血液由来の所長   作:サイトー

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 ヤーナムの場所は登場人物の名前から、ドイツとチェコの辺りにかる森深い山間部だと思います。近くには湖があり、そこに墓地街、ビルゲンワースがあったんじゃねと言う雰囲気。対岸には学舎から血が運ばれた地元貴族の城がありそう。悪夢の漁村は海に立てられましたが、ビルゲンワースがひゃっはーしたのは現実世界だと、ヤーナム近くの湖の漁村だったんじゃないかと言う妄想です。
 つまり多分、舞台の中心は湖の可能性。水は夢と繋がり、湖は上位者の領域である悪夢とも繋がり、夜になることで月が湖に現れる。悪夢の月とは、そう言う現実から映り込んだ月光であり、だから夜ではないとヤーナムは夢に落ちないのかもしれません。故に学長は蜘蛛を湖に放つことで、赤いメルゴーの月を隠せたのかも。けれど、湖中心説は不正解とも思ってます。儀式の道具にはされてはされて、異空の出入口にもされてそうですが、月と悪夢はまた別物でしょう。砂漠に消えたローランやらと、ヤーナムの土地に関係ない場所にも上位者は現れると思います。



啓蒙34:真相

『敵性巨神と、ジークフリートの……………霊基消滅を、確認した』

 

 ロマニの通信が、彼の戦死を確定させた。カルデアから死を観測されたと言う事は、逃れられない事実として藤丸とマシュの二人に圧し掛かる。

 

「あ……――ぁぁあ、あああ……そんな、何故……どうして、私は何も救えないのですか?」

 

 主よ、と唱える言葉だけを聖女は抑えた。神の所為でも、他の誰かの所為にも、眼前の悲劇の元凶だと押し付けてはならない。恨むべきは自分であり、憎悪するならば手の届かない自身の至らなさ。

 

「死にたいィ……わたしは生きていても……無価値だ。歴史通り、死ぬべきなんだ。処刑から生き延びて、なんの意味が、あって……誰にも、私はもう届かないです」

 

 それでも、思うだけでに止まらなかった。言葉として声に出てしまう程、ジャンヌは何もかもが苦しくて堪らなかった。むしろ、誰かの所為に出来ていれば、ここまで自分を追い詰めてしまう必要もなかっただろう。

 

「願いはそれなのに、手を伸ばしたいだけだったのに……」

 

 拷問で焼かれた瞳から、火に焦げた暗い血涙が流れ出た。そして違う片方の目から、色彩のない涙も流れ出た。呪われたのは何時からなのか、考える必要さえないのだろう。

 

「なにも、なんにもぉ………届かない。

 私は誰の助けにもなれなかった。子供一人助けられなくてぇ……母さんも見殺しにして、仲良くなれた友人も死んで、嘗ての戦友も理解出来ず、私の所為でまた仲間が死んでしまった。

 みんな、みんな……死んじゃった。しんじゃったんだよ?

 ジークフリートは―――私がぁ……私が、私の赤ちゃんをこの手で殺していれば……!!」

 

 星の輝きは凶星となり、辛うじて精神を保っていたジャンヌの心を遂に崩壊させてしまった。英霊としての彼女ならば耐えられた悲劇だろうが、この特異点を生きる人間にとって我慢など出来る訳もなく、あらゆる感情が狂気で意識が蠢く引き金となる。

 正気を保てぬ―――発狂だった。

 理性を保とうとも、邪悪なる意志は確実に戦場に居た全員に届き、傷だらけの心に狂おしい渇きと呻きを与えていた。中でも特にジャンヌの精神は崩壊していない方が可笑しい位に傷塗れで、ジル・ド・レェの成れの果てが響かせた呼び声が聖女の魂から自責と狂気を引き出していた。

 

「やめて下さい!!」

 

「う、あ……?」

 

 マシュは我慢が出来なかった。この特異点のどんな悲劇よりも、目の前のジャンヌが壊れる姿が耐えられなかった。

 

「……マシュ?」

 

 自分を真正面から抱き締める少女を、聖女は静かに見詰めた。でも、彼女の体はそれ以上動かなかった。

 

「やめて下さい。そんなの……やめて、ジャンヌさん」

 

 霊媒医術を念入りに学んだマシュは、神秘面だけでなく、医学の知識を持つ。VR技術から派生した学習装置は所長と技術者たちによる悪夢的発展を遂げ、カルデアの脳開発希望者に人生数百年分、あるいは数千年分の知識を与える。感覚や経験の差はあれど、ある程度は誰でも専門技術者としての学を修めている。加えて、魔術行使による鍛練も行える電子世界だ。

 そんなカルデアの申し子であるならば、精神分析や精神医学にも精通するのは不可思議なことではない。マシュはジャンヌの心理状態を見抜くと共に、邪神の星明かりによる神秘的錯乱状態であることも理解していた。

 

「大丈夫ですから。私たちが、傍にいますから、深呼吸をしてください」

 

 そう態とマシュは微笑み、ジャンヌから流れた焦げた涙と色彩のない涙を指先で拭い、まるで幼子をあやすように抱き止める。

 

「………はぁ、すー……はぁ……」

 

 気の狂いとは、理性の消失ではない。肥大化した獣性と魂を色彩する人間性の衝突により、意識の皮となる理性が弾け、喜怒哀楽の感情が混ざり合う剥きだしの意志なのだろう。

 取り繕う事の出来ない裸の精神。マシュの言葉と肌の暖かさは単純に、守る為の衣を安心感としてジャンヌに纏わせていた。

 

「……すみません、マシュ。もう大丈夫ですから」

 

「はい。少しは助けになれて良かったです」

 

 所長は一気に進撃しようかと計画していたが、無理強いは禁物だと判断。自分がそう言えば藤丸とマシュは疑わずに従い、サーヴァントも賛同するが、ジャンヌは戦闘中に恐らくは精神面からの迷いと疲れにより死ぬだろう。そしてアッシュと言う女の人格を所長は考察するに、ジャンヌを狙い射つ悪辣さな作戦を取るに決まっている。それもあの魔女の手で、聖女の魂を殺させるだろう。

 そんな凄惨な悲劇を、マシュと藤丸が見る可能性。それは非常に危険だった。ジャンヌの危機は、彼女を最終的には死なせなければならないカルデアの、強いては二人にとって致命の一撃となる。最後は特異点修復を目指すカルデアの手で歴史を戻す為、殺さねばならないのだとしても、死を受け入れる猶予が必須。

 

「ちょっとフォウ、こっちに来なさい」

 

「フォ~ウ?」

 

「いいから、ね?」

 

「フォウフォウ」

 

 怪訝そうに鳴き声を上げ、実際に「お前は一体なにを言ってるんだ?」と意訳的脳内翻訳した所長はフォウの意志を聞いたが、更に強引に手招いた。だが幾ら見た目が美女とは言え、所長に近付くなど余りに短慮にして浅慮。

 憐れフォウは首元はあっさり掴まれ、宙ブラリとなり―――ジャンヌに、押し付けられた。

 

「ほがぁ!」

 

「ボォフォウ!?」

 

「ちょっと、ジャンヌ。暫らくの間、そいつを抱っこしてなさい。後、ついでにこれもグイっと一口」

 

 視界が真っ白になったジャンヌはフォウの腹が顔面に当たったのだと分かると、手に何かを握らされた事に気が付く。マシュもまた突然の事態に目を白黒させ、二人と一匹を離れて見守っていた。

 

「ちょ……ちょっと、オルガマリー?」

 

「人によるけど、小動物って気が落ち着くのよ?」

 

「はぁ……?」

 

「アフォウ?」

 

「疑問に思わない。私を信じなさい。フォウも今は役得だと思っていれば良いわ」

 

 そう言う所長もまたアニマルセラピーは肯定的だった。夢見る上位者の白い血液と似た色合いの小さな使者(メッセンジャー)を水盆で着飾り、何をする事もなく見る時間は嫌いではない。

 とは言え、ジャンヌからすれば余りに場面が急展開過ぎる。目の前で自分達を護る為に死んだジークフリートを悼む暇もなく発狂し、他の味方の死を理解して絶望し、しかしそんな心の悲鳴を奪うような善意と気遣い……いや、悲鳴を十分に上げた後での心遣いであった。

 

「それで……その、これは?」

 

 腕に抱えるフォウを無意識の内にモフモフして手触りを得ていたが、渡された小瓶の正体を問う。類稀なる啓示により、これは絶対に飲んではならないと脳内で警鐘が鳴り響いてはいるも、何故か逆に危ないが今ならば飲むべき薬品でもあると言う妙な確信があった。

 つまるところ、何が何だか分からない液体。

 色々と疲れが一気に来たジャンヌは、精神が病んだ胡乱気な瞳で所長を見詰めていた。

 

「鎮静剤よ。ビルゲンワースって所が作ったんだけど、私がそれを盗作して、更に改良した薬物ね。薬効は名前のままです」

 

「本当ですか……本当に、鎮静剤?」

 

「本当です」

 

「えぇ……と、本当に?」

 

〝あ……啓示スキルがあるんだっけ。もう、私とした事がうっかりね”

 

「オルガマリー?」

 

「大丈夫です。本当に、本当。大丈夫だから……ね、ロマニ?」

 

『はぁ―――エ”、ボクに振るんですか!?

 いやまぁ……鎮静剤としてなら、確かな効果をそれ持ってますし、副作用もないっちゃないんですけど。個人的に、今のジャンヌ君にお勧め出来ないと言うか。でも嗚呼言う手合いの狂気に対してだと、かなりの中和性を持つ鎮静剤なのも事実なので、お勧めはしないけど……だけど、効果と安全性は医者として保証するよ』

 

 鎮静剤の材料を密かに知っているロマニは口を噤んだ。しかし、それは所長が求めた解答ではない。

 

「ロマニ。アニムスフィア家専属医師が、滅多なことを言うべきじゃないと思うんだけど?」

 

『―――分かってます。それにはボクも知恵を貸し与えたからね。ジャンヌ・ダルク、今の君にとって良薬になることだろう』

 

 人間を狂わせる何かは人の脳と心に神秘的に影響を与え、物理的且つ生物的にも変化を及ぼす。嘗てヤーナムにてビルゲンワースが発明した狂気対策の薬物は、医療教会における血の医療へと繋がる萌芽となった。

 狂気を促し、発狂へと至る内なる瞳―――啓蒙(インサイト)

 学舎の神秘学者の脳に流れた上位者の叡智であり、人の頭蓋を啓き蒔いた夢なる意志。それによって気が狂うのであれば、脳と血を啓蒙から中和させる何かを摂取させれば良い。

 発狂を沈め、だが理性を狂わせる血―――獣性(ビーストフード)

 濃厚な人血とは人間本来の姿。高次元存在の生命と知識と対をなし、それは脳が停止した獣の在り方である。肉体は血液に流れた意志に支配されて、獣血より虫が湧くのだろう。

 

〝まぁ、私の人血を原材料にしてるからね。ロマニが渋るのも無理はないわ”

 

 ビルゲンワースのウィレーム学長が、医療教会の在り方に嘆くのは至極道理。より高い階位に昇る為の叡智とは思考の瞳であり、探求の形に拘る余りにそれを鎮める人血の獣性に思索を導かせ、結局は何も変わらない思考の儘に神秘を得た筈の人間は獣へと堕落した。

 だがオルガマリーは、この特異点で理解した。

 獣性に対なすものは啓蒙であり、そもそも啓蒙される対象は人の意志が抱く人間性だった。その獣性と人間性のぶつかり合いこそ脳内で瞳が萌芽する始まりたる原動力となり、しかし上位者共のように脳へと寄生する精霊を人が宿せない原因でもある。人は人間性がなくては卵によって啓蒙される意志を抱けないが、同時に対極の衝突によって上位者と同じく青白い寄生虫を宿す事も不可能なのだ。

 アン・ディールとカルデアで名乗ってたアッシュ・ワンの闇―――人間性。

 即ち、暗い意志(ダークエコー)とも言える何かは、神秘学者であるオルガマリーが叡智より卵となる瞳が啓蒙される対象の進化を超越した進化である、その究極的深化を遂げた一種の霊的物質だ。狩人が持つ啓蒙された瞳を抱く人間性とは別種の概念ではあるも、だが脳に宿る目玉は高次元暗黒と等しく、灰が持つ人間性とも通じていた。

 故に、オルガマリーは新たなる瞳の可能性を得た。

 啓蒙された人間性の血により、やがて瞳は神秘なる精霊の卵として寄生虫が生まれる。人間は人間性故に精霊は宿らぬが、上位者へと進化すれば脳に宿る卵瞳は精霊に孵化するも、狩人は人間で在るからこそ瞳は瞳の儘に、卵にはならない。されど夢の狩人は意思によって獣性を超越したが為に、濃密な人血は獣血と成り果て、尚も意志が決して薄まらず、血から涌き出る虫に肉体を乗っ取られる事もない。だからこそ狩人は、意志を獣に退化する可能性が有り得ない。精々がカレル文字で啓蒙か獣血により、青白い寄生虫か穢れた寄生虫の可能性を引き出す位で、それもまた狩りの道具が限界だ。

 医療教会の血の医療は獣血の理に反するも、根源は濃密なる人血だ。

 故に蛞蝓となった狩人は、混ざった血によって上位者(ヒト)を超えた赤子足り得る幼年期。

 上位者とはまた別種の叡智を、啓蒙に等しき人間性の眷属共を殺す事で、その血の意志を取り込み、彼女はまた脳髄が深化した。思索の視野が広がり、より高次元なる知識と(まみ)える瞳に深化した。

 

「だから、呑みなさい。さあさ……ぐぐい、とね?」

 

 よって―――全く以って問題無し。多角的にオルガマリーは鎮静剤の成り立ちと、それによって生まれた血の歩みを俯瞰し、人血の効能が邪神の狂気を鎮めると判断。

 ジャンヌの心的損傷は計り知れず、通常の意識ならば致命傷を幾度も受けたのにも等しいが、彼女は本当の本当にメンタル強度が凄まじく高い。問題となるのは蛸なる神の死が放った脳髄侵蝕性脳波長による思考の共鳴であり、発狂と言う形で啓蒙されてしまったジャンヌの脳を人血で中和するだけで良い。

 

「―――良し。分かりました、では……」

 

「フォア!?」

 

 マジかよ、と小さな獣は聖女の腕の中で悲鳴を上げた。ある意味で彼の元主人である夢魔以上の糞野郎ならぬ糞女郎の薬など、千害万害の果てに一利あれば良いなと思える程度の信頼性。

 彼が驚くのは当然であり、タワワで清らかな乙女が、自分のようなビーストが真っ青なナニカシラに吃驚変化する変貌シーンなど見ていられない。キャンセルボタンを連打するように自分を持ち抱く腕を叩くも、時既に遅し。薬物は口元に運ばれる。

 

「―――うっ……」

 

 だがしかし、薬瓶が唇に触れる寸前で止まっていた。聖女の啓示が、やめろやめろ絶対にやめろと悲鳴を上げたのだ。天の声からのこれ以上ないフォローだった。彼女は狂気を抑えるメリット以上のデメリットを、飲み込む直前になって感知し、瓶を持つ手が禁断症状で痙攣する薬物中毒者のように小刻みな震えを起こしていた。

 

「ジャンヌ殿」

 

「……狼?」

 

 そんな決心がつかないジャンヌに、彼は優しく微笑んだ。まるでたんまりと詰まった大きな銭袋を拾った時のように、今の忍びは眉間の皺を弱め、少しだけ気の抜けた気配していた。

 

「さあさ、ぐぐいと召し上がるが良い。体に良き薬は、口に苦きものだ」

 

「―――……貴方が、そう言うのでしたら」

 

「あ。ちょっと、待っ――!」

 

 微笑む忍びを見て、これは駄目なパターンだとマシュは分かった。何だかんだで忍びは結果的に良い成果を出すが、その過程で起きる悲劇に余り頓着しない。思わず無条件で信用していまう男であるも、第三者視点で自分が二回とも騙された景色を見れば、胡散臭さをある程度は見通せる。

 そんな素晴らしい経験則でジャンヌに起こる未来を悟り、だが全てが遅かった。鎮静剤と呼ばれた劇物は、彼女の喉元をとっくに過ぎ去って行った。

 

「………オゥ、まじぇっすてぃっくぅー」

 

「フォアー!!!!!」

 

 ジャンヌは余りにも余りなアレ具合に力み、瓶を一瞬で握り潰し、胸部と腕の間で抱えられていたフォウもまた潰れる。抵抗も出来ず、神秘なる谷間へと憐れにも彼は吸い込まれてしまった。所長の視点から見れば、まるで暗く輝く悪夢を手に宿すアメンドーズに掴まれ、悪夢送りにされる狩人のような光景であった。

 

「フォウさぁんーー!?」

 

「完璧なメンタルケアね。自分の手腕がおぞましいわ」

 

「この人……そんな、嘘を吐いていません。混じりッ気なしの本音で、自画自賛しています!!」

 

「所長、貴女って人は……アナタって人は!?」

 

『だから嫌だったんだ。ボクも所長から借りた魔導書を読んで頭可笑しくなった時に貰ったけど……それ、狂気に良く効くだけの劇物なんだもの。好奇心は神様も狂わせる。

 カルデアの超魔導的悪夢な図書室使うのに、所長とアン・ディール以外に必須だから余り副作用無しで使えるようにしたけど、それでもこれだもんなぁ』

 

「……狼。無愛想な貌に似合わず、中々にエグい手を使う」

 

「荒療治もまた……治るならば、確かな医学であろう。エミヤ殿は、そう思わぬか?」

 

「あれ、が……?」

 

 マシュが両目を爛々とさせるジャンヌからフォウを助けようとし、所長が薄らと笑みを浮かべ、藤丸がジャンヌを正気に戻そうと肩を揺らし、気が狂ってる筈の清姫が更なる狂気で正気が戻り、通信越しでドクター・ロマンが懺悔を行い、そんな彼らをエミヤと忍びが少し離れた場所から見ている。

 正に、地獄。

 だが、正気。

 

「私からは、何も言うまい。狂気で心折れる寸前だった彼女へ、どう言葉を掛けるべきか。それが分からない私では、結果に対して意見を言う資格はないのでな」

 

「忍びである俺も、それは分からぬ。ただ……主殿は、このような雰囲気を好まぬ」

 

「だからオルガマリー所長の悪乗りに、似合わずとも乗っかるのか?」

 

「似合わずとも、任は絶対。それが誰かの助けとなるのであれば……多少の苦も、悪くなき味わいだ」

 

「そうか。いや、過程に眼を瞑り、結果良ければ……か。私もそれは否定しないさ」

 

 仲間の死を悼む間もなく狂った聖女に正気を取り戻させ、更に活力を与える為とは言え、そんな大義名分であそこまでして良いものなのか、エミヤには全く分からなかった。

 

「ウアアアアアアァァアアァアアアアア――!!」

 

「所長、所長! ジャンヌさんが、技術部門のミコラーシュ女史みたいな声を!?」

 

 本来ならばチェコ女性の家名なのでミコラーショヴァーが正しいが、何故かカルデア所属の魔術師から男性系名字のミコラーシュの名で良く呼ばれる技術者がいた。

 どうも遠い先祖がチェコ由来の魔術師の一族らしく、そこの継承者は男女関係なく初代の名を継ぐのだとか。結果的に、家長は魔術契約の基にミコラーシュと言う銘を背負う。とは言え、本人に名の拘りはないので、どちらでも良いらしい。

 

「確かに、なんかミコラーショヴァーっぽい。ジャンヌが変態技術者の一員になるのは、少し嫌ね。ある意味カルデアらしいけど」

 

「あの変態共はなぁ……ちょっと人格に問題あるけど、それ以上に狂人揃いで。先っぽだけだからとか意味不明な事を言いながら、俺を改造人間カルデアンにしようと脳手術を密かに企んでたりするし」

 

「え。あいつら、藤丸にそんな事を?」

 

「あー……と、はい。まぁ、そうですね、所長。この間も、新しいプログラムが出来たとVR訓練装置で覚えましたけど、ついでとばかりに」

 

「カルデアのマスターに直ぐちょっかい出すのよねぇ……はぁ、前も苦情は結構来てたけど。

 あれ……でも、そう考えると、生き残ったマスターは藤丸だけだから、今度からは藤丸一人だけで彼らを相手しないといけないのかしら?」

 

「勘弁して下さいよ、マジで」

 

「そんな事より、早くジャンヌさんを……――ジャンヌさんをぉぉお!!?」

 

 ―――五分後。

 

「何か、言うことは?」

 

「すまぬ」

 

「ごめんなさい。けれど、けれどね……全て、悪い夢だったのよ」

 

「シャラップ!!

 確かに……えぇ、えぇ確かに、気が狂った私が悪かったです。あの精神状態のまま、オルレアンの要塞に攻め込めば、メンタル面の隙を突かれて私は死んでいたでしょう。死ぬ可能性が非常に高かったのも認めます」

 

「じゃあ、ノーカウント。ノーカウントで。ほら、もし悪い事を考えていたとしても、それは私の心の中でのこと。

 大切なのは……そうね、貴女が正気を取り戻し、自意識を自覚したと言う結果一つ」

 

「…………」

 

「あれ、ジャンヌ。何でそんなに黙って……ハッ―――まさか、恨んでるの?」

 

 思わず所長は、資料漁りをした教室棟で出会った禿頭の蜘蛛男のような事を喋ってしまった。それだけジャンヌが怖気を誘う恐ろしさを纏っていたのだろう。

 

「別に。恨んでませんが」

 

「本当に……?」

 

「ええ、本当です」

 

「そう……そうね、良かったわ。ほらね隻狼、間違いじゃなかったでしょう。私が言った通り、正しくこれこそ、私達のチームワークの御蔭ね!」

 

「良き哉。怖気は心に悪しき影を刺す故、人は容易く狂うしまう」

 

「とのことで、進撃を始めましょう。逃がした時点で敵は全回復してるでしょうし、到着する時間で戦闘に優劣は別段つかなそうだけど……まぁ、態々無駄に休む必要もないですし」

 

 主従揃って一仕事したみたいな雰囲気を出しながら、遠く離れたオルレアンの城塞を見た。背後には頼もしい仲間達がいて、戦力は十二分以上。

 勝てる戦いだ。

 ジャンヌの正気も戻り、士気も高まった。

 

「―――待て」

 

「フォーウフォフォフォフフォ!!!!!!!」

 

 そんな所長と忍びの肩を掴んでジャンヌは進軍を止め、そんな聖女の頭の上に乗ったフォウは今世紀最大のガチギレした獣の雄叫びを上げている。

 ……ミシリ、と骨肉が軋む音が聞こえた。

 所長は地味に掴まれた肩が痛く、忍びは眉間に寄せる皺が更に深まった。

 

「言うべき事、まだあるのではないですか?」

 

「フォアーフォウフォア”ー!!!」

 

「あー……っと。そのジャンヌさん、ご機嫌如何かしら?」

 

「―――最悪です」

 

「ジャンヌ殿、効き目の程は?」

 

「―――完璧です」

 

「……あ、それと。フォウ、巻き込んでごめんね」

 

「フォウ殿、謝りまする」

 

「まぁ……もう良いでしょう。フォウも、二人に悪気は……いや、普通に故意犯なのでしょうが、今は怒りを治めて下さい」

 

「フォウ……」

 

「大人ですね。許して上げて下さい。出来れば、貴方を絞めた私の謝罪も、受け入れてくれると嬉しいです」

 

「……フォウ。フォフォウ」

 

 頭に乗るフォウを優しく腕に抱え、その頭を撫でながら彼女は色々と謝った。フォウは「仕方が無いな、うん。仕方ない」と意訳出来そうな鳴き声を上げ、彼女の腕の中で目を瞑る。

 ジャンヌは委員長気質な所為か、謝罪はきっちりしっかりと自分も他人もしないと収まりがつかないが、区切りが付けば全てを清算して前を向く。ある意味、大雑把に前向きな部分が、聖女ジャンヌ・ダルクが決して歩みを止めない鋼の精神を持つ所以なのかもしれない。

 

〝此処まで、ありがとうございました。エリザベート、ゲオルギウス、アマデウス、デオン。

 私の友を眠らせて頂き………私がすべきことを為してくれて、すみませんでした。その勇志に感謝します、ジークフリート。

 そして、終わらせに行きます。マリー”

 

 各々が心の内で行った別れの挨拶。あるいは、死への祈り。

 穏やかな精神を取り戻せたジャンヌは、やっと自分の現実を見詰め直す。この特異点で出会い、そして別れてしまった皆に最期の決意を告げる。

 

〝祈る為でもなく、世界の為でもなく―――自分の魂の儘、私だった魔女を倒します”

 

 こんな地獄でも、カルデアに出会えた事が一番の幸運だったのだろう。どうしようもない悲劇が前にあるのだと言うに、復讐に狂う家族と戦わないといけないのに、ジャンヌ・ダルクはまだ笑顔を忘れずに戦う事が出来るのだから。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 全てを聞かねばならない。赤子の魔女は、恐らくはこの悪夢を作り出した元凶の一人である女から、自分の真実を一つ残さず理解しなくてはと、今までにない暗過ぎる憎悪を燃やしていた。

 オルレアンの城塞にて、無価値な玉座にそんな魔女は深く座る。隣にはカウンターとして召喚されたサーヴァントを奪い、自分の従僕にした男。真名を、佐々木小次郎。もう片方の隣には自らをアッシュ・ワンと名乗り、ソウルの業と言う異界常識の神秘を使う魔人がいた。

 

「アッシュ。私について、貴女が隠していた事を全て語りなさい」

 

「良いですよ。頃合いでもありますからねぇ……―――ふふ。でもやっと、悪夢が現実に追い付きましたか」

 

「……ッチ。悪党悪人だと思ってたけど、更に厚顔無恥でもあった訳ね」

 

「ええ。羞恥心など燃えてしまいました。人前で鱗無しの白竜のように全裸になろうとも、何ら構う事もないでしょう」

 

 賢者が全裸になって目隠しの帽子を被る醜態を、学問を極めた果てに何故見出したのか。ソウルの業を魂の限界を超えて探求する灰からすれば、手に取るように理解出来る。

 謂わば、狂気の伝染による物真似だ。同じ心理状態となり、同じ視点を得た故の発狂。

 鱗がないとはドラゴンにとって種族的な恥であり、同じ様な全裸とは社会性を尊ぶ人間にとっては恥の極み。更に白竜は目が見えない盲目で、恐らくは健常な竜からすれば憐れまれたのかもしれない。人間以上に高度な知性体である古竜は不死ではあったが、同族意識を持ち、個体で生命として完成しつつも、ある種のコミュニティーを形成していた為に、白竜は自分が鱗を持たない事を許せなかった。それ故に魔術を志す不死にとって、即ち全裸とは、業の始祖とも言える神なる竜と自分を同一させる神聖高まる“衣装”であった。

 

「白竜なんてそんな変態ドラゴンは知らないけど、そう言う手合いって事は知らなかったわね。その強さに至った強大な魂から勘違いしていたけど……貴女には矜持もなく、倫理もないのね」

 

「肯定致します。色々と此処まで摩耗することになりますと、命乞いも土下座も、私からすれば平凡な挨拶程度の感覚でして。

 望むのでしたら、土下座した後に切腹でもしましょうか。あるいは詫び自殺として、魔女狩りで焼かれる無実の罪人みたいに、全身を呪いの炎で薪みたいに燃えるのも良いかもしれませんね」

 

「下らないわね。そう言うのは、命を持つ人間じゃないと無価値よ」

 

「それもまた無論でしたねぇ……確かにです。貴方の言う通り、命のない人間ではパントマイムにもならない御遊戯でした」

 

「―――で、言え。早くしろ」

 

「ふふふ、すみません。話の脱線が趣味でして……では、語らせて頂きます。出来れば佐々木さんも、どうか御聞きになって下さい」

 

「奴ら来るまで暇故に、構わぬよ」

 

「そうですか。それではまず、父と母について」

 

 思い返せば、一か月に満たない時間。灰の人生らしき生涯を考えれば、瞬き程の間。時間の感覚もなく、昼夜も気に出来ず、ただただ淡々と目的を為す為だけに探求を続けていた事を思えば、赤ん坊でしかない魔女のジャンヌ・ダルクが人生を歩んだ復讐の時間は、彼女にとって余りにも儚く、無惨な命の色彩と言えた。

 黒一色。それも、火で炙られた焦げの魂。

 だから灰は、せめて正直で在ろうと思う。

 求められた願いを全て、人間性をばら撒いた張本人として叶える術を貸し与えよう。

 

「貴女の母親はジャンヌ・ダルクです。一側面として召喚された英霊と言う訳でも、サーヴァントのオリジナルとなった生前の人間と言う訳でもなく、正真正銘の一人娘です。孕まされた聖処女だった聖女の胎内から、小さな粒で、人間のカタチにもなっていない貴女を取り出したのは、この私でしたから。

 とは言え、そもそも死産でした。ジルさんは男共の種から育った貴女を、聖女の胎で人にするつもりはなかった訳です」

 

「……これね」

 

 それを聞いた赤子は、嘗て自分だった肉片が入る瓶を取り出した。

 

「成る程。ジルさんから人間になる前の、本当の貴女を渡されていましたか。それでは、もう一人の親……―――父親について」

 

「生きているの?」

 

「いいえ。貴女が殺しましたよ」

 

「あっそ……で、どいつよ」

 

「聖女を犯していた異端審問官の、侵略者の一匹です。ほら、因果応報として、彼らには魔女狩りで行っていた残虐非道な行いを、自分達自身の身で味わって頂きましたでしょう?」

 

「ああ、あいつら。囚人に拷問されて、強姦されていたあの憐れな連中……復讐に、私が纏めて焼き焦がした腐れ外道共ですか」

 

「はい。我々は王家を滅ぼして新たな君臨者となり、服役中のフランスの囚人に特赦として、聖女を尋問した奴らを集団でレイプすれば新国軍兵士として雇う契約をしました。ついでに、暇な時は拷問して過ごさせろとね。

 ふふふ……我ながら、暗く気持ちが沈んでいたジルに良い事が出来たと思います。

 貴女も見たと思いますが、良い景色でしたでしょう。全く男と言う連中は、突き刺す事ばかり快楽を覚える癖に、いざ自分が背後から串刺しにされるとなると、醜悪なダミ声で叫び出すのですから」

 

「あれ、アンタの趣味ってこと。地獄絵図過ぎて、思わず復讐心が凄く昂って、何とも言えない気分になりましたよ」

 

 気色の悪い光景だが、汚い程に愉しかった。女を痛め付ける事を喜ぶ連中を、強姦される婦女子のように男共を使って尊厳を奪い取るのは、この世のものともは思えない位に清々しかった。とてもとても例えようも無く、暗く澱んだ爽快感であったのだ。

 

「私の趣味ではないですが……まぁ、私の魂になった誰かは、そう言う人生を歩んでいた倒錯者もいましたからね。

 貴女の父親など、下らないその程度の悲劇でした」

 

「そう言うこと。あいつらの一人が……私が薪みたいに焼いた屑の誰かが、父親の一人だったと」

 

 苦しみ尽くした後、そんな憐れな塵を焼くのは―――只々、絶頂だった。愉快で、愉悦で、快楽に満ち、悦楽の極みだった。面白くて、楽しくて、魂から嗤いと哂いが混ざった笑顔が浮かんでしまう喜劇だった。

 この世で最も優れた娯楽は、復讐であるのだと魔女の魂が狂った始まり。

 顔も覚えていない男を父親とも知らず、焼い殺した赤子の泣き声である。

 しかし、ならば疑わないとならないのだろう。そもそも魔女の復讐とはジャンヌ・ダルクの悲劇であり、即ちそれは生前の自分が味わった記憶に対する慰めでもある。

 

「……でも、それを愉しめたのは、私が魔女として焼き殺された記録があったから。この身が赤子であり、あいつの娘だった水子だったなら……えぇ、そうね。あの審問官共に陵辱された記憶は、私が胎の中に居た時の記録だと言うのも分かります。

 でも―――他の、私の思い出はなんなのですか?」

 

 もはや殆んど偽物なのは理解していた。確かな真実は、この魂が本物である事と、復讐の根底にある陵辱と拷問の記憶だけ。

 

「私のソウルから写した記録を、貴女の魂に焼き焦がした記憶です。ジャンヌが陵辱された思い出は、母から子へと臍の緒を絆に流れ、我が業にて記録させたのですが、他の記録は捏造ですよ」

 

「貴女は、じゃあ……分かった上で、私の復讐をほくそ笑んでいたと?」

 

「それは違います。子供が母親の為に行う復讐であるならば、それは誰にとっても偽物と断じる事は不可能です。例え国を燃やす本人が自分を母親の人物だと勘違いしていようが、その魂で感じた憎悪は本物でありましょう。

 健常な精神を持つ人間ならば、家族の苦痛は許せない。

 勿論、苦痛を与えた邪悪な人も許せないと思う筈です。

 そもそもな話、復讐する理由はジャンヌ・ダルクの赤子である貴女自身の魂にも、焦げ付く程に熱を帯びたまま燃えているのですから」

 

「だったら……それだったら、私が焼かれたのは誰の思い出なの?」

 

「私の過去です。我がソウルより、あの苦痛を与えました。魔女として火刑に処された貴女の凄惨なる記憶……いや、私が幾度も体験した死の記録は、ある意味で本当の五感に通じる真実の記憶ではあるのですがね。

 身を焼かれるのは苦しいでしょうが、今の私には日常です。

 貴女にも見せた儀式であるあの火はこの器にあり、この瞬間も私の魂を焼いています。焦げて朽ちる肉体であるならば、死なばもう地獄は終わりますが……不死である故に、死んでも私は焼身の苦痛を常に味わっています」

 

「―――ッハ……つまり、あの痛みは、アンタにとって当たり前ってこと?」

 

「その通りです。疑問に思うのでしたら、霊的なラインでも繋げ、痛覚共有でもしてみますか?」

 

「お断りね。どうして、他人が好んで味わってる焼死の苦悶を味わうのよ。被虐趣味なんてありません」

 

「私もないですから。火の炉になるのは痛いですが、痛いだけです。我慢する必要もないので、一秒事に死んでいるような状態でも、実際は気持ちの問題なのですよ」

 

「アンタだけよ、そう言うの」

 

「そうですか。別段、人間なら誰でも出来る凡庸な日常でしかないと思いますが」

 

「自然体で煽る事が出る当たり、素っぽいのが苛立つわ。火刑にされた憎しみで国を焼いた私に対する皮肉としては、それはもう殺したくなるほど心に響きました」

 

「火刑の記録は私が焼け死んだ時に味わった五感を使い、貴女のソウルに焦げ付かせただけですけどね。

 それに……まぁ、魔女狩りで火刑にされた女の魂も私に溶けてます。焼け死んだ人間の苦しみに満ちた記録を持つソウルなんて、私の魂が腐る程に刻まれてますので」

 

 魂に焦げ付いた苦痛。痛みそのものは真実だが、過去自体は虚構。笑いながら灰は、赤子へ日常会話をするように自分の所業を喋るだけ。

 

「―――死ね。本当、お前は死ね」

 

「良いですよ。日常でしたから」

 

 何もかもが仕込まれ、全てが計画された復讐劇。憎悪だけは本物だが、怨恨は幻影に蝕まれ、復讐心が生まれた記憶も捏造された情報。

 何よりも憎悪とは、それまでの幸福な思い出から湧き出る想念。

 尊い決意、貴い信念、清い日常。それを誰かに徹底して否定された時、人間は幸福が反転し、復讐鬼に堕ちるもの。それは赤子の魔女も同じである。犯された憎悪が根底にあり、火刑にされた悲嘆が心を深め、否定されたこれまでの人生が狂気を生み出す。

 

「チッ……糞が。でしたら、ジャンヌ・ダルクが過ごした幸福な日常も、私からすれば偽物でしたか」

 

「記憶は本物です。それを否定された時に生まれた貴女の憎悪も、在り方の儘に型を組まれた魂にとって本当です。何故ならば、記録は改竄されてませんから。人間であるジャンヌの魂を私のソウルに写し、貴女の魂に違和感ないように私が絵画を描くように色彩を入れたと言う話です。

 ……まぁ、気休めでありますけど。

 ジャンヌ・ダルクにとっての真実に過ぎず、貴女にとっては他者の魂の思い出でしかない訳でありますから」

 

 血で魂を描く画家の業。あの世界における全ての業を魂に修めた亡者の王は、文字通り世界を血で彩る絵描きでもあった。そんなソウルの業も学んでいる原罪の探求者からすれば、赤子のソウルに暗い魂の血で以って記録を焼き描くのも容易いのだろう。

 

「ふぅー……なるほど。良く分かりました」

 

「そうですか」

 

「結局、私は何も変わらない―――憎悪の虜と言うことです。

 これまで通り、これからも焼いて、燃やして、命を焦がす魔女でしかない。そう在れと望まれた赤子で在ろうとも、私は実感した私の在るが儘に存在するだけ」

 

「ええ。その通りでしょう。魂の尊厳も、人生の在り方も、所詮は人間らしく生きる為の娯楽です。人間性が、魂に見せる甘い幻の霧でしかない訳です。故に魂でさえも実の所、人間にとって肉体と変わらない紛い物の自己に過ぎないのです。

 大切なのは、命と体と魂の三つを土台にし、何も無い空より生み出た自意識。

 生きて、死んで、魂を焼き尽くし、あらゆる可能性を過ぎ去って初めて―――人は、人を得る。人間性を克服した先の果てに、人は人と言う魂の要らぬ器に辿り着くのでしょう」

 

 ソウルの業でさえ、灰にとって可能性の一つでしかない。魂は命と等価値であり、灰にとって自分の魂も道具である。ならば、魂を形作る記録と記憶もまた消耗品。

 器とは魂が空に焼かれて、それでも尚―――消えなかった残り滓。

 魂に縛られる限り、人間は魂の奴隷だった。そう言う法則を作り上げた何者かに支配され、因果の筋書きにしか行動出来ない。最初の火より生まれた三神の神性も、薪なる闇から生まれた人間性も、そう在れかしと定められた因果の仕掛け。

 自分の魂を本質と思う事こそ、堕落した人間性の正体だった。

 魂とは解き放つモノではない。命と体と魂の三位から生じた自分を確立し、自分と他者の自由自在に魂を描く事こそ、魂と言う楔から脱却する僅かな術。

 ソウルを超える為に、ソウルの業を灰の人は極め果てねばならないのだ。

 

「だから、私はジルさんに協力しました。仕組まれた偽りの運命を克服する暗い魂の血の赤子を、人造的に再現するソウルの魂魄実験。

 私にとってその利益こそ、貴女と言う存在の正体です」

 

 そもそも人生が刻まれた自分の魂までも無価値と断じるのならば、人の魂で描かれた世界に価値など感じる訳もない。

 遂に魔女は、この灰を欠片も理解出来ない事を悟れたのだ。

 肯定も否定もなく、希望を持って進む事も、諦めて切り捨てる事も、灰からすれば人になれない人の戯言。可能性とは自分の魂を拒絶してまで、徹底して抱けた自分を諦めない事。死んだ程度で心が折れるのなら、こんな世界に最初から生まれなければ良かった。

 

「………」

 

 ジャンヌはそれを分かってしまった。赤子なのに、その身に流れる暗い血が、幼い人間性を許さなかった。本当ならばこの女は斬りたい、突きたい、焼きたいと殺戮を希うべき相手なのに、自分が被造物の赤ん坊で、アッシュが魂を描いた創造主であると分かり、本当の意味での絶望を知った。

 ……心が、折れそうだった。

 なのに魂が憎悪を忘れず、刻まれた記憶が復讐心を焼き続ける。もう魔女は、その魂が止まらなかった。

 全てが真実を材料に作られた偽物で、幸福な思い出は良く似た複製で、なのに魂は本物で、憎悪だけが赤子の魔女から生まれた本当の感情だった。

 

「貴女は……―――魂まで、要らないと言うの?」

 

 だが、それは真実。灰は灰になる前の、自分のソウルの名残はあれど、もはや答えを得る為に原罪を求めた不死ではない。それが枯れた果ての“人間”に過ぎず、甦った彼女は文字通りに灰の人でしかなかった。

 だから、使命さえも要らなかった。

 他の灰と同じく与えられたのに、使命を果たしても意味はなかった。

 世界が醜いからと焼く事を肯定し、それは自分のソウルで理解した日常でしかなかった。人間ならば、人を得る為に邪魔な魂を超越し、初めて人は人間性を受け入れる。

 

「聖女の赤子よ、貴公はまだ死んでいないと言うことだ。貴殿からすれば死後の復讐かもしれんが、これこそ最初の人生だった。貴様は死を受け入れておらず、されど人生を理解しておらんのじゃよ。其方は水浴びも親からされなかった赤子でね、憐れな火の落とし仔だったの。

 だから―――死ぬが良い。

 人間は死ぬ生き物である故に、です」

 

 煮え滾った黒い穴のような、余りにも暗い太陽が、灰の瞳となって魔女を見詰めていた。

 
















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