから、最初からこっちに連れて来ればよかったじゃないか」
これは遠回しに自分に向けられた言葉だとジェーンは思った。
こんな得体の知れない女を置いておくのではなく、最初から親友のハリーをこの家で匿うべきだったと、そう言いたいに違いない。ごもっともだ、と思いながら、ジェーンは食事を口に運び続けていた。
薄いトーストは焦げ目が付くほどかりかりに焼かれている。やや塩味のあるバターを塗り、大きく口を開けて頬張ると、上顎に付いたバターがゆっくりと溶けた。
ジェーンがもぐもぐと咀嚼をし続け、我関せずという態度を貫いていると、黙って話を聞いていたモリーが助け舟を出してくれた。
「さあさあ、その話は後回しにして、まずはみんなで朝ご飯を食べましょう。あなた、ハリーも、まだ何も食べていないんでしょう?」
ハリー・ポッターはジェーンの向かい側の席に腰を下ろした。テーブルの上に並ぶ大皿から料理を取り分け、目の前のスタンドから二枚のトーストを手元に移している様子には、まるで遠慮というものがない。我が家のような振る舞いだ。そう思いながらジェーンが顔を上げると、視線が正面からぶつかった。
「ジェーン・スミスです」自己紹介くらいはしておくべきだろうと思い、ジェーンは口を開いた。「魔法省でケンタウルス担当室の室長をしています」
「前に大臣室の前で会いましたよね?」
「はい」まさか選ばれし者が自分のような瑣末な者のことを覚えているとは思わず、ジェーンは僅かに目を丸くする。「以前は下級補佐官として勤めておりましたので」
下級補佐官といえば、パーシーは昨日二人で終わらせた仕事を届けるため、朝早くにジョージと並んでこの家を出ていった。向こうで何事も起こらなければ、また書類と資料を抱えて戻ってくるだろう。
「なんだ、二人は知り合いだったのかい?」
「いえ、顔見知り程度です」アーサーの問いにジェーンが答える。「二、三言葉を交わしたことがあるだけですので」
いち早く食事を終えたジェーンは、自分が使った食器とカトラリーを一纏めにすると、席を立った。後片付けはしなくて良いと言われたが、やはり自分が使ったものくらいは洗いたい──そう申し出ると、モリーは困惑しながらも了承してくれた。
このウィーズリー家の隠れ穴に滞在している間中、選ばれし者の親友だというロンは、ジェーンに対しての態度を軟化させることはなかった。信用ならない人物を自分の家に置いておくことに対しても、強い不満を抱いている様子だった。
「悪いな、ロンはクィブラーの記事を鵜呑みにしてるんだ」
昨日の夜、遅くに帰ってきたジョージが、エールの瓶をジェーンに差し出しながら言った。既に栓を抜かれていた上に、丁度仕事も片付いたところだったので、ジェーンはありがたくそれを受け取った。
「あんたが今も死喰い人と繋がってるって、多分本気で思ってる」
「そのようですね」
「俺たちはキングズリーから人を匿ってくれって頼まれてるだけだし、親父もパースもあんたのことを信用してるみたいだから、詮索とかはしないつもりだけどさ」
「魔法省大臣から私とはあまり関わるなと言われたのでは?」
「ああ、うん、それは言われた」ジョージはにやりと笑い、椅子に座ることなくエールの瓶を大きく呷った。「キングズリーって異常に疑り深いから。ま、環境がそうさせたんだろうけど」
「大臣をよくご存知なのですね」
「付き合いが長いとは言えないけど、一緒に戦った仲間だからな」
「そうですか」
一緒に戦った仲間──もし、自分にもそう呼べる相手がいたのなら、もっと違っていたのだろうかと、ジェーンは思う。だが同時に、自分一人だからこそ、やり遂げることができたのだとも思った。
秘密はどこから漏れるか分からない。相手のことをどれだけ信頼していたとしても、裏切られることはある。裏切られる覚悟のない者は、人を信頼してはならない。
だからこそ、天秤の釣り合った取り引きは気が楽で良い。自分と相手の代価が釣り合った状態ならば、裏切るよりも、己の利益を優先する方が良いと考える者は多いからだ。だが、最も重要なのは、相手が取り引きをするに値する人物なのかどうかを見極めることだろう。考えなしの愚か者と話をしたところで、何一つ理解されないのであれば、それはただの時間の無駄でしかない。
「あいつは誰に似たんだか、何かと取り繕うのが下手くそなんだよ。だからすぐ顔に出る。末っ子のジニーの方が、いろいろとごまかすのが上手い」
「聡明なお嬢さんだと思います」
「我が妹ながらしたたかすぎて恐ろしいと思うことがあるよ」
パーシーとロンはどこか似ているところがあるとジェーンは感じていた。あの弟は付き合いはじめれば酷く手懐けやすいに違いない。一方、一見すると人好きがして、懐っこいように感じられるジョージとジニーは、一筋縄ではいかないはずだ。親しみやすい態度とは裏腹に、こちらを見る目には強い用心深さを感じる。
実際のところ、この昨晩のやり取りは、弟はあからさまに警戒しているが、自分と妹もお前のことを見張っているぞという、軽い警告のつもりだったのかもしれない。それを当人らに指摘したところで、考えすぎだと笑って否定するのだろうが。
「それで、おじさん──」
しばらくは朝食を口に運びながら取り留めもない話をしていたが、ポッターがそう言って手にしていたナイフとフォークを置くと、全員の視線がそちらに向けられた。届いたばかりの日刊預言者新聞を読ませてもらっていたジェーンも、そっとそちらに目を向ける。
「そろそろ詳しい話を聞かせてもらえませんか? キングズリーはおじさんから話を聞くように言うだけで、詳しいことは何も教えてくれなかったので」
「僕たちも新聞で得られる情報以上のことは知らされてない」
「僕たちはもう子供じゃありません」
「もちろん、君たち二人はもう子供なんかじゃないとも」
アーサーはそう言いながらも、聞き分けのない子供に向かって落胆するような様子で、小さくため息を吐いていた。
魔法族の子供はいつ大人になるのか。十七歳になれば、ホグワーツを卒業すれば、それで大人になることができるのか。
マグルに比べて寿命の長い魔法族の中には、それなりの青年期に入っても、まだ子供が抜け切らない者がいる。反対に、幼くして老成している者もいる。
ジェーンに言わせれば、ホグワーツを卒業したばかりの社会人など、まだまだ甘さの抜けない子供に過ぎなかった。理屈や知識ばかりをこねくり回しているので、極々簡単な実務を言い渡してやるが、それすら満足に処理することができない者は多かった。それで自分の言動を顧みることができる者はまだ見所があるが、もっと自分の能力を活かすことのできる仕事を回せなどと言い出した日には、能無しのレッテルを貼られても文句は言えないだろう。
不満を抱くことは自由だ。心の内でどのような暴言や悪態を吐いたところで、それらが咎められることはない。だが、不平不満を顔に出し、心の内を吐露した途端に、その人自身の底が知れることになる。
ジェーンは読んでいた新聞を折りたたみ、食後の紅茶を出してくれたモリーに感謝の言葉を口にした。紅茶にたっぷりのミルクを入れ、それをスプーンで掻き混ぜてから一口だけ飲み、カップをテーブルに戻す。
雄弁は銀、沈黙は金というマグルの歴史家の言葉がある。口に出してしまった言葉はもう戻らない。不用意に口を開くよりも、口を噤んでいた方が品位を守れるというものだ。少なくともジェーンは、沈黙を貫いたおかげで、命拾いをしたことが何度もある。
「死喰い人の残党がアズカバンを脱獄して今日で五日目だが──」グラスの水をすべて飲み干してから、アーサーが話し出した。「新聞に書かれている通り、既にその半数が捕縛され、魔法省の地下にある牢獄に投獄されている。形勢が不利になった残りの死喰い人たちは今現在、ルシウス・マルフォイの邸宅で籠城中だ。闇祓いや警察部隊員に包囲されているから、完全捕縛も時間の問題だとは思う」
「あいつら、この期に及んでまだ死喰い人を匿ってるのか?」
「いや、そうじゃない」ロンの言葉にアーサーは首を横に振る。「あの家族は、死喰い人たちの脱獄が判明したと同時に、ハリーやジェーン同様、保護対象として丁重に扱われている。今は別の場所で匿われているよ」
闇の帝王に忠誠を誓った身でありながら、最終決戦前に寝返り、選ばれし者に味方をしたのだ。それに加え、マルフォイ家は死喰い人の残党狩りに協力することで、多くの罪を免除されている。アズカバンに投獄されたかつての仲間たちからは、間違いなく恨まれていることだろう。
「ただ、問題があってね」
「問題?」アーサーの険しい面持ちを見やり、ポッターが眉を顰める。「どういう問題ですか?」
「人質を取られているんだ」
「連中のやりそうなことですね」
「その人質が誰かは分かっているの?」
「ああ」心配そうな面持ちで疑問を口にするジニーを見てから、アーサーはなぜか、その視線をジェーンに滑らせた。「ウェズリー・サットンという青年だ」
アーサーが、こちらの様子を探るような眼差しを向けてきたのも頷けると、ジェーンは思った。それが聞き覚えのある名前だったからだ。いや、見覚えのある名前と表現した方が正しいだろうか。
あの日──ベラトリックス・レストレンジとアズカバンで一戦を交えたあの日、生き残った数少ないマグル生まれの魔法使いの名が、確かウェズリー・サットンだったはずだ。リストにその名前があったことを覚えている。そして恐らくは、ザ・クィブラーに掲載されているリータ・スキーターの記事で、あのインタビューに答えているのもまた、この青年だということは容易に想像がついた。
どこからその情報が漏れたのかは分からない。再びラブグッドが死喰い人に連れ去られた可能性は否めないが、あの魔法省大臣のことだ、あらかじめ保護はしていただろう。記事を書いたリータ・スキーター自身が情報源と考えるのが自然だとも思えるが、ジェーンの考えは違う。もしリータ・スキーターが死喰い人に捕らえられていれば、アーサーは真っ先にその名を口にしたはずだ。それに、もし自分が死喰い人だったとしたら、リータ・スキーターの名前を使って、日刊預言者新聞に記事を書かせただろう。
まだこの国のどこかに潜んでいるかもしれない仲間へ。国外に逃亡しているかもしれない同胞へ。今こそ立ち上がるときだと。闇の帝王の意志を継ぎ、今こそ誇り高き純血の魔法族が集い、新たな王国を築くときだと。
彼らは、この国、いや、この世界に働きかけるはずだ。闇の魔法使いは何も闇の帝王や死喰い人ばかりではない。裏社会で生きる者の中には、未だ死喰い人を支持する者は必ずいる。例えば、それが百万分の一の確率だったとしても、どこからか救いの手が差し伸べられる可能性があるのだとしたら、試してみる価値はある。
だがしかし、新聞にそれらしい記事はない。それどころか、このところは日刊預言者新聞でその名前を見ることもない。命あっての物種だ、どこかに身を隠しているのだろう。
ジェーンは、ウェズリー・サットン自身が、あの日のことを方々に触れ回っていたのではないかと考えている。たとえ触れ回ってはいなかったとしても、秘密を守ることはできなかった。あの日と同じように、無謀で無責任な正義感を振り翳し、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
よりにもよってリータ・スキーターに話して聞かせるなど、まさに愚の骨頂だ。命を救われておきながら、その恩人を断罪しようとするなど、恩知らずにも程がある。そして、それは結果的に、自分自身の命をも危険に晒すことになった。
アーサーは間違いなくジェーンの反応を窺っていた。だが、ジェーンは表情一つ動かさない。眉も、目も、鼻も、口元も。肩や胸、腕、指先、足元に至るまで、何の反応も示さなかった。呼吸はあくまで自然なまま。ゆっくりとした瞬きを一つ。持ち上げたカップの水面は揺れもせず、ジェーンはただ静かに、喉を潤していた。
「どうしてその人が人質に?」
「君たちもクィブラーの記事は読んだだろう?」アーサーはジェーンから視線を外すと、ポッターらに視線を戻した。「サットンはリータ・スキーターのインタビューに答えていた青年だ。魔法省がその情報を手に入れたのはつい昨日のことだがね。もっと早くに分かっていれば、ゼノフィリウスやルーナと一緒に保護することができたんだが、一足遅かった」
あの日の自分が迂闊だったことは認めよう、とジェーンは思う。だが、サットンが人質に取られたことは、まかり間違ってもジェーンの責任ではないはずだ。真実を雄弁に語り、沈黙を貫くことができなかった、自分自身の責任だと言わざるを得ない。
ジェーンの隣に座っていたジニーは一度席を立ち、またすぐに戻ってきた。その手には先日発刊されたばかりのザ・クィブラーがある。
表紙に描かれているけばけばしいリータ・スキーターは、相変わらずこちら側に、吐き気を催すほどの愛想を振りまいていた。