魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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突然の訪問者

 翌日の午前中、キングズリー・シャックルボルトが言っていた通り、ふくろう便で査問会の通達が届けられた。

 ジェーン・スミスの査問会は三日後とあったが、どうやらウィゼンガモット法廷のお歴々は連日の査問会に飽き飽き――もとい、心身ともに疲弊しているらしく、丸一日の休息を要求しているらしい。本来であればジェーンの査問会は二日後に行われる予定だったのだろうが、そのことに対して文句を言ったところで詮無いことだ。

 通達の書状と一緒にこっそり添えられていたメモ書きを目で追いかけながら、ジェーンは気の抜けたため息をもらす。この通達が届けば、少しは緊張感も芽生えるだろうと思っていたが、そんなことはなかったようだ。

 朝一番の便で手紙を届けてくれた礼として、朝食用に切り分けた生ハムを少しだけ分けてやると、ふくろうはそれを口にくわえたまま窓の外に飛び立っていった。どこか見晴らしの良いところまで飛んでいって、そこでゆっくり食べるのだろう。

 ジェーンはその姿が見えなくなるまで見送ってから、車道に面した窓を閉めた。ロンドンの街では、こうして頻繁にふくろうが飛び交っているのだが、それに気づいているマグルは少ない。

 マグルは立ち止まって空を見上げることもしないのかと思ってしまうが、魔法族でも今となっては星読みは学問の一つとなり、それを生業とする者は減っていると聞く。そうでなくてもロンドンの空に星は見えない。たまの晴天でもないかぎり、曇り空を見上げても何ら心は晴れないということなのか――そうしてとりとめのないことを考えながら、ジェーンは手にしていた封筒をエプロンのポケットに押し込んだ。

 

 やはりと言うべきか、日がな一日ごろごろして過ごすのは、ジェーンの性には合わなかった。それなので、査問会の日までは父親の仕事の手伝いをすることにしたのだ。今朝は早起きをして一緒にクロテッドクリームを作り、丁寧に瓶詰をして、ラベルを貼り付けた。その際に、目に留めた者が手に取りたくなるようなまじないをこっそりかけようとしたが、それはいけないとユアンに釘を刺されてしまった。

 商売をしているからには少なからず儲けを出さなければならないというのに、ユアンにはそうした貪欲さが欠けているのだ。客が喜んでくれるならそれでいいと言って、採算など度外視した価格設定を行っている。自分たちが食べるに困らないだけの儲けがあれば、それでいいのだそうだ。

 ジェーンは呆れて物も言えなかったが、今では諦めの境地で、父親のやることを後ろからひっそりと見守っているのが好きだった。あのふさぎ込んでいた頃の父親のことを思えば、こうして日々を楽しそうに生きてくれているだけで、大変に喜ばしいというものだ。

 

 ジェーンはバスルームの鏡の前で髪を高く結い上げ、後れ毛をピンで留め付けてから、フレームの大きな丸眼鏡をかけた。この眼鏡には僅かではあるが魔法が込められている。見えなくていいものを見えないようにするための道具だ。

 ジェーンには、自らの目で見た人物の背後に、その人物の数分から数時間先の未来を視る力がある。必ずしも視えるというわけではなく、その日の体調や相手との相性もかかわってくるのだが、不意に視えてしまうと意識が混乱し、気分が悪くなることがあった。それを回避するために、自衛として日頃から身につけているものだ。

 だが、こうした能力は別段珍しいものでもない。七変化や未来予知といった、派手さのある完成された能力は嫌でも注目を浴びるが、ジェーンのような中途半端な能力の場合は、他人に触れ回って自慢をするような力とは違う。突如として現れる実像の中の虚像は、日常生活においては邪魔にしかならないものだ。

 

 階段を降りていき、キッチンから足を踏み入れて店内を覗き込むと、そこでは既に数人の客が思い思いの時間を過ごしていた。席について紅茶を飲みながら本や雑誌を読んでいる者、持ち帰り用の茶葉やジャムなどを売っている棚を熱心に眺めている者もいる。ケーキ用のショーケースには焼き立てのスコーンやマフィン、ドライフルーツのパウンドケーキなどが並んでいた。ランチタイムになると、近場の会社で仕事勤めをしている女性客がサンドイッチを買いに来るというので、ユアンはキッチンと店内を行ったり来たりしながら、イングリッシュマフィンを焼いていた。

 接客には不向きな性格だと自覚しているジェーンは、イングリッシュマフィンを焼く作業を一手に引き受けると、ユアンを店内に送り出した。いつもは事務仕事に従事しているジェーンにとって、こうして身体を動かして働くことは非常に新鮮だ。魔法を使っているところを見られてはいけないので、開店中はマグル式で作業をする必要が生じるのも、新鮮に感じる由縁の一つなのだろう。

 

 店の方からは楽しげな話し声や笑い声が聞こえてくる。胃がきりきりと締め付けられるような緊張感も、押し潰されるかのような威圧感も、ここにはなかった。まるで天国のような職場だ。いや、魔法省に比べればどこだって天国のような職場なのかもしれない。誰かを怒鳴る声も、叱る声も、咆哮の声も聞こえないというのは、なんと幸せなことか。

 辞めたい、辞めたい、辞めたい――常に頭の片隅に居座っていた言葉が、今や思考の大部分を陣取り、占めている。

 自分はなぜ働いているのか、とジェーンは自問した。それは生きていくためだ、と自答する。食べるためだ。決して仕事が生き甲斐などではない。天職と思ったこともない。もはや辞める手間すら億劫で、今の仕事を続けている。

 けれど、辞められるタイミングもなかったのだ。いや、実際にはいくらでもあったのだろうが、そのタイミングを逃してしまった。離れられなかったのだ。今離れれば魔法省の機能は滞り、自国のみならず、他国への対応も遅滞――悪くすれば停滞すると分かっていた。

 組織としての機能を停止させるわけにはいかないとジェーンは思った。だから自ら貧乏くじを引き、居残ったのだ。隣人たちが次々と逃げ出し、捕まり、殺されていく様子を、明日は我が身と怯えながら、それでも毅然と頭を上げて見ていた。

 だから、恥じることなど何もない。悪いことなどしていない。あのほとんどが崩壊しきっていた魔法省を踏み止まらせていたのは自分たちだという自負が、ジェーンにはある。

 

 ランチタイムが過ぎ去り、これでイングリッシュマフィンを焼き続ける呪縛から解き放たれると安堵の息を漏らしていると、店内の方からユアンが顔を覗かせた。マグル式の調理法は肩が凝ると思いながら首を回している娘の姿を見て、面白そうに笑っている。

「どうかした?」

「お腹が空いたのではないかと思ってね」

「父さんは?」

「僕はもう食べたよ」

 ユアンはそう言うと、肩越しに店内を振り返ってからキッチンに入ってくる。そして、ジェーンが手にしていたターナーを取り上げると、それで店の方を指した。

「今店にいるお客さんは一人だけだから、ジェーンにも対応できるだろう?」

「え、ちょっと」

「ほら、頼んだよ。その間にサンドイッチを作っておくからね」

 心の準備をする間もなく背中を押されたジェーンは、エプロンに付着したセモリナ粉を慌てて払い落とす。自分に接客を言いつけるなどどうした了見だと問いただしてやりたかったが、小洒落た店内に押し出されてしまっては、口を噤むしかなかった。

 だがしかし、ジェーンはそこに待ち受けていた人物を見て、驚いた表情を覗かせる。

 粉だらけの両手を背中に回し、どう声を掛けたものかと考えていると、ショーケースの中を覗き込んでいたその人物が、こちらの存在に気がついた。僅かに屈めていた腰を伸ばし、軽く手を挙げると、にやりと笑う。

「よう、元気か?」

 その人物は魔法省の同僚だった。同僚とはいっても勤めている部署は違う。魔法法執行部の魔法警察部隊に所属している男だ。見るからに完璧なマグルの様相で立っている男を目の当たりにし、ジェーンは得も言われぬ表情を浮かべた。

「何だよ、その不愉快そうな面は。大臣から謹慎処分を食らったって聞いたから、様子を見に来てやったってのに」

「冷やかしに来たの間違いでしょう?」

「おっ、それが客に対する態度か?」

 にやにやと愉快そうに笑っている顔を見て不愉快さを募らせたジェーンは、ずかずかと近づいていくと、粉で汚れた両手を男のデニムのジャケットで拭ってやった。

「あっ、おい、やめろって」

「ちょうど拭けるところがないか探していたの」

「何のためのエプロンだよ」

「そのエプロンが粉だらけなんだもの、手を拭ったって綺麗にはならないじゃない」

 ったく、と漏らしながらジャケットを払った男だったが、デニムの生地に入り込んだ粉は、その程度では取り払うことができない。すると、周囲の目を気にしながら取り出した杖を振るい、自分とジェーンの身体からセモリナ粉を取り払った。

 この男は生粋のマグル生まれだ。当然、魔法省が陥落するとマグル生まれ登録委員会にマークされ、警察部隊の隊員ということもあり真っ先に出頭を命じられていたが、それには応じなかった。逃亡したのだ。風の便りでは無事に生きていると聞いていたが、こうして実際に会うのはほぼ一年ぶりのことだった。

「逃亡生活をしていたにしては痩せていないのね」

「ん? ああ、まあ、逃亡生活っていってもほとんどロンドンからは離れなかったし、マグル生まれの保護やらなにやらの手伝いをしていたからな、幸い食うに困るようなことにはならなかったんだ」

「ご家族は?」

「国の外にいる親戚のところに放り込んでおいたけど、近々帰ってくる」

「そう」

「お前やおじさんも無事で何よりだよ」

 この男とは幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあった。家が近所だったのだ。もちろん、スミス家は自分たちが魔法族だということを隠していた。

 だがある日、子供たちが庭で遊んでいると、不思議なことが起こった。庭にあった小さな池にビニールボールが落ちそうになったとき、池の水が一瞬にして凍り付いたのだ。ビニールボールは何度か弾み、向こう岸に辿り着いたが、子供たちは不気味に思ったのだろう、この現象を報告するために親のところへ駆けていった。しかし、その場に残った子供もいる。それが、幼き日のジェーンとこの男だった。

 ジェーンは誓って何もしていなかった。両親から他の子供たちの前では魔法を使わないよう、可能なかぎり制御するようにと再三注意されていたからだ。だからこそ驚いていた。まさか、隣の家に住んでいる一歳年上の面倒見の良いこの少年が、魔法使いだったとは、と。

「査問会なんてどうせ形式上のものだ」

「本当にそう思う?」

「違うのか?」

 ジェーンは事情を話そうとした。しかし、サンドイッチを作り終えたユアンが店先に出てきたので、思わず口を噤んでしまう。ジェーンは父親に査問会のことは伝えていないし、伝えるつもりもなかった。伝えたところでなるようにしかならないからだ。心配させたくもなかった。

「君もジェーンと一緒に食べていくかい?」

「いや、今日はおじさんとジェーンの顔を見に来ただけだから、すぐ戻らなきゃいけないんだ。次の休みにまた顔を出すよ。職場復帰したばかりでサボるわけにもいかないし」

「そうか。じゃあ、ちょっと待っていなさい」

 ユアンは無理に引き止めることはしなかったが、ショーケースの裏側に回り込むと、中からいくつかのマフィンとスコーンを取り出して紙袋に詰め始めた。恐縮している男に向かって、職場のみんなと食べるように言いながら、押し付けるようにして渡している。

「そこまで言うなら、お言葉に甘えて」

 はにかみながらそれを受け取った男は、横目にちらりとジェーンを見る。そして、ユアンに向かって明るく挨拶をしてから、ジェーンに向かって軽く合図を送った。ちょっと来い、ということなのだろう。

「そこまで見送ってくるね」

「ああ、いいとも」

 男の後を追いかけて店を出ると、排気ガスを含んだ生温かい風がジェーンに向かって吹いてくる。アパートメントの壁には音除けの魔法がかけられているので静かだが、こうして一歩外に出ると、未だ慣れることのない騒音が嵐のように押し寄せてきた。目を閉じて呼吸を一つ、気持ちを落ち着かせてから顔を上げると、男が心配そうな表情でこちらを見下ろしていた。

「もしかしておじさんには査問会のことを話してないのか?」

「いらない心配をかけるだけでしょう?」

「それはそうかもしれないが」男はそう言ってから、僅かに眉を顰める。「待て、そんなにやばい感じなのか?」

「さあ」

「さあって、お前なぁ」

 緊張感の欠片もないジェーンを見て、男は大きく息を吐き出しながら頭を掻いている。

 この男は昔からこうだった。ジェーンよりも一年早くホグワーツに入学しただけで先輩風を吹かせていた。いつも一人でいるジェーンを見つけては声を掛け、これでもかと世話を焼いた。妙な輩に絡まれているとどこからともなく現れ、時にはぶん殴ってでも相手を黙らせた。当人は今も変わらない目でジェーンを見ている。

 ジェーンはこの男のことを友人や親友と思ったことはただの一度もないが、それでも、家族のようには思っていた。

「私がもしアズカバンに収容されたら、そのときは荒波を越えて助けに来てくれる?」

 少し悪戯っぽくそう口にすると、男は呆気にとられたような顔をしてから、困惑したような笑みを浮かべた。

「もしお前が本当にアズカバン送りにされたとしたら、あの魔法省大臣の目は節穴だったってことだ。そうしたら俺は今度こそ魔法省に見切りをつけるさ」

「今度の大臣は違うと思う?」

「さあ」

 男は責任は持てないという顔をして首を横に振り、肩をすくめた。だが、今までと同じだろう、とは言わなかった。

 ジェーンの心の半分以上はもう既に魔法省を離れ、別の在り処を求めてふらふらと漂っている。だが、ほんの少しだけ何かが引っかかっていた。その何かがジェーンを魔法省に引き止めようとしている。もしかしたら、それは一種の呪いなのかもしれない。

 遠くにウエストミンスターの鐘の音が聞こえると、男は少し慌てた様子で腕時計に目を落とした。そして、もう行かなければ、と言う。ジェーンは小さく頷くと、走り去っていく男の背中を黙って見送った。


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