教会孤児院。葦名で親を失った子供を保護する施設。医療教会が管理する為、教会内部では孤児院と呼ばれているが、実際はただの対児童人体実験管理機関でしかない。秘匿主義者のビルゲンワースらしい様式美か、あるいは世間体を気にする真似をしているのか、社会が崩壊した今でも一応は外部から隠しており、大聖堂にある隠し扉を通らなければ、この監禁洗脳施設には辿り着けない作りにはなっていた。
尤も、今や悪夢が特異点と言う現実を侵食している。真性悪魔の神秘を人の業へ還し、外宇宙の概念を使い、その上で教区長は上位者の脳が聖堂を夢に塗り潰す人間の奇跡を実践していた。
脳の壁。脳の床。瞳が生える脳内回廊。
汎人類史を夢見る脳の異界常識に、此処は作り替わっている。
オドンの白い滲む血が血管を流れ、コスモスの神秘が電流となって神経を流れ、メルゴーの獣血が脳細胞肉を形成する。相反する上位者共の血を混ぜ、混血の異界を作るのを灰の人間性が可能にし、人域こそ底無しの暗黒であることを人間の脳へ啓蒙する。人域を超えた先に神域があるのではなく、人間にとって神域さえもまだ人の領域でしかなく、魂の境界線は外宇宙の更なる外側まで拡がり続けるのだと、永遠の果てに待つ未知もまた啓蒙する。
「そのマシュ、まだ起きそうにない?」
「寝てますね」
「そっか……うん。此処から孤児院だから、敵に気を付けるのよ?」
「はい」
医療教会大聖堂上層部、展望孤児院。藤丸と所長は通路から隠し螺旋階段を上り、既に孤児院施設内部の階層に辿り着いていた。
―――ピチュピチュ、と水気のある音がする。
這い蹲る異形の赤黒い赤子を床から拾い、それを抱いた水色の軟体生物が、まるで我が子をあやす母親のように揺らしていた。プルプルと震えながら子守唄を唄い、脳を柔らかく震わせる
生命の尊厳だった。人の在るべき姿だった。
実の子でなくとも、幼子を慈しむ無償の愛。
人間で居たいなら、穢してはならぬ母の形。
人間性を捧げよ、と脳深く啓蒙される。自分の瞳が脳を支配する程に啓蒙する。深い啓蒙。高い啓蒙。重い啓蒙。もはや思考に淀みなく、脳内に暗がりが無くなり、啓蒙されない事象が消えて無くなる。盲目な無知が導きにより、明瞭な既知にすり替わり、低次元なる蒙が高次元へと上がることで全てが照らされる。
何と――つまらない事か。
何もかもが啓かれてしまえば、求めるべき未知が消えてしまう。根源さえも観測し切った後ならば、根源より観測不可能な灰共のダークソウルの秘匿こそ、この世に残された僅かな探求。
「人間性……ッ――成程。
これを殺せないと、人理の保証は不可能と」
単なる人殺しよりも、この世には重い罪が幾つかある。その一つ、無償の愛を否定する為の殺害行為。即物的な動機に因り殺すのではなく、善意を亡き者にする悪意によって命の尊厳を簒奪する。
人理保証の為に。人類史繁栄の為に。
その意義を貴ぶのならば、人で無くなった人より、最後に遺った魂より、人への愛を慈しむ人間性を踏み躙る。
「―――止めましょう。
殺しちゃ駄目だ。所長が背負うべきじゃない」
藤丸が感じたのは怖気だった。得体の知れない化け物に恐怖したのではなく、確実に人間から変異したであろうあの生命体を殺す自分をイメージした時、自分が人の形をしただけの怪物になるのを理解してしまった。
「でも所詮、演出よ。愛を知るソウルを、孤児共を使って造っただけ」
「それでも……人間なんですよ」
「今更……でしょう?
サーヴァントだって本当は、人間に過ぎないんだもの。特異点で過去の悲劇に挑む者達を殺したカルデアが、その責務を負う所長の私が……可哀想だからって、憐憫の念から選んで殺すのは罪深い」
「……ッ―――それは、その通りです。
なので、棚上げします。棚上げです、棚上げ!!」
「どんな面でも、それは出来ないわよ!!」
「と言うか、殺す必要とは!?
ぶっちゃけ皆殺しにする必要性を教えて下さい!!」
「こいつらがこの異界常識を維持する魔術回路になってんのよ!!
脳と脳を繋げて擬似集合無意識域を作り、類感魔術の概念を取り入れて相互作用する悪夢を形成して、医療教会って言う異界を運営してる。
そのままの意味で、この孤児共が教会の頭脳なのよ。彼等の脳が見る夢が現実を見る瞳となる」
「専門的なことは、ちょっと」
「ギィィイイ……――あれ、何で言い争ってたんだっけ?
ヤバ、脳がヤラれてヒスってるわ。私も私で、ストレスで限界みたい。藤丸、ごめん」
「いえ、此方もすみません」
「はぁ……殺す殺す殺すって意固地になる。端からみると私ってば阿呆臭い。
やらないより、やる偽善。
無理に罪業を深める趣味はない。どうせなら、殺さない方向で調べてみましょう。罪悪が少ない解決策、見つかるかもしれないし」
「お願いします」
真性悪魔の神秘を悪夢へと流し込み、星界の使者に進化させた孤児達の脳で汎人類史を空想する。それによって汎人類史で記録された人々が夢見る死が医療教会へ流れ落ち、呪詛を受け入れる海となって悪夢の心象風景が出来上がる。
仕組みを考えれば、その何処か一部にでも不具合が有れば機能不全に陥る。殺害によって土台を壊せば確実だが、そろそろ自分自身の精神が壊れる程に無理をしている自覚があるので、所長は効率よりも確実性を取ることにした。
瞳による――高次元思考。
何を根拠に方程式を決め、この思索を教区長は実践するのか?
その冷徹な思考を行い、所長は自分が精神干渉を受けていることに気が付いた。
「人間性の肥大化……?」
在るが儘に、夢見る為の揺り籠。聖堂で
上位者は赤子を求める。
ならば、赤子は上位者に母性を求める。
無知にして白痴。何を知らず、故も考えず、形無き思索は衝動となる。
「確かに、私は誰も殺したくない。獣は人で、人殺しなんて真っ平御免。
けれど、血に酔う衝動は愉しい。人は獣で、獣狩りは脳が痺れる娯楽。
―――私本来の意志。
形を喪ったオルガマリーの遺志を継ぎ、狩人で在る私がオルガマリーとなって今、此処に在る」
「どうしました、所長。ポエムタイムですか?」
「……抑圧が消えて、本音が漏れてるわよ?」
「あ、ホントだ。変に素直な気分……嘘を吐こうとすると、凄く胸が苦しい。となると、此処はそういう事で?」
「そういう事。この孤児院で精神への負荷で無理すると、心的外傷で魂が死ぬわね」
「善の心が、凄く膨れ上がる訳ですが―――……外道過ぎませんか?
戦意そのものを削ぐとは、気持ち悪い位に頭が良くて、狂ってます」
「とは言え、殺したくないのは私と貴方の本音だし、どうしょうもない」
善意に依る無償の愛。殺人は死に至る罪悪感となり、敵意を抱けば自分の心が地獄に落ちる。
―――蒼白い孤児と、赤黒い赤子。
殺すべき敵。その二名は騒ぐ二人に気が付いており、そのまま無警戒に近付いていた。
「………」
「どうも、こんにちは」
「………―――」
「ハロー」
「――――」
藤丸の言葉に返答はない。ただ柔らかそうな頭を震わせているのみ。
「駄目よ、藤丸。こんな
ちょっと良いかしら、可愛らしい目をしたお嬢さん?」
「―――――」
「そう。その赤ちゃんを大事にしてるのね」
「―――……」
「あら、ありがとう。でしたら、案内して頂けるかしら?」
「―――」
「ええ、では」
藤丸は、まるで高次元暗黒へ放り投げられた学徒のような表情を浮かべ、数秒停止した後、所長と軟体生物を交互に見る。何かしら会話をした雰囲気は分かったが、彼の脳と聴覚では声を認識出来ず、意味が分からない。だが、何とも形容出来ない奇っ怪な音が聞こえたような気はしたが、それを文字として認識する事は出来なかった。
ブルブルと震える蒼白い後ろ頭。軟体人間と這い寄る赤子は、所長と藤丸を導く様に隠し廊下を進んで行った。
「ま、こんな感じね。フフン、どうかしら藤丸?」
「納得出来ませぬ、マジで。
それはそれとして、付いて行きますかね?」
「ええ。今回は、程々の血腥さなら良いけど」
子守唄を歌い続け、抱いた赤子を腕を揺らしてあやす使者の後ろ姿。人間よりも何処か美しい無償の愛を観て、所長は無性に自害したい気分となる。
母の姿―――欠片たりとも、知らない。
無償で愛する行為を全く理解出来ない。
子供。男の精子を子宮に入れ、排出した卵子と結合させ、雌雄の遺伝子を混ぜ合わせ、女の胎盤で育てる繁殖行為。所長は自分が女である自覚を持ち、この身体が赤子を妊む機能があり、その気になれば眼前の男と子供を精製することも出来るのだと分かった上で、余り女としての遺伝子的本能に実感がない。
地球で赤子と言う概念が生まれ、数億年。
より強く生きる為の生存能力を得る手段。
単一生物は環境の変化に弱過ぎる為、異変があれば即座に滅亡に繋がる。それを防ぐ為、生物は遺伝子を混ぜる事で多様な選択肢を作り、変化した環境に適した個体が生き残って種が存続する。同じ細胞が分裂することで不死性を維持していた古い地球の生物は、寿命を得ることで絶滅の死から逃れることを選んだ。
生物より愛が生まれたのは、それなのだろう。所長は愛と人が呼称する脳細胞の神経反応が、遺伝子が設計した脳による本能的機能に基づく生物の繁殖手段と理解した上で、だからこそ数億年続く遺伝子の存続が美しい。人間が本能で母の愛が美しく見えるのは、それを守るのが群れで生きる者の使命だと霊長の遺伝子が幾万年も掛け、新たに生まれた赤子の命に刻み続けたが故に。
愛とは、生命の芸術なのだと。
愛と命は等価値で在るのだと。
人は全て赤子だった。そして子供を経て、大人へ成長する。それを前提にすれば、殺人は他人の愛を否定する徳を穢す罪業。命の否定は、群れで生きる生存の否定。赤子殺しを嫌悪するのは当然であり、子殺しは繁殖の拒絶であり、人殺しは子供を育てた人の功績を愚弄する悪意。人とは、人から生まれてこの星で誕生するが故に。
殺人―――惨たらしいにも、程が在る。
だからこそ、人類史は戦争を止められなかった。命に病む社会性が、他人の命を材料にすれば、それと価値が等しい安全と繁栄が自分達の命を守るのだと、群れと個人へ還る利益を信仰する。殺して奪い、殺して守り、憎悪と使命が人を動かす重要な動力源となる。生存を担保にした戦争賭博に国家全体が熱狂する。人の命が綺麗で美しいが為、それを金貨にすることで人は繁栄を手にする社会を構築する。
「善意で悟ると、人は薄汚いと良く分かる……」
人を殺せば殺す程、罪をオルガマリーは正しく理解した。瞳が啓蒙するのではなく、彼女自身の人格が命をその手で悟るが故に。
「藤丸。そもそも殺人の罪とか、他人の尊厳を守る為に背負う咎じゃないわよね?
自分の為に殺すのだとしても、殺すべき怨敵ではなく、殺した方が好都合程度の相手なら、殺さない様に立ち回れば良いだけの話だし。
やっぱ―――平和か。
それが無実で無垢な魂でいる為の、人の業。
平和を作る為の犠牲であり、命を素材にして人は平和な社会を形作る知性体。脳が高次元へ進化しないと、この矛盾は解決しない」
「嫌になって来ましたか?」
「嫌も何も、最初から殺人家業は糞喰らえよ。ま、疑念を抱く頃には取り返しが着かない程、私は私で殺戮を愉しんでたから、この業が私に成ってただけのこと。
血の悦びは色褪せないけど、感動する心そのものに飽きが来る。
だからこそ、少しばかりサーヴァント連中は羨ましい。
英霊の素材にされた英雄共の魂と、生前の遺志。闘争に生きた彼等も勝利と殺人に悦びを見出すけど、あれはあれで己へ還る功罪だから、私のような狩る為の殺しではないし。
人理保証の為に人を狩るけど、私は罪を背負って守る程の価値を人類史にも人理にも感じない。私は、私の狩りを全うする為の手段として、全人類種を獣の脅威から守っている」
「俺も似たようなものですよ。自分が生きる為に戦って、皆が生き残れる様に足掻いてた。
俺は死にたくないですし、カルデアの皆も死なせたくない。どんな願いを相手が持っていたとしても、俺は自分の生命を譲渡しない」
「けど、人類史を夢見る霊長が人の死を喜ぶのも事実。自分と同じ生物を殺すって事は、その他人も両親が居て、赤子から大人になったと言うのにね。
そう言う意味で、私はどうも人が理解出来ないのよ。
自分以外の為に、自分以外の善性を土台ごと否定する行為を良しとするのかって……――――あぁ、これも同じね。この理不尽と矛盾に憤る人間性が、獣性の芽生えとなる叛意の一つ」
人間への失意。人間性への嫌悪。人類史への絶望。人理への反意。彼女は夢見る狩人で在る故、世界全てを観測する阿頼耶識が全人類種の過去を選択し、人々の軌跡を不要と棄てる人間自体の欺瞞を薄汚いと断ずるしかない。繁栄の為ならばと、過去ごと消し尽くすのは人道亡き獣の所業でしかない。
獣は人で在る。逆説的に、人もまた獣だ。人理を夢見る人の上位知覚である阿頼耶識と星を狩らねば、人間は剪定事象と言う悪夢から目覚めないと、凶悪なまでの使命感が意志の裡より芽吹く。人が獣になる悪夢を終わらせるには、悪夢を夢見る人理を焼却するのが一番合理的だろう。
目覚めが、要る。
人類種が人類史より目覚める為、夢を壊す必要がある。
繁栄と言う悪夢に陥り、殺すしか出来なくなった剪定事象を否定するには、人間を自分の存続の為に肯定する星の魂を狩り潰すしか残されていない。
「成程―――……愛、故に。人理に人道は不要か。
心が在れば、人類種の人類史を希望の未来に導く等、悲劇に塗れて耐え切れない」
「カルデアの所長が職員に愚痴る感想じゃ何っすよ、それ。いや本当、それだけは」
「まぁ、人間なんてそんな程度よ。醜くて良いじゃないの。折角、この今を生きているのなら、楽しく自分と周りに感動するのが人生って話です」
「開き直ってますね?」
「啓き捲くりよ。幾度だって挫けそうに為る度、欲望も希望を自覚して愉しむのが人生を止まらない秘訣。何事にも進みながら考えるの。
とは言え滅茶苦茶、悪夢を見る主を狩りたいって感情が湯水みたいに湧くのよねぇ……最近。
一回もう全てを目覚めさせて、違う夢を見るようにした方が手っ取り早く新しい人理保証とか出来そうじゃないかって考えてるし」
「そもそも、もう仕組み自体がガタついてるって考えてるのですか?」
「ビーストクラスも悪性を誘導して型に嵌め込んで管理しようって言う苦し紛れの手段だし、それも湧き出てるし、星が作った人理ってシステムも限界近いのかもね。今回の騒ぎで吹き出たビーストを狩り尽くしても、未来でまた出て来そうだもの。
ソロモン王以外の厄種、過去に腐る程にばら撒かれてる。
偶然、今回は三千年前の種が咲いたってだけで、別に時期は咲ければ前でも後でも良く、原因はフラウロスの獣性が転機になったと言う話です」
「じゃ尚の事、此処では子殺しは止めた方が良いですね。多分、所長的には此処までしないと人間が駄目なら、もう自分も素直に獣になっちゃえば良いやってなりそう。
俺は別に、辛くても辛いだけなんで、大丈夫って言えば大丈夫です」
「そうね。貴方は良く私を見ている。取り敢えず、状況を見ます。諸々の葛藤の末、未来の自分に判断することでしょう。今は棚上げね、棚上げ」
「承知」
黙って歩き続けても藤丸は良かった。だが壁を見ても、床を見ても、天井を見ても、気が狂いそうな夢の中であり、実際にもう気は触れているのかもしれない。今はもう背負うマシュの体温だけが彼に微かな現実感を与え、所長の声を脳が聞くことで自意識を保つ気力が維持出来ている。そして二十分もせず、隠し通路は螺旋階段を昇り、屋上に辿り着く。
扉の先は綺麗な花が咲く巨大花壇。蒼褪めた柔らかな肌をした孤児達が戯れる庭。
医療教会大聖堂上層部、展望孤児院。あるいは医療教会秘匿部、聖歌隊育成教室。
しかし今や、星界の使者が幸福感に満ちた素晴らしき日常を送る生活保護施設。だが、廃れてはいなかった。蒼白い使者達は生活能力に優れ、庭の手入れが行き届いており、市街地と違って綺麗だった。大聖堂とは違い、血肉や臓物が床に散らばってはいなかった。
「――――――」
「あら、どうも親切に。貴女も御達者で」
赤子を抱く孤児の使者は所長に会釈した後、何でもない日常のように去って行った。自分の家である孤児院へ向かい、屋上の屋上庭園を抜け、ゆっくりと歩いていた。
「じゃあ藤丸、行きますか」
「そうですね、行きますか」
此処は善意の地獄。殺人による罪悪感が自害へ至る平和の権化。人類種に恒久的世界平和を齎す為の答えの一つ。
己の罪を決して許さない。それは悪意による欺瞞が存在しない世界となる。
人間が人間を裁くのではなく、人間が自分自身を裁く倫理の極致。正義の鉄槌を己の頭蓋骨に自分で降ろし、命で以て命を贖罪する絶対平和領域。もはや猟奇的とも言える道徳心を人に与える事で可能となり、人を殺して生きるなら自分で死を選ぶ自己犠牲の完成系。
「そりゃま、皆が皆、仏の心得を抱いて解脱すれば、究極と言えるのでしょうけど……」
その中で殺そうと思えば平気で人を狩れる自分に、所長は絶望する。狩人として完成した意志に、人間として未熟な彼女は失望する。
つまるところ、解脱しても自分が変わる事がないのだと実感した。あるいは、無償の愛を得た自分に価値を覚えず、もはや他人の影響で変化出来ない自分の意志の頑なさに憤りすら感じた。
意志が強過ぎる事への弊害。自分自身が絶対過ぎる故の孤独。
自分で自分を変えない限り、視野が広がらない脆弱性を知る。
楽園を夢見ようとも悪夢からは欠片も目覚めず、所長は所長の儘で在る。密かに自分の弱さを期待していた彼女は、此処までの悪夢へ至っていた業深い自分に納得とする同時、これからどうすれば汎人類史を今より善くしたいと願う獣性と共存出来るのかと思索する。
「何か、心洗われる気分です……ずっと居たいなぁ……」
「まぁ、理想的な死後の世界の夢心地だもの。あるいは集合無意識を知覚することで、死んだ先に救いを求めた万人が理想とする楽土を人道悪夢として再現してるのかも。
夢の中でなら、誰だって聖人君子の悟りを得られる訳ですからね」
「この感覚が、欲望とか消えた気分って訳ですねぇ……」
「楽園に浸ると生きたいって本能的な欲求も、段々と薄れるわよ。その癖、死にたいって言う逃避欲求も消えるけど」
「――――フンッッ!!!!
良し、まだ大丈夫そうだ。行きましょう、所長!」
「メンタル、ちょっと強過ぎない?」
それはそれで人間として大きく逸脱してると所長は思うが、藤丸も藤丸で善人らしい異常者ではあるのだと分かり、気味が悪い程に運命を制する精神性には触れない事にした。悪意に満ちた精神攻撃に強いのはまだ分かるが、悟りの境地にさえ逆らい、人なら誰でも至りたいと願う解脱で得られる高次元の善性を拒絶出来るのは、人間として心が余りにも完成され過ぎていると理解出来なかった。
だが善も悪も克服しなければ、獣狩りを正気で全う出来やしない。
善性の一つであったビーストの一匹一匹を全て狩り尽くすには、藤丸は獣性に落ちてしまった人の善意を克さねばならない。それが出来ないのなら、人を人の業から救いたかったゲーティアを倒すのは不可能だった。
「平気そうだし、花園はとっとと抜けましょう。地味に咲いてる花、精神覚醒作用がある毒があるので」
「麻薬的な?」
「もっと酷いわね。心が人じゃなくなるわ」
「行きましょう」
花壇に居る孤児達は藤丸と所長を見るが、それだけだった。直ぐに視線を切って、水やりをしているか、大の字になって花に埋もれているか、ボーと立っているか、光を浮ばせて遊んでいるか、宙に向かってL字の交信ポーズをしているか、其等のどれかであった。何と言うか、暇な時間を過ごす人間の子供と雰囲気が大差無く、とても穏やかな時間が流れていると二人は感じていた。
そして庭園を過ぎ去り、大聖堂屋上に建てられた建物に着く。作りとしてはカインハースト城の屋上に女王の謁見場があるのと似ているが、此処は幻視で隠されておらず、コジマ粒子で汚染された濃霧が覆い、夕暮れ時となれば殆んど夜に近い薄暗さだった。
―――孤児院入口、大扉。
シャンデリアが吊るされた綺麗な作りのエントランス。
清潔感も保たれ、塵一つ落ちておらず、大理石の床は輝く程に磨き抜かれている。
「――――おや。おやおやおや、孤児院の方へ先に来るとは」
聖職者の衣装に身を包む男が一人、正面玄関から直進した階段に座っていた。
「ローレンス、久しぶり」
「久しいな、オルガマリー。冬木の街の、大聖杯以来となる……いや、正確にはそうではないな。
繰り返される悪夢にて私は、狩人で在る君に繰り返される度に狩り殺されていた筈だ。憐れで可哀想なルドウイーク君が無慈悲に幾度も狩られた様、君に私は何度も殺された」
「…………―――悪辣な話。死んだ後の夢の記録がある訳ね」
「ああ、そうだ。所詮、夢ではるがね」
階段に座る
「これから殺すけど、何か話す事でもある?」
「ほう……此処で殺意を抱けるとは。相当な極悪人だね、君も」
「僅かばかりの慈悲の念よ。裏切り者の貴方と話をする事自体、善意で気が狂ってるからだし」
「神の愛より、人の愛か。人類種へ欺瞞の夢を見せる集合無意識も、少しは役に立つようだ。
私はもはや、悟る無価値さを知れた故、善意で苦しめないが、君はまだ真人間に戻れる。どうかね、私はこれでも学者崩れの聖職者だ。
―――……懺悔でも聞こうか?」
「ごめんなさい。悔悟の涙はもう枯れたわ。
尤も、貴方の方がよっぽど後悔塗れな意志に見えるけど?」
「君よりかは、まだまだ私は未完成な人間なのさ。未熟とも言える。上位者共を冒涜することで呪われたが、君のように呪詛を飲み干す程の強さを生まれながらに持ち得なかった。
羨ましい限りだ。月の狩人と同類の、後継となれる人間が存在するとは。
易々と難なく、君は上位者と上位者の血を交り合わせた混血を受け入れる大いなる器と成れた。あの狩人が全ての上位者の死血を体内で混ぜて自分の血とした様、君もまた血によって人となった」
「へぇそう……ふぅん、今の貴方は弱くないと?」
「残念ながら弱い儘だ。灰のサーヴァントとして召喚され、受肉し、暗い魂の血を流し込まれたから、今は呪詛を神秘として制してはいるが、私は君のように自身だけの思索で冒涜を克服することは不可能だった」
「なら、今は強いんじゃないの。如何でも良いけどね」
階段から立ち上がり、教区長は胡乱気な瞳で所長を見詰める。だが彼の視界は広く、複製人間を背負う藤丸も同時に観測し、生産肉人形を大事に守っている理由を過去より啓蒙された。
灰の一つ、悦楽の簒奪者の善意による贈り物。
大切にする虐待用性奴隷人形を与え、所長と藤丸の人間性を刺激する思索実験の一環。
自分の悪行を棚に上げても、灰達の邪悪さに教区長は吐き気を覚える。それがこの孤児院を飲み込む異界常識による道徳的脅迫観念だと分かった上で、自分の神秘に対する知的好奇心が倫理観で全く薄れない事実に彼は微笑んだ。
「確かに、生前より幾許かは獣性に耐えられるか。獣化し、業火で焼かれ、眷属化し、神秘に溺れ、しかし私は嘗て先生が語った超越的高次元思考者の精神を保ててはいる」
「ソウルの業ね……それは、人の力だ」
「―――ほう、分かるかね。素晴しい思考力だ。
ビルゲンワースの学徒であった頃、神墓にて私達は古い上位者の血を暴いてね……特に私は旧主の呪詛で血が焼かれている。妊婦の胎を切開し、彼等が愛する赤子を簒奪し、死んだ上位者の仔の死血を高次元思考を可能とする瞳を得る為、人間の体内へ輸血した。
勿論、赤ん坊の遺体だけに残った血では医療教会が行う血の治験には足りないからね、イズの墓で生け捕りにした巨体の眷属に赤子の血を輸血したんだ。そうすれば赤子の血は星の娘に雑ざり、輸血液の原液は恒久的に教会は採取可能となり、赤子の血と共に輝ける星の啓蒙的神秘も人を得た」
「人間の手で上位者の赤子の血を混ぜられたことで、違う悪夢を見る古い上位者の血に罹患することで、星の娘は自分の親である星の上位者が夢見る宇宙に還れなくなった訳ね。
でも、貴方の呪われ方は次元が文字通りに違う。
墓で旧主の眠りを守っていた番人も永遠を生きる為に呪詛を受け入れていたけど、貴方の場合は心底より憎悪の思索を向けられている。進化の果てにいる上位者が深く考え込み、人の苦しめ方を熟考し、もはや苦しみ悶える姿を愛する程に貴方は恨まれた」
教区長は灰殻を完全燃焼させることで灰に還し、また新しく煙草を一本、懐より取り出して唇に咥える。そのまま燃える血で先端を発火させ、煙草を吸い始める。
「私の場合、赤子の血肉と言える原液を輸血した。よって自分の仔を愛するオドンに呪われるのは必然であった。
それは冒涜の代償ではあるが、神秘でもあった。獣の病を齎す上位者は、業火で以て冒涜を為した人を呪う故」
「メルゴーの親。人間に仔を求める悪夢で滲む血。同時、メルゴーの血を使えば、罪の呪詛は蔓延する。上位者の火は人を罰する呪いだから、上位者に呪われて獣になった人間には火が良く効く。呪われれば、血も灰と為る。
何より親の愛を冒せば、愛情は憎悪に生まれ変わり、怨念は限りなく深まる。高次元思考者である上位者となれば、愛もまた超越的思索と化し、人間の呪い方も奇っ怪極まることでしょう」
「全くの正論だ。その冒涜により私は呪われ、私の教会がヤーナムに齎した医療により、市民は私と同じ呪詛を血に得た。この葦名の街にて同様の治療を行えば、葦名市民は業火を血に宿す罪人となる。上位者からすれば、赤子を殺した上、その血を得た冒涜者であるからね。
しかし、その呪いは亡者化する市民の脳にとって正しく治療となる。
自我が薄れて白痴となるのを防ぎ、血が人の形を忘れさせず、上位者の呪いが忘我によって罪から逃れるのを許さなかった」
「相変わらず、冒涜が愉しそうね」
「好奇心が止まらないんだ。知らずにはいられない。それを行えば次に進めるのなら、倫理を尊ぶ価値を学術者は見出せない。
君も……―――同類だろう?
私と同じ冒涜的神秘学者とは言わぬが、叡智に対する素晴しき感動は共有する筈だ」
「まさか。私も所詮、人でなしの冒涜的殺戮者よ。狩りも単純に好きだしね」
「狩りが好きなのか……―――あぁ、素晴しき業の遺志が継がれたのか。
元より、狩りは慈悲による葬送。せめて人間だった者が、人喰いの化け物としてではなく、血に呪われた犠牲者が死ぬ為の葬儀の殺し。
ゲールマンには悪い事をした。教会が始まりの狩りの在り方を歪め、血の狂熱を産んでしまった。
上位者には好奇しかなく、トゥメル人にも興味しかなく、古都の市民にも利用価値しか覚えなかったが、やはり勉学を共にした学友と先生には酷い事をした罪悪感がある」
「悪い悪いと思っても、その罪悪よりも神秘を啓く学術を優先する外道と言う訳ね」
「しかし、君の狩りは慈悲にて葬送している様だ。あの忍びの御蔭で、血に溺れた古都の狩人連中や、狩りを芸術にする工房とは違い、狩りを愉しみつつも人に対する憐れみも抱いている。
謂わば、人類種由来の獣性だ。上位者が人へ与えた呪詛とは違い、人間が人間に与える狂気となる。それへの正しい自覚があれば、君は正しく次に進化出来る。
呪いの克服を仔を奪われた上位者の赤子作りと勘違いし、私は滲む血の落とし子が孕めるように聖女作りも行ったが……呪いは消えず、新たな赤子の神秘も得られず、しかして上位者が狩人へ臍の緒を与える契機にはなった。その結果、狩人が青ざめた血を体内へ混ぜ、思考の瞳によって上位者の子となり、ヤーナムはオドンの悪夢からは救われた」
「無様ね。貴方の低次元な思索、無駄に終わったわ」
「嘘はいけないね。私達の失敗、古都の悲劇……それらは全て、月の狩人をマリアの人形が赤子として抱く結末に集約した。
ならば、あらゆる狂気に意味があった。
無価値な命など一つも存在しなかった。
私は知りたいだけだ。為し得たい訳ではない。私以外の誰かが、私の思索を全うしてくれたのであれば、後にそれをまた我が瞳にて脳へ啓蒙するのみ。
ウィレーム先生はやはり正しかった。
情けない進化は堕落。人の身で上位者と伍する為、超越的思索を手にするには、人は己とも言える人間性を捧げなければならなかった」
「言ってること、外道よ。自分の苦しみが失敗の徒労に終わったなら、他の誰かが思索を成功するまで苦しみ続ければ良いってことじゃない」
「ああ。故に、私の徒労は有意な目覚めとなった。冒涜の因果を始めた事実に、意味が産まれてたのさ。
我等の悲劇が結実した高次元存在、月の狩人は人の身で上位者と伍し、その上で高次元思考者と化し、上位者と為ることで更なる進化を果たした。
人の儘に得た超越的思索は、より進化した宇宙深淵の思索になり、君と言う女がヤーナムの悪夢に招かれた。もはやオドンの呪詛さえも月の狩人が制する古都に、オルガマリー・アニムスフィア本来の精神は堕ちて消え、今の君が遺志として継いでいるだけなのさ」
「お前が……ッ―――それを、有意だったと言うの?」
「―――無論だ。
全てを狩り殺し、全ての血を継ぎ、あらゆる上位者の混血となる狩人の赤子は、学術者にとって渇望の最果てだよ」
だからきっと、教区長が教会の狩人を作ったことも、ゲールマンの狩りを続けたことも、そして葬送の狩りが獣狩りの狂熱で狂ったことも、全部が良かった過去となる。何故なら苦悶の中で死んだ人間の遺志、絶望の中で見た悪夢、一つ残さず月へ継がれた。
「……ではオルガマリー、そろそろ狩る決心が着いたかね?
倫理を冒涜する意志がなければ、赤子を殺す遺志を継ぐのは夢のまた夢だ」
「何をさせたいのよ、貴方?」
「君にはまだ狂気が足りない。狩りへ専心する狂熱も、瞳に対する好奇の執着もね。
人間性を踏破した時、学術者は諦観を打ち破り、己だけの神秘を手にする権利を作り出す。君が持ち得る超越的思索を進めるには、高次元をまた超えた先の高次元思考者へ昇る有意を脳より産まねばならない」
「そんなの、分かってるわよ」
「ならば殺すのだ。私を殺せ。銃で撃ち殺せ。仕掛け武器で斬り殺せ。手で縊り殺せ。
躊躇わず――殺せ。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
人間の愛と希望を踏み躙り給え、星見の狩人。
我々の好奇心があらゆる欺瞞を暴くのだと、自分へ証明する為に」
殺意を、善意が塗り潰す強迫観念。自分を人間に押し留めていた枷を外さなければ、愛と希望の異界常識を踏破する意志を得られず、所長は教区長を狩ることが不可能となる。
―――有り得ない諦めだった。
諦めが人の心を殺す。歩み続けなければ、今が無価値となる。何一つ残さず、自分の未来に対する権利が消失する。
だから、殺さないといけなかった。繁栄を求める人理が、あらゆる平行世界において剪定事象に選ぶ平和な歴史の終わり方。全人類種を恒久的世界平和に導く程の、汎人類史を終わらせる極性善意を―――狩る。
「知ってる―――死ね」
発砲、水銀弾の直撃。教区長の頭部が消し飛び、死んだ。脳味噌が階段と床に散らばり、首の無い死体が倒れ落ちる。
――――殺した。殺した。人殺しだ。
気が触れる絶望。自死に至る罪の意識。良心の呵責に苛まれ、手の震えが止まらず、視界が歪み、呼吸が荒くなる。
「あぁ……―――痛い。これこそ心ね」
もはや善性は障害にならず。
「何か……凄く、酷い気分になりますね」
「貴方も貴方で、精神力が鍛えられ過ぎてるわ。殺したのは私だけど、此処だと殺人行為を見ているだけで非道を繰り返す外道の魔術師が、罪悪感で魂が発狂する善性地獄なんだけど?
あの世を創設した神だって、楽園で罪を犯した罰をここまで重くはしないわ。だって天罰と称して人を殺せば、神自体が殺人の責で狂い死ぬ自罰の楽土になるしね。この強制力を考えた異界常識だと、諸々含めてこの天国を作った張本人も影響下にないと魂に無差別作用しないだろうから」
「天国……――此処が?」
「そうよ、夢だけど。謂わば、争いの無い異界。争えば魂が善意に狂う世界」
第一の獣性を踏破した藤丸が楽園の平穏に狂えないのは必定。自殺衝動を捩じ伏せる生きる為の精神力がなければ、人理焼却によって生まれた苦痛のない永遠の星を拒否出来なかった事だろう。
そして数秒後、教区長の肉体が夢へ蕩けた。
最初から此処に存在しなかったように、肉片一つ、血の一滴すら消えて無くなった。
「見た儘、仕掛け通りの幻影。本体は地下実験棟かしら」
「偽物?」
「いえ、違う。鐘の音を使って本体から召喚された頭脳体。魂自体はこっちっぽいから、むしろ本物とも言える。受肉で得た躰から抜け出た意識の分身を容れ物にでもしてるのね」
「つまり、本人が自分自身の魂を使い捨ての道具にしてる訳か」
「灰の価値観ね。彼奴等、本人である魂の扱いが粗略なのよ」
何せ、殺せど殺せど壊れない永劫。自分自身の扱いが雑になるのもまた人間性。
「じゃあ、進みましょう」
「まだ何か、此処にあるのですか?」
「楽園を夢見る主が居るの」
「気絶させるのは、どうかなぁ……この結界も消えると良いけど」
「まさか。手っ取り早く
「成程。封印でもする感じですか……」
「殺した後、灰以外なら死んでる最中の不死の魂に干渉して、意識を夢に落して動けなくする位なら可能だと思う。思うだけで確証はないけど、その辺の不死になら出来たから、多分きっと大丈夫」
「不安」
「私だって不安よ」
四肢欠損したマシュを背負い直し、先に進む所長へ藤丸を付いて行く。
―――愛おしい。
我が身に代えて守らなければ、と藤丸は背中で感じる体温で決心する。
この孤児院の法則を作り変えた異界常識による強迫観念だと分かりつつも、彼は今まで感じたことのない無償の愛とも言うべき自己犠牲の精神性で、自分の人間性が塗り潰れるのを実感する。だが、聖人君子が至る涅槃の悟りは自己消滅の恐怖心を容易く克服し、彼を救世主として覚醒に導き始めた。
「救世主の理念なんて、脳に寄生する蛆虫の発光体液みたいなものよ。
自己犠牲は、不利益の尊厳性。
悟りなど、本人だけが理解出来る哲学でしかない。この宙にて根源より生まれた魂は原罪を持ち、だがそれを人に背負わせてしまえば、人間性の重みとなる因果が抜け落ち、命を縛る罪科が色褪せる」
「所長、そう言うのは嫌いですものね」
「貴方もそうじゃない。命の捨て方を美談にするのは、人が群れを統率するのに有益で、他人を救うのも有意な死だけど、人が人の死を求める事が根本的に薄汚い。
我々は唯、故人の遺志を継ぐだけで良い。
人の遺志を使い、人の生き方を穢すのは冒涜的な在り方よ。貴方だって、いや貴方の方が私よりも、そう言う類の人間が大嫌いでしょうに」
「確かに……嫌いだなぁ……うん、嫌い。許せないと思う」
藤丸は最近、戦いに躊躇わない自分を深く実感する。戦場で感じる恐怖と嫌悪を生きたいと言う願望で塗り潰し、精神を蝕む死の気配を薄めようと考えていたが、意識せずとも呼吸をするように無意識で『マスター』の精神性に生まれ変わる自分を自覚する。何せ並の人間なら気絶して心停止する真名解放の圧迫感を、今はもう気付けば微風程度にしか感じられない。対神宝具、対界宝具を向けられたとしても、どう凌いで反撃するかとしか考えず、本来なら糞尿を垂れ流して命乞いをする筈の本能的恐怖を克服してしまっている。
ある種、これもまた啓蒙。
藤丸はもう自分が普通の感覚と価値観を失っている今に気付き、また戦略的に必要ならば死にたくないけど仕方ないかと自己犠牲の戦術を嫌々ながら選ぶだろう自分の変化を悟った。そして、そんな自分を客観視すると、他人が自分みたいに戦っているのが凄く嫌いである事にも気が付いた。
「あ、気が付いた?」
「…………まぁ、はい」
「大切にされるのは、それ相応の理由がある訳。御節介な英霊連中、貴方を放っておく事が出来ないのよ。そんな風に戦う見捨てれば、人間として持つ最低限度の矜持さえ塵になる。
でもま、今回の特異点では気にしない事ね。
英霊が生きられる世界じゃないし、人間しか此処には居ないもの」
二人は話しながら進む。所長は罪悪感で一秒でも早く死にたい、惨たらしく暴かれて死にたい、悶え苦しんで死にたいと脳を善意が犯すも、意思の力で悔悟の誘惑を捩じ伏せ、藤丸と話すことで発狂して叫びたいのを我慢して正気を保つ。また藤丸もこの異界常識内で人死を見た所為か、彼の為の償いとして自分の命を無性に捧げたい欲求で正気が歪んでいるが、気合一つで理性を保っていた。勿論、所長が話し掛けていなければ、善意に犯された脳が呼吸をするのを無意識で止めて窒息死していた事だろう。
楽土は罪を許さない。善以外、無価値となる。
ある意味、器が極小の世。夢見る主に反する欲望は不要となり、悪人が空気を呼吸して生きる事が有り得ない。
「あ………」
「……あぁ」
そして簡素な扉に辿り着く。白い壁に、白い扉が一つ。
「ああ、着いた。着いた。着いちゃったよ。
ヤダヤダ、もう本当……世の中、辛い事ばかり」
「鬱で愚痴が漏れてる。所長には職員の皆は勿論、狼さんだっています」
「励まし、素直に受け取るわ」
「いえ。人を励ますと、此処だと何時の何万倍も良い事した後味がして、多幸感が凄まじいんですよね。最早これ、善行が薬物化してるのでは?」
「人間、良い事すると幸福を感じるのが群れで生きるのに必要な本能だからね。此処だとアルカイックスマイルが常になる」
「良し。とっとと行きましょう」
「オーケー。皆殺しパーティーはこれからよ」
「それは、止めておきましょう」
「分かってるわよ。此処だと一人程度は慈悲で見逃すかもしれない」
「そう言う意味じゃないのですかね」
所長が扉を開けると―――漂白された空間だった。
白い立方体の部屋。後ろの扉以外、何一つ装飾がなく、空間に満ちる空気も澄んでいる。それは見た目だけの話。この部屋を構成するのは真性悪魔の異界常識。あるいは太陽圏外に生息する高次元生物が持つ地球外法則に近い性質であり、文字通りにあの世の門と言える。
その中で一人、椅子に座る十歳程度の少女が居た。
まるでマシュ・キリエライトが若返ったような姿であり、実際にこの子供は成長具合を調整した若い複製なのだろう。
「――――濾過器ね、貴女。
楽園を夢見る人造の高次元頭脳体」
「話が早い」
所長は一目で少女姿のデモンズソウルの写し身の役割を見抜き、少女もまた使命を全うする故に優しく微笑んだ。
文字通り、彼女は濾過する為の装置。汎人類史より情報を特異点へ注ぎ込む際、少女の脳が夢見る異界常識によって善性情報を塞き止め、悪性情報だけを下へ流し落とす。そうすることで展望孤児院は命と希望の善意に満ち、医療教会大聖堂は死と絶望の悪意で溢れる仕組みが作られた。
「殺すけど、良いよね?」
「構わない。我々に生死の境はなく、自らの生命に興味はない。私は不死だけど、星見の狩人なら狩れるのね。
けどその代わり、私と共に愛を夢見る孤児の皆さんも死んじゃうわよ?」
「ふぅん……―――そう言う仕掛けか」
少女の脳細胞が孤児達へ移植されている。脳と脳が繋がり、神経細胞が共鳴し、孤児院に住む全員で夢を見る。同じ瞳で同じ希望の未来を夢見るのだろう。
「けどオルガマリーさん、良いの?
私は人の意志に訴えるように、無垢なデモンズソウルにされてる。罪を犯さず、人を騙さず、夢を見る為に生きているだけだけど、意志を持って今、此処に存在する。悪も善も行えない被害者として作られ、夢を見る主として被造された。
私を殺せばその瞬間、精神を押し潰す善意に襲われるし、殺そうとすると罪悪感に襲われて死にたくなる安全装置が働いてるもの」
「良いのよ。貴女だって、此処から死んで出て行かないと、何も変わらないじゃない」
「そうね。それ、私の救いだもの。
殺して下さるなんて、本当に夢みたい」
「では、悪い夢から目覚めなさい。そして貴女に新しい夢を」
「お願いします、星見の狩人。でも最後、遺言を聞いてくれない?」
「良いよ」
椅子に座る少女に近付く。少女は眼前の所長を見上げ、儚げに微笑む。
「私、此処で生まれて此処で死ぬけど――――この宇宙は、とても美しい夢だと思う。
濾過機として汎人類史を全て見て、全ての人間の生死を観測して、その全てに私は感動出来た。善悪は人が持つ基準で、善悪を分けようとするのは美しい心がないと出来ないこと。
だから、多分きっと魂を根源から作った宇宙が、星に魂を宿らせて作った理由はこれじゃないかと思うんだ」
「そうね……」
「だからね、狩人……私のこの感動を、命の遺志として継いで欲しい。
私の魂はきっと貴方に殺して貰う為に、この宙で産まれたのだから」
「……そうかもね」
「はい、遺言終わり。
さぁ、一息に殺してね」
まるで幼児の頭を撫でる様に所長は手を置いた。そして所長と少女の脳が繋がり、夢の中で夢を見て、その夢の中でまた夢を見る悪夢が作り上げられる。無限に連なる鏡合わせであり、それは終わらない入れ子人形でもある。
不死の意識を夢へ封じる高次元思考者による擬似暗黒。
夢の中に死を幾重にも夢見させ、ソウルを死に眠らせる封印術式。
だが精神死することで肉体の生命活動も停止し、屍は亡者化することで動かなくなるだろう。
「はか、せ……」
最後に少女は、自分の育ての親らしき人物の名を呟く。その相手が誰なのか、所長は理解し、子を持つ親が幼い聖人君子を利己的に作り上げたのだと知った。
「………」
宇宙を美しいと感動する精神。脳細胞の構造と似た配列で銀河系が並ぶ世界が此処であり、その姿を観測する知性こそ霊長。人間は星より生まれ、全ての星を創造した宇宙が根源より求めた被造物でも在る。そして宇宙が根源より魂を世界に生んだ理由を、この宙で生まれた命は誰も知れずに死んで消えるが、生命を育む星にも魂が宿るのであれば、魂が物体に生じる法則そのものが宇宙の神秘とも言える。
そう仮定した場合、この夢見る少女はきっと理想的な宙の心を持っていた。
創造者を求めず、だが愛する知性。それは思考で魂の苦悶を克服する超越的思索。愛されることを求めず、ただ世界を愛したいから善悪全てを愛する。
「コジマ博士……――成程。ローレンスに愚かな好奇を植え付けられ、娘を作り、娘を育て、娘を愛し、娘を裏切った。挙げ句、記憶を夢の中でローレンスに奪われ、茸頭になってこの世に絶望した。
愛車に引き籠もるのも理解出来るわね……まぁ、絶望にも厭いて吹っ切れてはいたけど」
遺志を継ぎ、人を所長は知る。
「あの茸顔の人の、娘だったのですか?」
「制作者の一人ってだけ。教会のマシュシリーズは宇宙生物の生体組織以外に、コジマ粒子も神経強化に使われてるしね」
「―――ロボット兵器の技術?」
「そうだけど、何で貴方が知って……――啓蒙か。
それ、高次元思考者の
「分かりました。けれど、凄い快感ですね。脳が深く覚醒めます。今なら、敵の行動を全部先読み出来そうな気分です」
「程々が一番よ。さぁ、出ましょう」
「はい」
屍を一つ残し、二人は白い部屋から退出した。細菌が生存出来ない浄化空間の中、幼い子供の死体は腐敗することも出来ず、此処で永遠になるのだろう。
読んで頂きありがとうございました!
スウィッチ2でフロム新作が出るみたいですね。あのバトルロワイアル感は聖杯戦争にも似ているので、これから出て来る新情報が楽しみです。