割れたグラスを片付けてリビングに戻ると、ユアンは元通りになったシャツとジャケットをハンガーにかけているところだった。
赤ワインの染みは嘘のように消え、ビロードのジャケットはまるで新品同様になっている。ユアンはご丁寧にもシャツの皴まで完璧に伸ばし、すぐにも着替えられる状態にしてくれていた。
「カフェよりもクリーニング屋を開いた方がよかったかな」
ユアン自身も、綺麗になったシャツとジャケットをふわふわと宙に浮かせながら、ふふん、と満更でもなさそうな顔をしている。
その様子を眺めながらジェーンがキッチンでお茶の用意をしていると、間もなくして、聞き慣れない足音が階段を降りてくるのが分かった。ジェーンは売れ残りのマフィンとティーカップをテーブルに並べ、顔を上げる。すると、ユアンのローブを着たシャックルボルトが、丁度リビングに入ってくるところだった。
身長はあまり変わらないが、シャックルボルトの方が随分と体格がいいので、ローブの裾が少しだけずり上がって見える。僅かに窮屈そうではあるものの、似合わないということもない。
「もう済んでいますよ、大臣」
「ありがとうございます」
「いえいえ。そんなことよりも、娘がお茶の用意をしたので、どうぞゆっくりしていってください。もちろん、他にご用事がなければですが」
本心では今すぐお帰りくださいと言いたいところだが、それでは無礼が過ぎるというものだ。こうなってしまっては腹をくくり、目の前にある現実を受け入れるべきなのだろう。
ジェーンはトレイを小脇に抱えたまま、近くにある椅子の背を引いた。
「どうぞお掛けください、大臣。父の焼いたマフィンは絶品なので、ぜひご賞味を」
そう声を掛けられたシャックルボルトは一瞬複雑そうな面持ちを浮かべたように見えたが、ジェーンが促すように椅子を見やると、黙したまま腰を下ろした。
「紅茶はセイロンとダージリンのオリジナルブレンドです。お口に合えば良いのですが」
「あ、ああ……」
同じテーブルにつくことが憚れたジェーンは、シャックルボルトから少し離れた場所に立ち、ティーカップを口許まで運ぶ様子を眺めていた。
だからこそ、そのささやかな表情の変化を見逃さなかったのかもしれない。シャックルボルトは紅茶の香りを確かめるように、立ち上る湯気に鼻先を寄せてから、やや薄い琥珀色の液体を口に含んだ。その瞬間、意外そうに眉が持ち上がり、黒々とした目が丸くなる。
ジェーンはその反応が一体何を意味するのかと考えを巡らせていたが、傍らに佇んでいたユアンは、あからさまに嬉しそうな声を上げた。
「それは娘のオリジナルブレンドで、下の店でも評判の一杯なんです」
ジェーンは客の好みに合わせて、紅茶やハーブティーの味や風味を調節することができた。学生時代は魔法薬学が得意科目だったこともあり、そうした調合はお手の物だったのだ。
ユアンが馴染みの客から依頼を受けると、その注文票がジェーンに手渡され、夜な夜なブレンドした商品が店頭に並べられる。だが、基本的に魔法省の仕事で忙しくしているジェーンにとって、それは負担以外の何ものでもなく、今は月替わりのブレンドティーを担当するだけに留めていた。
しかしながら、魔法省をクビになった暁には、父の店の手伝いをするのも選択の一つなのかもしれない――そのようなことをぼんやりと考えていると、猫のブランケットが再びシャックルボルトに接近しようとしている姿が目に入り、ジェーンは足を踏み出そうとした。けれど、それよりも素早く動いたユアンが猫を抱き上げ、小さな頭にキスをして優しく叱る。
「さて、僕は僕の愛すべき猫たちを部屋に送り届けてくるとしよう。この子はお客様が珍しくてたまらないようだから」
ユアンは独り言のようにそう言ってから、反射的に腰を上げようとしたシャックルボルトを見て低く手を挙げた。
「そのままで結構です、大臣。この通り何もないぼろ屋ですが、どうぞ時間の許すかぎりおくつろぎください。もしお泊りになるようでしたら――」
「父さん」
それ以上は聞き捨てならないとジェーンが声を上げると、ユアンは悪戯っぽく笑ってからリビングを出て行った。もう一匹の猫――クロケットはユアンが抱いてやるまでもなく、寝転んでいたソファから音もなく降り、まるで犬のように従順に主人の後ろを追いかけていった。
どちらも元は野良で、ユアンが雨の日の夕暮れに連れ帰ってきた猫たちだった。クロケットは見た目がクロケットにそっくりだったから、ブランケットは語感が似ているからという理由で、安易に名付けられた。
「ハッフルパフ生らしい穏やかさだ」
チョコレート味のマフィンを口に運んでいる様子を横目に見ると、シャックルボルトは静かに目を伏せて、カップを手に取った。
「部屋のハンガーにハッフルパフのマフラーが掛けられていた。物を大事にされる方のようだな」
どう答えるべきなのかが分からず、ジェーンは口を噤んだままでいた。
ユアンは確かにハッフルパフ出身だったが、あのマフラーは大事にしているわけではなく、クロケットが気に入って離さないので、しまうにしまえないというだけだったのだ。しかし、ホグワーツを卒業して何十年も経つというのに、それを未だ手元に置いているのだから、多少なりとも思い入れがあるのは確かなのだろう。
ジェーンは卒業と同時に、制服やその類のものはすべて、暖炉にくべて焼却してしまっていた。思い出どころか、思い入れもないものばかりだ。手元に残ったのは、教科書を詰め込まれたまま埃を被っている、ホグワーツのトランクだけだった。
「……なぜそんなところに立っている?」
「はい?」
「ここは君の家だろう」
「座って良いとは言われておりませんので」
口をついて出てしまったその発言が自分の耳に届くと同時にしくじったと思うが、シャックルボルトはジェーンのその発言を聞いて、意外にも唖然とした表情を浮かべている。ジェーンには、シャックルボルトが純粋に驚いているのが分かった。だが、その驚きの理由を図りかねていると、シャックルボルトは手にしていたカップをテーブルに置き、佇まいを正しながら咳払いをした。
「では、そこに座りたまえ、ミス・スミス」
ジェーンは一つ息を吐き出してから、シャックルボルトと向かい合うように椅子に座った。こちらをじっと見てくる視線に耐えられず、テーブルに備えている砂糖とミルクに視線を滑らせる。
「砂糖とミルクはご自由にどうぞ」
「いや、私はこのままで構わない」
「そうですか」
なぜこのような目に遭っているのか、このような仕打ちを受けているのか、考えれば考えるほど理解から遠のいていく。気が遠くなる。どうか夢であってほしいと思いながら、ジェーンは自分の太ももを抓ってみるが、襲ってくる痛みは間違いなく本物だった。
「実のところ、君とはずっと話をしてみたいと思っていた」
「それはどういったお話でしょう」
「君の在り方についてだ」
「……それは私の存在意義について、ということですか? 仕事上での?」
「君は実に優秀な魔女だと話に聞いている」
「根も葉もない話です」
「どうしてそうと言い切れる?」
「私の優位性を語って聞かせられるだけの逸材を私は知りませんので」
「随分と自信過剰な物言いだな。己を過信し過ぎているのではないか?」
「魔法省大臣におかれましては、この一日で私の有用性を実感していただけたのではないかと考えているのですが」
「それは――」シャックルボルトは少しだけ言い淀んだが、観念したように続けた。「確かに」
「パーシー・ウィーズリーにさぞ嘆かれたことでしょう。スミスを謹慎させるということは、自らの首を絞めることにもなりかねないと」
「まるで見てきたように言うのだな」
「最後には行かないでくれと泣いて懇願されたので」ジェーンは小さく肩をすくめる。「彼は嘆き悲しんだ後に腹を立てて怒り狂うタイプの人間です」
「まさに然り」
シャックルボルトはそう言うと、くつくつと噛み殺すような笑い声をもらした。
この、いかにも落ち着き払っているという態度が、ジェーンは気に入らなかった。まるで対峙する者のすべてを見透かしているとでもいうふうな様子で、まっすぐにこちらを見据えてくる。澄んだ黒曜石のような目は物言わぬまま悪を定め、正義を説くのだ。
「君はなぜ魔法省に入った?」
「それはお答えする必要のあることでしょうか?」
ジェーンがそう応じると、シャックルボルトは僅かに口角を持ち上げ、皮肉っぽく笑いながら頭を左右に振った。
選択肢などなかったように思う。寮監との面談では、君の成績なら魔法省に入省することは容易いだろう、推薦状を書いても構わない、闇祓いにだってなれると、そう請け負われた。むしろ、そうなるようにと差し向けられていたのかもしれない。ジェーン自身に強い望みがなかったのも、大きな要因だった。進路を決めかねていると、N.E.W.T試験の結果が当時の魔法省大臣の目に留まり、大臣室付きの下級補佐官として大抜擢をされることになったのだ。
それが運の尽きだったのだろう。ただでさえ最悪だった人生が、より最悪な方向へと転落していく転機となったのだから。
「私は好きでこの仕事をしていたわけではありませんが、自らが下してきた裁決に責任を取る覚悟はあります。査問会にかけられれば、良くて解雇、悪くすればアズカバン送りにされるでしょう。私はそれで構いません。抗ったところで無駄だということは、この数年で嫌というほど見せつけられてきました」
魔法省とはそういうところだ。元々が独裁的で、権威的な組織だった。純血家系の純血主義による圧政がまかり通り、イギリスの魔法界全体を印象操作する程度のことは容易くやってのける、腐りきった国家組織だったのだ。
あらゆる情報の差し替え、規制、隠蔽――そのすべてを行ってきた。不都合な真実の多くは抹消されてきた。最後の砦であるはずのウィゼンガモット法廷の中にすら、魔法省大臣の言いなりとなる傀儡が潜んでいるほどだった。その筆頭が、ドローレス・アンブリッジだ。アンブリッジの指示であらゆる仕事をさばいていたジェーンには、今更言い逃れることなどできはしない。
「私は何人もの魔法省大臣の下で働いてきました。でも、誰一人としてこの人のために働きたいと思わせてくれる人はいなかった。誰も彼もが愚かで、浅はかで、独善的でした。たとえそれまでは英傑な人物であったとしても、あの玉座のような椅子に腰を据えると、例外なく自らを貶めるようなことを平気でするようになる」
「君は私もそうだと言いたいのか?」
「残念に思います」
「……そうか」
シャックルボルトはそう言うと、残っていたマフィンを口に入れ、冷え切っていた紅茶を飲み干し、席を立った。ふわふわと宙に浮いているシャツとジャケットを手に取り、それを腕に掛けると、椅子に座っているジェーンを振り返る。
「査問会についての詳しい知らせは、明日のふくろう便で届けられるはずだ」
「首を洗って待っています」
「ローブは後日返却するとお父上に伝えてくれ」
「分かりました」
「では、失礼」
恐らく気分を害したのだろうということだけは分かった。ジェーンが見送ろうと立ち上がるまでもなく、シャックルボルトはリビングを出て行くと、そのまま階段を降りていく。間もなくして鞭を打つような鋭い音が聞こえてきたので、階段を降りきったところで姿をくらましたのだと分かった。
目の前には花の絵柄が美しいティーカップと、マフィンの食べかすが散る皿だけが残されている。どのような心持ちでこれを片付ければいいのか、ジェーンには分からなかった。今すぐ叩き割りたい衝動に駆られていた。
苛立たしく、腹立たしい。ジェーンは挑発に乗ってしまった事実を鑑み、悔いると同時に、まかり間違ったのだということを悟った。終始キングズリー・シャックルボルトのペースだったことを思い出し、苦虫を噛み潰したような顔になる。ここは誰の家だと自問自答すると、余計に情けない気持ちになった。
皮肉はすべて受け流された。まるで聞き分けのない子供のように、内心では地団駄を踏み鳴らしている。あの男は自分より一枚も二枚も上手なのだ。その事実を突きつけられたようで、とても居心地が悪い。ぐるぐる、ぐるぐる、と巡る負の感情をどうにか喉の奥で噛み殺し、悪態を吐くことだけは回避した。