魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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誰がビロードのジャケットを殺したか

 手元に杖があり、かつグラスの落下前ならばどうとでもすることはできたが、どのように考えを巡らせたところで、何もかもが既に後の祭りだ。悪いことはいつだって連鎖する。それ以前に、ここ数年はジェーン・スミスの身に良いことが起こった試しなど、ただの一度もない。ああ、本当に災難続きだ。だが、もうこれ以上の災難は訪れようがないだろう。そう思っていたジェーンの前に立ちはだかったのは、もちろん更なる災厄だった。

 大通りから路地に入ったこの通りは、午後五時を過ぎると仕事から帰宅する人々が往来しはじめる。店を五時で閉めるのは、仕事帰りにパブやバーと勘違いをして入ってくる客を回避するためだ。落ち着いた木目調の店内は昼間でも僅かに薄暗いくらいなので、夜になるとゆらゆらと揺らめくランプの炎に誘われ、招かれざる客が訪れることになる。

 しかしながら、今夜は珍しく、通りには人気が少ないようだ。それだというのに、落としたグラスは見ず知らずの誰かの足下に落ち、災難を招き寄せてしまった。なんという強運なのだろう。もちろん、悪い意味でだ。

「本当にすみません。お怪我はありませんか?」

 たん、たん、たん、と外階段を降り、下の通りに出たジェーンは、こちらに背を向けて立ち尽くしている人物の背中に声を掛けた。しかし、その人物は微動だにせず、後ろを振り返ろうともしない。それを奇妙に思い、背後に立って目を凝らしてみると、何となくだがそうしている理由が分かるような気がした。

 一見すると汗のようにも見えるが、スキンヘッドの頭を濡らしているのは、恐らくグラスから溢れた赤ワインだ。微かに葡萄酒の香りがするので、まず間違いはないだろう。こんなことになるならば、グラスのワインを最後まで飲み干してから、次を注ごうとするべきだったのだ。だが、今更悔やんだところで仕方がない。そもそも、悔やむべき点をはき違えている。

 ああ、どうしよう――ジェーンはその人物を見上げながら、頭を抱えたくなった。

 相手は見上げるほど背の高い、少しがっしりとした身体つきの黒人男性だ。一言も話さず、微動だにしないのを見ると、相当にお怒りなのかもしれない。それはそうだろう、ただ道を歩いていただけで頭上からワインを浴びせかけられ、あわや血みどろの大怪我を負うところだったのだから。

「あ、あの――本当に――」

 何と言ってお詫びをすればいいのか、とジェーンが口を開こうとしたときだ。目の前の男はため息まじりに肩を落とし、大きな手の平で濡れた頭皮を拭った。ジェーンは一瞬、その吐息に聞き覚えを感じ、反射的に身体を震わせる。そして、現実とはいかに残酷なものなのかということを、身をもって痛感させられた。むしろ、この場合は自分の方が呪われている可能性があると、そう危惧するべきなのかもしれない。砂浜で波が引いていくように、顔から血の気が失われていくのを感じていた。

「君が考える謹慎とは、自宅でワインを飲んだくれて過ごすことを指すのか。どうやら、私の認識とは随分とかけ離れているようだな」

 上司から言い渡された謹慎期間中に、何の反省をすることもなくワインを堪能し、謹慎初日の夜をまるでクリスマス休暇の初日のように満喫している。少なくとも、この男の目には、そのように見えているのだろう。

 ゆっくりと後ろを振り返った男――キングズリー・シャックルボルトは、パジャマ姿にカーディガンを羽織り、古びた部屋履きを足の爪先に引っ掛け、やや赤ら顔で愕然としているジェーンを見て、酷く険しげな表情を浮かべた。全身を舐めるような眼差しで見てきたかと思うと、ほとんど軽蔑するような面持ちで睨むように見つめてくる。

「……今日はお早いお帰りですね、魔法省大臣」

 ジェーンは絞り出すような声でそう言うと、右手に持っていたワインボトルを慌てて背後に隠した。だが、シャックルボルトは何もかもがお見通しだという顔をして、眉を顰めている。

「あなたがわざわざロンドンの街を歩いて帰っているとは知りませんでした」

「君には他に言うべきことがあると思うのだがね、ミス・スミス」

「……すみません、大臣」ジェーンは突然、起きてから髪を解かしてすらいなかったことを思い出してしまった。「わざとではありません」

「ああ、もちろんそうだろうとも」

 ジェーンが知るキングズリー・シャックルボルトという男はいつも冷静で、あまり表情を動かさない。今は不快そうな面持ちを浮かべてはいるものの、大きな怒りを覚えている様子は感じられなかった。だが、頭からワインを引っ掻けられて腹を立てない者など、この世にはいない。酷く高そうな黒いビロードのジャケットが台無しだ。頭から首を伝って滴ったワインが、白いシャツの襟元を赤く染めてしまっている。

「これからどこかへお出かけですか?」

「それは君に言う必要のあることか?」

「いいえ、でも」ジェーンは控え目な態度で自身の家を指した。「少しお時間をいただけるのなら、シャツとジャケットを元通りにします」

 シャックルボルトが断るだろうことは目に見えていた。だがしかし、このくらいの甲斐性は見せておかなければ、後で何を言われるか分からない。ジェーン・スミスは謹慎中にワインを飲んだくれ、偶然自宅の近所を通りかかった魔法省大臣にそれを浴びせかけたなどと言いふらされては、今後の沽券にも関わってくる。ただでさえつまらない女という印象に加えて、不謹慎だなどと思われるようになっては、それこそ恋人どころか友人も望めなくなってしまう。

「それとも、弁償した方がいいですか? 私の給料一ヶ月分なら何とか払えます。それ以上なら、分割払いにしていただけると大変助かります」

「君は私を何だと思っているんだ? 鬼か悪魔とでも思っているのか?」

「いいえ、大臣」

 ジェーンが至極真面目な表情でそう応じれば、シャックルボルトは僅かに目を丸くする。そして、べたべたしていそうな頭を撫でるように触れてから、その手の平を気持ちが悪そうに見下ろした。

「迷惑でなければバスルームを借りたい」

「……はい?」

「シャワーを浴びることができればより嬉しい」

 いやいやいや、それはないだろう――ジェーンは内心ではそう思いながらも、まあ、それはそれで仕方のないことだと自らに強く言い聞かせる。嘘や冗談でも、先に家に入らないかと提案したのはジェーン自身だ。自分がしたことを考えれば、シャワーを貸すことなど些末な問題でしかない。

「では、こちらへどうぞ」

 ジェーンは閉じたシャッターの隣にある扉から中に入ろうとして、不意に思い出した。そうだ、杖はリビングのテーブルの上に置いてきてしまったのだ。魔法省に勤める魔女として、杖を不携帯のまま家の外に出るなど、本来であればあってはならないこと――故に、杖を貸してほしいなどとは言えず、ジェーンは一瞬頭が真っ白になってしまう。

 だが、天は未だ、ジェーンを本格的に見放しはしていなかったらしい。家の外から娘の声が聞こえてくることを不思議に思った父親が現れたおかげで、ジェーンはどうにか体裁を保つことができたようだ。

「おや、これはこれは」

 父親は扉を開けるなり、娘の背後に立っている魔法省大臣の姿を見ても、少しも驚くことはなかった。それどころか、にこにこと愛想よく微笑み、親しげに抱き締めることさえしてしまいそうな雰囲気だ。我が父親ながら肝が据わっていると呆れながら、ジェーンは肩越しに振り返った。

「大臣、父のユアンです。父さん、こちらは――」

「もちろん存じ上げておりますとも」

 魔法省大臣が何のためにやって来たのかを訊ねようともせず、ジェーンの父親――ユアン・スミスは、シャックルボルトを家の中に招き入れようとしている。さすがのシャックルボルトも目を丸くしていたが、ジェーンが道を譲ると、ユアンに先導されるがまま通路を歩き、階段を上がっていった。

 人知れず大きなため息を吐き、後ろ手に扉の鍵を閉めたジェーンは、重い足を引きずるようにして二人の後を追いかけた。

 あれほどふわふわと心地の良い気持ちでいたというのに、今ではもうすっかり酔いから醒めてしまっている。

 謹慎を言い渡されてからまだ一日しか経っていないというのに、なぜ最も会いたくない人物と、こうした最悪な状況下で顔を合わさなければならないのか。キングズリー・シャックルボルトの顔を見た瞬間に、叫び声をあげなかった自分を褒め称えたいくらいだと思い、ジェーンは自らを慰めた。

 リビングに戻ったジェーンが事の顛末を簡潔に説明すると、ユアンはそれは申し訳なかったと娘の失態を真摯に謝罪し、自分の部屋のバスルームを使ってほしいと申し出た。いやいやそれはありがたい、などと言いながら三階に連れられて行くシャックルボルトの後ろを、赤ワインの匂いをぷんぷんと漂わせている客人に興味津々の猫が、ふんふんと鼻を鳴らしながらついていこうとしている。

「おいで、ブランケット」

 ジェーンがそうして声を掛けると、猫はリビングの扉の前で足を止め、僅かにこちらを振り返る。その隙に扉を閉められてしまっては、もう戻って来るしか選択肢はない。不服そうな声を漏らしながら戻ってきた猫にヤギミルクを少しだけ出してやると、この程度のことで機嫌を取れると思うなよとでもいうふうに尻尾を揺らしながらも、上品にミルクを舐め取っていた。

 来客には目もくれず、ソファでごろごろしていた猫にも同じようにミルクを出してやってから、ジェーンはテーブルの上に置き去りにしていた杖をポケットに入れる。まだ少しだけ残っているワインの瓶にコルクで栓をし、キッチンの戸棚の中にしまった。

「これはまた随分と派手にやってしまったね」

 シャックルボルトのシャツとジャケットを腕に掛けて戻ってきたユアンは、開口一番にそう言った。良く冷えた水で異常な喉の渇きを潤していたジェーンは、テーブルの上にそれらを広げた父親に歩み寄ると、ジャケットに手をかける。

「元通りになると思う?」

「そう思うよ」

「父さんがしてくれるの?」

「こういった呪文は僕の方が得意だからね」ユアンはそう言いながら、妻の形見の杖を取り出した。「落としたグラスの破片は片付けてきたのかい?」

「あ、忘れてた」

「人や動物が怪我をすると大事だから、早く片付けてきなさい。店に箒と塵取りがあるから、それを使うんだよ。魔法を使ってはいけないからね」

「うん」

 酔いが醒めているとはいえ、脳の機能を麻痺させているアルコール成分が完全に抜けきったわけではない。ほんの少し杖先が狂っただけで、この高価そうなジャケットは見るも無残な状態になってしまうことだろう。対戦闘用の呪文に特化している娘とは違い、家事全般の呪文を得意とする父親に任せておけば、まず間違いは起こらないはずだ。

 後のことは任せてリビングを出たジェーンは、一度三階の方を見上げてから、一階の店舗に向かって降りていった。店のキッチンに繋がっている扉を開け、すぐ目の前にあった掃除用具入れから箒と塵取りを取り出すと、再び外へと出て行く。

 グラスの破片は変わらずそこにあった。道を行き交う人々の中には、無残にも砕け散っているグラスの破片に頓着することなく、平気で踏みつけていく者もいる。あれでは靴が傷むだろうと思うものの、そういう人は得てして、靴の傷みに対しても頓着がないのだろう。

 ジェーンは人の往来がなくなるのを待って、辺りに散らばったグラスの破片を箒でかき集めた。その場に膝を抱えて座るような格好をし、小さな破片も残さないよう、しっかりと塵取りの中に掃き込んでいく。

 自分も所詮はこの砕け散ったワイングラスのようなものなのだ――ジェーンはだしぬけにそう思った。

 ただ単なる使い捨ての食器のように、いらなくなれば処分される。ほんの少し欠けた程度であれば修理をして使うこともできるが、ここまで粉々になってしまっては、魔法で直すことも難しい。

 きっと、自分は歪んだ価値観を芽生えさせてしまったが故に、魔法省からは不要と判断されるに違いないと、ジェーンは既に覚悟を決めている部分があった。ただ言われるがままに仕事をこなすだけの屋敷しもべ妖精と何も変わらない。正義と悪を正しく判断できなくなった時点で、人道というものを見失ってしまったのだ。

 ホグワーツ魔法魔術学校に入学したあの日、組み分け帽子が最後の最後まで悩んだ通り、ジェーン・スミスはスリザリンに属するべきだったのかもしれない。最終的に帽子はジェーンをレイブンクローに組み分けしたが、それが正しかったのかどうかは永遠の疑問だ。その証拠に、ジェーンはホグワーツで過ごした七年間で何の楽しみも得られなかった。勝ち取ったものといえば、監督生や首席のバッジだけだ。OWLやN・E・W・T試験で全科目トップの成績を収めても、向けられるのは羨望ではなく、嫉みの感情ばかりだった。

 

「――組み分け帽子が組み分けを間違えることはないのですか?」

 学生時代、ジェーンはとある教師にそう訊ねたことがあった。その教師はとても意地が悪く、冷徹で、自分の寮の生徒にばかり依怙贔屓をする男だったが、ジェーンは不思議と嫌いではなかった。

「……なぜそのようなことを私に訊ねるのかね、ミス・スミス」

「組み分け帽子は私をスリザリン寮に入れようとしました」

「ほう」

「私は狡猾で野心家なのだそうです。でも、最終的には私はレイブンクローの生徒になりました」

「君はそれが不服だと?」

「分かりません」

 魔法薬学の授業は終わり、周囲に生徒の姿はない。この授業が終わると、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室を出て行ってしまう。しんと水を打ったように静まり返っている教室内で二人きり。この時間が、ジェーンには少しだけ心地よく感じられていた。恋とは違う。けれど、この教師と自分の中に、何か言葉では言い表すことのできない共通点のようなものがあるような気がして、勝手に親近感を覚えていたのだろう。今となっては、あれがどのような意味のある感情だったのかを、ジェーン自身にも説明することは難しかった。


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