それと、聖杯には汎人類史の情報が積まれていました。ついでにヤーナムの記録と、灰が自分のソウルを融かした暗い魂の血で満たし、最初の火で炙った“薪”も入ってます。どれがどんな影響を与えるのか観察しようと考え、ローマ特異点において丁度良い人材として、宮廷魔術師をしていたシモン・マグスの屋敷のテーブルの上に転移した感じです。
何かヤバいのが置いてあるけど、凄い神秘で、愚かな好奇で魔術師が手にした瞬間―――特異点が産み出る因果が完成しました。
なので灰がネロを救う前にもう聖杯で因果律が出来ており、その出来事が起爆剤となり、聖杯を持った魔術師と蘇生したネロが接触し、特異点が発生してカルデアがその瞬間を感知したことになります。
皇宮のテラス。昼下がりのコーヒーブレイク。灰は溜め息を吐いて疲れている振りを行い、第三者が見ると人間味がある行動を模倣する。カルデアでの生活で身に付けた日々の休息方法だが、亡者の枯れた舌に珈琲の善し悪しなど分かる訳もなく、疲れが癒されると言う精神的な充足など実感出来ない。肉体的にも感覚は勿論出来ない。
しかし、ソウルに仕舞った底無しの荷物入れの中で、折角整理整頓した道具や娯楽品を使わない手もない。
傍から見れば裕福な貴族のように様になった優雅さだが、実際は人類の文化に興味などなく、それを見抜けと言うが難しいだろう。
「各地にいる反乱軍残党に、カルデアのマスターとサーヴァントがいるのですか?」
「ああ。カルデアと言う組織は、大陸中を瞬間移動でも出来る能力があるのかね?」
そんな灰にカエサルは軍師として用があり、意見を聞く為に探していた。
「知りませんよ、カエサルさん。流石のカルデアも、量子空間移動技術は開発は出来てませんでしたし……まぁ、テレポートは人類の浪漫だぜとか言って、技術部の皆さんは頑張っていましたけど。何でも膨張して蠢き続ける宇宙空間で何とか座標指定しても銀河自体が移動し、更に太陽系も移動し、中心の太陽も複雑に動き、その回りの惑星も動いているとか言って、惑星上の“世界”で空間座標の指定が出来る魔術理論とは違って、科学技術だと転移そのものはもし可能になっても何処か移動してしまうんだとか言ってましたね。物理法則はそれはそれで魔術世界の法則とは違う素粒子レベルで細かい極小の世界で成り立つ世界ですから難しんでしょうね。それだったら、レイシフトみたいに量子化させて光速領域で移動させた方が良いとか、何とか。
しかし、そう動いているとは、そう言う事が出来るのでしょう。それにレフさんから離反した魔女メディアでしたら、転移魔術も扱えますし、腕前だけでしたら魔法使い以上の魔術ですからね。魔力源がありましたら、超長距離転移魔術も工房と工房をラインで繋げれば可能だと思います」
「前半が無駄話過ぎるのだが……うむ。ならば、不可能ではないと?」
「はい。魔女メディアを召喚して起きながら、自分が召喚したサーヴァントに結託された挙げ句、まんまと逃がしたレフさんが一番悪いと思いますよ」
「成る程な。成る程、成る程。となれば、それ相応にローマ軍を酷使するしかあるまい」
「そうですね。どうか、頑張って下さい」
「ああ……―――して、アッシュ・ワン。今晩、暇かな?」
「はぁ………え、本気ですか? 私相手に? まさか、ただの口実でした?」
「悩みは本当だったとも。だが敢えて言おう―――軟派であると!」
ローマは、本当にローマだと灰はちょっとだけ愕然とした。悪食にも程がある手の出し様。女と言えば女だが、身も心も燃え滓が更に枯れた薪みたいな亡者に、良く出来るなと本気で関心してしまった。
「貴方はローマでモテモテでしょうに。他の女を愛して下さい。私は……まぁ、お食事程度までしか男性の相手をする機能がないですから」
「うむ。だから、そこまでで良いのだ」
この男、闇に沈んでも内面はイケ魂であった。戦場でなければ、女性には何が何でも優しくする本物のローマ人だった。腹の膨らみに比例して懐も大きいのであろう。
「すみません。ネロさんが嫉妬しますし、内輪揉めは極力小さくしたい考えでして。それに、今日は明日の朝まで用事がありますから」
「そうか。では、仕方がない。さらばだ」
「さようなら、カエサルさん」
節操無いが、そう言う愛を持つのも人間。灰はそこそこな美人顔な自覚はあるが、そう言う形をしていると客観的に判断しているだけで、自分の姿形に愛着など全く無い。そして、カエサルに惹かれるような内面をしている訳でもないことも理解している。
そこまで考え、自分が一日中動いているから声を掛けたのかもしれない、と灰は答えをあっさり導き出した。
〝根が良い男なのですか。私にまで気を遣うのは如何かと思いますけど”
とのことで、灰は一息吐き、今日のローマの予定を思い返す。陳宮は手頃な奴隷兵を引き連れ、反乱軍残党の軍に今日も元気に宝具を叩き込んでいる。今日は用事があるからと灰が断ったことで、限りある憐れな命が盛大に爆散し、残党の兵士も一緒に爆裂して大勢の敵と味方が戦死していることだろう。
「――――………」
ずずり、と熱湯程度の高温など分からない癖に、熱いコーヒーをゆったりと一口。
〝ただのアサシンではないです。技巧を視るに、星見の忍びですか。所長の命令で、偵察にでも来ましたかね?”
小動物の視線よりも遥かにか細い気配。小さな虫よりも目立たない。いや、もはや空気であり、完全に空間へ融け込み、世界と言う環境に潜み込んでいる圧倒的技巧の冴え。視界に映っても違和感に気が付けず、眼前に現れたら分かるかもしれないと言う気配遮断の凄み。
本当に、何でもないローマの休日だと言うのに、僅かな違和感も戦場と同様に逃さなかった。
「…………?」
だが、余裕など一瞬で消え去る。ほんの数千分の一秒と言う瞬きの間だけ忍びが灰の動向を調べようと思考来てしまった故の気配の漏れであり、無の境地によって思念さえ無駄なく動き出さば、遠くにいる忍びを探るなどまず絶対に不可能。そろそもその違和感を感じ取って忍びだと理解する灰の感覚が、英霊からしても領域外の知覚能力である。
〝いやはや、良き暇潰しです。これだからオルガマリーは飽きませんねぇ……フフ、ふふふふ。
侵入者がいなければ、緊張感のないほのぼのとした日常でしかありません。折角の娯楽提供なのですから、狼さんには久方ぶりの御遊戯に興じさせて頂きましょう"
心の内側の奥底から、この展開に戦略を運ぶ所長に称賛の笑みを湧き上がらせる。丁度今が忍びを使うのに良い好機。所長は使うべき人材とその仕事を任せるタイミングが何時もどうして完璧で、部下の立場だと本当に能力を最大効率で十割ぴったり発揮させる怖い上司であった。そして、休憩も必要分。灰も職員として働いていた時は、無茶苦茶な指示に見えて全てが正解であり、灰もそれを最初から分かる頭脳があった為に、所長からレフ教授並に信用されていたのだろう。
とは言え、その二人は裏切者だったのだか。もはや所長に付いてこれるカルデアの部下は古参だとロマニ程度。
〝狼さんは貴重ですからね。マスターとサーヴァントで別々に動く場合、フランスの時とはまた事情が違うでしょうに"
人材不足ほど組織にとって痛い事はない。仕事はあっても何も出来ず、時間経過と共に職務は溜り、足りない部分を補う為に働き手を消耗させるデッドレース。カルデアはマスターが派遣される特異点でも、その本部でも、人の分まで酷使される誰かがいなければならない。
〝しかし、となればローマ各地で暴れている今の反乱軍残党に、狼さんは参戦していないと言うこと。あのトンデモ忍者と戦えるのはギリでネロさんか、他だと対等に渡り合えるのはロムルスさんしかいません。所長は戦うだけって訳にもいかないですから、ロムルスさんを使えば敵性戦力は削りたい放題です。
ですが、戦略を考える参謀ではありませんからね。
一戦力として出しゃばらず、見守りつつも、今は狼さんの邪魔でもしますか”
戦とは、嫌がらせが巧い者が強い。戦略とは、人殺しに対する粘り強い考え方も大切。
〝けれども、敵地の偵察以外にも目的がある筈です。
それ以外だとオルガマリーは何を狼さんへ命令されたのですかねぇ……”
突如、珈琲一式がテーブルより消える。手品では無く、本当にこの場から消滅した。不死は己が魂に“装備”することで手に持つ道具をソウルの業として扱い、自分の魂の延長として使う事が出来る。岩の如き重厚な甲冑を着込む相手に対し、己がソウルで相手のソウルそのものを害する故に、自分の素手だろうが、それこそ変哲もないおたまであっても、直接的に生命を削り取って殺害が可能となる。
その神秘を考えれば、珈琲一式をソウルの業で一瞬の内に仕舞うなど容易い事。ソウルの業を極点まで極め、更に悪魔からも神秘を学習している灰にとって、後片付けなど一呼吸も必要ない。
「―――…………」
その手品染みた光景を、忍びは
殺せるか、否か―――そう思考する余裕も、灰が相手では難しい。
出来なくはないが、果てして一撃で殺められたかも怪しい。下手をすれば忍殺の一刀を素手で
〝……行ったか。元より剣神の高みを持つ女、忍びの業も……あの悪鬼も、忍術を修めておった”
灰が自分から離れることで、忍びは漸く思考する自由を得た。精神まで常に無を保たねば静かに潜むことも許されない緊迫感など、彼からしても任務達成は度し難い領域の困難である。
忍びが潜む場所―――テラスの端。
そこにぶら下がり、彼は懸垂の姿勢でずっと留まっていた。
「………………」
既に、第一目的以外の任務を忍びは達成済み。ローマの都市の様子を隠れながら観察し、その常識から外れた市民の営みは、戦国の世を生きた彼からしても異常だった。
忍びとて生前は幾度も地獄を垣間見ている。兵士が民間人を虐殺し、敵地の女が犯されながら弄ばれ、領主が領民から食糧を略奪して飢え死にさせ、少しでも逆らった領民を女子供でも拷問に掛け、あっさりと残虐極まる公開処刑にするのが戦国乱世の人間社会。葦名が治める国は、一心が健在の期間ならばある程度は平和だったとは言え、他国の戦地にも忍びとして諜報や暗殺の任を行っていた彼にとって、日ノ本と言う血が染み込む怨嗟の世こそ、業深き忍びに相応しい世界。
正に―――地獄だった。
命が煮え滾る生き地獄としか言えず、鬼も修羅も亡霊も生じるのも当然。
所長に召喚されることで現代を知った忍びが、人間と言う人を殺さずにはいられない畜生がここまで平和になれるのかと、修羅に堕ちる寸前の人斬りとして意外にも、僅かとは言え感動してしまった。生前に仕えた主がこんな時代に生まれていればとも思ったが、不死の業を手に入れようとする輩は戦乱の世だろうが、泰平の世だろうが、欲望を抱く限りどうしても存在する。となれば、やはりどんな時代だろうと忍びは、為すべき事を為すしか道はないのだろう。
「…………――」
それ程の地獄の中、更に忍びと言う身分で戦場を生き足掻き、手に入れた己が意志で戦い続けた彼であっても、ローマ特異点は吐き気がする邪悪だと断じるしかない。
葦名にも人からなった怪異が蔓延ってはいたが、アレらが何なのかは分からない。
神域より流れる水は源の宮に溜り、葦名へと流れ落ち、土地神と竜神が互いを貪り合い、人も神を夢見て不死の探求も行われていた忍びの故郷も、狂いに狂った猟奇的な営みが為されていたが、このローマもまた葦名に負けずに狂っている。
〝既に視界を通じ、主殿へ報じたが……主殿以外に、知らせるべきなのか……”
任務中である忍びが、それを知るであろう仲間に気を配ってしまう程に此処は終わっている。人間の成れの果てによる人外の営みが、神を崇める祭りのように、人を喜ばせる宴のように、街全体で愉しく謳われている。
〝む。いかん……主殿の癖が移ったか。カルデアに呼ばれ、考えに耽る時が増えた”
任のみに専心する忍びの境地は、良くも悪くも彼のマスターによって変わりつつある。滅私の心得は変わらず、むしろより人斬りの境地は血塗れたが、根本的に忍びは
―――無心で在るが、自由で在れ。
カルデアの為や、人理の為に、人斬りの修羅となるのではない。
マスターの命に殉じる傀儡となり、敵を斬り尽くすのではない。
ならば忍びは、命にない部分は彼にとっての最善を尽くすべき。
〝しかし、街を見渡せる此処で……茶を、しばく。
アン・ディール。それ程、趣きの悪しき者であったとは……俺も、まだ目が鈍い”
ぶら下がっていた忍びは、一旦はテラスへ乗り上がる。その擂鉢状に変形した都市の一番真下にある皇帝宮殿は、深き場所にある故に都市全体を見下すように見渡せた。
燃やした薪で命を炭にする火刑。
十字架に張り付けて見世物にする磔刑。
更に磔にした者を最後に焼く火炙りの処刑。
四肢を曲げ捩って太陽神の贄として捧げる車輪刑。
首を何処まで飛ばせるか愉し気に競い合っている斬首刑。
そこら中、市民が思い思いの個性的な、汎人類史より啓蒙された私刑を行う死刑の宴。あるいは、暗きローマを祝う獣の祭り。
〝生きるに厳しい市民まで、悪を愉しむ暇と心が与えられ……だが、如何程までに”
それらを見世物の娯楽とし、欲望の儘に交じり合う人型の肉塊。貪り合う快楽の宴であり、人が人へ人を捧げる人界の祭。命を弄ぶだけでは満たされない。尊厳まで玩具にしなければ、知性を得た獣はより良い明日の為の欲望へは届かない。
忍びがふと向けた先の光景では、火炙りの磔刑にされた人の松明を囲み、数十人が肉欲に酔っている。肉の柔らかい赤ん坊を大鍋に投げ込み、香辛料と野菜も入れ、グツグツと煮込み、食欲を満たす“食餌”として料理人が大勢へ配っている。勿論、赤子以外を食べたい人もいる為、料理人はあらゆる年齢や性別を“食餌”の素材にしている働き者だった。
しかし、これもまた霊長人類の文明である。火とは人類史にとって暗い光でもあった。善き太陽であるだけなど人間性が許さない。人が人を喰らうしか生きられない飢餓の生き地獄を忍びは知っていたが、ああも人間が積極的に愉しめる素質を持つ獣であるとは、生前の彼であっても見た事がない狂気の悪夢である。
〝悪性情報……で、あったか。主殿の見解では”
この特異点は―――終わっていた。
七つの特異点の中、最も闇深き異界と化していた。
人類史の情報が奈落に堕ちるように、このローマと言う大窪みに流れ落ちている。聖杯の内側と同化した都市は、数千年間記録された人類史の悪意が、その情報が雪崩れ込んでしまっている。空に浮かぶ光帯と合わせ鏡となるように、人類史の情熱に不要とされる情報が映し出され、熱量のない廃棄物として溜る特異点の塵箱となっている。
獣であれば―――自他の魂を陵辱して何が悪いのか。
交じり合うことが魂の歓びであり、他の魂と触れ合い、温まり合うことが人の悦び。老若男女、全てが魂にとって娯楽の一品。拷問はとても良いことだ。処刑は市民の娯楽。悲鳴に心が癒え、命が花火のように消える刹那、その儚い瞬きこそ、本当の人間の様が映るのだと。
倫理など燃え尽きる。道徳など廃棄処分。市民にとって“魂”の憩いの場となったコロシアムでは、あらゆる創意工夫を凝らした人類史の大祭りが毎日開催されている。
だが――――死ねず。
死ねないのだ。誰もが死ねず、このローマでは誰も死ねない。
こんなにも殺されていると言うのに、死にたくなろうとも、眠りに就けないが故に狂宴の騒ぎ。命を燃え尽きようとも、魂が祭りから逃れる事は決して出来ない。ローマの為政者は市民の為に魂を
死なず、など簡単だった。矛盾を許さない潔癖な世界の仕組みを理解すれば、あっさりと可能となる地獄。
〝霊魂の在り処など……俺は、分からぬ。だが此処は、惨い世だ”
声を発すれば、誰に聞かれるか分からない宮殿内部。忍びは無言無音を維持し、ローマの街を見渡せるテラスから離れ、更なる内部へと潜入していった。
「………………――」
しかし、此処はとても静かだった。狂宴が謳われる都市と比べ、暗帝が安らぐ宮殿は物音一つしない。だからこそ、人が歩く足音は良く忍びの耳に聞こえ、呼吸音も耳を澄ませば聴こえ、更に凝らせば心臓の鼓動音も可聴域に入るだろう。
両眼を凝らしながら、犬以上の嗅覚を働かせ、聞き耳もして忍び歩く彼は、殺意と気配を容易く察する第六感覚も常に全開。羽虫は一匹見逃さず、サーヴァントを構成するエーテル一粒を感じ取り、必要とあれば無拍子で忍殺可能な体勢を維持している。
更に忍びは所長から豊富な魔力を供給されている為、死人の残留思念である形代も溜めて置きつつ、サーヴァントになる事で得た“魔力”と言う新たな忍術の燃料を温存しておける。加えていざと言う時、月隠の飴も幾つも懐に常備しているので、彼の潜入活動はこれでもかと準備万端な状態で行われている。
一抹の焦りが敵からの発見に繋がる。心理的な余裕により、十割全てを隠蔽作業に専念することが出来る。そう理解する忍びに油断も慢心もなく、他者の精神を見通す千里眼の持ち主でも発見は非常に難しいだろう。
「――――?」
「ふんふん、フフ~ン……ふふんふんふーん……」
疑念を得るのも仕方ない。忍びの視界に、何か居た。忍びは鼻歌を上げて人生をこれでもかと謳歌し、幸福一色に染まる笑顔を浮かべる暗い女を発見した。
「…………おっと、鼻歌はいかんな。子供ではないのだ。誰かに聞かれたら、余とて恥ずかしい。
しかし、こうも満たされた日々だと、自制しても自然と独り言が漏れてしまうとは。全く以って、我がローマは最高の国であるな」
布を全身に巻いたような衣装。ローマ文化のとても優雅な服装であり、それは皇帝が着用するトガであった。麗しい意匠であり、シンプルな形であるため暗帝の素晴しい肉体美を魅せる立派な道具でもある。
だが、まるで童女のようでもある。日々に疑問を持たずに日常を楽しむ子供の様子である。何も知らない者が見れば、思わず微笑んでしまうような雰囲気。
〝――――――――”
滅私の暗殺者でなければ、あの様を喜ぶ人の王を見れば、抑えていても怒りの念を僅かでも漏らしてしまうだろう。暗帝の明日を生きる幸せな声を聞いた瞬間、如何にランクが高くとも気配遮断が露見していた事だろう。
忍びは顔色を変えず、精神さえ何一つ動かさず、静かに環境と同化している。
殺気を漏らす前に忍殺へ移行する彼であれば、そもそも人を殺すのに殺意と言うスイッチさえ不要。
「……………」
しかし―――殺せぬ。
「コロシアム……そうよなぁ、今日はあちらに行こう。余のローマ市民も喜ぶだろうしな」
数多の死なずを殺してきた忍びは、暗帝を殺し切れる確信が一切湧かない。愉しそうな姿を見せる暗殺対象を忍殺することは容易そうだが、楔丸で心臓を穿ち、首から脳ごと頭蓋を穿ち、首を斬り捨てたとして、暗帝が死ぬその姿を忍びの目では見通せない。
背負う赤き不死斬り―――拝涙の一刀で、さて魂から命を奪えるか。
奪いし黒き不死斬り―――開門の一振り、暗い魂の不死に通じるか。
だが、通じたところで灰に居場所は察知されるのは必然。神祖にまで露見すれば、逃げ出すのは不可能となり、死に戻るしか術はない。そうなれば第一目的となる任は未達成。あの灰の女が歩き去った方向を忍びは確認し、恐らくは自分の命じされた内容が悟られてもいないと判断でき、彼は我慢した方が得策だと結論に至る。何より、この場にいるのは暗帝だけではなかった。
「そして……―――歌唱と演劇。
娯楽の予定が盛り沢山。皇帝は皇帝をするだけで、実に忙しいものである」
爛々と、ランランと、愉し気に、面白いと、死に損なった暗い女は謳う。ちゃんと死ぬべき時に自分を殺せなかった間違いを犯した皇帝は、ずっとずっと大好きな自分の歌を歌い続ける。
「貴様もそう思うのだろう――――?」
暗帝は、暗闇の陰に声を掛けた。愉しそうな音で、まるで謳う様に。
「気が付いていたのか?」
「無論だとも。独り言で唄まで歌うか、普通。観客あってこその演劇よ。それで貴様は余の女神が客人として招待していた……あー、すまぬ。姿は分かるが、名まで聞いておらんかった。
余の女神は戦神やら無名やらと言ってはいたが、名までは呼んでおらんかったからな。余も聞き忘れ、今まで知らんままだった」
「構わぬ。もはや名は燃え尽き、この魂は既に燃え殻の暗い薪である。だが今は英霊召喚の術式を使い、戦神を憑依した不死として葦名でサーヴァントもどきを興じている」
「そうか……そうか? ならば、何と言えば良いのだ?」
「戦神とだけ、名乗っておく」
「ふむ、戦神と。で、貴様はもう国へ帰ったのではなかったか?」
「予定では。葦名で原罪の探求者が生み出した人造ドラゴンの使役に、あの灰を手伝っただけであるからな。しかし、我とてこのローマは興味深い人界の成れの果てだ。
暗くとも、太陽は太陽。欺瞞の光なき人の本性。
日の光に照らされた人間の世界、その終わり……―――見届けねば、なるまい」
「そうかそうか! で、あるか!! ふふふ、ははははっはははははははははは!!!
貴様の言う通り、このローマは演算された人間性の最後の最期。その一つの終点が具現せし特異点。魂の儘に、不死となった知性体がどう成り果てるのか……その結末が、ローマ市民に降ろされた終極だ」
「…………………これが、か?」
「然様だ。しかし、この様を見て貴様は悲しむのだな?」
「…………………」
「良いのだ。人の魂にとって、自分達の魂がこれ程までに湿り気のある汚物であったと理解すれば、憐憫を抱くのも必然である。
だが悪性情報は燃えても消えず、燃え殻となるのみ。消えずに、永劫の魂に粘り付く。
貯め続ければやがて知性は獣性となり、不死ならば命の価値を解さず、最果ての人間は余のローマ市民と同じ営みに辿り着く」
不死の答え。その一つが、ローマの姿。戦神は自分達のように枯れずに欲望まで腐れた場合の、死なずの営みが如何なる結論に至るか理解する。恐らく仮想された幻想にソウルが塗り潰され、灰が光帯より映した三千年分の悪性情報が坩堝となって、だが確かな不死として繁栄を選んだ悪の答えでもある。
「そうか。太陽では、そも救えぬのか……」
「救える可能性のある未来もある。だがな、欲望を枯らすことも出来ぬ未来の果てが、このローマ。死を忘却した魂に与えられた闇の底。所詮は英霊の階位に至れず、故に暗い闇となれず、汚濁に犯された魂に過ぎん。
つまるところ、光帯さえ焼き尽くせぬ人類史の悪しき情報から記録を写し、故に不死市民となることを許された特異点である」
「説明、有り難い。感謝する、ネロ・クラウディウス」
「良いのだ。貴様は客人故な。それも余の灰なる女神の友であれば、どうか余のローマを納得してから御帰り願いたい。
この様とて、棄てるべき愛と希望を焼いて灰に出来ず、そのまま行き止まった末路。
蕩けた汚物に腐らせてしまった、どうしようもない
暗い人影さえ見えない陰の中、忍びはフランスで邂逅した戦神を認識する。あの時よりも人間味が増し、凶悪なまでの存在感が更なる高次元に至っている。サーヴァントの気配は一切せず、灰と同じでそこらの魔術師でしかない気配。魔力も並の一般人程度であり、だが探れば底無し沼のような魔力量が潜んでいる。
なのに、今の戦神は―――人間だった。
亡者で在る故の、一人の簒奪者だった。
正しく魔窟。下手な真似一つ許されない敵陣の中心地。忍びは戦神が自分に匹敵するか、それ以上の技巧の持ち主である同時に、神域の桜竜と相対した時以上の圧迫感を感じ取れていた。
「そうか。では、貴公のローマに栄光あれ」
「うむ。さらばだ」
客人として完璧な礼儀作法。戦神は敬うべき相手には頭を下げ、この世界の主である暗帝に一礼をする。その礼儀正しさに彼女も一人の皇帝として答え、尊大に別れを告げる。ここは宮殿の廊下であり、謁見の間でもないが、もはや暗きローマに王宮の常識は通用しないのだろう。
暗帝が良いのなら、それで須く礼儀の所作。戦神も軍神の子に熱を上げる彼女と会話を行うには、廊下ですれ違うのが一番ある意味で“礼儀正しい”と理解し、暗帝の機嫌を一切損なう真似をしなかった。
「――――――――」
そして、忍びは完璧な陰となって潜んでいた。身動き一つ、呼吸一つ、瞬き一つ、発汗一滴、あらゆる動作が許されない緊張。
聞こえるのはそれぞれ別方向へ離れて行く二人分の足音。
動けば―――死。剣槍で串刺しにされ、細胞全てを雷電で焼き尽くされる。
もはやフランスの時の数十倍か、それよりも上の、忍びの感知能力でもはっきりと見抜けない濃密な強さ。
生きる神を容易く弄り殺せる戦神の膂力と、技量と、魔力と、神秘と、それら全てを合わせる技巧の冴えは人間でしかないのに、人域を遥かに凌駕する高次元存在へ進化したその最果てで、人間こそ最も地上で存在してはいけない化け物である事の証明でもあった。この世で人間だけが、人も神も魔も喰らう貪欲な怪物であるのだと。
「――――――っ………」
装飾が多く、廊下も広く、隠れる隙間は十分に存在する。さり気なく大きな壺の中に身を潜めていた忍びは、そこから顔を少しだけ出し、周囲を一瞬で確認。心眼(偽)としてサーヴァントの技能としても発露している第六感覚ならば、鋭く霊的な気配も探れ、その上で視覚でも確認すれば十分以上の安全が確保できる。
暗帝と戦神は、足音通りにこの場から過ぎ去った。
忍びは溜め息を吐きたくなる気分となった精神を縛り上げ、最大限の緊張感を維持する。気を僅かにでも抜けば、一瞬で何かしらの探知に絡め取られるのは理解している。
「……………―――!」
飴を口に放り込み、壺の中で
忍びは、更なる隠密の深みに至る。気配殺しは存在感を零まで薄め、音殺しは心音と呼吸音も失くした。忍術としての極みにより、例え刃で殺されても忍びを認識することは非常に難しいだろう。
〝なるほど。それが、死なず共の姿。死なすのに、不死斬りであれば万全。
楔丸も化けた今の俺の刃としてならば……確か、主殿曰く、概念武装であったか。加え、主殿の業で鍛えられし、血染めの妖刀でもある”
ローマ市民が葦名に蔓延っていた不死の類のであるのは見抜けていた。だが何を源にする不死性かは、学術者でも魔術師でもない忍びでは神秘から探れない。しかし、暗帝の語る話を聞き、忍びでもある程度のことを悟ることが出来た。
〝英霊であるさぁばんとの宝具ならば、城下の物の怪は斬れよう。だが……あの暗帝は、また死ねぬ領域が違うか”
サーヴァントならば問題はない。念話で忍びはマスターに盗み聞きしたこの情報も送った。決戦時にローマ市民の殺害が必要となった場合、英霊が宝具を神秘で神秘を叩き潰す概念武装として振えば、復元呪詛と言う不死性を持つ死徒を殺す様に死なせる事が可能性がある。
しかし、あの灰は兎も角、暗帝の気配が持つ不死性は死徒の領域からも遥か別次元。時間逆行で傷を蘇生する死徒以上の蘇生能力を持つ市民でも、サーヴァントの宝具であれば対応可能かもしれないと言うだけの話。不死斬りで命を奪い、魂が死んでも生きられるのなら意味がない。とは言え、まずは斬って確認しないと話は始まらないのも事実。
恐らく暗帝はそこまでの不死ではないと思うが、忍びはまだ何かしらの妖術が潜んでいるとも感じ取れている。
「……………―――」
しかし、考察はそこまで。無音の呼吸も、もう整えた。気配殺しを万全に為せたならば、まずは思考よりも任務を優先しなければならない。
壺を壊さず倒さず、されど素早く脱した彼はまた廊下を進み出す。向かう先は暗帝が歩いて来た方向と同じ場所であり、暗帝が去った方向と、灰が向かった方向とも正反対。
「――――――」
戦神と暗帝をやり過ごした後、忍びにとって問題はなかった。巡回する兵士や働いている侍女はいたが、それらは忍びを認識する知覚さえ持ち得ていない。他のサーヴァントは戦場に出ており、宮殿に待機もしていない。カルデアや反乱軍残党が各地でローマ軍と戦っているため、暗帝陣営側のサーヴァントも多くが出払っており、忍びの警戒に値する他の者たちはそもそもこの宮殿に存在しないからだった。
〝救出の任。潜れば必ずや、あの灰には悟られる……”
目的地の扉の前。忍びは最後に罠があるか観察し、何もないことも悟る。鍵は掛っているが、魔術的な警報装置は仕掛けられていない。ならば、無音にて一刀を振えば事足りる。
〝……しかし、居る事だけは早目に知らせておけ。さすれば此方の狙いを羅馬の聖杯だと、灰に誤認させられる。
まこと……恐ろしき、眼力の鋭さ。主殿の瞳は、何処まで見抜くのやら”
全てが、所長の意の儘に進んでいる。灰の思考回路の裏を盗み進めるのは彼女しかおらず、敢えて忍びの潜入を僅かな疑念程度に悟らせることで聖杯の方に向かわせ、反乱軍残党にとって最も必要な者をローマの奥底から奪還する。フランスや冬木で聖杯を見付けた時の様に、暗帝の中に聖杯が融け込んでいるとカルデアと反乱軍は考えているかもしれないが、所長はネロの中に聖杯がないことを瞳で秘匿を破り、そして灰は所長が見破った事も見破っていると判断するのが自然な思考の流れ。聖杯を破壊すれば特異点の楔を一つ破壊されることになり、カルデアは特異点消滅の一歩手前まで近道が出来るならば、灰が忍びの目的を聖杯簒奪を考えるのも効率的な思考の予測である。
だが、聖杯だけを破壊する事に意味がない事も、ローマを見た所長は理解していた。それは後で全て始末することで問題を解決させる。ならば、次善の一手が実は最善の策。
灰を惑わせる事が、忍びの任務達成に一番重要。彼女に姿を見せれば任務失敗となるが、居るか居ないか、もう去ったか如何かと言う絶妙な境界線であれば、灰は敵の侵入を周りに知らせるような事はしないと人格の歪みまで考慮し、その迷路を紐解いて正解を導き出した。
何よりも、恐らくは一人で忍びと殺し合いたい筈。それも気配遮断した忍びを見付け出すとなれば、灰にとっても存分に自分の業を鍛える好機にもなる。あの女が態々、自分が強くなれる鍛錬の時間を誰かの為に潰す訳もない。だがそもそもな話、鬼ごっこが大好きなのだ。隠れ潜む敵を暴き出し、見付けたら何処までも追い駆け続け、背後から刃を突き刺し、ソウルを最後の一滴まで貪る。それを嫌うのであれば、火を簒奪する暗い穴など自分に穿ちはしないだろう。
「――――――――」
抜刀、一閃。金属を斬る音はなく、空気を裂くも音もなし。無音の斬撃によって忍びの眼前にある扉の鍵は壊れ、彼が少しだけ押せば静かに扉が開いていった。
「………ッ―――」
どのような姿かは分からない。洗脳されているかもしれない。狂っていない可能性も低い。だが、捕えられたのならば生きている可能性は高い筈。
反乱軍総司令官―――セイバーのサーヴァント、アルテラ。
任務における真の目的であり、良からぬ器具に裸体で拘束された女の名前であった。
彼はマスターから彼女が捕えれた目的の一つに、あのネロが悪徳に溺れた場合ならば、と啓蒙的な予想を教えられてはいた。しかし、こうも淫らな縛り方をするとなれば、これが捕虜の拘束以外の意味合いを持つことを察するに容易い状況。
即ち、人間の情欲を掻き乱す飾り付けであり、女体を題材とする芸術家の生きる作品。戦国の世にも拷問に酔う輩や、公開処刑に昂奮する群衆なども忍びは見てきたが、これはそう言う人間性の醜さとも大きく乖離した芸術的な性の品性だった。だから、認めるしかない。善悪はどうあれ、芸術家が縛り上げるアルテラの姿は、色欲を持つ全ての人間が美しいと認めるしかない性の観賞品なのだと。
思わず、忍びが自分が男として生まれた事に罪悪感を覚える程―――美しく、麗しい。
滅私の心得を持つ彼だから、手を伸ばして肉体美に触れるのを容易く抑制出来るだけ。
両腕を磔にされ、全身を縛り上げられ、暗闇の中で呼吸する姿を、見た者から憐憫よりも深い美の感動を引き出す暗帝の感性が暗く極まっていた。あるいは、暗帝がその手に掛ければ全てが色と性の芸術となり、肉欲を纏わせ、理性を狂わせる冒涜的魅力を啓蒙するとも考えられた。
〝―――欲に、溺れたか。
あのネロ殿が自分殺しを願う程だが……確かにこの様、見てはいられぬ”
あの暗帝は―――性的倒錯者。忍びの識別としては、
だが殺人癖はない変態性であるので、ある意味で遥かに上等な部類の変質者であるとも忍びは理解していた。捕えた理由の一つに、恐らく戦場でその美しさにでも一目惚れをしたのだろう。
「またか、暗帝……っ――――いや、お前は……誰だ?」
傷は無い。霊基も無事。しかし、魂を穢されている。不死斬りを振う為に命の核を見通す忍びは、遺魂の残留思念を形代として視覚化するように、霊的な淀みもある程度は感知する第六感を有する。その為、救助対象であるサーヴァントが呪いとも言えない生きた思念に塗れているのを察知する。
忍びの見立てでは、容易く正気は削れ、色欲に呆けるのが道理。忍びとて無の境地を許するも、仏の如き絶対の悟りを持つ訳ではなく、意志を蕩かす情熱を我慢出来るが拒絶可能ではない。とは言え、この忍びであれば、慣れれば情熱を拒絶する精神性も得られる可能性もあるのだが。
「カルデアのアサシン……お主を、助けに来た」
「何……カルデア……あぁ、そうか。お前が……?」
「あぁ。故、拘束を斬る。動かぬように」
「―――頼む……」
直後、楔丸を抜刀八閃。拘束の魔術式が込められた縄を、魔力ごと霧散させて切り捨てる。腕の拘束、首の拘束、足の拘束、腰の拘束、股の拘束、胸の拘束が斬り落ちる。よって、アルテラを空中に飾る為に支えてもいた縄がなくなり、彼女も地面に崩れ落ちるのが自然。
「………すまない。助かった、アサシン」
「………………」
その彼女を、忍びは生身の右腕で優しく受け止める。まるで赤子を抱える父親のように、何の衝撃も与えない思い遣りに満ちた扱い。アルテラは体を一切動かすことが出来ないようで、一人で立つことも不可能で、全体重を忍びに支えられている状態だ。
〝霊体化は出来ぬ。武装も……纏えぬ、か。魔術とは、厄介な……”
触れたことでアルテラの霊体を忍びは把握した。呪詛と魔術により、サーヴァントとしての機能を大幅に制限され、身体能力も殆んど生身の人間と変わらない。これでは拘束から脱しても逃げるに逃げられず、一人での脱走は絶対に不可能な体にされている。
筋肉もまともに動かせず、もはや這い蹲って移動するのが限界だった。拘束を斬っても、内側の魔術式を破戒しなければ意味はない。だが忍びは魔術は使えず、解除の神秘を持ち得ない。勿論その術式を楔丸で斬ることも十分に可能ではあるが、ここまで禍々しいと霊基より深く魂自体に粘り憑き、霊基もある程度は裂かないと斬り捨てるのは不可能。あの暗帝ならば、術式破壊によって作動する罠が更に仕込まれている可能性も高い。
結論として、安全な場所で解除するしか方法はない。そもそも灰も関わっていると予測出来るので、魂の内にも罠があると考えると、呪詛と術式を抹消出来るだけの忍びでは危険極まりない。
「寒かろう……これを貸す」
「あぁ、すまない。感謝するぞ」
「………――」
アルテラの礼に忍びは頷くだけに止め、橙色の衣を彼女に被せた。裸体に上着が一枚と言う格好ではあるが救出中、常に全裸でいるよりも遥かにマシだろう。そして、動けない彼女を背負うべく、サーヴァントとして宝具である不死斬りを霊体化させて装備から外す。流石に大太刀を背中に持ったまま、人を後ろに抱えて移動出来ない。
そして、忍義手の鉤縄修繕用に隠し持つ頑丈な縄を懐から忍びは取り出した。必要な事とは言え、先程まで縛られていたアルテラに使うのは忍びも心苦しいが、だからと言って最善を尽くさない訳にもいかない。
「建物を、跳んで逃げる。背中に縛る故、我慢せよ」
「分かった。私は手も……余り、動きそうにない。なるべく、強めにしてくれ」
「あぁ……」
背負ったアルテラの両腕を忍びは自分の首に回して手首を結び、そのまま彼女の胴体と自分の胴体を縄を器用に結ぶ。赤ん坊を紐でおんぶする母親のような姿であったが、両手を自由に使って移動するのは最も効率的な運び方だろう。
脱出の準備は整った―――その瞬間、二人の足元から青い印が空に浮かび上がる。
とある奇跡による敵意の感知ではあるが、救助の為とは言え隠密を解いた忍びではなく、恐らくは心身が衰弱したアルテラの微かな敵性に反応してのだろう。
余りにも隙間のない絶妙な―――精確無比の、タイミング。
少し遅ければ、既に忍びは次の行動に移っていた。少し早ければ、この奇跡は誰にも反応出来なかった。所長の考えも少しは見破れており、だがそれでも僅かな聖杯奪取の可能性を摘む為だけに、灰は所長の策に乗ることを良しとした。
どちらでも良かったのだろう。忍びと遊べるのなら―――成否など。
「あ、あ、あぁ………灰、あの灰……アッシュ・ワンだ。奴が来る、カルデアのアサシン。
この魔力、枯れた人間の本性。こんな悍ましい存在が……人の中にいるなんて、駄目だ……駄目だ……太陽の光からは、逃げられ……逃げられないぞ…………」
「……………」
魂を震え上がらせる英霊の嘆きの声。恐怖ではなく、絶望でもない。膨大な魔力もなく、感じられる神秘も並の魔術程度だと言うのに、そんな計測数値に価値はない。魂を持つ知性ならば、簒奪者で在る事を剥き出しにした灰の存在感に呑まれるしかない。衰弱したアルテラの意志が、その震えを抑えられる訳もない。
それを耳元で聞き、珍しく彼は一秒以上も決断をするのに思考した。さて、逃げるか、隠れるか、戦うか。選ぶは三択の未来。
結論を出した直後―――手裏剣を、忍義手より窓へ投げた。
覆っていたカーテンを回転する独楽手裏剣は抵抗なく芝刈り機のように斬り落とし、窓の硝子も音を上げながら粉砕。その騒音が鳴るよりも忍びは既に走り出し、割れると同時に皇帝宮殿の外側にアルテラごと身を投げ出していた。
「――――ぁ……」
暗き影の如き重さの無い――――超疾走。
いや、影も追い付かない迅速さか。アルテラが漏らした感嘆の音が、その空間に置き去りになった。だがこの忍びこそ、葦名にて剣聖に隻狼と呼ばれた一人の達人。縦横無尽と言う概念を体現する身の軽さは、薄井の忍びの中でも超一流。
「……ッ―――――――!!」
全身隈なく、全力全開で魔力を回す。
もはや隠密行動に一切の意味は無し。
地を走り、空を駆ける。地上空中を自由自在に足場とする故、誰も忍びの陰影には追い付けない。空中を飛ぶ魔物であろうとも、彼ならば翼がなくとも対等に渡り合える忍びの体術を修めていよう。
更に生前とは違い、人外の化生であるサーヴァントの身体能力を手に入れ、魔力と言う身体機能を上昇させる動力を自分に付与出来る。それを応用すれば、宝具化した忍義手の能力も生前よりも跳ね上がる。良くも悪くもサーヴァントになる前の彼の肉体は、回生を除けば、極限まで技巧を鍛えた只の人間でしかなかった。
故に、空中もまた忍びの領域。義手より伸びる鉤縄が建物に突き刺さり、地面を跳ねるように一瞬で方向転換をしつつ、次の足場へ緩やかに着地する。
十秒もせずに、アルテラを背負った忍びは宮殿から大きく離脱に成功。
ソウルによって質量を得た悪性情報で概念的にも物理的にも陥没した都市の上空に逃げ、後はもうこの大穴を駆け上がり、外側に闇を抑える蓋として植林された神祖の森を脱出するだけだ。
〝……来たか、アン・ディール”
宮殿屋上に、何も無い空間から唐突にヌルリと出現する灰を確認。
〝オルガマリーとの化かし合いは、先が読めても負けるしかないからいけませんねぇ……フフフ。
さて、でしたら如何に背後から殺して上げましょうか。フランスを経て、葦名で皆さんの火で温めた私の最初の火でしたら、より良い雷鳴をローマに轟かせる事が可能です。
私の瞳によって自動追尾する最大火力の太陽の光の槍で……あぁいや、駄目でした。葦名で巴流を打ち破った忍び相手に、神雷は慢心の極みでしたか。いけませんね、試してみたいからと好奇を優先するのは”
最初の火を動力源に錬成炉を使い、悪魔殺しのソウルから錬成した古い獣のタリスマンは、奇跡も魔術も等しく使える触媒の極点。灰のいた世界で作られたどの触媒よりも、ソウルの業に相応しい神秘を有する道具。それと呪術の火を同時使用すれば、魔術、奇跡、呪術、闇術の全てを最高火力で解き放てる。
となれば、呪文を切り替えるだけで良し。
ギュルリギュルリ、とソウルと魔力が凝縮する独特の唸り。己がソウルだけでなく、灰は魔術回路も全開にする。
〝葦名での探求はこのソウルにとって、最初の火と並ぶ原罪の一つでありました。
それを魅せるのが狼さん……カルデア相手ですと貴方が最初となり、私にとって実に幸運な展開です”
古い獣と葦名で出会うこと灰は、そのソウルの原罪を灰の魔術師として理解する。だがそれだけではなく、この世で魔術回路を得た魔術師として、獣の権能を魔術基盤としても見出した。自分が持つ“最初の火”を、そうやって個人が独占する新しい魔術体系としても暴いた様に。
ならば魔術師としても“ソウルの業”と言う魔術回路で使用する魔術体系を、実は既に悪魔殺しも灰同様に確立させており、誰も知らぬ魔術基盤も同じく獣のソウルより奥底まで見出していた。不死の使う呪文もまた、魔術理論を組み立てることでソウルの業とは別使用可能。
新たに魔術基盤を作るなど、根源より人間には許されなかった筈の法則を世界に持ち込んだ魔法使いとあの“
「解放されよ―――
悪魔が持つタリスマンが最上級の本家とは言え、その悪魔から錬成した御守も灰からすれば自分の理力と奇跡を限界を超えて呪文に繁栄させる至高の概念武装。神が相手だろうと容易く木端微塵にする対魂魔術であり、回生が持つ蘇生のストック全てを一気に奪い取る可能性も十分以上。更に、それらは指輪によるフルブーストが掛けられた。
物理的な火力も対戦車狙撃銃を超え、戦闘機を撃墜する対空砲撃を超えるだろう。
ソウルの業を司る魔術の祖―――白竜シースであろうとも、最初の火を簒奪した今の灰には神秘が及ばない。
「―――――――ッ!!」
背後より追尾する刹那後の死。軍神の剣に並ぶ火力であり、しかし魂に対する概念的な破壊力は何倍程度なのかも測定不可能。しかも、宝具の真名解放よりも遥かに短時間。アルテラは英霊殺しなど灰からすれば、言葉一つで行える作業でしかないことを正しく理解してしまった。
だが、悲嘆など忍びにする慢心は非ず。そもそも殺意に満ちた遠距離からの狙撃程度に対応出来ないなど、薄井育ちの忍びに許される訳がない。
結晶槍の直撃―――否、それは霧がらすのぬし羽だった。
燃え上がる土地神の羽を貫き、陽炎となって忍びもアルテラも空中から消え去った。
「――――ん……ッグ、お前は一体……?」
「ぬし羽の霧がらす……忍術の一つ。疑問は、後に答える」
着地の衝撃で唸り声を上げるも、あの絶対的な死を回避した忍びを僅かにだが恐ろしく思う。如何程の修羅場を潜り抜ければ、あれ程の技巧に辿り着けるのか、軍神の子である彼女でも朧気な予想しか出来ない。忍びは思わず出たアルテラの質問に答える時間も惜しいが、行動しながらならタイムラグはない。
同時に、無理な忍術で少しだけ縄が弛んだ。一秒でも時間は惜しいが、それを惜しんでアルテラを落下しては救出任務の意味はない。
「そうか。すまない……頼むぞ……」
「あぁ……任せろ」
よって簡潔な答えだけを縄を締め直しながら喋り、直ぐ様に都市内部の疾走を開始。
〝あれで通常霊基のサーヴァント、なのですかね……?”
完璧な逃走経路を走り抜ける忍びを背後から観察し、灰はあれが自分に出来るか疑問に思う。長生きした仙人の領域を超えている忍術を容易く使うのを見ると、体術と忍術の鋭さを是非とも学びたいと灰は探求心が無尽蔵に湧いて来る魂の実感がある。
〝私なら盾で弾き返すか、大盾に魔術を施して受け止めるのですが。しかし、アルテラさんは別に殺した後で蘇生すれば良いと、彼女ごと仕留めにいったのに失敗とは良い結果です。まことの強者は此方を上回ってくれて、長く楽しめますからね。
けれども、この一手で終われなかったとなれば逃走を許してしまうでしょう”
その予感が数秒もせず、あっさりと的中する。
「―――アァァルテェラぁぁぁああああああ!!
余の宮殿から逃げるとは、まことに何事であるかぁ!!?」
双頭の蒼白い騎馬に引かれる戦車に乗って、暗帝はローマ上空を感情の赴くままに爆走を開始する。魔力が空間を爆散される轟音と、発狂蒼馬の嘶きが、狂宴に騒ぐ全ての市民の耳に入る。
暗いローマの空を切り裂く一筋の蒼き流星。
その青さは人に貴さを覚えさせ、暗帝の暗い輝きに溢れ、市民の蕩けた瞳を覚ますには十分。
「あ”―――――あぁ~あ、もう全くネロさんは考えなしですねぇ……」
独り言を思わず漏らす程に、灰はこの状況を作った忍びと所長の思考回路の深さを賞賛する。まだ狂宴の最中であれば普段の事なので忍びを見付けるのも可能であった筈。
だが暗帝を目にしたローマ市民が、更に騒ぎ出すのは―――必然だった。
「うわぁあぁあぁあ、皇帝、皇帝、暗黒皇帝、暗帝陛下!!!」
「見給え、王の星がローマの曇天を切り裂いているぞ!!」
「燃やせ燃やせ!! 人間よ、魂よ、ローマを照らせ!!」
「宴じゃあぁああ!!! 食餌をもっと喰えぬほどに盛れ!!」
「犯せ! 犯せ!! 犯せ!!! 犯せ!!!!」
「ローマは空にある……ッ――――!! 皆も輝ける星の涙を共に流しましょう!!!」
「暗帝万歳!!! ネロ万歳!! ローマ万歳!!! 皇帝よ、どうかお導きよ!!!」
天を煽ぎ、涙を流す市民の絶叫。ネロの声を聞き、姿も見て、魂が絶頂に登って帰って来れない猟奇的奇声。
「ヌゥゥ……ッ―――ぅうううう! 抜かった!!
ローマ市民が余を見れば、歓喜の余りに宴を盛り上げるのが道理!!」
上空の戦車から都市を見下ろしても、アルテラの影一つ視界に映らない。探知も出来ず、潜んでいるのか、走っているのかも把握出来ない。灰が敵意の感知をするのも良いが、これ程の熱狂の渦に巻き込まれると、市民一人一人の熱意が容易くアルテラの気配を完璧に隠してしまう。
壮絶なまでの―――怨嗟の貌。
憤怒であり、情欲である暗過ぎた恋心。
情熱が冷えることなく、粘り“憑”く執着心に変換された瞬間だった。
これを即行で解決するには賢者に聞くのが一番。暗帝は一瞬で宮殿屋上の上空まで高速移動し、何の躊躇いもなく街を見渡している灰の近くに飛び降りた。
「アッシュ・ワン、余の女神よ!!
余のアルテラが……か弱きアルテラが何処にいるか、そなたに分かるか!?」
「分かりませんね。これですと、都市部の何処から神祖の森に逃げ込むのかも……―――やはり、感覚を凝らしても見当たりません。
ローマの感知結界網も狼さん相手では、さっぱり役に立ちませんから。
それにどうも、これは此方の不手際でもありますが、アルテラさんは少し衰弱し過ぎです。サーヴァント特有の気配もせず、恐らくは狼さんの方でも既にアルテラさんに隠密の施しをしている模様です」
二人して葦名特産品の、仙峯寺が卸す
「ヌ、ヌヌ、ぬぬぬ……ぬぅ―――駄目だ。余からアルテラをどうしても探れん!」
「でしょうね。その対策をしない方が、敵としてお粗末過ぎますから」
ローマ側が用意してある探知手段全てを無力にされ、探る術もきっちり白紙に塗り潰す。そもそも狩人相手に受け身なる方が悪かったと灰は理解し、如何にして取り戻そうか考える。数秒の間、加速した体感時間であれば更にその数十倍の時間を使い、思考回路の海に意識を飛び込ませた。
その結果―――諦める事が一番だった。
神祖の森を管轄しているのはロムルスではあるが、今は戦場で反乱軍狩りをしている最中。令呪で呼び戻せるが、既にもう都市部から脱出している可能性もあり、神祖森林区画も走り抜けてしまうのも直ぐだろう。そもそもロムルスは戦場でガトリング銃片手に暴れ回る所長を抑え込む役目に没頭中。彼を戦場から離せば、ローマ軍は一時間もせずに蜂の巣だ。所長がヤーナムから持ち帰り、更にカルデアの技術部で改造された銃火器となれば、如何足掻いても死に尽くす無惨な戦火を敵に撃ち込むのみ。
「とのことで、もう諦めませんか?」
「―――ハ?」
瞳から光が褪せ落ち、一瞬で彼女は絶望感に支配される。灰がそう呆気なく諦めると言うと、本当もう手段がないのだと悟ってしまった。
「わ、凄く怖い顔ですね」
「当然だ! 貴様、アレだぞ!! アルテラが逃げるのだ!?」
「死なずであれば、また会えましょう。今回は諦めますが、獲物を逃すのを諦める必要は皆無ですから」
「む、むむ、ムムムムムム―――……はぁ、今夜の営みが。
それはもうスンゴイモノを、一か月分の精力を使い程の内容を準備したと言うのに。余がこのような罰を受けるとは一体、此処はローマなのに何と言う理不尽であるか!?」
「そうですねぇ……本当、挫けない人ですね」
「心が折れるなど皇帝に在らず。余の情熱は正に永劫回帰であーる!」
「まぁ、不死は輪廻を個人で回帰しますので合ってはいますが……とは言え、人々の祈りより人類愛の結晶は生まれるものです。間違いではないでしょう。
このローマの姿も人類史が紡ぐ愛故に――……フフフフ。
ネロさんは芸術以外にも、人間を紐解く哲学の才にも溢れているようです」
「ふははははははははは!! ははははは、はははは……はぁー本当、好きだったんだがな」
「御酒、付き合いますよ?」
「頼む……愚痴りたいのだ………折角、余の情熱に溶けぬ美女と出会えたと言うのに」
「ネロさんからすれば、自害から生き延びた第二の生ですからね。どうか好きなだけ、思う儘に愛し、より良いローマにして頂ければ、その国営事業には喜んで協力致します。
その上でネロさんがまた情熱を愛せるように、私は己が業を貴方に貸しましょう」
「だが――――嫌がらせはする!
兵たちに追撃の命を出す。どうせ、余の都市にいる衛兵は暇人だからな」
「既に兵は出ている様です。カエサルさんがまだ戦場に出ていませんでしたので、その辺は大変手際良く対処して頂けている模様ですね」
「あー……で、あるな。余のサーヴァントはそうだった。
結界の術式と繋がっているカエサル殿がいれば、あの忍者マスターとアルテラの位置は分からずとも状況を察し、とっとと対処しているよなぁ……」
結界とラインを繋げている暗帝と灰は、そこを総合的情報履歴閲覧記録としても応用している。カエサルの素早い処置で人海戦術で索敵はされてはいるが、それでも手遅れ感が凄まじく出ている。
「――――で、女神よ。
混沌の聖杯は無事であったのか?」
「無事でしたよ。しかし、この世界の主であるネロさんから隔離し、特異点を維持する別機関として聖杯を使っているのも、所長に姿を肉眼で確認されると見抜かれていましたね」
陥没したローマの奥底の、更なる地下深くに封じられれた魔神柱の特大魔術炉心。都市部に流れ落ちる悪性情報が最後に集まる奈落であり、人類史の記録が物質化して凝固する人造地獄。そこで何が育まれ、何を生む子宮になっているのかは、暗帝と灰しか分からない未明領域である。
「カルデア所長……狩人、か―――……あの手の魔人は手に負えぬ」
「悪魔と狩人は私にお任せを」
「任せる。やれやれ、では長話に付き合って貰うからな!」
後始末の指示は働き者のカエサルが率先している。忍びに対する嫌がらせにしかならず、逃げられるのは分かっているが、不死の兵士を使うことに不利益は一切生じない。むしろ、使わない方が人材の無駄である。
暗帝は正式にカエサルへと頼み、戦車の更なる改造作業を今日は中止する。今度、陳宮が戦場から帰って来たら纏めて行えば良い。
だが今夜を以って、アルテラを取り戻した反乱軍残党は――――反乱軍に再誕する。
特異点の決着が近付くのを灰は悟り、暗帝との別れを予感する。ならば、時間を使わなければ腐るだけの灰は、人の面倒事に付き合うのも日課であるため、彼女の為に自分の時間を使うことも有意義であるのだろう。まるで友人のように慰めながら、何時もの笑みを浮かべて宮殿の中へ帰って行った。
読んで頂き、ありがとうございました!
題名のままで狼さんの救出任務の話になります。やっと葦名特産の飴ちゃんを存分に活躍出来る場面まで辿り着けました。仙峯寺に皆で幾らか課金すれば、きっと死なずの探求を完成して頂けることでしょう。