魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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魔女裁判

 魔法省大臣室付きを離れ、これまでのように頻繁には大臣と顔を合わせることもないだろうと考えていたジェーン・スミスだったが、その予想は驚くほど早くに覆された。まさか、自宅に続いて職場でも魔法省大臣と二人きりで机を囲むことになるとは、予想すら困難な状況だ。それどころか、歴代の魔法省大臣に食事やお茶の支度を命じられることはあっても、こうして同席したことなどはただの一度もなかった。

 何とも居心地が悪く、胃が微かに縮むような感覚がある。緊張感とは違う、妙に張り詰めた空気が漂っているように感じられていた。

「……まさかとは思いますが」ジェーンがそう口火を切ると、カップの柄を眺めていたシャックルボルトが顔を上げる。「父のローブを返すためだけにいらしたのですか?」

 額を冷やしている巾着から、ぽたり、ぽたり、と雫が落ちていた。シャックルボルトはその雫がローブを濡らしていることにも気づいていない様子で、呆れ顔のジェーンを見ている。

「そちらはお預かりします」

 しびれを切らしたジェーンがそう言うことで、ようやく惨事に気づいたようだ。手にしていた巾着をジェーンに返すと、自らの杖を取り出して濡れたローブを乾かしていた。

 何かを思案しているのなら、大臣室にこもって考え事を続けていた方がずっと建設的だろうと思うのだが、補佐官たちの発する雑音が邪魔に感じられているのであれば、こっそり抜け出したくなる気持ちは理解できなくもない。自分の持ち場を避難所にされるのはいい迷惑だが、連日の激務で疲れているに違いない者を邪険にするほど、ジェーンは鬼ではないつもりだった。

「紅茶を淹れなおしましょう」

 居心地が悪いことこの上ないが、こうなってしまっては致し方ない――そう思うことにしたジェーンは再び席を立つと、ポットを手にキッチンへ向かう。いずれにせよ、昼休みは残り僅かだ。午後の始業を知らせる放送が聞こえれば、大人しく大臣室に帰っていくだろう。

 しかし、もう少しの辛抱だと自分自身に言い聞かせながら、ジェーンが紅茶を淹れなおしていると、不意にシャックルボルトが声を掛けてきた。

「私を恨んではいないか?」

「……はい?」

 ジェーンは思わず何も聞こえなかったふりをしてしまった。キングズリー・シャックルボルトの口から発せられた言葉に耳を疑ってしまったからだ。それはあまりに侮辱的で、屈辱的な意味を孕んで聞こえた。

 自らの成したことが罪であるというのなら、それはそれで構わない。罪が決定した時点で、既に受け入れることができている。これはただの価値観の相違であり、それ以上でも以下でもないのだ。互いに相容れないことを認め合うことほど、無意味なものはない。それこそ時間の無駄だろう。そんなもののために割く時間はない。

 ティーポットを抱えて机に戻ったジェーンは、ほとんど手つかずのままカップに残っていた紅茶を魔法で消失させた。茶こしを潜らせた熱々の紅茶をカップに注ぎながら心を落ち着かせようとするが、一度沸き立った苛立ちはなかなか治まりそうにない。

 それほど、その言葉はどのような挑発の言葉よりも鋭く、ジェーンの感情を強く揺さぶったのだ。

「私を――」

「なぜ恨む必要があるのです?」

 同じ言葉を吐き出されるより前にジェーンがそう言うと、シャックルボルトは僅かに目を見張った。ジェーンの声が思いの外冷ややかだったからかもしれない。感情を表には出すまいと努めるが、シャックルボルトを見る目は据わっているだろう。

「そのようなことを口に出されるとはよほどお疲れなのですね、大臣」

 ジェーンは口許に笑みをたたえると、紅茶でなみなみと満たされたカップを、シャックルボルトの前にそっと置いた。

 あの査問に意味があったのであれば、下された結論が妥当だと確信しているのであれば、そのような問いが口から出てくるはずがない。もし仮に疑問が残っているにしても、処断した相手を前にして、まるで弱音を吐き出すかのように吐露する言葉としては、あまりにお粗末だ。

「どうぞお気の済むままにごゆるりとされてください。ここだけの話、魔法省大臣などおらずとも魔法省の政務は滞りなく行われます。お昼寝でもいたしますか? お風邪を召されては大事ですので、毛布をお持ちいたしましょうか」

 一見、にこにこと機嫌良く話しているように見えるジェーンを目の当たりにして、シャックルボルトはぎょっとした様子で目を丸くしている。紅茶がなみなみと注がれたティーカップを一瞥し、どうやら自分の発言で目の前の女が腹を立てているということは理解したふうだが、解せないといった面構えだ。

 他のことであれば大抵は聞かなかったことにできる。だが、仕事に対してだけは、ジェーン・スミスの矜持はオベリスクのようにまっすぐと高い。

 大臣室付きから外され、他の部署に回されようとも、やるべきことは何一つ変わらない。魔法省大臣だろうと、大臣室付き補佐官だろうと、ケンタウルス担当室の職員だろうと、それは同じことだ。我々は魔法省の歯車の一つに過ぎない。誰が欠けても成り立たないのと同じくらい、誰が欠けても代わりはいる。だからこそ、公平であるべきなのだ。

 お前の考えは間違えていた――いいだろう。

 お前の判断は誤りだった――その通りだったのかもしれない。

 何もかもを認めよう。それですべてに終止符が打たれるのなら、解放されるのなら、いくらでも認めることができる。

 だがしかし、こればかりは許せない。ジェーン・スミスがかろうじて飲み込み、忘却し、諦めたすべてを蒸し返すような言葉を、他ならぬ魔法省大臣が吐き出したのだ。その時点でもう既に、ジェーンの感情は大きく振りきれている。大声で怒鳴りつけないだけ理性的だと褒めてほしいくらいだった。

「私の言葉が君に不快感を与えたようだ、非礼を詫びよう」

「ご丁寧にありがとうございます。ですが、お詫びいただく必要はありません」

 シャックルボルトはますます分からないというような顔をするが、一度口を閉じ、会話の内容について吟味する時間を設けることにしたようだった。ティーカップを水平にそっと持ち上げ、紅茶をこぼさないように気をつけながら、酷く優美な所作で喉を潤している。

 基本的には穏やかな男なのだろう。その常に落ち着いた声音や物腰からも、キングズリー・シャックルボルトの人柄は窺える。頭上から不条理にワインを浴びせかけられても、怒鳴りつけるどころか文句一つ言わない男なのだ。扉に額を強打しても、悪態一つ吐かない。

 そうしたことを考えていると、斜に構えている自分の方がずっと愚かで、恥ずかしく、配慮が足りないのではないかと思えてくるのが、ジェーンには余計に腹立たしかった。

「……あなたを恨んではいません」ジェーンがそう声にすると、シャックルボルトは上目遣いにこちらを見た。「腹を立ててはいますが、それだけです」

「なぜ腹を立てている?」

「それをご存知だからこそ、自分を恨んでいるかなどと甘ったれたことをおっしゃったのでは?」

「甘ったれとは手厳しい」

「他者の罪を糾弾するのなら、自らが下した裁断には責任を持って然るべきです。まるでその決断を後悔しているかのような物言いは、たとえ後悔していないにせよ、避けるべき発言であると私は思いますが」

「……ああ、そうか」

 シャックルボルトは一瞬何かを理解したような表情を浮かべてから、ほんの僅かに申し訳なさそうな面持ちを見せた。

「すまない。本当に、君を不快にさせる意図はなかったんだ」

 やるべきことをしたのであればそれでいいとジェーンは思う。それが自分の意に反していなければ、そして、自分自身で責任を負う覚悟さえあれば、人は何をしても構わないのだ。

 だからこそ、魔法省から逃げた者も、戦った者も、恭順した者も、それが自分の心の声に従った結果なのだとしたら、今ばかりは誰も責められるべきではない。人は誰しもが多かれ少なかれ罪を犯している。だが今は、そうした罪の数々に手を焼いているときではないだろう。他に目を向け、行うべきことがあるのだと、ジェーンはそう考えるのだ。

 

「――自己弁護が過ぎるぞ」

 査問会の最中、誰かがそう声を上げた。聞き覚えがあるような、ないような声だった。顔を見れば思い出すことがあるのかもしれないが、あいにくとこの薄暗い法廷では、相手を特定することは叶わない。だが、男の声であることは間違いなかった。おそらく、強く印象にも残らない、影の薄い男なのだろう。

「お前は結局のところ自身の罪を認めるつもりがないのだ。一向に自分の非を認めようとしないではないか。ドローレス・アンブリッジの方がまだ素直でかわいげがあったというものだ」

 あの女のどこにかわいげがあるというのだろう。ジェーンは瞬間的にそう思い、嘲笑を浮かべかけた。だが、口の内側を噛んでその衝動を抑えつける。

 ジェーンはあの女のような邪悪を他に知らない。ある意味では死喰い人以上の邪悪が、あの女の内面にはあった。

 かわいらしい衣服や装飾品、親切ぶった慇懃丁寧な態度、一見無害であると思わせる上司への振る舞いは天才的だった。多くの者があの女に騙されていた。あの女が常に権力を欲していたことを、ジェーンは知っている。他者の手柄を自らのものにする程度のことは日常茶飯事だった。自分よりも立場が上の者にはこびへつらい、そうでない者にはいつも礼を欠いた態度だ。他者を蔑み、陥れて、悦に浸る。

 ジェーンはウィーズリーから、君には人の心というものがないのかと言われたことがあったが、あの女にこそ心がない。憐れみという感情が欠落している。だからこそ、マグル生まれの者たちにあのような仕打ちができたのだろう。

「アンブリッジは大層饒舌に君について語ってくれたがね」

 ジェーンは黙っていた。それ以外に最善と思える振る舞いが思いつかなかったからだ。火に油を注ぐことは容易いが、時と場合は弁えている。

「アンブリッジがマグル生まれ登録委員会以外の仕事で手を離せない時は、お前が代理を務めていたそうではないか」

「それは質問ですか?」ジェーンがそう問うと、男の苛立ったような息遣いが聞こえてきた。「調べればすぐに分かるようなことを訊ねられるとは思っておりませんでしたので」

 ジェーンの物言いが愉快だと言わんばかりに、誰かが小さく笑い声をあげた。すると、男はますます苛立ちを募らせたようで、木を打つような硬い音を法廷内に響かせた。

「お前のせいで大勢の人間がアズカバン送りにされたことは疑いようのない事実だ! お前一人の身を護るために、一体何人のマグル生まれたちが犠牲になったと思っている!」

「数えたことがないので分かりかねます」

「数十人から数百人はくだらないだろう! お前はそうした全員の命よりも、自分一人の命の方が尊いと、そう思っているのだ! 何と傲慢な! そうした考え方こそ闇の魔法使いに通ずる思想だ!」

 男の激昂が法廷内に轟いた次の瞬間、誰かがその大声にも負けないような、大きなくしゃみを炸裂させた。

 そのくしゃみは、ジェーンの耳には間違いなく「Stupid!」と言っていたように聞こえた。ジェーンの耳にそう聞こえたということは、ここにいる大勢の耳にも、同じように聞こえていたはずだ。

「失礼」些かうわずった、まるで笑いをこらえているような声が、ほとんど悪びれもせずに言う。「どうにも鼻がむず痒かったもので。いやいや、私のことなどお気になさらず、先を続けてください。今のは実に興味深い舌端でしたな」

 その声にはあからさまに人を小馬鹿にしたような佇まいがあったが、誰一人として楯突く者は現れなかった。それはそうだろう、純血主義が未だ強く蔓延るウィゼンガモット法廷内で、純血が発した言葉を真っ向から否定できる者は、もはや純血の家系の者以外にはいない。

「だが、ここでドローレス・アンブリッジを引き合いに出すのは実に愚かしいというもの。彼女は自身をセルウィン家の一族であると嘯いていたそうだが、我々の仲間内ではとんと聞いたことがない。自身の出生を偽装していた彼女がそう証言したというだけで、すべてを無条件に信じるというのはなんともまあ、ちゃんちゃらおかしいとは思いませんか」

 その発言はジェーンにとって酷くありがたい後押しとなった。記録が残っている以上、アンブリッジが法廷で証言した言葉の裏はすぐに取ることができるはずだ。それでも、アンブリッジが自分以外の者を故意に陥れようとしていない、とは言い切ることができなくなった。たったそれだけのことでも、ジェーン・スミスにとってはありがたい。

「アズカバンに収容されていた方々は今現在聖マンゴで入院生活を送られていると聞いています」今度は女の声だった。聡明そうで、穏やかな声音をしている。「ミス・スミスの処遇を決する前に、そうした人々の証言に耳を傾けることも重要であると進言いたしますわ、大臣」

 声というものは実にその人物の人柄を良く表していることが分かる。他者を頭ごなしに非難したがる者の多くは、声が大きく、尖っていて、強い光が点滅するように相手を威嚇するものだ。対して、他者の言葉に耳を傾けようとする者の多くは、小さくてもよく通る声を持っていて、表現がやわらかく、時にユーモアがあり、包み込むような優しさを感じさせた。もちろん、それはジェーン・スミスの経験に基づいた推論だ。例外もあるだろう。

「かつてこのウィゼンガモット法廷では結論を急くあまり冤罪を生んでしまった過去があります。無罪の者にアズカバンでの終身刑を言い渡したのです。本来、我々はもっと慎重にことを運ぶべきなのですよ」

 ジェーンは目を伏せ、静かに息を吐き出す。自分にだけ煌々とした明かりが集中している異様な状況は、一秒ごとに精神的な苦痛となって蓄積されていくようだった。普通であれば平常心などではいられない。今まさに、この人間たちに命を握られているのだと思うと、吐き気を催すほどだった。

 それでも、大勢の中のほんの数人であったとしても、ここには味方になってくれようとしている人々がいる。それが一人でも、二人でも、何と心強いことか。

 伏せていた目蓋をゆっくりと押し上げ、魔法省大臣を見上げる。

 ああ、昔これと似た構図の絵画を見たことがあると、ジェーンは不意に思い出していた。マグルが描いた魔女裁判の絵画だ。何という皮肉だろう。あの絵画を目にした少女だった頃の自分は、数年後に同じような法廷に立たされることになるなどとは、想像さえしていなかった。


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