昼下がりの午後。太陽も高く上り、大地を暖かく光を照らしていた。光差す城のテラスにて少女は聖杯より入力された知識からこの時代は勿論のこと、これより先の言語や文化についても覚えが有り、あらゆる一般的国際知識に及んでいる。この現代のフランス語。あるいは、先の未来で使われるフランス語。または他国家の言語。それには憎きブリテンも無論である。
こう言う時間をティータイムと言う時間であると分かっていた。
少女自らが召喚した傍らに控えるバーサーク・セイバー……―――否。もはやあの灰によって、その存在ごと作りかえられていたか。
より狂い果てた霊基を持つ英霊の写し身―――ヒューマニティ・セイバーは、音もなく少女のコップに紅茶を入れていた。そして、この特異点の外側より呼びかけて召喚してサーヴァントにした老女へ、黒い少女はありがとうと短くて小さい声で感謝の言葉をした。いえ、と老女は静かに返答し、その少女の対面に座る眼帯を付けた女性のコップにも紅茶を入れた。その女性もありがとうと言った言葉に老女は応えた後、まるで姫に仕える騎士のように凛々しい姿で下がって行った。
麗しき百合の剣騎士から、灰によって枯百合の老騎士となった
アッシュと名乗る神嫌いの聖職者のおぞましさを黒い少女は羨みながら、しかし今だけは意識から疎外させた。
「―――ふぅ。最近の貴女、体調はどうかしら?」
「ええ。快調ですよ」
十六歳程度の少女が言う問いに、二十歳程度の少女と大人の間くらいの女性が応えていた。短めに整えられた髪型もそっくりであり、顔立ちも年齢を考えなければ双子だと思える程で、姉妹なのは間違いないことだろう。女性の方が右目に眼帯を付けていなければ、その違いも分かり難いことだろう。
「右目はどうですか?」
「今はまだ見えませんね。しかし、それは欲張り過ぎでしょう。あの拷問から生きて帰れただけ、主の御加護であったと思うべきですから」
「神ですか……―――はぁ。その存在を疑いはしませんが、あれから御加護なんてありませんよ。純粋に、貴女の生命力が図太かっただけですので」
「捻くれ過ぎですよ。貴女は死んだ私だと言う話ですから、そんな事を言っても自分に返るだけですが。
けれど―――」
「―――はいはい。オバさん臭いですよ、歳取った人間の私」
「もう。全く、それはもうこの年齢ですからね。子供が居ても普通なんですから、ついこの間まで戦争に明け暮れたとはいえ、十九歳らしく所帯じみたことも言いますよ」
「その点、私は肉体年齢十六歳ですからね。精神的な年齢は、死んだ時の歳に近いでしょうから貴女と同じ筈なんですけど。
……ふーん。そうですと、まだまだ私も若いと言うことですか」
「でしょうね。十六歳の時の私って、結構まだ腕白でしたからね。でもね……ッ―――!」
「あら。どうしましたか、ジャンヌ・ダルク?」
「……いえ。少しだけ、右目が痛みまして」
確かに焼かれた右目はまだ視力は回復しておらず、切り裂かれた髪は肩ほどまでしか伸びていない。だが拷問で傷付いた体は癒え……いや、もはや人型のまま破壊されたジャンヌの肉体は、正しく神の奇跡によって修復されていた。
彼女は、アッシュ・ワンと名乗る不可思議な聖職者を思い出す。人を優しく包む暖かい闇のようでいて、全てを焼き照らす苛烈な太陽のような女性だった。今はもう聖処女ではなくなってしまったが、それでも聖女と他人から呼ばれる自分でも、アッシュの存在感は明らかに異常であった。彼女が不可思議な言葉を唱えると、光輝く奇跡が確かに起こり、ジャンヌの体を篝火のように温め、優しく癒すのだ。
その光景は、教会が描いたどんな彫刻よりも、絵画よりも、神と言う奇跡を現す絶対の神秘であった。しかし、そんな奇跡であろうとも、右目と髪の長さと、純潔である女の証は癒せないと言う。その言葉は何時も通りに脳裏に閃く直感が否定したが、それでも癒してくれたのはアッシュである。嘘を言うにも理由があるのだろうと、ジャンヌはその部分を追求しなかった。
しなかったのに、アッシュはあっさりと理由を話した。
正確に言えば癒せないのではなく、癒したくないのだとか。それはジャンヌ・ダルクがこの腐った世界を生き抜いた証であるとアッシュは言い、その重い闇も背負って生きろと語っていた。聖女ジャンヌ・ダルクを継ぐ者がフランスをブリテンから救うのであるならば、人間ジャンヌ・ダルクはその欠落を受け入れろと言っていた。とは言え、髪は時間と共に伸びて元に戻り、目もある程度までは治癒したので、視力も時間が経てば癒えてちゃんと回復するとの話。純潔の証は戻らないだろうが、あの拷問の記憶を辛いからと無かったことにするつもりはない。自分は紛れもない人殺しで、人を先導させて人と人を殺し合わせていたのに、そんな自分が苦しいからと過去を癒そうだなんて一欠片も思えなかった。
しかし、それでも嫌なら今直ぐに修復すると言ったため、ジャンヌはそれを断った。自分はフランスを救いたかったが、既にフランスをブリテンから救った違う死後の自分が存在している。それもまるで御遣いのように遣わされた死後の自分は神のごとき超常の奇跡を操り、フランスに巣食うブリテンを追い払ったのだと聞く。それは即ち、最後に失敗して結局は何もかもから裏切られ、それまで自分がフランスを救う為に積もらせ続けた怨嗟の業も、死んで楽になれた筈の自分に背負わせたと言うことだ。
救われるなら、別に誰が救おうともジャンヌ・ダルクは全く気にしなかった。
怪我を癒す為に今はここで静かに生活しているが、救われた後の使命が終わりを迎えた世界だ。そんな場所で自分自身こそ本物のジャンヌ・ダルクだと宣言し、それが原因となって戦火と混乱を広げる必要もないだろう。
戦争が終わったのならば、自分が聖女の旗で在る必要もない。
目の前の少女がブリテンからフランスを守る為にジャンヌの名が要るならば、喜んで自分は名無しの女となろうと決めていた。
だから、この欠落はジャンヌ・ダルクが聖女を捨てる―――決別であった。
「そうですか……まぁ、別に貴女がどうなろうと如何でも宜しいのですが。そうね、貴女の事を心配し過ぎるジルがちょっと奇声とか上げてしまいますのでね。
うぉージャンヌゥ、このジルめに何でも言い付けて下さいませぇ……って、そんな雰囲気でしょうかね?」
「あははは……えぇ、それはもう。凄く、はい。しかし、英霊とサーヴァントと言うものは説明して貰いましたけど……彼、本当に何があったんでしょうかね?」
「ブリテンの処刑から救われた貴女が知る必要は一切ない話でしょう。あのジルからすれば、この今の現実が夢のようなもしもの幻なのでしょうが、この世界で人間としてしっかり生きている貴女からすれば、そちらの方こそ頭の悪い戯言に過ぎませんからね。何が有って、あんなテンション高い魚顔になったのかは、聖女を辞めるジャンヌ・ダルクが知ることが不条理なのです。
なので、それを知る事になれば、神嫌いで聖職者が憎い私であろうとも、そこはもう神様どんだけジャンヌ・ダルクが嫌いなの……と、自分で自分を憐憫する破目になることね」
「そうですか。ふ、ふふふふふ……」
「なによ。何がそんなに面白いのよ?」
「……ふふふ、そうですね。ええ、こう言う言い方は酷いとは思いますけど、若返った自分を見ていると、何だか新しい妹が出来たみたいです」
「―――アンタ、ちょっと頭が膿んでるんじゃないでしょうね?
あの胡散臭い腐れ女聖職者に奇跡でも頼んで、その脳味噌を太陽みたいにピカーって光らせて貰った方が良いんじゃない?」
「かも、しれませんねぇ……」
「……ったく。付き合ってられませんわ」
「そうですね。でも、私って死ぬと英霊と言うものになるって聞いた時も驚きでしたが、ここまで可愛らしく捻くれるのですね?」
「―――はぁ!?
ちょっとこの私の何処に可愛らしい所があるっていうのよ!!」
「まぁ、そう言うところでしょうか?」
「―――ッ……あ”ぁーそう、そうですか。そうですね、ハイハイ。私って超が付くほど可愛いわぁ」
「いえ、それはそれで気持ち悪いので、自画自賛は程々に」
「本当、貴女って私とは思えない程に良い度胸ね?」
「えぇー……でもですね、ダルクの家ですとこんな雰囲気じゃないですか?」
「あー……そう言えば、そうだったわね」
黒い少女は、憎悪に焼け焦げて朧になった記憶から家族との思い出を脳裏に浮かべる。父ジャックと母イザベラ、そして兄達と妹。それらを思い浮かべるのに、あの家族団欒な日常も覚えているのに、ソレラとしか思えない。そう言うことがあったと言う記録はあるが、まるで本を読んだだけのように実感がない。
しかし、それが道理なのは分かっていること。
怨讐に狂う魂が憎悪で感情が塗り潰れている。
この姿になってしまえば、何を思うことはないのだろう。生前の思い出は、拷問と陵辱の果てに受けたあの火刑によって燃え尽きた。
「正直、良く分からないのですが……今の貴女が死んだ私の暗黒面だとか、憎悪の側面だとか言われても、そこまで実感がないのです」
「そりゃそうでしょう。実際貴女は救われて死んでいないのですし……まぁ、陵辱された後に火炙りで処刑される憎悪も、ないにはないで越したことはないでしょう。
だからこそ、憎悪に満ちている自分自身だろうとも、こうやって貴女は信じている訳なんですし」
その点、生前の自分は確かにまともな女ではないと少女は深く実感していた。これならば、まだ復讐に囚われて憎み続ける自分の方が人間性に溢れている。聖女などと聞こえは良いが、あれは非人間性を清らかな言葉で濁しているだけに過ぎない。
だがしかし、だからこそのオルタナティブなのだろう。
僅かなりとも目の前の自分自身も恨みが有り、それを核に聖女で在ろうと火刑に処されれば復讐を願うだろうと言う人々の認識が、この今の自分を作り上げた要素なのかもしれないと少女は予測していた。
「けれど、貴女って良く信じられるわよね。普通、憎悪に満ちた死後の自分が神の奇跡でブリテンをドカーンだなんて、胡散臭過ぎてそりゃもう……あれね、本当にアレとしか思えないのだけど?」
「当たり前じゃないですか。フランスをブリテンから救ってくれた貴女方を、こうやってブリテンから救われた私が信じないで如何すると言うのでしょう。
拷問で受けた再起不能な怪我も治して頂けましたし、こうやって静かに養生する場所と時間もくれているのですよ?」
「……ま、私は貴女が信じようが信じまいが、どっちでも良いんですけどね」
「やっぱり私に言うことじゃないですけど、貴女って捻くれてますね……」
「はいはい。紅茶おいしいわー」
苦笑いしか黒い少女―――ジャンヌ・ダルク・オルタタナティブは浮かばなかったが、それで良いことにした。火刑から救われたと言うことは、目の前のジャンヌ・ダルクは英霊にならない人間。この特異点のジャンヌ・ダルクだけは、英霊ジャンヌ・ダルクと全く関係がない魂が同じだけの人物だ。ジャンヌ・ダルクが死ぬことで生まれた境界記録帯から発生した別存在である黒い少女が、実際に生前の自分に出会おうとも価値はない。
もはや人間のジャンヌ・ダルクも、英霊のジャンヌ・ダルクも、魔女のジャンヌ・ダルクも別人だ。そもそも人間の時の自分だろうと殺すだろうと思っていたのに、あっさり割り切れた自分自身にジャンヌ・オルタは驚いたが、それならそれで自分で自分の実感を肯定するだけだった。
「しかし、あのシュヴァリエ、紅茶入れるの上手くなり過ぎじゃないかしら」
「何故そう思うのでしょう? ベテランのお婆ちゃんに見えましたけど?」
「お婆ちゃんねぇ‥…ふふ。それ、本人の前で言っちゃダメですからね」
「―――むぅ………?」
「分からないなら良いのです。今の貴女は休んでいれば良いのです。良く寝て、良く食べて、良く動いて、良く喋る。あの灰女曰く、そうするのが心身の回復に手っ取り早いってことらしいですからね。
関係のない如何でも良いことを悩むのは、まずは此処から出られる程度には回復してからでしょう」
「はぁー……ですかね。若い頃の自分に諭されるようですし、そう言うことにしておきましょう」
「しときなさい、しときなさい。ほら、ティーテイムってヤツが終わる前に飲み終わっておくことです。時間なんて幾らでもありますが、紅茶の賞味期限は短いので」
「………ん、ん。ふぅー、美味しいですね」
「でしょう。苦労して手に入れた茶葉なのよ。それもこれも、我々がフランスをブリテンから救ったからこその喜びです。ええ、ええ、あんな国にフランスを滅ぼさせる訳にはいかないもの」
「ええ。私には出来なかったから貴女に任せてしまった不始末です。ありがとうございました。本当に、心の底から感謝しています」
「あーもう。そんなのは良いのよ。反転してるけど、それでも私は生前の貴女から生まれ出た別側面に過ぎませんからね。
フランスを他国から救うのにね、私は理由も価値も必要ないの。ただただ純粋に、為すべきことを為すだけですので」
「それでもです」
ジャンヌ・ダルクにとって、ジルと灰は奇跡だった。自分を救い上げた天からの御遣いだ。そして、目の前の少女はフランスをブリテンから守り通した奇跡であった。
それだけは変え難き事実。
道半ばで故郷に裏切られて死ぬだけなら良かったが、故郷を救う前に死ぬのは耐えられない程に辛かった。
ジャンヌは紅茶を飲みながらも、こんなに美味しい紅茶が飲めるなどという夢を与えてくれた主に感謝を捧げるしか出来なかった。
こうして二人のジャンヌは何時も通り、穏やかな昼下がりのティータイムを過ごしていった。
◇◇◇◇◇◇
そして、聖女を捨てたジャンヌは夜に夢から目覚めた。傷が疼き、まだ拷問された時を悪夢として見てしまい起きることもあったが、跳び起きてその夜に眠れなくなるようなことはなかった。彼女は自分で如何かと思うが、異端審問官共に受けた拷問にそこまで心理的外傷を受けていない。しかし、今日はもう寝る気持ちにはならなかった。
……何故か、夢に見たのはサーヴァントと言う死後の自分自身。
その彼女と数日前に誘われて、ティータイムなる娯楽を楽しんだ時間だった。
自分が死ぬと憎悪でああ言う側面を持つと言われ、しかし全くそんな自覚をジャンヌは持っていないが、それでも彼女がそう言う存在ならばそうなのだろうと思っていた。その筈なのに、オルタと名乗るジャンヌから違和感がどうしても消え去らない。
自分には致命的な見落としがある。
どうしようもない見逃がしがある。
それもこれから先の戦いが危険だと囁く啓示に反し、それでも戦いを続ける事は正しいと啓示されていた時のような、取り返しがつかない恐れが生まれていた。
「――――……」
ふわふわと柔らかいベッドから起きたジャンヌは、傍に置いておいた右目を覆う眼帯を身に付ける。つい癖で髪を手櫛で流そうとしたが、今は短髪になっているので空振りしてしまった。自分が子供の髪を切って整えて上げたように、あのジャンヌに髪を切って貰うことで整えた短めの髪を両手で撫で、ある程度は髪型を整える。
その直後―――ジャンヌ・ダルクは、垣間見た。
火炙りにされて死ぬ自分と、その先に続く遥か未来。人理と人類史と―――阿頼耶識。
「あぁ、そうだったのですね…………―――ならば、主よ。この身を、預けます」
啓示とは何処までも残酷であった。本当に何の前触れもなく、予兆さえもなく、ジャンヌ・ダルクは全てを悟った。全てを唐突に知り得てしまっていた。
魔力反応など有り得無く、エーテル一つ波打たない。空間の歪みも無し。
誰も今のジャンヌを見たところで普段と何一つ変わらない姿だろうが、それでも今の彼女は声を聞いてしまっていた。
「……………英霊とは―――そうでしたか。
あれは嘘ではなかった。けれども、あの自分も、ジルも、アッシュも、誰一人も真実は私に言わなかったのですね」
聖処女ではなくなったジャンヌは、しかして聖女ジャンヌ・ダルクを取り戻す。有り得ない事に、何ら変調もなかったのに彼女は人間ではなくなった。自己や自我と言う観点ならば何も変わらないが、その魂と肉体が人間ではなくなっていた。
特異点に不備はなかった。カウンターもサーヴァントが召喚される程度だった。
ジル・ド・レェは一切の間違いを犯さなかった。竜の魔女ジャンヌはジャンヌが怪しまぬ様、むしろ精神を癒していた。アッシュはフランスがブリテンから救われたと言う真実を教え、他は全て隠し通した。誰もがこの特異点に生きるジャンヌ・ダルクを救う為に必要な正しい行いを貫き通した。
おぞましき―――抑止力。
生存を求める感情なき無色の集合無意識は、効率のみを求めたジャンヌを殺す為だけの抑止力を準備した。
“けれど、けれども私は……―――あぁ、主よ。どうして、救いはそうじゃないのでしょうか?”
―――特異点。
それを理解したことがジャンヌにとって、全てがハリボテの悪夢だったのだと絶望させる真実だった。自分が救われた事でもなく、人類史と言う歴史だと死ぬべき人間だと言う事でも無い。自分を救えて涙を流したあの元帥が、自分を救う為に世界全てを敵に回したあの男を、今度は自分が再び地獄へ落とさねばらないと言う事実。このフランスは決して救われないと言う現実。
何一つ報われてなどいなかった。
何一つ終わってなどいなかった。
何一つ救われてなどいなかった
自分が生きようが死のうが、人類史でフランスは救われている。
ならば、特異点と言う世界を作り出した彼らは確かにブリテンからフランスを救ったのだろうが、その救ったフランスをどうするのかなど、考える前に答えが出ている疑問であった。
“生前の私。ジャンヌ・ダルクの全てを、今を生きる貴女へと託します”
「―――ぅ……う、く。ぁあ……そんな、そんなそんなぁ……っ」
英霊として自分に憑依した自分の記憶が流れ込んでくる。境界記録帯として魂に刻み込まれた情報が思考回路を染め上げる。暗い思念が自分の精神を黒く濡らす。
ならば―――此処は、地獄だ。
契約を結ぶ事で力と知識を得てしまい、啓示のまま必要な事を全て為し、そしてジャンヌ・ダルクは絶望した。沈むように先程まで希望に感じていた全ての望みが断ち切られた。
しかし、失望はなかった。希望は捨てなかった。だが身に宿る絶望は覆せなかった。
頑強な精神力が無ければ歩く事さえ出来ない程に息苦しくて、涙だって我慢しないと直ぐに流れそうで、それなのにその苦痛をジャンヌは抑え込めてしま得た。
“啓示が導く、使命のままに……―――今は、まだ……それだけでも、私だけでも為さないと”
霊基と言うものが霊体に構築された違和感も、直ぐに溶け込んで消えた。魔力と言う原動力も理解し、エーテルも感じ取れた。宝具と言う英霊の力も、スキルと言う人外の技能も身に覚えた。
しかし、それを使えば此処を覆う結界に露見することだろう。
加えて、霊基の気配も人間に過ぎない自分自身の内側へ隠す。
英霊ジャンヌの知識は人間のジャンヌ・ダルクに記録され、魔術師観点から見る隠密行動と言う作戦を成功させていた。
「――――――ぅ……私が、私が何とか」
寝る時の衣装から、ジャンヌは手早く外出用の服に着替えた。その上から更に防寒着を着込み、その下の服装を周りの視線から隠れるようにした。そして、ある程度は即席で旅支度を整えていた。
かちゃり、とドアを静かに開けた。
夜深く暗い廊下であるが、月明かりと星々の輝きだけが光源となって窓から光が差していた。ジャンヌは静かに、されど人と遭遇しても怪しまれないように、堂々と廊下を歩き進めた。
「あれま、アンタ。こんな夜中にどうしたのさ?」
「―――……いえ、ちょっと悪夢で眠れませんでして。
庭にでも出て、夜風でも浴びて、嫌な汗を冷やして乾かそうかと思います」
巡回でもしていたのか、出会ってしまった老女にジャンヌは用意しておいた言い訳を話す。元より機転が聞く才女であれば、この程度の誤魔化しは容易い行いであった。
「そうかい。そりゃ……ま、アタシゃ拷問なんて受けた事がないからわからんが、アンタがよぉーなるようとに願ってはおる。
……あんまり、ずっと外にいると風邪引くよ。
気分が悪いからと、体調にゃー気を付けるんじゃよ。まだまだ若いんだからさ」
「はい。心配して貰ってすみません、デオンさん」
「礼儀正しいお嬢さんじゃね。でもま、こんな爺か婆か分からん相手に、畏まる必要なんてありゃせんよ」
「そんなことはありませんから。何時もアナタが入れてくれる紅茶は、私を美味しさで癒して下さいます」
「ほほぉー…………そうかの。ならば、アタシも良いんじゃがね」
「はい。では、失礼します」
「ふ。ではの、良い夜を」
そう頭を下げたジャンヌに老女は微笑み返し、自分を通り過ぎる彼女の背後を見守っていた。枯百合の老騎士は溜め息を深く沈むように吐き、人間性に狂った世界を哀れんだ。虚し過ぎて、老い果てた自我にぽっかりと穴が開く。
アタシの仕事じゃありゃせんよ、と内心であの魔女と元帥を嘲笑った。
外部からの守護なら命令通りに果たそうが、いけ好かない奴らに親切心など欠片も湧かない。彼女自身がそう在れと立ち向かうならば―――あぁ、枯れた百合を抱く者として、僅かに残った誇りで以って聖女の道程に祝福を。
そして、我らが
「そうさね……―――やはり、死に場所は自分で選ぶものじゃろうて」
執事風の給仕服から老騎士は着替えた。一瞬だけ光を纏うと、戦衣装を纏う老女の姿から変わっていた。人間には不可能な芸当であった。
黒い外套に、黒い装束。口元を襟で覆い、同じく黒い帽子を被る姿。
サーベルを左腰の鞘に差し、逆の右腰には小銃をホルダーに収めている。
スパイ機関の活動を経て、竜騎兵部隊の隊長となり、王家より聖ルイ十字勲章を授かることで
だから、老騎士デオンは捨てたのだ。生前に鍛え上げた殺戮の業だけを受け継ぎ、他は残滓として魂に残って居れば良い。老騎士姿はスパイではなくなった剣士としての全盛期。その上で、竜騎兵として覚えた銃技も万全に使用する。
故に、この姿は殺す事だけを求めた老騎士の狩り装束。
竜騎兵の制服でもなければ、女性として着ていたドレスでもなく、見世物の時に着ていた衣装でもない。老デオンの霊基を暗く濡らすヒューマニティは、騎士を老いさせるばかりか、その身に纏う英霊の形として装備する武装さえも歪めていた。
「聖女さん……アンタに暗黒の魂が有らんことを」
生前と同じ様に、十字を切って哀れな女の願いを祈る。フランスをヴラド三世が指揮する竜血騎士団と共に焼き尽くし、殺戮し、それに罪科を抱かぬ人間性に成り果て、もはや老デオンは神には程遠い騎士だ。名誉もなく、栄光もなく、あの黒い魔女の願いの儘に“在る”だけの殺戮英霊。
それでも、例えそうであろうとも、騎士は騎士故に―――聖女の魂が安らかに、あの永劫へ落ちることを希う。
ここでの仕事もこれで終わりと見切りを付け、老騎士は城を去って行った。フランスを殺せど殺せど、自分の召喚者が満足することはないのだから。
「――――っ……」
そうして、自分が見逃されたと言う事に、ジャンヌもまた気が付いていた。だが、自分が気付いた事に老騎士に気付かれれば、もはや死ぬしかないだろう。
啓示とは聖女に道を指し示すが、同様に勝てぬ相手と戦わせることを受け付けない。彼女の直感は、あの騎士と戦えば確実に狩り殺されると告げていた。サーヴァントとなることで自分の超常的直感能力も啓示と言うスキルとして認識し、技能として更に使い易くなっていた。
何よりも、英霊ジャンヌが憑依したジャンヌ・ダルクは、英霊としての知識を持ち、シュヴァリエ・デオンを知っている。この特異点より後のフランスで活躍する英雄であり、スパイの伝承も知っている。普通の使用人だと思っていた人間が、人間ではないサーヴァントであると理解していた。
だから、ジャンヌは啓示のままに従うのみ。
今思えば、自分はこの城に軟禁されていたと言う事実を悟ることが出来た。
そんな場所から逃れるとなれば、浅知恵に頼る訳にはいかない。英霊として辿り着いた啓示を頼りに、ジャンヌは直感だけを頼りに進んで行った。
「………ッ――――!」
満点の夜空。月が照らす城と、月光で伸びる城の影。外へ出た彼女を遮るモノなど一つもない。
「……聖女よ。
そんな言葉以外、ジャンヌを止めるモノはなかった。
「…………私は―――」
「―――いや、良い。答え無き問答など要らぬか」
巨漢が一人、外へ出たジャンヌを待ち構えていた。剣のような刃を持つ槍に、逆立つ白髪の王冠。身に纏う鎧は全身を覆っているが、四肢を露出させている部分がある。まるで手足で扱う雷が金属鎧を通して自分を感電させないように、その巨漢なりの工夫が施された戦衣装。
ジャンヌも遠目から見たことある男。近付いてみれば、端正な彫りの深い顔立ちをした者であった。彼女は戦神とだけ周囲の者から呼ばれた神の如き戦士を前に、戦えば自分が造作もなく殺される事を理解した。
「行くのか、人間」
「はい。邪魔をするのでしたら、貴方を倒して進みます」
「我にその意志もなく、権利もなく、義務もなし。今や、あの太陽を奪った灰にのみ従うだけの傀儡よ。何かの間違いで生が戻った亡者の一匹よ。
……だが、貴公の先にあるのは―――地獄。
使命など捨てるが良い。所詮は単なる思い込みぞ。そもそも英霊などと言う死に切れぬ亡者に、為したいと言う意志が不必要ぞ」
「……優しいのですね、貴方」
「―――……否。もはや、それも枯れた。
我が求むは闘争のみ。迷う者とは愉しめぬだけよ」
神でも人間でもなくなった亡者に過ぎない男は、だがしかし灰によってサーヴァントと言う特殊な霊体として召喚された所為か、人間と言う闇を拠所にする化け物を、自分と同じ生き物のように相手にする人間性を抱かされていた。
戦神にとって、聖女ジャンヌ・ダルクがこうなることは予測出来ていた。
世界が違おうとも人間と言う生命体の末路は変わらないだろう。この特異点と言う絵画を滅ぼすには、あの聖女を英霊として遣わすのが一番だと人理が判断するならば、この悲劇は戦神にとって必然の流れであった。
「行くが良い。我は見届けに来たのみ。殺戮によって黒く平定しつつあるこの絵画を、汝の白い善意で以って人間共を竜の息吹から救い出し、また魔女から湧き出た闇で絵具を掻き混ぜると良い。
そして―――良き闘争を。
我はそう在れかしと望まれたまま、竜の敵を打ち砕く」
「貴方は……―――いいえ。なら、その心が変わらぬ内に、私は去らせて貰います」
「ああ。励み給えよ、人の聖女」
もはや、それだけしか残されていない。此方と戦うと決めて挑むならば情け容赦なく殺すが、逃げる聖女と闘う気など欠片も戦神にはない。ここで殺すなど有り得なく、仲間を呼ぶなど更にする動機もない。
暗い夜を走り抜ける彼女の背中を眺めながら、戦神は静かに息を吐いた。
自己犠牲……それは、確かに人の力。そして、戦神の父が神々の時代を維持する為に、人間共の闇から太陽の火を守る為に選んだ手段でもあった。
何がそこまで人は追い詰め、神が煽られるのか?
古竜を殺す為だけに父から生み出された太陽の長子は、その指に嵌め込んだ指輪を撫でながら思い悩む。神都アノール・ロンドで投げ捨てた筈の指輪だと言うのに、あの灰に渡されてからまた捨てる気にはなれなかった。
「良いのだな、灰の太陽」
「ええ、ありがとうございました。私だけの傀儡、戦神さん。我らが葦名幕府の仕事も忙しいと言うのに、こちらで雑用までして頂けるとは。
けれど、けれども、あちらでの殺戮も飽いていることでしょう?」
「屑め。所詮は闇霊の輩か……」
ぬらり、と闇からアッシュは現れた。愛用する幻肢の指輪は彼女を透明にし、戦神に近付くことで彼からも姿を目視可能となった。
「勿論ですとも。ならばこそ、火を奪還する亡者で在ります故にね」
「……だが、良い。我がソウルが求めるのは、もはや闘争のみぞ」
「ふふふふ……でしょうね。あぁ、オーンスタインも浮かばれませんね」
「灰風情が、神の騎士の何を理解すると言う?」
「いやですね。私は火を奪還した薪の王だとは言った筈ですよ。そんな亡者が、神が見出した火の側面を、今まで見出さないまま放置している訳がないでしょう?
……だから、分かっていますよね?
それこそが王を超えて火の簒奪者となった薪の炉のみが、薪の王として辿り着ける火の力なのだとね。私はね、貴方達神々が火から盗み取った全ての神性を、一人の人間が持つ人間性として手に入れましたのだから」
「酷薄な神だったとは言え、あの父が古竜共を狩り殺して浮かべた太陽に闇の王がなるとはな。まこと、あの都の神々も虚しい闇の生物よ」
「その通り。神が火の時代を始めた神秘など、私からすれば解明済みの奇跡ですからね。まぁ、燃え殻の残り火から幾分か育てたとはいえ、まだまだ世界の再錬成など出来ないのですが。けれども、追放者の錬成炉も屍から奪い取りましたし……ふふふ。まぁ、核は有りますからね。
貴方が望むならば、特異点をそのまま一つ錬成炉に作り変え、貴方が希う太陽を作って上げても宜しいのですよ?」
「下らぬ。だが―――哀れだよ、我が父も。
燃え殻になった薪から今も見ておることだ、自らが恐れた暗い魂の王を。火も、闇も、魂も、最後の最後に何もかも奪還されたと言う事実もな。
我を殺した貴様を侮る訳はないが、貴様が神を罵倒する気持ちも理解出来ぬ訳でもなし」
「―――良いので?
望むなら、貴方も父がそうしたように見出して見ますかね。私の腸を引き裂いて、亡者の穴を炉にする火から、最初の雷を手に入れるのも、出来ないことではないでしょう?」
「下らぬと言ったぞ、灰」
「そうですか……」
その灰の言葉を聞いて胡乱気な視線を契約者に向けるが、彼はゆったりとした歩みで城へ戻って行く。
「……あら、聖女は追わないので」
「戯けたことを。姿を消して人の背後を付け狙うのは、貴公のようなソウル狂いの専売特許だろうよ」
「では、城へ何しに行くのです?」
「眠い故、寝る」
「はぁ……その、貴方が?」
「無論ぞ。貴公より与えられた人間性は、確かに我が妹の癒しを使えるようにはした。だが、我は死の眠りから叩き起こされたばかりの身。眠気までは妹の物語も癒せぬようだ」
「つまりは、貴方のその胡乱気な視線は眠気を我慢していたからと?」
「否。貴公は会話が周りくどい故に、眠くなるだけよ」
「……そうですか。そうですか―――っえ、そうだったんですね」
「ああ。自覚なしとは、な」
竜狩りの剣槍を仕舞い、戦神は寝床へ向かって行った。嘗て住んでいたアノール・ロンドのマイルームに比べればどんなに豪勢なベッドでも劣るが、古竜の頂で眠っていた自分の墓場に比べれば何処だろうと楽園だろう。闘争とは関係ないことを思考する戦神は、この灰によって与えられた人間性を楽しみつつも、亡者と化して失った筈のものを取り戻しつつあった。
去り行く戦神を一瞥し、灰は確かに会話が増えている自覚はある。しかし、それは人並みだと思っていたが、他の人からすると回りくどいと思われる程に増えていたようだ。最初の火を奪還して絵画を焼き尽くすまで、火が好きなだけの火狂いで、闇を愛する闇狂いで、魂喰いを本能とするソウルイーターであり、この死ねる人理の世界に来る前は無口な火の無い灰だったので、この変化は嫌ではなかった。
「とは言えね、戦神さん……貴公も中々に、我らの人間性に毒されているようで」
だが、如何にもならないのだろう。神性を捨てた神ならざる亡者故に、最初の火から力を見出した彼らのように、戦神のソウルに人間性を溶け込ませるのは容易かった。最初の火を身の内に灰は、正確には闇の王でも薪の王ですらないが、人間性と神性の大元となる亡者の王であるため、神の如き業も今や不可能ではなかった。
―――暗い魂よ、在り給え。
奈落の穴が穿たれたソウルから漏れ出る闇こそ、人間性。そして、深みの澱こそは深淵でもあった。
“ですので聖女さん、その契約を自ら選んだのですから―――どうか、短くも良き旅を”
友人となった男が叫ぶ姿を想像し、灰はこれから先のフランスを尊んだ。ジャンヌ・ダルクが脱走したと知れば、人理が運営する抑止力を疑うのは必然であり、狂気を本能とする元帥は更に人類史を恨み尽くすことだろう。
憎悪、悪徳、怨恨、復讐、怨嗟、罪科、怨讐、殺意―――全て合わさる人の狂気。
何を絵具にして、何を題材にして、何を目的として、その絵画を描くのかは世界に住まう住人の尊厳に他ならないだろう。世界を終わらせた灰は、色彩塗りを手伝うことはあるが、やはり完成した絵画を見て愉しむ観客に過ぎないのだ。
だから、聖女に呪いの声を。
その決断が特異点を消してフランスを救うのだとしても、幾度も悪夢は巡り、獣共は決して夢を諦めない。
“さて、カルデアの皆さん。神を捨て人の奇跡を手に入れた戦神を前にどうするか……いや、殺し合いの見世物を愉しむのは違いますか。そこまで愉しみ切るのは、自分の信条にも反します。ならば私も世界を毒す赤い瞳の闇霊として、この世界を守る生身の不死として、仲間と共に世界への侵入者を狩らせて貰いましょう”
エミヤさんを守護者にしたように、抑止力が頑張ってくれました。灰の視点から見ると啓示ってどうみても呪いなんですよね。逆に狩人の視点から見ると、啓示って啓蒙がたんまり溜まりそうな祝いなんですよね。灰は聖女の祈りを唾棄すべき呪いと怒り、狩人は聖女の悟りを祝福すべき貴さと喜びます。
原作通り、ジャンヌにジャンヌを殺させるよう働き掛けてます。ストーリーは壊さないで二次創作したいです。しかし、同じ世界に同一人物は存在出来ませんので、腕士郎のように自分に自分が憑依する形になりました。この特異点を一番特異点として歪めている原因を考えると、抑止はこのように働くかなぁと思ってます。